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カントとサド


(脚注は別ページ)


 今や読者は畏敬の念をもって模範的な人物像に接近するのである。その人物像とは、サドの閨房で、縁日の儀式で組み立てられ、そして解体される人たちのことである。《姿勢が崩される。》
 それは儀式の中断、聖なるスカンシオンである。
 その法の対象に敬礼しなさい。対象は欲望の原因であるが、その欲望の中でどのようになるかを知らなければその対象について何も知らないだろう。

慈悲深くあることはよいことだ。
しかし誰に対してであろうか。ここに問題がある。

 M.Verdouxという人が、自らが電気椅子に運ばれるまで毎日女性をオーブンに入れることで、その問題に答えている。彼は自分の家族が快適な生活を望んでいると思っていた。さらに明らかなことに、ブッダは、道を知らない者に自らを提供し、貪り食わせた。単に誤解に基づいていただけかもしれない(雌の虎がブッダを喜んで食べたかどうかははっきりしない)この卓越した守護にもかかわらず、ヴェルデゥ氏の献身は真剣に扱うに値する誤りに由来している。もし『批判』からのほんの少しの種があったら、大きな犠牲を払わず、彼はその誤りを避けられたかもしれないのだが。
 《しかしこうした隠喩が何であるのか》とあなたは言うだろう。《そしてなぜ……》とも。
 猥褻な(spinthrienne)享楽のためにここに集められる並外れた分子は、人生において出会うはずのより平凡な享楽の存在に対して我々を目覚めさせる。その享楽のあいまいさに言及したところであるが。前者[猥褻な享楽]はその原子価においてより純粋に現れることで、不意に後者[平凡な享楽]よりも尊重すべきものになる。
 欲望……ここに享楽を結び付ける唯一のものがある。そして欲望とは<他者>の欲望であるということを明らかにすることで、欲望は高揚させられるのである。
 もしここに至るまでの我々の著作を読んだならご存知だろうが、欲望は、より正確には、幻想によって支えられているのである。その幻想の少なくとも一本の足は<他者>の中に属しており、そのことがまさに重要なのである。たとえ、そしてとりわけその足をひきずるようになるとしても。
 対象、それを我々はフロイト的経験において示し、欲望の対象において対象はむき出しの状態で提示されるのだが、その対象は、そこでは主体が失神から戻ってこない幻想の残りかすにすぎない。それは屍姦症である。
 対象は、一般的に、主体を補足するように揺れ動く。
 このことのために、対象は、カントに従うと、<法>の対象と同じくらい捕らえにくいものとなる。しかしここでその接近が課す嫌疑が立ち上がる。失われたものがもはや主体ではなく対象である場合、道徳法は欲望を表していないのではないだろうか。
 主体は、内側に、支離滅裂な言い方をするなら、多くの場合は声が話すものに対峙して、声という形の下にそこにとどまるのであるが、その主体はそれでもってシニフィアン$が主体を粗悪にする棒線によっては、十分に示されているように思われないだろうか。$はそれが由来している幻想($◇a)からその項の二つの方向へと解き放たれたものである。
 もしこの象徴がカントが驚嘆する内側から命令へと位置を戻すにしても、<法>から欲望へと、<法>と欲望両方のために、対象の横滑りより遠くまで進む出会いに対して我々の目を開かせるのである。
 それは自由という語のあいまいさが戯れる出会いである。モラリストは自由を奪っているのだから、軽率というよりもむしろ恥知らずであるように我々には思われる。
 むしろカント自身がもう一度説明しているのを聞こう。「何びとかが彼の情欲について、「もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現れでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう」と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、―もし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の忠誠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである。
 最初の応答は、彼の著作では多くのものがパロールの中で生じるということを我々にまず知らされる主体によって与えられると想定されるが、重要な問題のときにはそれでも文字が与えられていないと思わされる。それというのも、このことを起草するために、あらゆる場合においてその人の羞恥心を傷つけるおそれがあるような人に立ち戻ることが好まれるからである。というのも、いかなる場合でも、彼はそんなやり口に加担するわけにはいかなかったのである。つまり、礼儀正しすぎる百歳のフォントネルにおそらくは対抗して、その人の前ではカントが別の場所で防止を取ると宣言する、理想的なブルジョワである。
 我々は、それゆえ、悪い少年に宣誓の下で証言させることを免除しよう。しかし情熱を持ち、その情熱を名誉の問題と結びつけるほど盲目である人は、どんな状況も、自分の目標に対峙している人々を、抵抗や、それどころか絞首台に対する軽蔑にさえ身をさらす人々よりも確かに陥れることはないということの確認をカントに強制することで、問題を起こしたかもしれない。
 というのも、絞首台は<法>ではないし、<法>によってここに運び込まれたものでもない。警察のみが運搬車を持っているのである。そしてヘーゲルに関して、よく言われるように、警察は国家かもしれない。しかし、アンティゴネ以来知られているように、<法>は別物である。
 そのうえ、カントはその教訓譚によってそのことに反対しているわけではない。主体とともに、そこに生命愛を結び付けるためだけに、絞首台はそこに来るのである。
 ところで、これがEt non propter vitam vivendi perdere causas(命のために生の理由を滅ぼすなかれ)という格言において、道徳存在のなかで、欲望がなりうるものである。そして欲望は、まさに道徳的であるということのために、わずかでも決断を迫られているならば、定言命法の地位にまで至るのである。そのことこそが、ここで推し進められている場所なのである。
 欲望、欲望と呼ばれるものは、人を臆病にすることで生を無意味にするのに十分である。そして法が真に存在するなら、欲望は立ち上がらない。しかし、それは法と抑圧された欲望は一つであり、同じものであるという理由のためである。これはまさにフロイトが発見したことである。我々はハーフタイムでリードしています、先生。
最終更新:2007年04月24日 21:07