そういうわけで、カントの訓話の第二段階に移ることにしよう。それは第一段階ほど彼の目的に関して決定的ではない。というのもカントの奴隷は最低限の平静さを保っていると思われるので、真実の証言をすることがもし仮に君主の望みを満たす手段であるとしたら、真実の証言をすることがたまたま義務であるのだろうかと、奴隷はカントに問うであろう。
もし彼がユダヤ人であり、ユダヤ人であることが戒められる事柄だとみなす法廷(そうしたことは目にされてきたが)の前にいたら、例えば、無実の人はユダヤ人であると言うべきなのだろうか。それとも、彼が、関係書類にしか興味がない教会会議よりも、告訴の趣旨について自らをよりよく理解している者であるとき、彼は無神論者であると言うべきなのだろうか。また、ゲームの規則が自己批判的である時局で、「政策路線」からの逸脱は有罪でないと、彼は弁論するのだろうか。それとも、結局、無実の人は全く潔白であるわけではないのだろうか。彼は知っていることを言うだろうか。
もし君主が<他者>の欲望を隷属させる力を不当に手に入れるなら、君主の欲望を阻むという格率を義務に仕立て上げることができる。
こうして、その二つの冗長さ(と不安的な調停)について、カントはそれらを<法>がただ快だけでなく苦痛や幸福や貧困の圧迫を、それどころか生命愛やあらゆるパトローギッシュなものさえもをはかりにかけるということを示すてことして用いるのだが、欲望はただ同じ成功を手にすることができるというだけでなく、より正当に手に入れることができるということが判明する。
しかし、もし、その議論が気軽であるために我々が『批判』に与えている有利さが、『批判』がどこへ向かっているかを知りたいという我々の欲望に何事かを負っているなら、その成功の曖昧さが意表を突かれた譲歩の再検討に向けて動きをひっくり返す可能性はないのだろうか。
例えば、意志と意志を一致させることは不可能であるため、つまり、単に競争がもたらされるために、善として提示されるべき対象に少しばかり早く生じた不興である。ミラノがその例であり、それについてはカール5世とフランソワ1世が、共通の善を見ることにより、それぞれに強いられた犠牲が知られている。
それは欲望の対象の性質を無視することである。
我々がここに導入するのは、我々が欲望について教えていることを呼び戻すことによってのみ可能である。欲望は、原初的には<他者>の欲望の欲望であるので、<他者>の欲望として定式化されるべきである。これは想像しうる欲望に一致をもたらすものであるが、危険がないわけではない。それは次のような理由のためである。欲望がブリューゲルの盲人の行進に似た鎖状に配列されているとき、めいめいは確かに前にいる人の手を取っているのだが、誰一人として自分たちがどこへ行くかを知らないのである。
ところで、道を逆さにたどると、全ての人はまさしく普遍規則を経験するのであるが、それは彼らがそれ以上知らないためである。
実践理性に合致する解決、それは輪になって回ることだろうか。
欲望の原因を物質化することで、また欲望に主体の「中心と不在の間の」分割を結び付けることで、眼差しこそが、たとえそれが欠けているときであれ、それぞれの欲望に向けて普遍規則を示す対象なのである。
最終更新:2007年05月09日 18:09