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カントとサド


(脚注は別ページ)


我々の成功をポーンに帰そう。それはご存知のように、ゲームの女王である。というのも我々はナイト(それでも我々はナイトについて有利な立場にいる。我々が資格を十分に備えていると信を置くのはサドなのだから。)も、ビショップやルーク(人権や思想の自由。あなたの身体はあなたのものである。)も、クイーン(宮廷愛の偉業を指し示すのに適切な像)も介入させないからである。
 このことは、より確かでない結果のために、あまりに多くの人々を動かしたかもしれない。
 というのも、サドが、ちょっとした冗談のために、結果を認識しつつも(合法であろうとなかろうと、彼が「外出」で行ったことを参照せよ)、生涯の3分の1の期間を通して投獄されることを受忍したと、もし私が推論するなら、その冗談は報いという点で指示的であるだけいっそう幾分入念であるが、私は来るピネルとピネル派を招き寄せる。道徳的狂気、ピネル派はそういった意見を表明する。どちらにせよ、よいことである。私はピネルへの畏敬を思い出す。我々は人間性についての最も高貴な一歩を彼に負っているのである。「サドにとってシャラントンの13年はこの一歩の効果である。」「しかしそこは彼に相応しい場所ではなかった。」「それが全てである。」彼をそこに至らせたのはまさにその一歩なのである。というのも、彼に相応しい場所は、考えのある人はみなこのことに同意するが、他の場所だったのである。しかしこういうことだ。よく考える人は、彼のあるべき場所は外にあると思うし、ロワイエ・コラールは当時に牢獄、それどころか死刑さえも要求していたのだが、彼から始まる保守的な人も[同じようにサドのあるべき場所は外にあると思うだろう]。まさにそういうわけで、ピネルは思想の重要な時期にいたのである。否応なしに、彼は衰弱を保証したのである。右に左に、その名において革命が法律を公布しようとしていた人権に影響を受けた思想によって。
 というのも、哲学の観点から人権を検討することで、我々はそもそも今や誰もがその真理について知っていることが現れるのを見る。人権は無駄に欲望するという自由に帰着するということである。
 人権とは美しい脚[外面は美しくても役に立たないもの]である。しかしそれはそこに跳躍のときにある[衝動的な]自由を認識し、人権とはまさに死の自由であることを確認する好機である。
 しかし人権はまた我々の前に、人権は栄養価が低いとわかる人たちの不機嫌な顔をもまたおびき寄せる。我々の時代にはそういった人がたくさんいるが。欲求と欲望の間の葛藤を更新することに関して、偶然のように、うろこを取り除くのは<法>なのである。
 カントの寓話に対抗するために、宮廷愛ほど魅力的な道を提供するものはない。しかしそのためには博学であることが要求される。立場によって博識であることは博識ある人を招き寄せるし、その領域で博識であることは道化師への入り口である。
 もうここでカントは、我々にまじめさを少しばかり失わせることに関係して、喜劇のセンスを少しも持っていないのである(彼がそのことを順番に論じることが証拠である)。
 しかし全くもってそれを欠いている人は、指摘されたように、サドである。その話題の始まりはおそらく彼にとって致命的であるが、前置きは不利益を被らせるように意図されていなかった。
最終更新:2007年04月25日 13:01