パンフレットは劇的ではある。しかしその中では舞台照明により、身振りとしての対話が想像できる限りまで続くことを許されている。その照明はすぐに消え、パンフレット中のパンフレットの《フランス人よ、共和主義者たらんとすればさらなる努力を》という題名の攻撃文書に道を譲る。
そこでなお述べられることは、高く評価されないにしても、普通は一つのまやかしとして理解されている。ここで歴史的な現代性のあざけりのうちに同種のものの徴候を見ようとして、現実的なものに対するより近い関係を指摘することで、夢の中の夢に認められる効果に注意を喚起される必要はない。まやかしは明らかであり、そのテキストを二度見るほうがよいだろう。
この攻撃文書の肝腎なことは、言うなれば、享楽への規則を提示する格率のなかに見られるのである。それを普遍規則として提示することにより、そこにカントのモードについての権利が現れることが奇妙ではあるが。その格率とは次のように言われる。
《私はあなたの身体を享楽する権利を有する、と誰もが私に言うことができる。そしてその権利を私は行使する。私がそれを満足させようとする意欲を持っているという濫用の気まぐれのなかで、いかなる限界によっても止められることなしに。》
そのような格率は、わずかでも社会にその束縛による効果が与えられるのであれば、すべての人の意志を制圧することが主張される規則である。
すべてを合理的にするために、その格率から人々が想定する同意にまで戻るには、ブラックユーモアが最適である。
しかし、もし我々がどこかで『批判』の演繹を中断するなら、それは理性的なもの[rationnel]をパトロギッシュなものに対する雑然とした頼みでしかない類の分別のあるもの[raisonnable]から区別するところである。このことだけでなく、ユーモアは喜劇の中で《超自我》のまさにその機能を裏切ることを、我々は今では知っている。この精神分析の審級を変化から活気づけ、我々の同時代人が《超自我》という用語を使っている反啓蒙主義の回帰から《超自我》をもぎ取るために、こうしたことがとにかくカント主義者のテストの風味を不足している塩粒で引き立てることができるのである。
それゆえ、全くまじめでないものとして現れているものをもっとまじめに受け取るような気にさせられないだろうか。ありそうなことだと思われるかもしれないが、社会が全ての人に権利を盾に取ることを許しつつ享楽の権利を承認することが必要であったり十分であったりするかどうかを、我々は問わない。そのため、その格率は道徳法則の命令をよりどころにするのである。
いかなる実際的な合法性も、この格率が普遍規則の地位を占められるかどうかを決定することができない。とにかくこの地位はもしかしたら合法性をすべてに対立させるかもしれないのだから。
これは単に想像することによって裁断される問いではない。そしてその格率が引き合いに出す権利をすべての人に拡張することはここでの問題ではない。
そこではせいぜい一般の可能性を証明できるにすぎない。一般は普遍ではない。普遍は物事を根拠づけられたものとしてみなすのであり、何とかやっていくものとしてはみなさない。
そして、構造、とりわけ本質的に嫌悪を催させる主観的な構造における相互性の時に人々が授与する役割の途方もなさを暴くこの機会を抜かすことはできない。
相互性、つまり自分たちの《相互的な》位置によりこの関係を同等なものとみなす二人の主体を結びつけるという単純な線の上に据えられることで逆転できる関係を、主体がシニフィアンとの関係のうちに何らかの通過をするという論理的時間として位置づけることは難しい。また何らかの発達段階として位置づけることはもっと難しい。精神的であると認められようが認められまいが(そこでは教育的な意図の化粧仕上げのために子どもがいい口実になっている)。
いずれにせよ、相互性(相互性であり、同じようにしてもらうという条件ではない)をそのようなものとして除外している言明のパラダイムとして役立ち得る我々の格率にすでにある点が戻されている。
我々の格率を即位させたであろう不快な順序についてのいかなる判断も、それゆえ、道徳において普遍的なものとして容認できる規則の性質を格率に認めるのか、あるいは禁じるのかという事柄には関係がない。その道徳はカント以来、理性の無条件の実践であると認められている。
もちろん、ただ一つの公表(福音の伝道)がパトロギッシュなものの根本的な拒絶と法の形式とを同時に創設するという美徳を持っているという単純な理由から、その[普遍的なものとしての]性質を認めなければならない。前者のパトロギッシュなものはあらゆる点で善、熱情、さらには同情に捕らえられている。あるいはその拒絶によって、カントは道徳法則の領野を自由にしたのである。後者のその法の形式はまた、意志がそこで格率そのものには基づいていないあらゆる理性の実践を却下することだけを自らに課す限りでその唯一の内容である。
確かに、この二つの命令は、その間で道徳的経験が生命の破壊にまで引き伸ばされ得るようなものであるが、我々は自分自身ではなく<他者>に対して義務を課されているかのようになるというサドのパラドックスの中にいるのである。
しかし[このパラドックスの中には]一目見ただけで距離がある。というのも命令が我々に要求するのは<他者>からであるために隠れた風に見える道徳命令は実際少なくないからである。
我々が預かり人の義務という明白な普遍性から与えられる上述のパロディーを紹介した目的が明らかになるのがここでまったくありのままに見える。それはつまり、道徳<法>が創設される基盤となっている両極性は、シニフィアンのあらゆる介入によって起こる主体の分裂、特に言表内容の主体に対する言表行為の主体の分裂にほかならないということである。
道徳<法>はそれ以外の原則を持っていない。とはいえその原則は明白でなければならない。ただしその原則は《ポーランド万歳》のギャグが感じさせるそのまやかしに供するかもしれないが。
サドの格率は、<他者>の口から発せられるので、[カントのように]内部の声に訴えることよりも誠実である。というのもサドの格率は通常隠されている主体の分裂を暴くからである。
言表行為の主体はそこで《ポーランド万歳》と同じくらいはっきりと浮き出る。そこでは言明がいつも楽しませるように思い起こさせることだけが孤立している。
この展望を確認するために、サド自身が自らの原理の支配を根拠づけるために用いた教義をもっぱら参照しよう。それは人間の権利についての教義である。まったく好きなように享楽する権利を一時停止するための口実を彼が知らなかったとしたら、それはいかなる人間も他人の所有物になることができなく、どんな仕方であっても占有物になることもできないということのためである[*3]。人間がそのために強制に従うだろうということは、暴力のためではなくむしろ原理のためであり、判決を下す際の困難は、そこで判決を承諾させることではなくむしろ所定の場所に向かって判決を宣告することにある。
それゆえ、享楽への権利のディスクールが言表行為の主体に据えるのは、まさに自由であるものとしての<他者>、つまり<他者>の自由である。それはあらゆる命令で何かを殺している心の奥底から喚起させられる「Tu es(君は)」と異なるようなやり方によってではない。
しかし言表内容の主体にとっては、曖昧な内容のそれぞれの所在に向かって呼び起こされることで、このディスクールが決定的であることは言うまでもない。というのも享楽は、その目的そのもののうちに、あるペアの極になることを厚かましくも認めるからである。もう一方の極は、享楽が、サド的経験の十字架をそこに立てるために<他者>の場所をすでに掘っている穴である。
最終更新:2007年04月24日 19:22