カントとサド
サドでカントを
この論文は『閨房哲学』の序文となるはずだった。それはCritique誌にて、サド著作集に向けて、その著作集刊行の報告として発表された。貴重本サークル版、1963年、15巻。
サドの著作がフロイトを先取りしているということは、たとえ倒錯の目録という観点からであっても、愚かである。そうした愚かさは文学で繰り返し言われるが、その誤りはいつものように、専門家の責に帰される。
反対に我々は、サドの閨房は、古代哲学の学派がアカデミー、リセ、ストアといった名をそこから取っているような場所に等しいという見解を維持している。ここでは、古代哲学と同じように、人々は倫理の位置を修正しながら科学を準備するのである。その点において、確かに、フロイトの道が通れるほど深い味わいの中で百年に渡り続いた整地が行われたのである。それがなぜであるかが言われるためには、そこにもう60年を数え入れてもらいたい。
もしフロイトが、伝統的な倫理学において快の機能と区別されるものを示すことを気にかけなくてもよく、また、二千年間異議のなかった先入観の反響のなかで、人間(créature)は親切さを示す多様な神話に含まれる心性で、善(bien)へと前もって定められているという魅惑的な観念を呼び戻すために理解されるという危険を冒すことなしに、自らの快原理を述べることができたとしても、我々は19世紀における《悪における幸福》というテーマの顕著な増大を認めることしかできないだろう。
ここでサドは転覆の最初の一歩であり、人間の冷たさという観点からはそれがあまりに辛辣に見えようとも、カントはその転覆の転換点である。我々の知る限りでは決してそのようなものとしては指摘されていないが。
『閨房哲学』は『実践理性批判』の8年後に到来する。前者が後者と意見を同じくことを見た後で、前者が後者を補完することを示すなら、『閨房哲学』は『批判』の真理を与えると言えよう。
その結果、後者が完成する公準とは次の通りである。それは法を満足させてきたであろう進歩、聖性、そして愛さえも抑圧する不死のアリバイであり、法が関わる対象が知解可能であるために必要な意志の保証である。カントが公準をそこに閉じ込める功利性の機能の平板な支えをまさに失いながら、公準はその著作を転覆の核心に戻しているのである。学問的な信仰によって予告されていない読者なら誰もがそこから受け取る、信じがたい興奮は、そこから明らかになる。それを説明しても、このことに対する効果は全く色褪せないであろう。
悪の中で善くあること、あるいはお望みなら、永遠の女性が天国へと高く引き昇らせないこと、こうした方向転換は文献学の指摘から取り出されると言えるかもしれない。とりわけ、そのときまで認められていたこと、つまり善の中で善くあることは、ドイツ語が認めない同形異義に基礎を置いた。Man fühlt sich wohl im Guten.これはカントが我々を『実践理性』に導くやり方である。
快原理、それはwohl、つまり善い状態である善の法である。実践において、快原理は主体を自らの対象を規定する同一の現象の系列に従属させるだろう。カントがそこに持ち込む反論は、彼の厳格なスタイルに従って、内在的である。いかなる現象も快に対する恒常的な関係を用意することはできない。したがって、そうした善についてのいかなる法も、それを実践に持ち込む主体を意志として定義すると言明されることはないだろう。
善の探求は、したがって、das Gute、道徳法則の対象である善をよみがえらせないなら、袋小路になるだろう。我々は自らのうちに命令を聞かなければならない、ということを経験は示している。その命令の絶対的な性質は定言的、別の言い方をするなら無条件的なものとして現れる。
この善が<善>(Bien)であると想定されるのは、ちょうど先ほど述べたように、その条件を整える全ての対象に逆らって、善が自身を提示する場合のみであるということに注意したい。つまり、理論的な同等性に従って、普遍価値について上にあると認められるためにこうした対象がもたらすであろう、何がしかの不確かな善に反対する場合である。こうして、善の重みは、欲動であれ感情であれ、主体が対象への関心のうちに苦しむかもしれない全てのもの――そのためカントはこうしたものを《pathologique》と呼ぶのであるが――を除外することによってのみ現れるのである。
それゆえこの作用について帰納することによって、<古代ギリシャの最高善>をそこに見つけ出すだろう。もしカントが彼の習慣どおりに、<善>が対―重(contrepoids)としてではなく、言うなれば反―重(antipoids)として振る舞うことを、いまだはっきり述べていないにしても。反―重とはつまり、<善>への眼差しがあまり尊重すべきでない快を取り戻す限りで、主体が快の満足として感じる自尊心の効果から<善>が生み出す重さを引き算することである[*1]。ここで述べたことは原文どおりであると同時に暗示に富んでいる。
主体が法と出会うのは主体が自分の面前にもはやいかなる対象も持たない瞬間であるというパラドックスを気に留めておこう。その法はすでに表している(signifiant)何らかの事柄以外の現象を保持していない。その法がすでに表している何らかの事柄は、良心のうちの声から得られ、格率という形ではっきりと述べられるのだが、純粋に実践的な理性あるいは意志の秩序をそこで提示する。
この格率が法を成すためには、そのような理性のテストに対して、論理という権利上で普遍的であるとみなされることが必要であり、またそれで十分である。このことから、その格率はすべての人の義務となるとは言えないが(論理という権利ということを思い出そう)、全ての事例に妥当するとは言える。よりよく表現するなら、全ての事例に妥当しないならいかなる事例にも妥当しない。
しかしこのテストは、純粋にもかかわらず実践的な理性に基づいていなければならないのだが、格率の演繹に対して分析的な捕捉を提供するタイプの格率についてしか合格することはできないのである。
このタイプは預かり物の返還という義務を課された忠実さでもって描かれる[*2]。つまりそれは、預かり人を構成するためには、忠実さとは反対のあらゆる状況に対して二つの耳をふさがなければならないということに基礎を置く預かり物の実践である。言い換えると、職務に値する預かり人なくして預かり物はなし。
このはっきりとした事例でさえ、より総合的な基礎の必要が感じられるかもしれない。今度は、不敬という犠牲を払って、ユビュ神父の修正された格率の欠陥をそこに示そう。《ポーランド万歳、なぜなら、もしポーランドがなかったなら、ポーランド人もいなかっただろうから。》
それなしでは人々が喪に服すような自由への我々の愛着を、ある種の緩慢さ、さらには感受性の強さから、誰にも疑わないでもらいたい。しかし、ここで分析的な動機は、いまだ反論できないものであるが、ある所見により永続性が緩和されることを招き寄せている。その所見とは、ポーランド人は、ポーランドの侵食、そしてその後に続く悲嘆に対してさえ驚くほど抵抗するということを通して、いつも引き合いに出すものである。
道徳法則の経験においてはいかなる直観も現象的な対象を提供しないという後悔をカントが示すことを正当化するものがわかるだろう。
『批判』の中ではずっとこの対象が逃げてゆくことに同意しよう。しかし、カントがその逃走を示すことでもたらし、その著作がそこからおそらく無垢ではあるが知覚できるエロティスムを取り出す仮借なき一貫性が残す痕跡にその対象は推察される。当該の対象の性質から、我々はそのエロティスムの合法性を示すことになるだろう。
こういうわけで、『批判』を読んでおらずまだ処女である読者の全ての人々に対しては、我々の話のまさにこの点で中断し、その後で再び戻ることをお願いしたい。我々が言う十分な効果そこにあるかどうか確認してごらんなさい。どんな場合でも偉業に広がる快を保証しよう。
『批判』を読んだことのある読者は我々に従って、今から『閨房哲学』、少なくともその読解に入ろう。
パンフレットは劇的ではある。しかしその中では舞台照明により、身振りとしての対話が想像できる限りまで続くことを許されている。その照明はすぐに消え、パンフレット中のパンフレットの《フランス人よ、共和主義者たらんとすればさらなる努力を》という題名の攻撃文書に道を譲る。
そこでなお述べられることは、高く評価されないにしても、普通は一つのまやかしとして理解されている。ここで歴史的な現代性のあざけりのうちに同種のものの徴候を見ようとして、現実的なものに対するより近い関係を指摘することで、夢の中の夢に認められる効果に注意を喚起される必要はない。まやかしは明らかであり、そのテキストを二度見るほうがよいだろう。
この攻撃文書の肝腎なことは、言うなれば、享楽への規則を提示する格率のなかに見られるのである。それを普遍規則として提示することにより、そこにカントのモードについての権利が現れることが奇妙ではあるが。その格率とは次のように言われる。
《私はあなたの身体を享楽する権利を有する、と誰もが私に言うことができる。そしてその権利を私は行使する。私がそれを満足させようとする意欲を持っているという濫用の気まぐれのなかで、いかなる限界によっても止められることなしに。》
そのような格率は、わずかでも社会にその束縛による効果が与えられるのであれば、すべての人の意志を制圧することが主張される規則である。
すべてを合理的にするために、その格率から人々が想定する同意にまで戻るには、ブラックユーモアが最適である。
しかし、もし我々がどこかで『批判』の演繹を中断するなら、それは理性的なもの[rationnel]をパトロギッシュなものに対する雑然とした頼みでしかない類の分別のあるもの[raisonnable]から区別するところである。このことだけでなく、ユーモアは喜劇の中で《超自我》のまさにその機能を裏切ることを、我々は今では知っている。この精神分析の審級を変化から活気づけ、我々の同時代人が《超自我》という用語を使っている反啓蒙主義の回帰から《超自我》をもぎ取るために、こうしたことがとにかくカント主義者のテストの風味を不足している塩粒で引き立てることができるのである。
それゆえ、全くまじめでないものとして現れているものをもっとまじめに受け取るような気にさせられないだろうか。ありそうなことだと思われるかもしれないが、社会が全ての人に権利を盾に取ることを許しつつ享楽の権利を承認することが必要であったり十分であったりするかどうかを、我々は問わない。そのため、その格率は道徳法則の命令をよりどころにするのである。
いかなる実際的な合法性も、この格率が普遍規則の地位を占められるかどうかを決定することができない。とにかくこの地位はもしかしたら合法性をすべてに対立させるかもしれないのだから。
これは単に想像することによって裁断される問いではない。そしてその格率が引き合いに出す権利をすべての人に拡張することはここでの問題ではない。
そこではせいぜい一般の可能性を証明できるにすぎない。一般は普遍ではない。普遍は物事を根拠づけられたものとしてみなすのであり、何とかやっていくものとしてはみなさない。
そして、構造、とりわけ本質的に嫌悪を催させる主観的な構造における相互性の時に人々が授与する役割の途方もなさを暴くこの機会を抜かすことはできない。
相互性、つまり自分たちの《相互的な》位置によりこの関係を同等なものとみなす二人の主体を結びつけるという単純な線の上に据えられることで逆転できる関係を、主体がシニフィアンとの関係のうちに何らかの通過をするという論理的時間として位置づけることは難しい。また何らかの発達段階として位置づけることはもっと難しい。精神的であると認められようが認められまいが(そこでは教育的な意図の化粧仕上げのために子どもがいい口実になっている)。
いずれにせよ、相互性(相互性であり、同じようにしてもらうという条件ではない)をそのようなものとして除外している言明のパラダイムとして役立ち得る我々の格率にすでにある点が戻されている。
我々の格率を即位させたであろう不快な順序についてのいかなる判断も、それゆえ、道徳において普遍的なものとして容認できる規則の性質を格率に認めるのか、あるいは禁じるのかという事柄には関係がない。その道徳はカント以来、理性の無条件の実践であると認められている。
もちろん、ただ一つの公表(福音の伝道)がパトロギッシュなものの根本的な拒絶と法の形式とを同時に創設するという美徳を持っているという単純な理由から、その[普遍的なものとしての]性質を認めなければならない。前者のパトロギッシュなものはあらゆる点で善、熱情、さらには同情に捕らえられている。あるいはその拒絶によって、カントは道徳法則の領野を自由にしたのである。後者のその法の形式はまた、意志がそこで格率そのものには基づいていないあらゆる理性の実践を却下することだけを自らに課す限りでその唯一の内容である。
確かに、この二つの命令は、その間で道徳的経験が生命の破壊にまで引き伸ばされ得るようなものであるが、我々は自分自身ではなく<他者>に対して義務を課されているかのようになるというサドのパラドックスの中にいるのである。
しかし[このパラドックスの中には]一目見ただけで距離がある。というのも命令が我々に要求するのは<他者>からであるために隠れた風に見える道徳命令は実際少なくないからである。
我々が預かり人の義務という明白な普遍性から与えられる上述のパロディーを紹介した目的が明らかになるのがここでまったくありのままに見える。それはつまり、道徳<法>が創設される基盤となっている両極性は、シニフィアンのあらゆる介入によって起こる主体の分裂、特に言表内容の主体に対する言表行為の主体の分裂にほかならないということである。
道徳<法>はそれ以外の原則を持っていない。とはいえその原則は明白でなければならない。ただしその原則は《ポーランド万歳》のギャグが感じさせるそのまやかしに供するかもしれないが。
サドの格率は、<他者>の口から発せられるので、[カントのように]内部の声に訴えることよりも誠実である。というのもサドの格率は通常隠されている主体の分裂を暴くからである。
言表行為の主体はそこで《ポーランド万歳》と同じくらいはっきりと浮き出る。そこでは言明がいつも楽しませるように思い起こさせることだけが孤立している。
この展望を確認するために、サド自身が自らの原理の支配を根拠づけるために用いた教義をもっぱら参照しよう。それは人間の権利についての教義である。まったく好きなように享楽する権利を一時停止するための口実を彼が知らなかったとしたら、それはいかなる人間も他人の所有物になることができなく、どんな仕方であっても占有物になることもできないということのためである[*3]。人間がそのために強制に従うだろうということは、暴力のためではなくむしろ原理のためであり、判決を下す際の困難は、そこで判決を承諾させることではなくむしろ所定の場所に向かって判決を宣告することにある。
それゆえ、享楽への権利のディスクールが言表行為の主体に据えるのは、まさに自由であるものとしての<他者>、つまり<他者>の自由である。それはあらゆる命令で何かを殺している心の奥底から喚起させられる「Tu es(君は)」と異なるようなやり方によってではない。
しかし言表内容の主体にとっては、曖昧な内容のそれぞれの所在に向かって呼び起こされることで、このディスクールが決定的であることは言うまでもない。というのも享楽は、その目的そのもののうちに、あるペアの極になることを厚かましくも認めるからである。もう一方の極は、享楽が、サド的経験の十字架をそこに立てるために<他者>の場所をすでに掘っている穴である。
我々の議論はここで中断して、屈辱の約束をここで投企する苦痛が、カントが実際に道徳経験を含意していると認める明示された言及に一致することを思い出そう。サド的経験で苦痛が望んでいるものは、ストア派の技法を解体しているものを通して近づくことで、よりよく見える。それは軽蔑である。
サド的経験ではエピクテトスが再び戻ってくることを想像しよう。《わかるだろう、君が壊したのだ》と脚を指差しながら彼は言う。享楽をその探求がつまずくような貧窮に向かわせること、このことは享楽を嫌悪感へと転じないだろうか。
このことは、享楽とは、それによってサド的経験が変化するものであるということを示している。というのも、享楽は意志を独占することを投企するためである。それは享楽が、恥じらいに到達することで彼岸に生じさせる主体の内奥に身を置くためにすでに意志を通過したあとでのことであるが。
というのも、恥じらいは存在状況の両受体であるからである。その両受体の間では、一方の恥じらいのなさがそれだけで他方の恥じらいを侵害している。一つの水路が、もしそのようなものが必要であったとしたなら、<他者>の場所で主体が断言することについて我々が最初に言ったことを正当化する。
<他者>の中でこだまに吊り下げされることで不安定になるこの享楽を調べよう。享楽は、享楽を耐えられないものと結びつけ、順々に享楽を撤廃することでこだまを呼び起こす。最後には、享楽がただそれ自身だけで、別の恐ろしい自由にまで高まるように見えないだろうか。
それに、カントによれば道徳経験に欠けている第三項が明らかになるだろう。それはつまり対象であるが、<法>を実現することにおいて意志に対してその対象を保証するために、カントは対象を物自体の思考不可能性へと送り返さざるを得なくなっている。サド的経験ではこの対象が、その接近不可能性から降ろされ、拷問執行者の現存在(Dasein)としてあらわになっているのではないだろうか。
先験的なものの不透明性が残らないわけではない。というのも、その対象は奇妙に主体から切り離されるからである。その格率の伝令官がここで放射点である必要しかないことを観察しよう。その放射点はラジオの声かもしれないが、フランス人がサドの訴えに同意したであろう努力の追加に促進された権利を呼び戻す点である。そしてその格率は再生された共和国の組織的な<法>となるのである。
このような声の現象、とりわけ精神病の声の現象は、まさにその対象の側面である。そして精神分析はその黎明期には、良心の声をその声の現象に関係づけることから遠く離れてはいなかった。
カントがどうしてこの対象を先験的感性論のあらゆる決定から逃れるものとみなすかがわかる。その対象が現象に関するヴェールの何らかのこぶに現れないことはないにしても、それは宿無しであったり、直観における時間であったり、非現実に位置づけられるモードがなかったり、現実における効果がなかったりするわけではない。それはここでただカントの現象学が欠けているのではなく、狂っている声までもが主体の観念を押しつけるのであり、法の対象が現実の<神>の悪意をほのめかしてはならないのである。
[作成中]
ここで聴衆に課題を提示しよう。
サドが彼の<共和国>ですべての人に享楽する権利を委託することは、我々のグラフを線対称や点対称でどのように折り返しても表現されない。それは4分の1回転することによってのみ表現される。つまり以下の図である。
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最終更新:2007年04月24日 20:42