空に雲がある。
晴天の下、トウキョウ租界の首都高速を走るサイドカー付きのバイクには、二人の男子学生が乗っていた。運転する少年は防寒用のグローブで包んだ手で、ハンドルを回す。
体に吹き付ける風が、ページを乱雑にめくっていた。シールド付きのヘルメットを被ったまま、単行本の文字に目を走らせる。
「あれれ?もしかして、外れだった?その本」
「前を見ろ。リヴァル」
先日、アッシュフォード学園の図書館に入荷された新冊で、彼の退屈しのぎのために、リヴァルが無造作に選び取ってきたものだ。
それ以上の会話は無かった。
最近知り合った仲でもないので、特段話すこともない。リヴァルは慣れた運転操作で目的地に向かう。
案内先を無機質に知らせるナビよりも、土地勘に強い人間に任せるほうが信用できる、と思いつつ、悪友の横顔をちらりと見た。
数十分も経たないうちに、一般道路に出て、信号に捕まる。
ふいに、読書に耽っていた思考が遮られた。
不愉快な心情を隠さず、顔に出した少年はその原因を睨み付ける。その視線の先にあるものは、大スクリーンに映し出されたエリア11の長、カラレス総督の怒号と映像だ。
公衆の前面で、テロリストの無慈悲な処刑が執行される。
ブラックリベリオン以降、矯正エリアとして認定されたこの植民地は、さらなる弾圧と悲劇が繰り返されることとなった。
瞬く間に、このエリアの救世主と祭り上げられた稀代のリーダー、『ゼロ』の死と、黒の騎士団の事実上の壊滅。いまだに逮捕されていない幹部たちの顔写真が、租界のいたるところで見受けられる。
八年前の戦争以来、この国では激しい抵抗と内乱が続き、いまだに多くの血が流れていた。
様々な感情や情報が頭を駆け巡り、パタン、と少年は本を閉じる。
「リヴァル、青だぞ」
「おっと、いけね」
再び、エンジンが鳴る。
トウキョウ租界に聳え立つ高層ビルは、もうすぐだった。
良質な素材で作られた長方形のバッグを手にし、少年はシートから降りる。制服の襟元を整えると、絢爛に装飾されたバベルタワーの入り口に足を向けた。
後ろから声がかかる。
「どうした?」
「まあ、大丈夫だとは思うんだけど…ここってあんまりいい噂聞かないからさ。レートも半端じゃないって聞くし…」
「おいおい。今さらか?リヴァル。未成年の賭けチェス自体、違法だぞ。もしかして、俺が負けるとでも思ってるんじゃないだろうな?」
それを聞いたリヴァルは、
「まっ、それもそうだよな」
にっと笑顔を作る。
「終わったら、電話しろよ。俺は買い物があるからさ」
「ああ。ナナリーとの夕食までには帰るさ」
少年は手を振り、バベルタワーへと入っていった。
近づいてきた黒服の男に、会員証を提示する。大理石で造られた廊下を歩き、直通エレベーターに乗り込んだ。静かに上昇していく機械の箱の中で、目下に広がるトウキョウ租界を一望する。
サクラダイトの利権と、絶え間ない小規模の戦争経済で成り立つ島国、エリア11。
贅のつくしたこの摩天楼こそ、その歪な関係を象徴している。扉が開かれると、都市から人間へという縮図でその真実は突きつけられる。
インフラが整備された租界と、荒れ果てたゲットー。
支配するブリタニア人と支配されるイレブン。
共和国であるEUであれば、非人道的とみなされる光景だろう。だが、神聖ブリタニア帝国の植民地では、珍しいことではない。
勝者は美酒を呑み、敗者は苦汁を舐める。強者は全てを獲得し、弱者は全てを蹂躙される。
それが、国是。
皇族、貴族、平民、奴隷、といった、命の価値が異なる身分が存在する世界では、必然的に起こりうる情景。リングでは、イレブンの兄弟同士の賭け試合が行われている。血みどろの殴り合いを、大人だけではなく、子供までが嬉々として見物している。
何とも形容しがたい感情が、少年に渦巻いた。
いつからだろうか、このような気持ちを抱くようになったのは――
益ともならない自問自答が、頭の片隅で蠢いている。年相応に持つ社会の反骨精神だろうか。このような不平等は近い将来、大きな争いを生む。歴史をひも解いても、その推測はあながち外れはいないことは確かだ。
だが、その未来に立ち向かう愛国心も意思もない。己の力で、国家に立ち向かえる術もない。大人になるにつれ、現実を知るにつれ、人よりも頭の回るため、己の無力が誰よりも先にわかってしまう。
身を覆う憤懣を抑えながら、己が行く場所へと足を速める。
唐突に、小さくない衝撃が体に伝わる。同時に、冷たい感触が腹部に染み入った。
「申し訳ありません」
女の声だ。
艶めかしい女体を露骨に演出したバニーガール姿の女性が、カクテルをひっかけてしまい、少年の制服を濡らす。彼女は手にハンカチを取ると、すぐに水分を拭い始める。
「いや、いいって」
「私はイレブン。あなたはブリタニアの学生さんですから」
イレブン?と、女性の髪色を見て、少年は頭をかしげた。イレブンの髪色は黒だったはずだ。
「だったらなおさらだ。嫌いなんだ。立場を振りかざすのは」
「でも、力のない人間は我慢しなくちゃならないんです。たとえ相手が間違っていても」
「君たちの価値観を俺に押し付けないでほしいな」
「申し訳ありません」
彼女の行為を制そうとしたが、男の影が近づき、中断された。赤い髪が乱暴に掴みあげられる。
「…っ!?」
「本日の兎狩り、大量で何よりでございます」
「…私は、売り物じゃない!」
「売り物だよ。勝ち取らない者に権利等ない。悔やむなら力無き自らの生まれを悔やみたまえ。皇帝陛下もおっしゃっているだろう?弱肉強食、それが世界のルールだ」
男の風貌を観察する。
頭のてっぺんから足の先まで、金がかかっている。
言うまでもない。貴族だ。
顔にも、見覚えがある。
「そこまでにしませんか」
少年も驚いた。
なぜ、このような言葉が喉から踊り出たのか。
「なんだ、若造が。この兎は私が狩った獲物だぞ」
「私もその女に興味が湧きました。丁度いい。これで、決着をつけませんか?」
金具のロックを外し、手元にある木箱の中身をさらけ出す。各々が一六個の駒を操り、思考を競う知的ゲーム。
「チェスで?」
「お、おいっ!その男は」
第三者から、驚きの声が飛び出す。
「もう遅い…何も知らないとは本当に愚かな事だな、クククッ…」
「それはどうかな。黒のキング。随分と有名な打ち手らしいが」
「んっ?知った上でかね…?」
男はバニーガールから手を離し、頭一つ低い少年を見つめた。
随分と整った容姿をしている。
黒のキングは青年の胆力に一目置きながら、盤上の勝負に応じた。黒服のスーツに身を包んだ男たちによって、速やかに席が用意される。チェスの名手と美少年の一騎打ち。その出来事を目撃したギャラリーは、自然に集まっていった。
一つだけ、分かったことがある。
俺は、思いのほか、怒っていたのだと――
「チェックメイト」
クイーンへと変貌したポーンが王を捕えた時、勝敗は決した。黒のキングも、周囲の見物客も、この結果に二の句が言えないでいる。
実に些末な勝負だった。
見開いていた黒のキングの瞳が、すっと据わる。
「ふん、困ったな。こんな噂が広まっては、私の面子が立たん」
尤もな意見だった。名もない学生に完膚なきまでにやられたとなれば、名誉の失墜は避けられない。観衆の中にはチェスの棋士も混じっているだろう。
「…言いふらしたりはしませんよ」
「違うよ、若造。君の仕掛けたイカサマの話をしているんだ」
今度は少年が、言葉を失った。
「バカな!?チェスでイカサマなど出来る筈が無い!」
「さて、証拠を作ろうか」
腕がからめ捕られ、二人の男に体の自由が奪われる。ボードに顔が叩きつけられ、白と黒の駒が散らばった。
睨み付けるが、黒のキングの嘲笑は消えない。
「くっ…薄汚い大人がっ!!」
「正しい事に価値なんてないんだよ」
激しい怒りを覚えるが、怜悧な自分の側面が答えを出している。
―――そんなことは、前から知っている、と。
横を視界に入れる。バニーガールは黒のキングが直接、捕まえていた。少年は上半身が組み伏せられ、身動きが出来ない。ポケットがまさぐられ、携帯電話が取られた。
聡明な頭脳が、残酷な未来をありありと映し出す。
非合法なカジノに足を踏み入れた時点で、このような結末は予想できたはずだ。そのリスクも分かったうえで行動していたつもりだった。しかし、その思いが、ただの張りぼてだったことに改めて気付かされた。
心のどこかで、こんなことは起こりうるはずはない、と現実逃避していたのだ。
遅い。遅すぎる。
そんな非力な自分を、悔やんだ。
刹那――
轟音と共に、建物が揺れた。
一瞬にして、手足の拘束が解かれる。だが、喜んでいる場合ではなかった。パラパラ…と、固形物の破片が散漫する。ガラスが割れ、何か重量がある物体が、近くで落ちた。
地面に木霊する雑音に、少年はゾッとする。
間違いない。
ナイトメアフレームのランドスピナーの駆動音。
女性の甲高い悲鳴が、この広場を戦場へと彩った合図でもあった。恐怖と混乱に陥る人々。それはブリタニア人もイレブンも例外ではなかった。続いて、武器を装備したナイトメアの姿も現れる。
それもブリタニア軍のサザーランドではない。イレブンが持つ、亜種のナイトメアフレームだ。
突然の出来事に呆然自失としていた少年の腕が、強引に動かされた。
「こっちに来て!」
先ほどの、バニーガールだった。声に力があり、赤い髪に麗しい碧眼の双眸、豊かな肢体が目に入る。
「きゃっ!?ちょ、ちょっと!」
袖を振り払い、少年は走り出した。
今日会ったばかりの人間を信用することなどできない。腕のあるチェスの棋士ですら、簡単にルールを破ったのだから。
心に去来する感情を抑えつつ、少年は頭をフル回転させる。
バベルタワーに訪れたことは初めてではなかった。階段とエレベーターにはすでに多くの人間で溢れかえっている。中央に広がる階段はフロントと隔絶しているし、緊急時には、エレベーターは停止することが多い。すなわち、一階に通じる道は途絶えたことになる。
非常階段のある場所を記憶で探り、少年は迷わず向かった。
煌びやかな空間とは違い、コンクリートの素肌が剥き出しにされた場所。周囲には太い鉄筋や様々な建築材料が積み重なっている。少年は、急いで階段を駆け下りた。持ってきたチェスボートはかなりの値打ち物だったが、命には代えられない。
唐突に、足元が爆ぜた。
「っ!?」
数発の銃弾が横切り、少年は反射的に振り返る。黒いジャケットに黒のサンバイザーを被り、腕にはアサルトライフルをかかえている。
その服装は、知っている。
「黒の騎士団!?」
少年は、もう後ろを見なかった。テロリストの制止の言葉など、無視した。銃弾が次々と飛び交い、グレー色の壁が小さな穴を作って、抉られていく。
四角形状の螺旋に続く階段を無我夢中で走り抜けた。胸から込み上げてくる寒気が止まらない。「ぐあっ!?」飛び散った金属の粉末が、眼をかすめた。足の歩調が乱れ、手すりから体が投げ出される。
浮遊感に、全身が包まれた。
羽を持たない体は、もがくことも出来ず、ただ重力に引かれていくだけ。黒の騎士団の男の顔を眼の端にとらえた。
段々と体を突き抜ける空気が早くなる。
そして、少年の姿は、闇の中へと消えていった。
「――――――っ…」
少年は、生きていた。
工事の際に安全対策として敷かれている柔軟素材の幕を何枚も突き破って、加速度を緩和し、ようやく体の落下が鎮まったのだ。
九死に一生を得た、というイレブンの諺はまさにこのことだろう――
ひやりとする硬質の地面がひどく心地よかった。呼吸が乱れ、足が震えている。物騒な物音が、遠くに聞こえる。両手で頬を叩くと、少年はすぐさま立ち上がった。ここが戦場になるのも時間の問題だ、と危機感が切に訴えている。
階段がこの階層で途切れている。
ということは、最上階から半分の位置まで降りたことを意味していた。思わぬハプニングがあったとはいえ、ショートカットできたのは僥倖だった。暗い視界に、徐々に瞳孔が開いていく。記憶では、反対側の場所に、一階まで続く階段がある。
こつこつ、と足音が空虚に響く。
「……!」
咽かえるような匂いが鼻腔を刺激した。
生臭い鉄の匂い。
少年は、これを識っている。
角を曲がった先では、想像を絶する風景が待ち構えていた。物言わぬ肉塊が散らばっている。慣れることのない嫌悪感。込み上げる嘔吐物を、抑えることができなかった。
「う、うえぇえええっ!!」
くしゃり、と何かを踏んだ音に、目を向けた。近くで息絶えている女が、死ぬ直前まで握りしめていたであろう、一枚の写真。家族の写真でも、恋人の写真でもない。
ブラックリベリオンの際に捕えられ、処刑された仮面の男。
『ゼロ』
「皆、馬鹿だっ!こんなものに踊らされてっ!縋って!だから、お前たちは!」
負けたのだろう―――と、叫ぶはずだった。
喉が詰る。
なぜ、気付けなかったのか。
一機のナイトメアが、目先に佇んでいることに。
少年は、識っている。
黒の騎士団のナイトメア。
コクピットのハッチが展開し、一人の少女の姿が光のもとに晒される。緑色の髪を靡かせ、パイロットとしては不的確な白い服を着ている。彼女は少年に眼差しを向け、手を差し伸べた。
「迎えに来た。私は、味方だ」
澄んだ少女の声が耳に届く。
「私だけが、知っている。本当のお前を」
「本当の…俺?」
彼女の話に、裏付けも理屈もない。だが、ひどく心を揺さぶるのだ。まるで聖女に導かれる罪人のごとく、少年は歩み寄る。琥珀色に輝く双眸が、心をとらえて離さない。
タァン、と一発の銃声が鳴った。
少女の体躯から力が抜け、崩れ落ちた。
少年は慌てて、コックピットから落ちてくる肉体を抱き留めた。胸に刻まれた銃創から、止めどなく血が溢れ、純白の服装が赤く染まっていく。見事に、心臓を撃ち抜かれていた。
即死だった。
少女は、少年の腕で死んでいた。
ランドスピナーが地響きを立て、一機のナイトメアが近づいてくる。それと同時に数十人の歩兵が群れをなし、少年の前に立ちはだかるように静止した。
つい数分前の彼ならば、すぐさま助けを求めただろう。だが、少女を撃ったのが、他ならぬブリタニア軍人だった。何の警告もなく射殺した。
軍は、国民を守る職務である。
その常識が、眼前で覆されていた。タンクをかかえた兵士が豪勢な火炎を放ち、死体を焼いていく。生きていようが関係は無い。銃弾を浴びせ、完全な死体を作り上げていった。
「お役目、ご苦労」
サザーランドのコクピットから顔を出した軍人を見上げる。中年の男で、武装している歩兵とは違い、臙脂色の軍服を着ている。
「…お役目?」
「私達はずっと観察していた。6時59分起床。7時12分より弟とニュースを見ながら朝食。視聴内容に思想的偏りはなし。8時45分登校。ホームルームと1時間目の授業は出席せず、屋上で読書。2時間目、物理の授業は…」
「…今日の、俺だ」
自分の行動が、つらつらと並べ立てられていく。
次々と起こる事態に、頭がついていかない。
なんだ、これは?
なんだ、この世界は?
なんだ、この現実は?
なんだ、この悪夢は?
「飼育日記というところかな。餌の」
「…餌?」
「罠と言ってもいい。その魔女C.C.を誘い出すための」
「シー、ツー…?」
自分の懐で息を引き取った少女に目を配る。
「さあ、処分の時間だ。これで目撃者はいなくなる」
「処分…?」
この状況下で、意味することは一つしかない。
向けられる銃口が。
戦慄した空気が。
全てを物語っている。
(俺は…終わる…?何もわからずに、こんな簡単に……)
悲しいことに、この少年は死神の鎌が明確に見えたとしても、現実から目を背けるほど心が弱くは無かったのだ。
(―――ふざけるなっ!)
今にも噴き上げそうな激情が、体の中でとぐろを巻く。絶望。憤怒。殺意。どれをとっても、言い表せない感情。
(力さえあればっ、ここから抜け出す力っ…!世界に負けない力がぁ!!)
この状況を打破できるのであれば、悪魔に魂を売ってもいい――
その願いは、魔女によって、叶えられることになる。
「んっ!?」
魔女に、唇を奪われた。
流れ込む意識、情報。二人は、精神がつながる世界で、言葉を交わす。
(力が――欲しいか?)
(その声、さっきの…?)
(もう一度、問う。欲しいか?力が。己の運命を変える程の、力が)
答えるまでも、無かった。
(ああ――欲しい)
忘却の檻が音を立てて、壊されていく。
記憶が蘇る。
本当の自分を、思い出す。
世界が、変わっていく。
(ならば―――契約しよう。『ギアス』を―――お前に与える)
魔女は嗤いながら、少年の本当の名前を、告げた。
「契約成立だ―――――――――――――――ライ」
ライ、と呼ばれた銀髪の少年は、魔女に返事をする。
「…礼を言う。C.C.」
死んだはずの人間が息をふき返した事実に、驚愕する兵士たち。
機密情報局の一味である彼も、絶句した。
「ライ……だ、と?ルルーシュ・ランペルージはなく、ライ、だとっ!?もしやっ、き、貴様は、いや、貴方は!」
この瞬間―――魔神は生まれた。
左眼に、悪魔が宿る。
「ライゼル・エス・ブリタニアが命じる」
「―――死ね」
絶対遵守の命令が下る。
その声を聴いた兵士たちは、銃口を仲間同士に向け合う。
『イエス・ユア・マジェスティ!!』
木霊する銃声とともに無数の凶弾が迸る。
彼らは嬉々とした声で、己の命を散らせた。
爆風が吹き荒れる。
分厚い壁を突破し、瓦礫をものともせず、二機のナイトメアが降り立った。
魔神の前髪が揺れる。王の忠誠を誓うがごとく、こうべを垂れる機械じかけの騎士。
『お待ちしておりました――――ゼロ様』
コードギアス LOST COLORS R2
「神逆のライ」
turn01 「魔神が生まれる日」
完
最終更新:2011年01月29日 00:44