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カントとサド


(脚注は別ページ)



悪の中で善くあること、あるいはお望みなら、永遠の女性が天国へと高く引き昇らせないこと、こうした方向転換は文献学の指摘から取り出されると言えるかもしれない。とりわけ、そのときまで認められていたこと、つまり善の中で善くあることは、ドイツ語が認めない同形異義に基礎を置いた。Man fühlt sich wohl im Guten.これはカントが我々を『実践理性』に導くやり方である。
快原理、それはwohl、つまり善い状態である善の法である。実践において、快原理は主体を自らの対象を規定する同一の現象の系列に従属させるだろう。カントがそこに持ち込む反論は、彼の厳格なスタイルに従って、内在的である。いかなる現象も快に対する恒常的な関係を用意することはできない。したがって、そうした善についてのいかなる法も、それを実践に持ち込む主体を意志として定義すると言明されることはないだろう。
善の探求は、したがって、das Gute、道徳法則の対象である善をよみがえらせないなら、袋小路になるだろう。我々は自らのうちに命令を聞かなければならない、ということを経験は示している。その命令の絶対的な性質は定言的、別の言い方をするなら無条件的なものとして現れる。
この善が<善>(Bien)であると想定されるのは、ちょうど先ほど述べたように、その条件を整える全ての対象に逆らって、善が自身を提示する場合のみであるということに注意したい。つまり、理論的な同等性に従って、普遍価値について上にあると認められるためにこうした対象がもたらすであろう、何がしかの不確かな善に反対する場合である。こうして、善の重みは、欲動であれ感情であれ、主体が対象への関心のうちに苦しむかもしれない全てのもの――そのためカントはこうしたものを《pathologique》と呼ぶのであるが――を除外することによってのみ現れるのである。
それゆえこの作用について帰納することによって、<古代ギリシャの最高善>をそこに見つけ出すだろう。もしカントが彼の習慣どおりに、<善>が対―重(contrepoids)としてではなく、言うなれば反―重(antipoids)として振る舞うことを、いまだはっきり述べていないにしても。反―重とはつまり、<善>への眼差しがあまり尊重すべきでない快を取り戻す限りで、主体が快の満足として感じる自尊心の効果から<善>が生み出す重さを引き算することである[*1]。ここで述べたことは原文どおりであると同時に暗示に富んでいる。
主体が法と出会うのは主体が自分の面前にもはやいかなる対象も持たない瞬間であるというパラドックスを気に留めておこう。その法はすでに表している(signifiant)何らかの事柄以外の現象を保持していない。その法がすでに表している何らかの事柄は、良心のうちの声から得られ、格率という形ではっきりと述べられるのだが、純粋に実践的な理性あるいは意志の秩序をそこで提示する。
この格率が法を成すためには、そのような理性のテストに対して、論理という権利上で普遍的であるとみなされることが必要であり、またそれで十分である。このことから、その格率はすべての人の義務となるとは言えないが(論理という権利ということを思い出そう)、全ての事例に妥当するとは言える。よりよく表現するなら、全ての事例に妥当しないならいかなる事例にも妥当しない。
しかしこのテストは、純粋にもかかわらず実践的な理性に基づいていなければならないのだが、格率の演繹に対して分析的な捕捉を提供するタイプの格率についてしか合格することはできないのである。
このタイプは預かり物の返還という義務を課された忠実さでもって描かれる[*2]。つまりそれは、預かり人を構成するためには、忠実さとは反対のあらゆる状況に対して二つの耳をふさがなければならないということに基礎を置く預かり物の実践である。言い換えると、職務に値する預かり人なくして預かり物はなし。
このはっきりとした事例でさえ、より総合的な基礎の必要が感じられるかもしれない。今度は、不敬という犠牲を払って、ユビュ神父の修正された格率の欠陥をそこに示そう。《ポーランド万歳、なぜなら、もしポーランドがなかったなら、ポーランド人もいなかっただろうから。》
それなしでは人々が喪に服すような自由への我々の愛着を、ある種の緩慢さ、さらには感受性の強さから、誰にも疑わないでもらいたい。しかし、ここで分析的な動機は、いまだ反論できないものであるが、ある所見により永続性が緩和されることを招き寄せている。その所見とは、ポーランド人は、ポーランドの侵食、そしてその後に続く悲嘆に対してさえ驚くほど抵抗するということを通して、いつも引き合いに出すものである。
道徳法則の経験においてはいかなる直観も現象的な対象を提供しないという後悔をカントが示すことを正当化するものがわかるだろう。
『批判』の中ではずっとこの対象が逃げてゆくことに同意しよう。しかし、カントがその逃走を示すことでもたらし、その著作がそこからおそらく無垢ではあるが知覚できるエロティスムを取り出す仮借なき一貫性が残す痕跡にその対象は推察される。当該の対象の性質から、我々はそのエロティスムの合法性を示すことになるだろう。
こういうわけで、『批判』を読んでおらずまだ処女である読者の全ての人々に対しては、我々の話のまさにこの点で中断し、その後で再び戻ることをお願いしたい。我々が言う十分な効果そこにあるかどうか確認してごらんなさい。どんな場合でも偉業に広がる快を保証しよう。
『批判』を読んだことのある読者は我々に従って、今から『閨房哲学』、少なくともその読解に入ろう。
最終更新:2007年04月24日 19:16