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カントとサド


(脚注は別ページ)


我々の議論はここで中断して、屈辱の約束をここで投企する苦痛が、カントが実際に道徳経験を含意していると認める明示された言及に一致することを思い出そう。サド的経験で苦痛が望んでいるものは、ストア派の技法を解体しているものを通して近づくことで、よりよく見える。それは軽蔑である。
サド的経験ではエピクテトスが再び戻ってくることを想像しよう。《わかるだろう、君が壊したのだ》と脚を指差しながら彼は言う。享楽をその探求がつまずくような貧窮に向かわせること、このことは享楽を嫌悪感へと転じないだろうか。
このことは、享楽とは、それによってサド的経験が変化するものであるということを示している。というのも、享楽は意志を独占することを投企するためである。それは享楽が、恥じらいに到達することで彼岸に生じさせる主体の内奥に身を置くためにすでに意志を通過したあとでのことであるが。
というのも、恥じらいは存在状況の両受体であるからである。その両受体の間では、一方の恥じらいのなさがそれだけで他方の恥じらいを侵害している。一つの水路が、もしそのようなものが必要であったとしたなら、<他者>の場所で主体が断言することについて我々が最初に言ったことを正当化する。
<他者>の中でこだまに吊り下げされることで不安定になるこの享楽を調べよう。享楽は、享楽を耐えられないものと結びつけ、順々に享楽を撤廃することでこだまを呼び起こす。最後には、享楽がただそれ自身だけで、別の恐ろしい自由にまで高まるように見えないだろうか。
それに、カントによれば道徳経験に欠けている第三項が明らかになるだろう。それはつまり対象であるが、<法>を実現することにおいて意志に対してその対象を保証するために、カントは対象を物自体の思考不可能性へと送り返さざるを得なくなっている。サド的経験ではこの対象が、その接近不可能性から降ろされ、拷問執行者の現存在(Dasein)としてあらわになっているのではないだろうか。
先験的なものの不透明性が残らないわけではない。というのも、その対象は奇妙に主体から切り離されるからである。その格率の伝令官がここで放射点である必要しかないことを観察しよう。その放射点はラジオの声かもしれないが、フランス人がサドの訴えに同意したであろう努力の追加に促進された権利を呼び戻す点である。そしてその格率は再生された共和国の組織的な<法>となるのである。
このような声の現象、とりわけ精神病の声の現象は、まさにその対象の側面である。そして精神分析はその黎明期には、良心の声をその声の現象に関係づけることから遠く離れてはいなかった。
カントがどうしてこの対象を先験的感性論のあらゆる決定から逃れるものとみなすかがわかる。その対象が現象に関するヴェールの何らかのこぶに現れないことはないにしても、それは宿無しであったり、直観における時間であったり、非現実に位置づけられるモードがなかったり、現実における効果がなかったりするわけではない。それはここでただカントの現象学が欠けているのではなく、狂っている声までもが主体の観念を押しつけるのであり、法の対象が現実の<神>の悪意をほのめかしてはならないのである。
確かにキリスト教主義は、人間を神の享楽という側面にほとんど注意を向けないように教育した。このようにして、カントは<法>のための<法>という彼の主意主義を通用させたのである。<法>のための<法>はストア派の経験のアタラクシアを誇張していると言われるかもしれないが。カントは、彼の神は顔がないということを見たことでその向こう側に垣間見たものの息を詰まらせるため息の中で、サドではなく神秘主義者のような人からあまりに近くで聞いたことの圧力下にいたと思われるかもしれない。顔無しの神は恐ろしいもの(grimmigkeit)だろうか?サドは言う。至高悪の存在と。
最終更新:2007年04月25日 16:04