「 ――、―…っ!!」
声に出して叫んだのだろうか。おそらくはその自身の声に、ライは目を見開いた。
気付けば、白い天井。低く、かすかな機械音が響いている。
息が上がり、動悸が激しく打っていた。急に覚醒したせいで感覚が混乱している。
そろり、とライは自分を覆っている寝具からじっとりと湿った腕を引き出した。
ひやりとした空気に触れる。発熱しているのだろう、頭痛がひどく、体の感覚が重い。
ライは視界に、ゆっくりと手をかざした。汗に、濡れているだけだ。血では、ない。
(……血、夢。だが、今のは)
今まで眼前に見ていた光景がひどく生々しく自分の感覚を覆っている。
……たった今、この手の中にあったはずの重み。逃げていく体温、その、愛しい、体
(僕は……私は、)
「大丈夫ですか」
ひょい、とのぞきこんだ顔に、ライはびくりと体をふるわせた。
「うなされていらっしゃるようだったので……起こしてさしあげるべきか迷ったのですけれど」
見知らぬ顔だった。ほんの少女の年頃にも見えるが、青い軍服を身につけている。ちらりと肩口にある階級章が目に入った。
「おわかりですか。あなたは今、ブリタニアオークランドに向かう船……飛空挺の中です。
エニアグラム卿に運ばれていらしたとき意識を無くしておいでだったので、そのまま医務室に入られたんですよ。」
「……あなたは」
かすれた声で問いかけると、少女は略式敬礼の姿勢を取って答えた。切りそろえられた前髪が揺れる。
「カタリナ・サイラス少尉です。この高速艇ケレウスにオペレーターとして乗艦しています。
今は……あなたの付き添いが仕事ですが」
そう言うと、サイラス少尉はにこりと微笑んだ。
「起きられますか?大分汗をかかれたようですから、水分を取らないと。」
支えられて、ライはぎこちなく体を起こした。少尉に要領よく背中にクッションを押し込まれる。
涼しげな音を立てる水差しを傾け、サイラス少尉は中を満たしたホーロー引きのコップをライに差し出した。
「今、船医を呼びます。……エニアグラム卿にも、あなたがお目覚めになったことをお知らせしないと。
今少し席を外されていますが……とても心配されていたんですよ。そうだ、先に熱を測っておきましょうか。
服も着替えた方がいいでしょうね。お手伝いします」
ライがコップを受け取ると、少尉はくるくると表情を変えながら働き始めた。
のどは渇いていた。ライは、結露の浮き始めた器に唇を寄せた。
胸の内を落ちていく水のひんやりとした感触が、ライをようやく現実に引き戻し始めていた。
(そうだ、僕は式典会場で)
鈍い回転をはじめた頭が、ここに来てようやく重要なことに思い至る。
(……式典は、どうなった!?)
思わず顔を上げたライの元に、サイラス少尉が着替えを手に戻ってくる。ライの手の中のコップに水を注ぎ足し、言葉をかけた。
「特区日本の式典は、多少段取りに変更はあったものの、無事に行われたそうです。
……エニアグラム卿が、あなたは知りたがるだろうからすぐに教えてやれ、とおっしゃっていました。」
ライがあからさまに安堵するのを見て、少尉はおかしそうに笑うと、少し口元を引き締めてから続けた。
「ただ、その際にユーフェミア殿下の皇籍奉還が発表されて……あちこち騒ぎにはなっているようです。」
皇籍奉還。思いがけない言葉に、ライは息を呑んだ。皇族の持つ皇位継承権の放棄と引き換えに、一度だけ許される免罪特権。
それをここでユーフェミアが使うとすれば、代償はゼロの免罪に他ならないだろう。
……なぜ、そこまで? 式典会場でも感じた違和感。ユーフェミア殿下はゼロを「知っている」……
まとまりのない、泡沫のような思考がいくつも浮かび上がってくる。ふと、その中のひとつに他愛ないものを見つけ、ライは心が緩むのを感じた。
野に下る姫。その背中を押したかもしれない、彼女の騎士の存在。
……元皇族とは言え、正式に民間人ともなれば、意中の騎士と結ばれることは不可能ではあるまい?
その少女らしい思いつきに我知らず微笑みながらも、ライの思考は根幹へ立ち返っていった。
(ゼロの真意は、どこにあった。)
あのとき、ユーフェミアは確かにギアスの制御下にあった。
(どこまでが計算で、どこからが)
……間断なくやってくる頭痛の波がノイズになる。考えがまとまらない。体が熱い。
無意識に水を煽ろうとコップを持ち上げ、そのゆらぎに気をとられた。自分の影が落ちる水面……
(ドクン)
刹那、臓腑をえぐられるような嫌な感触とともに、心臓が大きく跳ねた。
「 嘘だ、」
思わず声に出してつぶやく。揺り返しやってきた、吐き気を催すような頭痛に思わず身を折る。体が、熱い
(まだ、あのときには)
ライが食い入るように見つめる暗い水面に、血走ったように赤く光を放つ瞳が彼を見返していた。
*
「服を替えましょう。ご自分でできますか?」
サイラス少尉は清拭用のタオルを用意しながら少年に尋ねた。
カフスをはずした軍服の袖をまくりあげ、湯を満たした洗面器からタオルを引きあげ硬く絞り上げる。
ほかほかと湯気を上げるタオルを一旦広げ、ぱん!と空気を含ませると、畳みなおして温度を確かめた。
「 嘘だ、」
「えっ」
少年の小さなつぶやきが聞こえ、少尉は反射的に問い返した。
見れば、ベッドの上の少年は、愕然とした表情でそれとわかるほど肩を震わせている。
と、彼の持っていたコップがその手から転がり落ちた。
「あっ」
わずかな水音とともに一瞬広がった水溜りが、間もおかず掛布の中へと吸い込まれていく。
そのまま床へ落ちたコップが、金属の高い音を立てた。
「どうしました、大丈夫ですか」
サイラス少尉は、手を伸ばし彼の腕に触れた。
「駄目だ」
「?」
思いがけず激しい動作で、かけた手を振り払われる。その力の強さに彼女は驚いた。
「駄目だ、離れて」
少年は繰り返した。腕で顔を覆うような仕草で体を縮め、彼女から離れようと敷布の上をにじる。
「どうしたんです、掛布を、替えないと」
「駄目なんだ、僕に……僕を、放って、おいて」
不自然に言葉を区切りながら、なおも意固地に遠ざかろうとする少年に、少尉は思わずその肩を掴み、顔を覆う腕を取った。
反射的に抵抗する少年と一瞬のもみ合いになる。衝撃でサイドテーブルの上の洗面器が転げ落ち、派手な音を立てて床に水を散らした。
少女は一喝した。
「放っておけるわけがないでしょう、あなたは、病人なんですよ!!」
呆然と見開かれた少年の目を真正面から見返した、数瞬。彼女はその瞳に見入った。
……ああ、なんと深い青だろう。ずっと閉じていたから、わからなかった……
「放せ」
その時ひらめいたのは、確かな怒りの、憎しみの気配。
「私に……近寄るな!ここから、出て行け!!」
……羽ばたく赤い鳥を見たと思ったのは、幻だったのか。
次の瞬間、少女の意思は消え去った。
*
ブリタニアはオークランドのはずれ。
ゆるやかな丘陵地帯が続いている。オレンジ農園の新緑が鮮やかな初夏である。
この広大な荘園の一画に、さっぱりとした外観のカントリーハウスが建っている。
その一室から、闊達な笑い声が漏れてきていた。
「――ユーフェミア様のご様子をお聞きできて良かった。枢木も元気だと伝えれば彼も喜ぶでしょう。
しかし随分しっかりとやっていらっしゃるようだ。あのお小さかった姫君が……おさびしいのではないですか、殿下」
部屋の主は、からかいを含んだ口調でモニタの中の人物に問いかけた。
『ご冗談はよしてください、エニアグラム卿。まだまだですよ。危なっかしくて見ていられない。』
モニタの中の人物が返す。そう言ったものの、口元が微笑んでいるように見えるのは気のせいではあるまい。
『……それで、どのように過ごしていますか、あの者は。』
「ええ。」
この部屋の、ひいてはこの屋敷の主であるノネット・エニアグラムは答えた。
「最近では、表にも出て働いていますよ。……それはもう、こまごまと」
『ほう?』
「本人が、ただ食客に甘んじることはできないと言うので……まあ、日常の感覚を取り戻すのにもよかろうと。
体が落ち着いてからは、とりあえず掃除でも手伝わせようと家人に預けたのですがね、」
ノネットは、少し決まり悪げに視線を逸らしながら続けた。
「殿下もご存知のように、人好きがする、飲み込みのよい奴なものですから……家内ばかりでなく、
何か使いに出すと、その先で気に入られては何か仕込まれて帰ってくる。手土産も一緒に持たされて」
『……それは、まあ』
「先日なぞ、妙に夕食の出来がいいので尋ねてみれば、いたずらを見つかったような顔で厨房から出てくるのですよ、奴が。
農園で、良いオレンジをもらったのだとか、エプロンまで付けて……そう呆れたような顔をせんでください、コーネリア殿下」
『 …… 』
モニタの中の人物、エリア11総督たるコーネリア皇女の表情を、呆れた、と表現するのは少々間違っている。
渋い顔、あるいは苦虫をかみつぶしたような、とでも言うべきだろう。
確かに、騎士たるもの、それらしく威厳と誇りを持って振る舞うべきだと考えるこの方の眼鏡にかなう過ごし方ではあるまい。
……エプロンは、伏せておくべきだったか?ノネットは可笑しくなって笑った。
「まあ、最近は、体力も戻ってきたようなので、私の組み手の相手をさせていますよ。いい鍛錬になる」
『エニアグラム卿、お手柔らかにお願いしますよ。奴はまだ病み上がりなのでしょう?あなたの対術訓練は洒落にならない』
「とんでもない、手加減など!最近はひやりとさせられることも多いのですよ」
ノネットは、くつろいだ様子で伸ばしていた足を組み替えた。
「やはり、不思議なところのある若者ですね。身体能力が高いのは勿論なのですが、妙に古い型に則った動きをする。
最近ではこちらから吸収したものを併せて意外な手を出してきますが。全く油断がならない。」
『ほう。』
「勝率は10割ですがね。まあ、1割とは行かないまでも5分くらい獲っていく日も遠くはないでしょう」
ノネットはそこまで言うと、からからと気持ちよく笑った。モニタのコーネリアは、困った人だ、と言うようにため息をひとつ。
そのとき、ノネットの居室に、屋外で犬の吼える声が届いた。彼女が他所に注意を引かれたのを見て、コーネリアが問うた。
『どうかされましたか?』
「ええ、誰か訪う者があったようです……いえ、問題ありませんよ、きっとグローサリーかどこかの娘です」
『娘、』
ノネットのちょっとした含みを、コーネリアは耳敏くとらえた。
「ええ、最近とみに……屋敷の訪問者が増えましてね。まあ、これは私にも責任のあることなんですが……」
『責任?』
「あの者が、度々あちこちで世話を焼かれて戻ってくるので、私が言ったのです。
人に親切にされて、礼に困ったら、とにかくきちんと態度で示せ。……笑顔を返せ。と」
『……なるほど。』
「そんな訳で、向こう2マイルは隣家もないような私の屋敷にはるばる通ってくる娘がいるわけです。
口コミというのは侮れない。付いたとおり名が『微笑み皇子』だそうですよ。まったく」
こらえきれない様子で、ノネットはくつくつと笑いをこぼした。
ノネットの話に苦笑していたコーネリアだったが、ふと表情を陰らせると、つぶやいた。
『……では、奴は変わらず』
ノネットは笑いを収めた。かすかに頷くと目を細め、モニタの中の皇女に向かって言葉を返す。
「ええ、あれから。言葉を話しません、ひとことも」
「勝手な想像を申し上げるならば……恐れているのでしょうか。」
『恐れて?一体、何を』
コーネリアは聞き返す。
「……さあ?」
ノネットは、はぐらかすような調子で、モニタに向かって肩をすくめて見せた。
「何か、のっぴきならない事情があるのは間違いないのでしょうが。」
一旦言葉を切ると、考えをめぐらすように視線を上げる。
「一通り検査は受けさせましたが、体の状態に問題はありません。頭の方もね。ただ、言葉を発さないのです。」
コーネリアがわずかに顔をしかめる。
「声帯にも外的な問題はない。ただ、話さない。おそらくは……自らの意思で」
『 …… 』
「時間がかかる、ということです。」
『 ……ええ。わかっています。あの者の身柄は卿にお任せしたのですから』
「ありがとう、殿下」
ノネット・エニアグラムは、一国の皇女でもある自分の後輩に、いささか率直な礼を述べた。
『 ……それでは、エニアグラム卿、私はそろそろ。所用がありますので。』
「お忙しい中を、感謝します。お話できて良かった……ごきげんよう」
『ごきげんよう。』
通信を切ると、ノネットはひとつ、ため息をついた。卓上の時計を確認する。お忙しいことだ、あちらは朝の8時過ぎだろうか。
特区日本が成立し、表立っての叛乱行為は減ってきてはいるものの、いまだエリア11は不安定なところも多い……
「 ……ふむ。」
ノネットは、通信機のスイッチに添えていた手を滑らせ、デスクの端に出したままの書類に触れた。
「体の状態に問題はない……」
納得はしていらっしゃらない様子だった、とノネットは先ほどのコーネリアの様子を思い出し苦笑する。
手元に引き寄せた薄い紙の綴りを、確認するでもなくぱらり、と開いた。
身長体重諸々の基本的なデータに加え、血液検査の詳細な分析結果。
『ライ・スラトナム』
行頭に、このデータの帰属する人物の名前が記されている。
生年2000年、ブリタニアカークランド出身。両親、縁者の記録は無し。
2017年5月、大病を患い、記憶障害が残る。
同年6月、アッシュフォード学園エリア11校編入。
同年7月、ブリタニア軍特別派遣嚮導技術部に所属。KMFテストパイロットとして勤務。
同年9月、ブリタニア第二皇女コーネリア直属親衛隊に転属。
同年11月、行政特区日本発足記念式典の警備任務に就くが、作戦行動中行方不明。
最終的な階級は少尉。
これがこの男の、公的な記録。なんともざっくりとした経歴である。
2017年以前は、生年の記録があるほかは空白。真っ白だ。
――スラトナム?悪い冗談だ。韻らしい韻も踏んでいない、「失った者(LOSTMAN)」のいいかげんなアナグラム。
子供の思いつきで付けたような名。ノネットはそんな悪ふざけを好みそうな人物に心当たりがあった。
特別派遣嚮導技術部、通称「特派」の頓狂な主任研究員、ロイド・アスプルンド伯爵……
コーネリア皇女の内々の了解を得ているとは言え、表向き行方不明になっている男の調査である。
ナイトオブナイン本来の任務とは関わりのないことでもあり、調査に当たって血液検体の出所は伏せてあった。
しかし分析を進めさせるうち、ノネットはそこに奇妙な痕跡を見ることになる。
ほぼ「同じ検体」の分析がほんの数ヶ月前に行われている……それも、今回同様、出所を伏せる形で。
改めてこの男の経歴を見直してみれば、ひととおりIDの体裁は整っているものの、呆れるほどさっぱりしたものだ。
……まるで、必要に駆られ、あわててでっち上げたかのような。
(時期から見て、検査は特派への入隊時。IDは……親衛隊への転属がらみか?それならば)
記録の捏造、あるいは改ざん。まあ、それ自体はいい。
元々、特派は第二皇子シュナイゼルの肝入りだ。人間ひとりの記録を操作するなど造作も無い。
問題は、検体分析が示す「意味」の方だ。そしてもう一点……
(彼らは、何を知っている?どこまで)
ノネット・エニアグラムは、状況を量りかねていた。
*
あの日。
ナイトオブナインとして特区発足式典に参列するべく、エリア11を訪れたノネット・エニアグラムは、思わぬ拾い物をした。
定刻に大きく遅れながらも、別段あわてることも無く式典会場に向かっていた彼女だったが
偶然行き当たった突発事象に対処する形で、取り急ぎ、ひとりの少年将校を担ぎ戻ることになったのである。
『まあ、硬いことを言うな。急用ができたんだ』
エリア11に到着して二時間足らずでのとんぼ返りを命じられて渋る船長に、ノネットは言った。
結局のところ、皇帝直属「円卓の騎士」に敵うものなどいない。最後には、あっけらかんとした彼女の「説得」に折れることとなった。
(当て身が、効き過ぎただろうか)
船に運び込んだとき、少年は発熱し始めているようだった。
(……咄嗟のことで、加減がな。)
少年がなかなか意識を取り戻さないことに多少の不安を覚えつつも、医務室のベッドをあてがわせると、ノネットは自分もその部屋に陣取った。
船長任せの航海中は別段することもないので、眠る少年を飽きるまで眺めつつ、適当に時間を過ごしていたのだった。
あわただしくエリア11を出港してから6時間。航行も終わりに差し掛かった太平洋上空で、それは起きた。
そろそろ本土の土も見える頃か、と狭い窓から外を眺めていたノネットの元に、使いがやってくる。
船長が、航路について相談したいから艦橋に来て欲しいと言うのだった。ノネットは、眠ったままの少年の様子をうかがうと
通路を通りかかった気の利きそうな少女将校を見繕い、自分が戻るまでの看病を任せたのだった。
艦橋で航行図を指しながらの説明を受けていたノネットの元に、医務室の少年が目を覚ましたと連絡が入った。
ひとときの安堵のあと、ノネットは船長を残して椅子を蹴り、後も見ず医務室へと歩き出した、その矢先
『――!!』
『――、―…!』
何かの転がり落ちる音や、言い争う人の声を聞いた気がした。ノネットは反射的に駆け出した。胸の内の警鐘が鳴る。
このケレウス号は、大きな船ではない。乗員10名ほどで回せる、小型の飛空挺である。
何か騒ぎが起これば、それは船の多くの場所に届き、非番の船員が駆けつける……
――その光景を、理解するのは難しかった。飛空挺の狭い通路に、4,5人の船員がひしめいている。
その中に、少年の看病を任せた少女将校が、医務室から射す光に背を向ける格好で立っていた。
「サイラス少尉。何があった」
「 …… 」
ノネットの問いかけに、少女はぼんやりとした視線を向けた。
「私、……」
ノネットは、他の船員を見渡す。戸惑ったような表情でこちらを見返すが、何か言ってくる者はいない。
埒が明かない。ノネットは、通路の船員たちを押しのけると、そのまま医務室へと体をねじ込んだ。
少年が、立ち尽くしていた。
床に飛び散った水、思い思いの方向に転がり落ちた器具たち。
ノネットの姿に反応して少年が身じろぎをする。その素足の下で、氷の破片がパキリ、と小さな音を立てた。
「……どうした、お前」
本人から答えが得られると思って尋ねたのかどうか、ノネット自身にもわからなかった。
「ごめんなさい」
ささやくような声が届く。
「僕は彼女に、ひどいことを」
「彼女?少尉のことか」
「あなたにも」
「?」
「ひどい十字架を、背負わせようとした。あなたの意思を踏みにじって……僕のエゴで、でも」
少年の膝が落ちた。ノネットは慌ててその体が床に崩れる前に受け止めに入る。
衣服越しに触れる体が異常に熱い。ノネットは、少年の体をきつく抱きながら耳元で言った。
「言っただろう!死ななくていいと。私はお前を殺さない。殺さないからな」
「……思い出したんです。全部」
その言葉を最後に、少年は眠りに落ちたようだった。
ひどく浅く、でも規則正しい呼吸を聞きながら、ノネットは呆然と今の言葉の意味を考えていた。
*
少年は、その居をエニアグラムの屋敷に移すまで昏々と眠り続けた。
少女将校に事のあらましを尋ねたものの、妙に口述があいまいで要領を得ない。しかし、ひとつだけはっきりとした異変があった。
改めて少年をベッドに寝かしつけたあと、ノネットは、荒れた室内を落ち着けるべく集まっていた船員に指示を出した。
『……駄目です』
サイラス少尉は答えた。
『私は、そこに入れないのです。その方には、近付けない』
彼女だけではなかった。騒ぎを聞きつけて集まっていたクルーたち、廊下に居合わせた船医でさえもが医務室へ「入れない」のだった。
(「殺してください」か)
ノネットは、ぼんやりと事の輪郭を捉えた気がしていた。
結局のところ、部屋の後片付けは、事件に居合わせなかった船員に手伝わせて済ませたが、
サイラス少尉はじめ、集まっていたクルーが医務室に「入れない」状態は航行が終わっても変わらなかった。
(「入れない」……入るな、出て行け。「近付けない」……近寄るな、あるいは離れろ、か?)
――彼が、自ら言葉を封じる理由。ノネットの中で、ゆるゆるとピースがつながっていく。
(「意思を踏みにじる」とはな。……確かに、これは)
我知らず、詰めていた息を吐き出し、苦笑する。
(私も、危なかったわけだ。)
正直、もう一歩踏み込めるアテがないわけではなかった。
(ファランクス卿)
ベアトリス・ファランクス。ノネットの仕官学校時代の後輩であり、現在の事実上の上司でもある女性である。
――特務総監を務める彼女ならば、あるいは。
(いや、逆だな。近すぎる)
ノネットの中の何かが、それを押しとどめた。血液の詳細な分析結果から判明した、遺伝に関するいくつかの「事実」。これが本当なら……
それぞれの仮定は、冗談のように突拍子ないものである。
だが、それ故に、大げさな推論とは互いが揃えば奇妙な信憑性を帯びるものだ。
「役満だな。まったく、とんでもない業を背負っているようだ、彼は」
ノネットは、髪をかき上げ天を仰ぐと、嘆息した。
『お館さま。』
そのとき、ノックの音とともに廊下からの声が届いた。
「……オランドか。」
ノネットが答えると、扉が開き、初老の男が顔をのぞかせる。
「そろそろ、お支度を。」
三十年以上この家に付き、家内を切り盛りしている男である。遠く首都ペンドラゴンにも私宅を構え、
屋敷を空けることも多い主に代わって、決して小さくはない土地建物を荒らすことなく維持している。
「そんな時間か、」
ノネットが窓の外に目をやると、空は白みを帯びた薄桃色に変わり始めていた。
離れて見えるバラ園に、銀髪の人影がちらりと見えた。……今日は園丁仕事か。全く小器用な奴だ……
「ナイトオブラウンズの正装でよろしいかとは存じますが」
「そうだな……」
そのときふと、ひとつの思い付きがノネットの頭をよぎった。
「ドレスに、なさいますか?」
言葉を途切らせた主に、オランドは尋ねる。
(……いやいや。)
その思いつきに、反射的に首を振るものの、はたと考え直す。
わずかな逡巡のあと、うむ、とノネットは小さく頷いた。
「……それでは、ドレスで。」
オランドは、そう確認すると、部屋を辞するべくきびすを返した。扉を閉めかけた執事を、ノネットは呼び止めた。
「……オランド!」
(突拍子もない事態には、それに見合う力、か。)
「あいつにも、支度をさせろ。連れて行く」
ノネットは、思案顔から一転、なんとなく愉快な気分になっていた。
*
……しばしば、物理的な距離は、精神的な求心力にも影響を及ぼす。
エニアグラム伯爵家がその領地を保有するオークランドは、首都ペンドラゴンから遠く離れた、大陸西海岸に位置する。
気候は温暖、農・酪農業に適し、食料自給率も高い。ブリタニアが今ほどの覇権主義に染まる以前から、
移民が人口に高い割合を占め、大規模農場や食品加工工場の労働力として機能していた。
現皇帝シャルル・ジ・ブリタニアは、極端な自国至上主義を唱えながらも、こと経済においては実際的な感覚を持ち、
この地域において、適度な規制を設けつつも従来の性質を伸ばす形で、外資をいれた合弁企業などを庇護する政策を採っていた。
一方で、移民や植民地由来の「名誉ブリタニア人」に国粋主義的な心情が薄いのも事実であり、
この地域は、ブリタニアが世界版図において隆盛を誇るこの時代にあっても、独立独歩の気風が根強かった。
……このような土地柄において、人種を問わず信望を集め、広く領地を治めるエニアグラム家は、この国の貴族体制にとって西の要といえた。
また、その現エニアグラム伯が皇帝に忠誠を誓う直参騎士、ナイトオブラウンズであることもまた、大きな意味を持っていたのである。
「――珍しいな、ノネットのドレス姿とは。麗しいじゃないか」
「ん?ああ、たまにはな。」
華やかな人波が行き交うパーティー会場である。ちらりと自分の服装を見やり、ノネットは答えた。
考え事をしながら出立の用意をしていたら、気付けばそういうことになっていた。執事が用意したらしい。
彼女の豊かな胸元を強調した薄紫のドレス。ラウンズのパーソナルカラーに合わせたものだ。金糸の刺繍を散らしてある。
多少足回りが悪いのが難と言えば難だが、彼女は外見に頓着しない性質なだけで、別段女性らしい格好を忌避しているわけではないのである。
「すまなかったな、急に招きたてて」
「まったくだよ。パーティーなら、着たい服もあったのに」
「……いいじゃないか、騎士服で。ジノ、この際だから言うけど、お前の私服はいただけないと思ってたんだ」
ノネットは、長く燕尾の伸びた白い騎士服に身を包んだジノ・ヴァインベルグに言った。
皇帝直参のナイトオブスリー。つい先ほど、戦地から舞い戻ったばかりである。騎士としての力量は折り紙つきだ。
「……アーニャはなんて言うか、うん。可憐だな」
よしよし、と言うようにノネットは小柄な少女の頭を撫でた。淡い紅を基調にした華やかなドレス。
こちらはノネットが急遽用意させたものだったが、「薄紅の天使」とでも形容できそうにしっくりと似合っていた。
この少女、アーニャ・アルストレイムも、ナイトオブシックスを勤める最年少のラウンズである。
「……その子、だれ。」
アーニャが、いささか抑揚にかける声で問うた。ノネットは、そばに控えていた少年に目をやって答える。
「ああ、しばらく前からうちに居付いている、まあ居候だ」
背の高さこそ及ばないが、年の頃はジノと同じくらいだろう。黒のお仕着せが妙に板に付いた、なかなか見目の良い少年である。
薄く茶色がかった銀の髪がノネットとよく似て、並ぶと姉弟のようにも見えた。
少年は、ノネットに促されて一歩前に出たが、困ったような表情になった。
『 …… 』
わずかに微笑んで会釈をしてみせる。挨拶ということだろうか。
「 ……?」
「名前は?」
「まあなんだ、口が利けないんだよ」
いぶかしげに少年を伺うふたりに、ノネットが言った。
「名前は、ライと言う。姓は……スラトナム、だったか」
確認するようにノネットが顔を振り向けると、ライは頷いた。
「今日は、お前たちが来ることになったからな。引き合わせようと思って」
「ふうん?」
無遠慮に探るようなジノと、淡々と見据えるアーニャ双方の視線に晒されて、ライは決まり悪げに身じろぎをした。
「……使えるのか、こいつ」
「試してみるか?」
ノネットは、にやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「最近ではこいつの組み手の相手をするのもしんどくなってきてな。適当な相手をあてがわなきゃと思っていたんだ」
「 ……へえ?」
ジノとアーニャは、改めて興味深げにライを見た。
本人はと言うと、ノネットの言葉の雲行きが怪しいと見るや顔色を変え、とんでもないというよう手を突き出す。
「……ホントに?」
アーニャが少年をのぞき込み、改めて問う。ライは、困った人だ、というようにノネットに視線を送った。ノネットは、おかしそうに笑うばかりだ。
わずかな逡巡のあと、ライは右手首のカフスボタンを外すと、袖をひじまで捲り上げて見せた。見事な青タンが姿を表す。
ついでに、と言うようにかがみこんで左足のズボンも捲り上げて見せた。こちらの脛にも、見事な青タン。
「……まあ、そりゃあそうだ」
「私、ノネットに白兵戦で勝ったことない……」
あと、太腿と、二の腕と……と順番に指差してみせるライに、一緒にかがみこんだ二人は同情的に応じた。
フォーマルな男女の集うパーティー会場での青アザ自慢、というシュールな光景に
周囲の客たちも、ちらちらと興味を引かれているようだった。
ナイトオブラウンズの知名度もさることながら、単純に、非常に目を引く容姿を持った人々なのである。
「……なあライ、これ、触っていいか?」
しばらく黙っていたジノが、辛抱できないと言った様子で人差し指を突き出し、じりじりとライの向こう脛に近付けた。
『 !―…!!』
ライは、慌ててむき出しになった脛を隠そうとする。
……パシャリ。小さな電子音とともに、アーニャは携帯のカメラに、ライの脛に見事に咲いた痛々しい花を収めた。
「しかし、ちょっと変わったパーティーだな?」
ジノは、ライの青アザをかまうのに飽きると、立ち上がりながらノネットに言った。
「そうか?」
ノネットが返す。この会場は、郊外の草原地帯をぐるり囲む形で設けられていた。普段は収穫した農作物の集積場として使われている、
ゆるい勾配の付いたくぼ地である。無料で料理を供する屋台がずらりと並び、むしろ祭のような賑やかさだった。
仮設の高い足場が組まれ、ともされた無数の灯火の向こうにもまた、星がきらめき、明るい音楽とともに、夜風が葉ずれの音を運んでくる。
眼下に広がるゆるやかな丘陵地帯の先には、きらめく町の灯火が固まっているのが見えた。
「……違う。ペンドラゴンの方とは」
アーニャが、ひとしきり撮影を済ませた画像を保存しながら言った。
「なんていうか、風通しの良さもそうだが……出席者に庶民?ぽいのが多いな?あと、ナンバーズも」
「ああ、そうか」
ノネットは、笑った。
「皆、着付けない一張羅を着てきているしな」
「一張羅?」
「主催のIACは、エリア8由来の合弁企業だからな。あちらから入っている幹部も多い。
それ以外にも、こちらで雇っている一般の社員やその家族、生産担当者……このあたり一帯の、うちの小作人なんかも招かれている。
……新製品の発表会を兼ねた、地域をあげての慰労会みたいなものなんだよ、これは」
「へえ。」
ジノは、驚くでもなく相槌を打った。
「――お館さま!」
ジノがその声に顔を振り向けると、ひとりの少女がノネットの元に駆け寄って来るところだった。
年のころは十二ほどだろうか。利発そうな表情で、真新しい紺の制服に身を包んでいる。ジノはその制服に見覚えがあった。
少女は、ノネットの数歩手前でぴたりと止まると、ややぎこちない敬礼の姿勢をとった。
「ナイトオブナイン、エニアグラム卿。お会いできて光栄です。……お久しぶりです!お館さま」
「お前、エリナか!」
ノネットは顔をほころばせて少女に向き合った。
「大きくなったな、いくつになった」
「十三です。春から、ペンドラゴンの士官学校に進みました。今は、短期の休暇で」
「そうか、よくやったなあ。お前なら出来ると思っていたんだ!……コルバートの調子はどうだ?」
「父も、おかげさまで、仕事に復帰できる目処が立ちました。まだ自由に歩き回ることはできませんが……
お館さまにお会いできるチャンスがあるのだから、私に行ってきちんとお礼を申し上げてこいと。」
はきはきと答える瞳が輝いている。
「そうか。よく勉強するんだぞ。そして、いい友達を作れ。一生の宝になる。」
「はい!!」
元気の良い返答に、ノネットはしみじみと笑顔になり、少女の頭を力強く撫でた。
少女は、ノネットに少々乱暴に髪を漉かれながら、喜びで頬を紅潮させていた。
ひとしきり、礼の言葉を述べたあとでノネットの前を辞去した少女を、ジノは、興味深いものを見た、という表情で見送っていた。
「うちの小作人の娘なんだ。よくできた利発な子でな。もったいないからエニアグラムで援助していたんだ」
ノネットが言った。
何とはなしに少女の背中を見送っていたジノは、顔を上げると、改めて周囲を見渡した。
小さな子どもの姿も見える。談笑する大人たち。皆一様に、よく飲み、よく笑う。和やかな笑顔だ。
「……悪くないな?こういうのも」
「そうだろ。」
ノネットは、愉快そうに応じた。
「……うちの上を通るなら、寄ってお茶でも飲んで行け、なんて言うから。何かと思ったんだよ」
ジノが言った。
ほんの24時間前。ジノとアーニャ、ふたりのナイトオブラウンズは、ユーラシア大陸国境付近での戦線に駆り出されていた。
二人の出撃により、早々に一方的な殲滅戦の様相を呈した制圧が完了、帰国の途に着こうというとき、
補給のために寄港の連絡を入れた西部基地との通信に割り込みが入ったのである。
『早摘みのオレンジがいい季節だしな』
ノネットはそう言って二人を招いた。
『ちょうどパーティーがあるんだ。美味い料理をご馳走するよ』
「確かに、美味しいけどね」
自由に試食できるようになっている新商品のチーズをつまみながら、ジノは言った。
海沿いの地域だけあって、オードブルなどにも海鮮が豊富に使われている。
新鮮な食材にシンプルに手を加えただけの料理は、それでもとても美味だった。
西海岸特有ののおおらかさに満ちたパーティーは、中央育ちのジノの身にも心地よく馴染みつつあった。
「―――ところで、ノネット」
ジノは、視線をデザートを供している屋台の方に向けたまま言った。
「要件はなんだ?」
ジノは問うた。
「……ただチーズをご馳走してくれるために、ベアトリスに小言を言われるとわかってる寄り道をさせたわけじゃないだろ」
ノネットは、視線を麓の町灯りに向けたまま答えない。
「あいつか。」
ジノの視線の先で、アーニャに言われるままに次々と、ライが盆にデザートを乗せていた。
合間合間に、アーニャが携帯を操作し写真をとっている。何か知らないが、妙に息が合っているようだ。
口数の少ない者同士、波長の合うところでもあるのだろうか。
「なんなんだ、あいつは。」
「……正直、私にもよくわからないんだよ。」
ノネットは答えた。
手ぶらのアーニャを先導に、両手にデザートを満載した盆を持ったライが戻ってきた。
なぜか彼の隣に、ドレス姿の年頃の少女が付いて、緊張した様子で一緒に飲み物の盆を運んでいる。
ライは、ノネットの脇のテーブルに自分の手の盆を置くと、少女から飲み物を受け取り、にっこり笑うと会釈をした。
「……いえっ、そんな、あのっ。」
少女は急にうろたえたように頬を染めると、あわただしくノネットやジノたちに向かって礼をすると駆け去っていった。
最終更新:2009年05月29日 18:21