ここで聴衆に課題を提示しよう。
サドが彼の<共和国>ですべての人に享楽する権利を委託することは、我々のグラフを線対称や点対称でどのように折り返しても表現されない。それは4分の1回転することによってのみ表現される。つまり以下の図である。
V、享楽の意志は、もはやその享楽の性質に異議を唱えない。享楽の意志はモントルイユ夫人によって容赦なく鍛えられた主体に関する道徳的な強制を通過するからである。そこでは主体の分割が主体の唯一の身体にまとめられる必要はないということが見出される。
(ただ一人の第一領事(Premier Consul)が行政上確認された疎外の効果によるこの分割を封印することに注目しよう。)
この分割はここで、サドへの忠誠という形の下で、パトロギッシュなものに対して英雄的精神を体現している自然のままの主体をSとして一つにまとめる。そのサドへの忠誠は、最初は過度に寛大であった人たち[*8]、彼の妻、義理の妹(使用人はなぜいけないだろうか?)によって示されるだろう。彼の歴史から消されたそのほかの献身によってもまた示されるだろう。
サドにとって、$(線を引かれたS)は最後には主体として見られるのだが、それは主体が痕跡を残す消失のうちにみられる。そのとき「もの」は終わりにまで至っていた。サドは信じられないことに何もなしに、シェイクスピアより少なく消える。サドが遺言でやぶが彼の運命を封印している名という、石の上の跡までもを消すように命じた後で、我々は彼のイマージュのうちにとどまる。
「Μη φυναι[*9]」、「生まれないほうがよかった」というエディプスの呪いより神聖でない呪いは、彼を<神>のもとに至らせないが、永続する。それはつまり、
a)その著作において――ジュール・ジャナンが手の裏側で我々にその著作の沈まない浮遊を示しているのだが――その呪いを覆い隠している本からその呪いに挨拶していることである。彼の言うことを信じるならば、聖ジャン・クリソストムやパスカルの『パンセ』といった、あらゆる価値のある書棚のなかで。
サドの著作は面倒だが、我々(判事氏やアカデミー会員氏)が、そう、ぐるになるために、その著作は我々の調子を狂わせるのにいつも十分である。ある人により別の人が、ある人と別の人が、ある人のうちに別の人が、調子を狂わせるのに[*10]。
実際、幻想とはまったく調子を狂わせるものである。というのも、幻想がそこにあるということのために、幻想をどこに配列すればよいかわからないからである。幻想は、ディスクールとしてしか現実を持たず、力をまったく期待しないが、欲望を清算することを要求するというその性質のなかで、完全である。
最終更新:2007年04月24日 19:45