“今宵の月はいかに美しいものか、私はその美しさに溜め息をつく
月よ美しく輝け しかし、お前の美しさに魅せられ、人はお前を奪い合う”――ミザレ
頬を撫でる風が心地よい夜には、静けさが目立っていた。
しかし、そんな中でも草が風で流れる事で奏でられる小さな自然の音楽が鼓膜を震わせる。
腹が減っていたとは言えども、さすがに今夜は食べ過ぎたようだ。
このように歩いて、胃の中に溜まったものを少しでも減らさなければ、残りが入らない。
そう考えて、歩き出してから幾らか時間は経ったか、ぐるりと敷地内を歩き終わると部屋に戻ろうと足を進めると
「ん?」
何かが目に入った。それは夜という空間の中でも最も映える白い色を持った物体であった。
それは、住処である建物の外に植えられた植木に引っかかっていた。その正体を確かめようと、その物体に向かって歩
を進める。
植木の前に立ち、顔を見上げさせ、自分の身長より少し高く引っかかっている物体を目に映す。
背伸びをし、細い腕を伸ばした。高めに引っかかっているが取れなくはない位置にあった。
指先が触れると同時に力を込めて、その物体を手の中に収めてゆっくりと下ろした。
木に引っかかっていたのは紙だった。風で飛ばされてきたのか土埃が付いている。
土埃を払い、その紙を裏返してみると、口の端が微かに動いた。その顔には微笑が浮かんでいたのだ。
「使えるな」
天使のような悪魔の笑顔。恐らくこの表現が一番合っているのであろう。
丁寧にその紙を折ると、上機嫌という言葉を確実に表現した微笑を浮かべながら、部屋へ帰っていった。
■□■□■□■□
「あ~あ…」
夜も更けてきた頃合に自分の部屋へと続く廊下で僕は溜め息をついた。
溜息の原因は、数日前の放課後にあった。
僕はその時にある人に自分の想いを告げた。そう、生徒会長であるミレイ・アッシュフォードにだ。
想い人である彼女にどのように告白するべきか悩んでいた時に生徒会メンバーであるリヴァルからの助言を得た僕は必
要な物を準備し、意を決して、彼女に告白をした。
『僕は、ミレイさんのこと……が……』
あの時は、緊張が随分と大きくなっていたようでうまく言葉を紡げなかったのをよく覚えている。
そうだ、あの時は深呼吸をして気持ちを何とか落ち着かせて抱いている想いを一気に言葉に紡いだのだ。
そして、それと同時に準備をしていたモノ――リヴァルに言われて準備しといた封筒をすかさず彼女の前に差し出した
。
ミレイさんが封筒を受け取り、中身を確認しようとしている間。告白が終わっても、激しく動き心臓を落ち着かせるに
はかなりの時間を要した。
『にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ』
女性が上げる声にしてはかなり変わっている声が僕の耳に入った。静まりかけた心臓が再び跳ね上がる。
どこか、おかしな部分があったのであろうか?とりあえずはリヴァルの言われた通りに行っていたので、責任はリヴァ
ル持ちということになるがそれでも不安が頭の中を次々と横切っていた。
ミレイさんは封筒の中身と僕の顔を何度も見ている。そして、
『この告白の方法は、誰から聞いたの?』
その言葉に僕は正直にリヴァルから聞いたと答えた。その答えを聞くと、ミレイさんは突然笑い出した。
ミレイさんが突然笑い出した事は僕の頭に確実に混乱を招き寄せた。そして、その答えはミレイさんの次の言葉で明ら
かとなった。
『ライっ。貴方、リヴァルにからかわれているのよ。交際お願いするのに婚姻届なんて普通はいらないって……』
そう。僕が用意した封筒の中に入っていたのは、自分の部分を記入し終えた婚姻届だった。思わず、僕はその婚姻届け
をまじまじと目を見張る。
『確実じゃないけど、この国のすごく好感度を与える告白の方法を教えるよ。それでやってみたらいいよ』
リヴァルもミレイさんには好意を抱いている、嘘をつく可能性も、と一度はリヴァルの言葉を払おうとしたのだが、さ
すがのリヴァルでもこの状況で嘘をついて得るメリットはない。それに僕は記憶喪失だ。女性と付き合った覚えはない
し、告白した記憶など以ての外だ。この国に詳しいことはその土地にいる住人がよく知っていることだ。信じても良い
だろう……
そう考えていたのだが……どうにも僕は人を疑うことに関してはいまいち抜けている部分があるようだ。
封筒に入れる前に見たら、名前を記入する欄があり、その部分について聞けばリヴァルは嬉々として自分の名前を書く
ように言った。あぁ、馬鹿正直に記入した自分が憎い………だが、そんなことを今更後悔しても仕方がなかった。
『大体、交際する前にプロポーズしてどうするのよっ』
まさに生兵法は怪我の元と言った所か……
ミレイさんの言葉に僕は一瞬で顔を赤く染め上げた。リヴァルにからかわれた恥ずかしさから来るモノではなく、ただ
、自分がそこにいることに対する場の雰囲気に耐えられなくなった。気が付いた時には、そこから逃げるように走り去
り、リヴァルを探し出していた。
そして廊下で機嫌が良さそうにバイクのキーを指で回しているリヴァルの背中に飛び蹴りを炸裂させてからまた走り出
し、僕はクラブ棟の裏に行き着いた。荒れる息を整えて、壁にもたれ掛かった。そして、暫くの間はそこから動こうと
しなかった。
■□■□■□■□
我ながら何とも女々しいものだ。
思い出し終わると同時に僕は自嘲気味にそう思った。
それからというものも、ミレイさんの姿を遠くから見ると僕は彼女に見つからないように姿を消すことを何度もやった
。彼女と目を合わせるとあの日の事が鮮明に思い出され、顔が熱を帯びてどうしようもなくなってしまうのだ。
事実、そのおかげで生徒会の仕事を何度サボったことか。
放課後は記憶探しと言って、黒の騎士団のアジトに居座るようになり、それが何日も続き、
ますます、彼女と顔を合わせることが困難となった。
「はぁ~」
僕はまた溜め息を吐き出す。今まで数々の危機的状況を打開してきた僕でもさすがにこの状況を打開する策が見つから
ないのだ。
「とにかく……寝よう」
眠りは偉大なものだ。疲れも悩みもその時だけ頭の中から払ってくれる、平等をもたらしてくれる。
ドアを開けて、部屋の中に入ると同時に明かりをつけようと入り口の壁に設置されているスイッチを押す。押すと同時
に乳白色の明かりが部屋全体を――覆わなかった。
「あれ?」
不審に思い、何度もスイッチを押す。だが、何度押しても反応は無かった。
おかしいな…蛍光灯が切れたか?普段だったらもう少し原因を究明しようとするところであったが、残念ながら今の僕
にそこまでやる気はなかった。どうせ、寝るだけだ。電気を消す手間が省けたと考えながら、団服を脱いでそのままベ
ッドに倒れこみ、毛布の下に潜り込んで、睡魔の導きを待った。
「あん」
「………?」
この部屋には自分以外誰も居ないはずだ。勿論、そんな声を僕が出すわけがない。しかも、それは若い女性の声だ。
微睡みで下りかかった瞼を開けて、暗がりの部屋を見渡すが誰も居ないことは明白だ。しかし、その考えを払拭するよ
うに下半身に異変が起きていた。
「!?」
腰の部分に何かがいるっ。即座にそう判断すると僕は思い切り毛布を捲った。そこには……
「もう!ひどくない?」
そこには、団服をはだけさせて胸元を露出した井上さんがむくれた顔で僕を見ていた。
「え、すみません……じゃなくて!なんで、井上さんがこんな所にいるんですか!?」
混乱を抑えるために紡いだ僕の問い掛けに井上さんは少し、何かを考える素振りを見せてから得意げに答えた。
「何言っているの?愛しい夫のお布団を暖めておくのは……」
そう言いながら、井上さんは僕の身体の上に乗っかってくる。あまりにも自然にやってきたので、止められなかった。
「妻のや・く・めでしょ♪」
「へ?」
指で唇をチョンッと小突いた井上さんは微笑みを浮かべる。
思わず、僕は間抜けな声を上げてしまった。今、彼女は妻と言ったか?
混乱を払拭させるために問い掛けたはずなのに、混乱が益々頭の中を駆け巡った。
おかしい、僕の頭が昨日の夕飯のレシピを一言一句漏らさずに言えるようであれば、まだ頭は大丈夫な方だ。
だったら、井上さんと夫婦になった覚えなどない。そんな記憶もない。
「あの、井上さん。これは何の冗談で」
「冗談に聞こえる?」
どこか黒そうな笑みを浮かべる井上さん。多くの疑問符を思い浮かべる僕の眼前に何かが突き出される。
思わず手に取って、それが何かを確認しようとするが部屋が暗いことに気付き、机の電気を着けた。
「え?えええええええええええええ!!」
またもや、間抜けな声が出てしまった。比喩表現でもなく、本気で目が飛び出しそうなモノであった。
それは、婚姻届だった。妻の欄には井上さんの名前が書かれている。そして、夫の欄には僕の名前があった。
もちろん僕はその婚姻届に名前など一切記入していない。だが、その婚姻届に対して否定できないことが一つだけあっ
た。
「どう?これ、貴方の字じゃないの?」
後ろか抱きつく井上さんは肩越しに婚姻届を見て、得意げな笑顔を浮かべる。
夫の欄に書かれている僕の名前の筆跡には覚えがある………そう、僕の文字だ。
「もういいでしょ、ほら」
「え?おわっ」
井上さんが僕の手の中にあった婚姻届をネコのような素早さで奪い取った。そのあまりの素早さに僕は思わず驚いてし
まい、彼女に押し倒される要因を作りだしてしまった。
火照った顔で愛おしそうに僕を見下ろす井上さん。銀色の髪を梳くように撫でて、柔らかそうな唇が言葉を紡ぎ出す。
「子供は二人は欲しいかな。可愛い男の子と女の子でさ……頑張ってね、あ・な・た」
そう言って、井上さんは顔をゆっくりと下ろしてくる。
「え、え?ちょ、ちょっと」
「ちょっと、待ったーーー!!」
唇と唇が触れそうになる数センチのところで、その行為は部屋のドアを開ける音と先程まで点かなかった部屋の明かり
によって中断された。
「カ、カレン?」
僕はドアを開けた人物の名前を呼んだ。赤い髪を振り回す少女は大股でズカズカとベッドの傍まで歩み寄り、僕を押し
倒している井上さんを睨んでいる。一方の井上さんもカレンの登場が気に食わないらしく、カレンを睨み返している。
「井上さん…彼に何をしようとしていたんですか?」
「あら、別にぃ~?夫婦が同じベッドの中にいるって事は答えは一つでしょう?」
「だぁれが、夫婦ですか!まったく……ライ、こっちに来て」
俗に言う修羅場に遭遇してしまった気分を味わっている僕にカレンは先程とは違って優しい声で僕を手招きする。
出来るのであれば、すぐにこの部屋から離れたかったが、贅沢は言っていられないと体を捻らせてベッドから脱出をし
た。
「……ちょっと、カレン。彼と私は正式に婚姻届に記入して夫婦となったのよ?邪魔しないでくれる?」
「いや、僕は書いた覚えが無いんですけど……」
僕はカレンの後ろに一時的に避難すると、井上さんに対して言った。
「あら、じゃあこれは何なの?」
僕の言ったことに反応すると、井上さんは犯人に犯行の証拠品を見せつけるように婚姻届を突きだした。
「うっ…」
名前を書いた覚えはないのだが、その紙を出されてしまうと僕は弱くなってしまう。
すると、カレンがすかさず声を出す。
「本人が書いた覚えのないって言うものなんて無効です!!」
あぁ、ありがとうカレン…
カレンの言葉に僕は感謝した。
「それに……」
カレンのここまで強い口調であれば、井上さんも退いてくれるかもしれ
「私の方が先に婚姻届にサインをしたんですからね!!」
…………え?サインをした?
カレンの口から出てきた言葉と団服のポケットから取り出した一枚の紙に対して僕は口をあんぐりと開けて、今ある現
実を呆然と受け入れるしかなかった。
「ライ」
呆然とする僕の肩を掴んで、カレンが声を掛けてきたところで僕は現実に呼び戻された。
「ごめんね…結婚とかは日本を取り戻してからって考えてたんだけど、でもライがそんな気持ちだって知らなくて私…
…」
目を若干潤ませて紡ぐ言葉にどんどんと混乱の渦に巻き込まれていく。そんな中で僕が言葉を発せたのはある種の奇跡
かもしれない。
「あの、カレン……ちなみにこの婚姻届は一体どこから……?」
「……ごめんね、こればかりは言えないの…でも大丈夫よ!役所に提出すればそんなこと気にならなくなるから」
「待ちなさい、カレン………」
熱の篭もった喋りをするカレンの後ろから怒りを多分に含んだ井上さんの声が静かに響いた。
「どさくさに紛れて、彼を横取りしないでもらえる?」
「横取りじゃありません。それにライは井上さんの“夫”ではありませんから、文句を言われる筋合いはありません」
「知ってる?今、同世代で結婚してもね気が合わないやら何やらで離婚するってケースが多いって」
「へぇ、そうなんですか。でも、私と“夫”の間にはそんなことはないと思いますけどね、見て分かるように彼と過ご
す時間が一番長いですから私」
「そういえばあなた、黒の騎士団結成から、ずっとゼロにくっついてたじゃないの。いいの?悪い虫が付いちゃうわよ
?」
「ご心配なく。ゼロは尊敬できる人物ですけど、恋愛対象としては見ることは絶・対にありませんので…よろしければ
、どうぞ」
「絶・対・嫌♪」
何故か夫の部分を強調し、カレンは対峙する井上さんと静かなタイマンを繰り広げている。
カレンの言葉に微笑んでいながらもどこか恐ろしいモノを含ませた喋り方で僕は恐怖を感じずにはいられなかった。
婚姻届一枚でもとんでもないことになっているのに、それが二枚もあれば一体誰がこんな事になると思うのだろうか?
二人には悪いが、僕は一度その場から離れようと決意して忍び足で離れようとするが、
「ライ」
静かすぎて、冷気を孕んでいるかのような錯覚を覚える重なった声に振り向く。
「こんなことしても、ラチが明かないわ」
「そう、だから……」
カレンと井上さんがそれぞれ婚姻届を持って僕に詰め寄った。
「「ライが選んで」」
二人の声がピッタリと重なる。その声に僕は疑問符を浮かべた声を出す。
「あ、あの二人とも…落ち着いて」
宥めるような手の動きと声で二人を制しようとするがあっさりと切り捨てられてしまった。
「言っとくけど、考える時間は無いわよ」
読まれてた。背中に嫌な汗が流れ落ちる。
「さぁ、選んで」
「どっちがライの妻なの?」
心臓の音が多きく動く。
頭の中には、いくつかの選択肢が浮かび上がる。
A.逃げる
B.走って逃げる
C.一目散に逃げる
D.逃げる!逃亡!逃走!
同時に頭の中はミキサーのようにぐるぐると回り続け、目の前が真っ白になりそうな時に僕の体は二人に対して踵を返
して走り出していた。
カレンの「逃げた!」という声が後方で聞こえた気がするが、気にする余裕など無かった。
二人には悪いが今はともかく、その場から離れたいという気持ちが大きかったからだ。
もちろん、脱兎する僕を見逃してくれる二人ではない。
「待ちなさい!」
カレンの声が耳に入る。だがそこで足を止める愚行は犯さなかった。
とりあえず、このまま逃げよう。逃げ回れば、諦めてくれるかもしれない。
一途な希望を胸に秘める僕は逃げる足に更に力を込めた。
どんどんと距離が開いて行くのを感じながら走って格納庫に続く道への曲がり角を見つける。
格納庫には大量のKMFが多くある。そのおかげで死角も多いそこに隠れれば、うまく逃げおおせるかもしれない。
子供のような考えかもしれないが、今はとにかく藁に縋りたい気持ちだ。そう考えて、角を曲がり格納庫に続く通路に
出た。
「えっ…わわっ!?」
刹那、短い悲鳴と共に僕は引っ張られる感覚と視界が真っ黒になるのを感じた。
最終更新:2009年05月29日 16:51