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February Shower - (2009/10/12 (月) 00:14:31) の1つ前との変更点
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執筆日 2009年3月15日
備考 忙しくてブランクが長かったので久々の小説、
途中で誤って消してしまったので文章の整合性がとれてないところがあるかもしれない。
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冬の雨は、どこまでも冷たい。わたしたちの冷え切った身体と心を、如月の通り雨はさらに冷やしてゆく。
&bold()&b(){February Shower}
総じて雪は冬に降るものであるが、冬は雪が降るものだというのは必ずしも正しいわけではない。そのことをわたしたちはつい忘れがちになってしまうのだが、それは今のわたしが受け入れなければならない、紛れもない現実でもあった。つまりは……
「なんで、こんな日に限って傘がないんだろ……」
そう、傘がないのである。
今日は週に2回の文芸部活動の日だった。朝倉さんは来たるべき三連休に合わせて久々に帰省している。“彼”は今日、ペットの猫を獣医に診せに行くからと言ってわたしに頭を下げて帰ってしまった。久しぶりの、以前と同じような孤独な文芸部活動だった。
かつてはそれが普通だったというのに、実のところ今日は寂しくてたまらなかった。ずっと独りだったわたしが人恋しいだなんて可笑しな話だけれど、実際にそうだったのだ。
どうしようか。誰かが迎えに来てくれるわけでもないけれど、わたしは学校を出ることも出来ずにじっと立ちすくんでいた。
とりあえず、状況を整理しよう。
問.わたしは誰だ?
答.他でもない、長門有希である。1年6組、文芸部長の長門有希である。
問.今はいつで、ここはどこだ?
答.2月半ばの金曜日、兵庫県立西宮北高等学校の校門前だ。
問.わたしは今どうしたい?
答.自宅マンションの708号室に帰りたい。出来れば雨に濡れることなく。
問.現状は今どうなっている?
答.傘を自宅に忘れてきてしまって、家に帰ることができない状況。
問.過去の経験から鑑みるに、わたしはこの問題をどうやって解決すべき?
答.同様の問題に遭遇した経験がないわけではないので、恐らくその時は走って自宅まで帰ったものと思われる。
問.ならば何故それを実行しない?
答.当時は夏の夕立だったが、今は真冬の雨だから身体が冷えてしまう可能性がより高い。体調を崩すことが容易に予想されるから。
問.通り雨が上がるのを待つという選択肢は?
答.西の空一面に雲が広がっていたからありえない。
問.ならばどうすべき?
答.どうすべきだろう。誰か教えてください。
禅問答のような堂々巡りが必須だと分かった時点で、わたしの思考回路は考えることを放棄した。特にやることも――否、できることもないわたしは、その場にじっと立ちすくんだままでいるほかなかった。
そういえば、前に少しだけ見かけた、喜緑先輩とかいう2年生の生徒はどうしたんだろう?確か朝倉さんの親戚だとか言っていたけれど(実はわたしと朝倉さんも遠戚にあたるらしいのだが、当然ながら2人とも面識がない)、こんな時に来てくれやしないかな……?
やめよう。来るかどうかどころか、わたしのことを覚えているかどうかすら甚だ疑わしいのだ。そんな人に助けてもらえることを前提条件にして物事を考えるなんて、我ながら最悪のパターンだ。文芸部室の備品といい勝負の、わたしのポンコツコンピュータはまた考えることを放棄した。
※ ※ ※
「……長門さん?」
どれくらいの時間が経っただろう?誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえたような気がした。或いは、それは物理的な声ではなかったのかもしれない。
ああ、これは幻聴なんだ。誰かに助けてもらいたいと強く願いすぎたせいで、有りもしない聖母マリアの声が、ゴルゴタの丘まで歩くこともできない出来損ないのイエスに、実体のない空虚な慈悲の言葉を投げかけているのだろう。
「……長門さん?」
わたしは恐る恐る後ろを振り返る。妖怪口裂け女が「わたし、きれい?」なんて言ってわたしに問いかけて来るかもしれない。その時は思いっ切り叫んでやろう。
「ポマード!」
「ふぇえっ!!何ですかぁ!?」
わたしが振り返った先にいたのは、マリアでも口裂け女でも、メデューサのような怪物でもない。
どこかで会ったような、それでいてこれ以上ないくらい可愛らしい、栗色のロングヘアーを持つ女子生徒だった。
誰だったっけ……思い出せない。気まずい空気だけがわたしたちを支配してゆく。
喜緑先輩ではないことだけは確かだ。あの特徴的な容姿は忘れようもない。
「えっと……朝比奈、です……」
「朝比奈、先輩?」
思い出した。去年の12月18日に“彼”が突然文芸部室に駆け込んできたその次の日に、少しだけ顔を合わせた人だ。
「ええ、覚えていて頂けましたか?」
「はい……」
「雨、降ってますね」
「はい……」
「傘、ないんですよね」
「はい……」
「じゃあ、一緒に帰りませんか?」
「わたしと、ですか?」
「そうです。今まで、あまり長門さんとお話したこともなかったですし……」
そう言いながら、朝比奈先輩はパステルピンクの傘を広げた。意外と大きい。何故パステルカラーで大きなサイズの傘なんて持っているんだろう。
「ほら、入ってください」
「すみません……」
私は、朝比奈先輩がただ可愛いだけの人ではないことを、初めて知った。彼女はきっと万人に対して優しいのだろう。人嫌いの激しいわたしには到底真似できない。
ありがとうございます。わたしはか細い声で呟いた。朝比奈先輩には聞こえなかったかもしれない。優しい人だから、ひょっとしたらお礼なんて全然聞こえないのかもしれない。
「長門さんは期末テストに自信はありますか?」
「あんまり、自信がないんです……他のみんながどんな風に勉強してるのかも分からないし……」
「きっと長門さんなら大丈夫です。真面目にやっていけば、それに見合った点が取れると思いますし、こんなあたしだって真面目にやればそこそこの点が取れてるんですよ?」
「朝比奈先輩は、頑張ってるから……」
「でも、それは誰にだって平等にチャンスが与えられてるっていうことなんです。あたしだけが特別頭がいいわけじゃありません」
「そう、いうものなんでしょうか……」
「大丈夫。自分を信じていさえすれば、自ずと結果はついてきます」
「……分かりました。やれるだけやってみます」
「そう、その意気ですっ!」
最近はいろんな人がわたしを元気付けてくれる。それは彼であったり朝倉さんであったり、或いは全然違う生徒であったりするのだが、いずれにせよ共通して言えるのは、皆一様に親切な人だということだ。そう、皆優しいのだ。
ついつい、わたしはこれが当たり前だと錯覚してしまいそうになるが、実はこんなに人に恵まれているのはものすごく有り難いことなのである。ならばわたしには何ができるだろう?わたしの中でその答えは未だに明確な形として出ていない。
朝比奈先輩の傘はとても大きかった。ひょっとしたら最初から誰かと一緒に入るのが前提なのかもしれない。例えば……彼氏とか。
つまり、朝比奈先輩にはその人間的な大きさに見合うだけの、相応しい恋人が居て然るべきなのだ。
これだけ可愛らしくて(上級生に可愛い可愛いと連呼するのも失礼極まりないのだが、如何せん事実なのだから仕方がない)しかも人当たりの良さも芯の強さも併せ持っているのだ。それはこの数分間だけですでに証明済みである。
実際のところはどうなのか、つまり、朝比奈先輩に彼氏はいるのかいないのか。それを本人に直接聞けるだけの度胸なんて持ち合わせていなかったから、この疑問は当面は解決しないことに決めた。
※ ※ ※
「朝比奈先輩は、」
「はい?」
「なんで、今日は学校に残ってたんですか?」
「今日は書道部だったんです。活動が終わって後片付けして出て来たら、長門さんが1人で棒立ちになってるのが見えたから……」
「わたしのこと、覚えててくれたんですか?」
「もちろんですよ!実は、去年初めてお会いした時から、長門さん可愛いなーってずっと思ってたんですっ」
「そんな、わたしなんか……」
「最近はあのキョン君っていう男の子と一緒に文芸部室にいますよね?何度か見かけたことがあるんです」
「え?」
「あの男の子の顔を見てれば分かります。間違いなく長門さんに惚れ込んでいるんだって」
「そんな、自意識過剰な……」
「人ひとり惚れ込ませられる人って、滅多にいるものじゃないんですよ?だから長門さんは自分で気付いたことがないだけで、本当はすごく可愛くて優しいんです。あたしが保証します」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
朝比奈先輩はふわりと、柔らかい笑みをこぼしてくれた。その如才無き笑顔は、彼や朝倉さんのそれにどことなく似通っているように思われた。
そうか。朝比奈先輩の傘が大きいのは、先輩自身が他人を包み込んであげられるような、大きくて優しい心を持っているからなのかもしれない。
わたしが傘を持っていないのもきっと同じことなのだ。わたしには傘を差して他人を招き入れるどころか、自分自身を雨風から守るだけの心も持っていないのだから。本当はそんなわたしにはずぶ濡れがお似合いなのだ。
そう、思った。もちろん口には出さなかったけれど。
朝比奈先輩は意外と――と言っては失礼だからこれも言わなかった――話し上手だった。わたしが頷くか首を振るかの二択で答えられるように上手く質問してくれていることが明確に分かるくらい、わたしを気遣ってくれていた。
しかし、四つ角まで来たところで、わたしと朝比奈先輩の行きたい道が違うことに気がついて、わたしは歩みを止めて言った。
「じゃあ、私はここで……」
「あ、お家の前まで送りますよ?せっかくここまで来たのに、ここから傘がなかったら意味ないじゃないですか」
「はい、すみません……」
「長門さん」
「……はい?」
「今日、お泊りしてもいいですか?」
「え?」
「長門さんのお家に、お泊りしてもいいですか?」
「わたしですか?」
「はい、明日は土曜日で学校ないですし。それに、長門さんのお家がどんなところなのかも知りたいんです。……本当はこっちの方が本音なんですよね」
「はぁ……。」
「実は、あたしも1人暮らししてるんですよ。だから長門さんはどんな生活をしてるのか、ちょっと興味あります」
「わかりました。部屋、片付けときます」
「ごめんなさいね、急にこんなこと言い出しちゃって……」
「いえ、なんにもない家ですし……あ、朝比奈先輩」
「はい?」
「わたしの部屋、708号室ですから……」
「あっ、……ありがとうございます。それじゃあ、また。独り身ふたりで、楽しい夜を過ごしましょうね」
わたしのマンションの軒下まで来たところで、朝比奈先輩は小さく手を振って去っていった。わたしは、足を滑らせないように小走りで帰ってゆく彼女の後ろ姿を、直立不動のままでじっと見つめていた。ローファーだけれど、その駆け足はなかなかに速い。
ぴょこぴょこと弾む背中と栗色のロングヘアーが見えなくなったのを確認してから、わたしはオートロックのボタンを押して強化ガラスの張られた重たいドアを開けた。
※ ※ ※
エアコンのスイッチを入れてから、無駄に広い自室を見渡す。ゆうべ着ていた水色の寝間着がほったらかしになっていた(まだ1日目だから今夜も着よう)。しかも今朝ベランダから取り入れた洗濯物がカゴに入ったまま放置してあった。去年はベランダから直接部屋にぶちまけていたから、カゴがあるだけまだマシか。
朝比奈先輩が来るまでの残り時間はどれくらいあるだろう。現在の最優先課題、もとい部屋の掃除と食器洗いが、どれくらいの時間で終わらせられるだろうか。
しばらく食器洗いをサボっていたせいで、食器がシンクに小山を形成している。もちろん食器洗い機なんて文明の利器はうちにはない。携帯電話さえ持っていないのだから当然と言えば当然だ。わたしは機械の扱いが絶望的に下手なのだ。今の文芸部に入ってから一応タイピングはできるようになったけれど、やっぱりわたしに機械を扱うのは無理だ。
いっそのこと携帯電話も買ってしまった方がいいのだろうか。幸いにして生活費に困ったことはないから、金銭的余裕はそれなりにある。本以外の何かに使いたいと思うほど欲があるわけでもないし、それなりにちゃんと生活していけてるからこれでいいや、と思ってきたのだ。
わたしは素手で食器を洗うことにしていた。手袋越しだと上手く洗えないような気がするからだ。確かに冬場は冷たいし、手が荒れるなんてみんな口にするけれど、本来ならそれが当然ではないかと思う。
手を滑らせないように、お皿を一枚一枚ていねいに掴む。右手より不器用な左手だから、常に細心の注意を払わなくてはいけない。そして全部洗い終わったら泡を落とす。経験的にはすすぎの方が手を滑らせる可能性は高かった。
食器洗いが好きな人なんてこの世にそうそう転がってないだろう。だからこそ食器洗い機の開発が進むのだ。犬を散歩させる機械がいまだに実用化されていないのも、逆の意味で同じようなことなのかもしれない。世間に散歩が好きな人なんて山ほどいる。大半はお年寄りかもしれないが。
洗濯物はとりあえず寝室にどかした。部屋に掃除機をかけて、適当に物をまとめだけで随時ときれいになったように思う。それを見ると、わたしは普段から全然生活感のない部屋に暮らしているのだと分かって少し虚しい気分になるから、わたしは掃除も今ひとつ好きになれない。もっとも、そんなことを言っている人間が将来的にゴミ屋敷を作っていることは紛れもない事実なので、たまには掃除することを忘れてはいけないとも思っている。
呼び鈴が鳴る。
部屋は完璧とは言えないまでも、そこそこきれいにはなっていた。わたしは急いで玄関まで飛んでいき、そっとドアを開けた。
「なーがとさん」
「……朝倉、さん?」
「おかずの配給にやって参りましたぁ!」
「え……?」
大声に驚いて平常心を失うわたしの両手にひとつずつ、朝倉さんは強引にタッパーを握らせる。
「例のおかずはこのタッパーに入ってるからね。こっちは肉じゃがで、こっちはサバの味噌煮。2食分あるから、今夜と明日の朝にでも食べて。それじゃっ!」
「あ、ありがとう……」
お礼を聞いたか聞いていないかの判断がつかないほど早く、朝倉さんはダッシュで帰っていった。曲がり角で内側の壁に手をかけて無理矢理に左に曲がった。何なんだあの人は。本当に一体何なんだ。
※ ※ ※
「長門さーん……」
わたしはぼんやりと立ち尽くしていたので気付かなかったのだが、朝比奈先輩はわたしのすぐ目の前まで来てくれていた。さっきと違って髪はアップで結ってあった。
「もしもーし……」
文字通りわたしの目と鼻の先で、右の手のひらをひらりひらりと振っている。雨は降り続いていたから、左手にはさっきと同じ傘。雨はまだ降り続いている。
「あ、朝比奈先輩……」
「大丈夫ですか?」
「はい、ちょっとボーっとしてたみたいです」
「お疲れ気味なんでしょうか?」
「大したことはない、と思います……たぶん」
「しんどかったりしたら、遠慮なく言って下さいね」
本当に、ありがとうございます。わざわざ晩ご飯まで持ってきてもらったのに、あろうことか玄関先で惚けてるなんて末代までの恥だ。相手が“彼”でなくてまだ良かった。彼に醜態を晒すわけにはいかない。
「今日は天ぷらを揚げてみたんです」
朝比奈先輩はそう言って、伊勢丹の大きな紙袋から濃い目のピンク色のタッパーを取り出して机に置いた。ピンク色と言えば、今は脱いでしまった白いコートの下に着ているのも薄桃色のワンピースだ(いささかピンク色が多すぎる気もするが、色が薄いのとモデルがいいので嫌味っぽくはない)。わたしはお皿と箸を取るために一旦キッチンへ引っ込んだ。
「あとは、ほうれん草のおひたしもどうでしょうか?」
「すごい……美味しそう」
「これくらいなら慣れればすぐに作れますよ?長門さんは料理されないんですか?」
「わたしは、全然ダメです」
キッチンとリビングに少し距離はあるが、静かな室内ならたぶん、まだわたしの声は届くと思う。ほとんど店屋物と朝倉さんにすがっています、とまで言ってしまって良いものか。
「でも一応、ご飯だけは炊いてありますから」
しかも無洗米です。朝倉さん経由で生協から買っている奴だ。あれは米を研ぐ手間が省けて助かる。水を吸わせて朝のうちに炊飯器のタイマーをかけておけば夜には美味しいご飯が出来上がり、それをその夜と次の朝、そして昼食で消化する。
いつも弁当はご飯だけが自前で、おかずは前述したように店屋物か朝倉さん手製である。あるいは冷凍食品か。
現に今日の晩ご飯だって、朝倉さんはわたしが独りで食べると見込んでおかずを持ってきた。今日に限ってはその予想も外れてしまったが、普段はどれだけ助かっていることか。朝倉さんがいなければ、そのうちにわたしも飢死確実である。
こちらも美味しそうだったので、せっかくだから朝比奈先輩のと一緒に頂くことにしよう。
「お好きなのを取って下さいね」
お皿や茶碗を揃え、ご飯をよそってキッチンから戻ってきたら、朝比奈先輩はそう言った。わたしは再びキッチンへ戻り、塩を取ってきた。
タッパーの中身はエビとサツマイモを筆頭に、ササミやかき揚げ、シソ、といった具合だ。量も十二分といえる。これだけの天ぷらを揚げるのに、一体どれくらいの時間がかかったのだろう。
「昨日のうちに仕込みは全部やってありましたから、今日は揚げるだけです。さっき揚げたばっかりですから、早めに食べちゃいましょうか」
「あ、いただきます……」
わたしはその場に正座して手を合わせた。
「どうぞ、召し上がってくださいね」
朝比奈先輩は、さっきよりも数段、優しさに満ち溢れた笑顔を見せてくれた。
わたしは手始めに、サツマイモとシソをもらった。
「天つゆもありますよ?ペットボトルで申し訳ないんですけど」
用意周到な朝比奈先輩は、またしてもわたしより一枚上手だった。ひょっとしたら朝比奈先輩の紙袋の実態は某猫型ロボットの四次元ポケットかもしれない。出てきたのは、350mlの小ぶりなペットボトルだ。
「あ、一応、塩もあります……」
不意打ちを喰らったわたしは、本当にささやかに対抗する。一方的に気を使ってもらってばかりだったことに何となく悔しさを感じたからだ。憎むべきは自分自身だというのに。
「ありがとうございます。じゃあ、あたしは……お塩、もらいますね」
何だろう。朝比奈先輩が、わざわざわたしのくだらないレジスタンスに付き合ってくれたような気がした。唐突に、そんな考えが頭に浮かんだ。どうにも朝比奈先輩といるとペースが狂うらしい。優しい人だけに、いつもわたしの想定よりも高いところにいるような。
天ぷらはまだ温かい。早めに食器洗いと片付けを済ませておいて本当に良かった。たまにはわたしもいいことをするものだ。
ほうれん草もおいしい。味が濃すぎないのがいい。変な個性を主張しているわけじゃないけれど、副菜――引き立て役の役目を忠実に果たす名脇役だ。
「あ、」
「どうかしましたか?」
「他にもおかずあるんですけど……食べますか?」
さっき朝倉さんがくれた肉じゃがとサバ。後者は2切れしか無かったので明日の朝ご飯と弁当に回すとして(脂っこいということもあるが)、前者はさっき見たところ、2食どころか4~5食はくだらないぐらいの量がタッパーに詰まっていた。どれだけ食べると思っていたんだろう。
「いただきます」
朝比奈先輩がそう答えるや否や、わたしはまたキッチンに引っ込んだ。
※ ※ ※
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
朝比奈先輩との食事は思いのほか会話が弾んだ。もちろんアルコールなんてなかったけれど、わたしもいつもより少しだけ饒舌になれたかもしれない。
それは多分、先輩が人から話を引き出すのが上手いからだと思う。何故だろう、この先輩になら話しづらいことも言ってしまっていいような、そして何かしらの温かい言葉を――あるいはアドバイスを与えてくれそうな、そんな雰囲気がある。
もちろん彼女がスキだらけということでは断じてなく、むしろ万人を包み込めるだけの包容力を持っているからだと思うのだ。それが朝比奈先輩の最大の魅力だろう。
隣の芝は青いとはいえ、朝比奈先輩のようになれたらどんなにいいだろう。持つ者と持たざる者の差はあまりに大きい。しかもその差を一切鼻にかけようともしないから、よりいっそう差が広がるような気さえする。
「お風呂、入れてきます」
「あ、それなら、これ使いませんか?」
何だろう。そう思って目を丸くするわたしに、朝比奈先輩は四次元ポケットから黄緑色の小袋を取り出した。入浴剤か。
「ハイセンスっていう入浴剤です。身体の疲れが取れて気持ちいいんですよ」
朝比奈先輩がそう言うので、わたしはその小袋を受け取って、風呂を磨きに行った。
自動湯沸かし器のスイッチを入れて風呂場から戻ると、朝比奈先輩は「みかん食べますかっ?」とまぶしいまでの微笑みと一緒に、美味しそうなみかんをくれた。静岡の親戚が近郊農業をしていて、実家経由で段ボール箱に詰めて送られてくるのだという。一人で消化しきれるのだろうか。
朝比奈先輩の家系は(本家筋からは外れているが)、かつての遠江掛川城主であった朝比奈氏の子孫であるらしい(わたしのつたない記憶だと、確か掛川城主は江戸幕府初代将軍・徳川家康や、豊臣秀吉の家臣で後の土佐藩主・山内一豊にも代わっているはずだ)。
仮にその話が本当だとして、仮にも一国一城の主であった朝比奈氏の子孫が、農家になるということがあり得るのかどうか、甚だ疑問ではあった。
まあ、武将や貴族の子孫だからといって一般人と見分けがつくはずもないから、あながちあり得ないことでもないのかもしれない。
ただ、朝比奈先輩の落ち着いた部分や持って生まれた優しい性格などは、到底武士的なものには思えないのだが。むしろ平安貴族的な調和の精神に近いような気もする。
自動湯沸かし器がお湯を張り終えたことを知らせるブザーが鳴った。別にどんな音でも構わないのだが、どうにもこのブザーの音は好きではない。
「お先に、どうぞ」
お客様である朝比奈先輩には、一番風呂に入ってもらおう。そう思ったわたしは、先輩に先を譲った。
「じゃあ、先にお湯もらいますね」
朝比奈先輩は今の自分の立場――客人であり、わたしがホスト役である現状を分かっているのか、今回は遠慮するということをしなかった。わたしの申し出をそのまま受け入れてくれるというのも、譲った側としては嬉しいものだ。あまり日本に根付いた感情ではないけれど、先輩は譲られるポイントと断るポイントも大体わきまえているのかもしれない。
朝比奈先輩が風呂に入っている間に、わたしは食器を洗って片付けた。昨日サボった分、今日は2回目だ。相変わらず真冬にもかかわらず素手だからきっと手が荒れるだろうし、朝倉さんに見つかったらまた説教されそうだ。
手持ち無沙汰になったので、わたしはあぐらをかいて瞑想をすることにした(集中力の向上を狙ったトレーニングと言った方が的を射ているのだが)。制服はスカートだけれど、1人しかいない手前気にすることもあるまい。
古代ローマ人のラテン語の格言に、ヴェリタス・シンプレックス・オラティオ・エスト――『真実を告げる言葉はシンプルである』というのがあるが、わたしはむしろ、真理や感情といった人間に説明しきれないものは、ひょっとしたら完全に言葉にすることはできないのではないかと思っている。
理想を言うのなら、禅宗の只管打座の考え方に沿ってひたすら坐禅に取り組んだ方が集中力は何倍も向上するだろう。何せ、実家は臨済宗の檀家だったのだ。
しかし、こんな煩雑な現代社会で、俗世との交わりを完全に経ってまで坐禅に取り組める人間なんて、リタイアした世代か廃人くらいしか思い付かない。若い人間にそんな暇なんてあるわけがない。
だが、朝晩の南無阿弥陀仏を唱える時間なら忙しくても取れるかもしれない。そういう人のために浄土宗の教えが広まっているのだ。短時間で同じ効能を得られるならそれに越したことはないだろうに、と思う。わたし個人としても、そう思う。
嗚呼、受け入れやすし浄土宗。民衆の何と不精であることか。
心地よいBGMと化した雨音に紛れて、朝比奈先輩が風呂から上がってくる音が聞こえた。あり得ないこととはいえ、一緒に風呂に入ったりすることにならなくて本当に良かったと思う。貧相な身体まで見られると、ますますわたしは落ち込むことになるだろうから。
「お先です」
「あ……」
「いいお湯でした」
わたしは小さく頷いた。誰かが風呂から上がってくるのを待つなんて経験が殆どなかったせいで、一体何を言えばいいのかさっぱり分からなかったからだ。
とりあえず寝室から――そのそうそうたる散らかり具合を朝比奈先輩に見せてなるものか――昨日も着ていた水色の寝間着と、新しい下着を取って風呂に入った。そこそこに自然な動作だったと思う。
洗面所では少しだけ雨音が聞こえた。
※ ※ ※
風呂から上がってきたわたしが真っ先に目にしたのは、例の四次元紙袋から取り出されたと思しき、2つのショートケーキだった。
「甲陽園の駅前に新しいケーキ屋さんができたのはご存知ですか?」
「いえ、あんまり駅に出ることがないので……」
「なら、ぜひ食べてみてください。あたしのお友達のおすすめです」
「……いただきます」
ケーキを食べたこと自体は2ヶ月半ぶりくらいだった。昨年末、朝倉さんに文字通り引きずられてクリスマスパーティーに強制参加することになったからだ。
その時は場の空気――というかアルコールの入った宴会に合わせるのが精一杯でケーキの味なんて覚えてはいなかったのだが、今こうして美味しいケーキをじっくり味わうと、甘さがきつすぎずちょうど良く調整されているのが分かった。
「どうですか?」
「おいしい、です」
思わずわたしの頬が少しゆるんだ、ような気がした。
朝比奈先輩は見えないはずのわたしの表情の変化を読み取ったようで、
「よかったぁ……人に食べ物をお勧めするのってすごく緊張しませんか?」
「ちょっと、分からないですけど」
ものすごく安堵したような表情を浮かべてわたしに同意を求めてきた。
もちろんわたしは、ロクな答えなど返せはしないのだが。
「ねぇ、長門さん」
「……はい」
「あのキョン君とは正式にお付き合いしてるんじゃないんですか?」
朝比奈先輩は唐突にとんでもない事を聞いてきた。
「そんな、わたしは、ただ同じ部活にいられるだけで……」
「本当ですか?」
朝比奈先輩の表情は少しさっきよりも堅くなっている。
「本当は、キョン君と付き合いたいって、思ってませんか?」
「……」
どうなのだろう。あまりにも現実味がなさすぎて、今まで考えたこともなかった。
いや、違う。
考えたことがないわけではなかったのだ。
ただ、それを自分のこととして考えたことがなかったのだ。どこか他人事のような、そういう感覚で考えていたのではなかろうか。
その証拠に、彼が入部してくるまで書き続けていた恋愛小説。
あの男性のモデルになったのは誰?ヒロインの内気な少女のモデルになったのは誰?
問うまでもあるまい。わたしは表面上でそれを否定しながらも、心の奥底では彼と結ばれることを望んでいたのだ。
「長門さん、よく考えてみてください。嫌いな子と2人だけで部活をしたいと思う人がこの世の中にいると思いますか?もしキョン君が長門さんのことを本当に嫌いだったら、一緒に文芸部の活動を続けられているのは何故だと思いますか?」
「でも、あの人はいい人だから……」
「そうです。でもそれは嫌なことを嫌と言えない人っていう意味じゃありません。本当に嫌なら誰だって嫌だって言うんです。だから長門さん。もし本当は長門さんがキョン君ともっと親しくなりたい、結ばれたいと思っているのなら、今は間違いなくチャンスです」
わたしは、考え込むふりをした。でもその答えはもう決まっていた。
週明けに、来週松のスケジュールが空いていないかどうか、彼に聞いてみよう。
そしてわたしは彼に問おう。『わたしと一緒に文芸部をやって楽しい?』
わたしが彼を好きになったように、彼がわたしのことを好きでいてくれているのかどうか、それを問うくらいの権利はわたしにもあるだろう。
「朝比奈先輩」
「なんですか?」
「わたし、彼にちゃんと聞こうと思います」
「聞く?」
「わたしのこと、好きでいてくれるのかどうか」
「そうですか……頑張ってくださいね」
「……はい!」
わたしはまたショートケーキをひとくち食べた。
甘さが控えめで良かったと思う。甘すぎるケーキは、わたしなら三口でいもたれを起こしていただろうから。
※ ※ ※
「じゃあ、あたしは先にお休みしますね」
「あ、布団、敷きます」
何せ寝室が汚いのだ。少しは整理しておかなければならない。
……とりあえず和室で寝てもらうことにしよう。あの寝室は見せられない。
わたしは朝比奈先輩からは逃げ切れたが、和室の布団敷きに追われた。
「大丈夫ですか?」
「はい、なんとか、寝ていただける程度には」
「そのままでもよかったんですが……」
「それは、わたしが良くないと思います……」
いくら遠慮してくれていると言ってもお客様である。しかも馴れ親しんだ人ならまだしも、初めて家に来てくれているのだから余計にだ。
「じゃあ、長門さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
独りになる。
窓の外を見る。
月だ。上弦の月だ。
冬の雨はやんでいた。
わたしと朝比奈先輩を結びつけた如月の通り雨は、誰に宣言するでもなく、その仕事を終えてしまったようだった。
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執筆日 2009年3月15日
備考 忙しくてブランクが長かったので久々の小説、
途中で誤って消してしまったので文章の整合性がとれてないところがあるかもしれない。
内容的には『雨作家』の本領発揮と言った感じ。
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冬の雨は、どこまでも冷たい。わたしたちの冷え切った身体と心を、如月の通り雨はさらに冷やしてゆく。
&bold()&b(){February Shower}
総じて雪は冬に降るものであるが、冬は雪が降るものだというのは必ずしも正しいわけではない。そのことをわたしたちはつい忘れがちになってしまうのだが、それは今のわたしが受け入れなければならない、紛れもない現実でもあった。つまりは……
「なんで、こんな日に限って傘がないんだろ……」
そう、傘がないのである。
今日は週に2回の文芸部活動の日だった。朝倉さんは来たるべき三連休に合わせて久々に帰省している。“彼”は今日、ペットの猫を獣医に診せに行くからと言ってわたしに頭を下げて帰ってしまった。久しぶりの、以前と同じような孤独な文芸部活動だった。
かつてはそれが普通だったというのに、実のところ今日は寂しくてたまらなかった。ずっと独りだったわたしが人恋しいだなんて可笑しな話だけれど、実際にそうだったのだ。
どうしようか。誰かが迎えに来てくれるわけでもないけれど、わたしは学校を出ることも出来ずにじっと立ちすくんでいた。
とりあえず、状況を整理しよう。
問.わたしは誰だ?
答.他でもない、長門有希である。1年6組、文芸部長の長門有希である。
問.今はいつで、ここはどこだ?
答.2月半ばの金曜日、兵庫県立西宮北高等学校の校門前だ。
問.わたしは今どうしたい?
答.自宅マンションの708号室に帰りたい。出来れば雨に濡れることなく。
問.現状は今どうなっている?
答.傘を自宅に忘れてきてしまって、家に帰ることができない状況。
問.過去の経験から鑑みるに、わたしはこの問題をどうやって解決すべき?
答.同様の問題に遭遇した経験がないわけではないので、恐らくその時は走って自宅まで帰ったものと思われる。
問.ならば何故それを実行しない?
答.当時は夏の夕立だったが、今は真冬の雨だから身体が冷えてしまう可能性がより高い。体調を崩すことが容易に予想されるから。
問.通り雨が上がるのを待つという選択肢は?
答.西の空一面に雲が広がっていたからありえない。
問.ならばどうすべき?
答.どうすべきだろう。誰か教えてください。
禅問答のような堂々巡りが必須だと分かった時点で、わたしの思考回路は考えることを放棄した。特にやることも――否、できることもないわたしは、その場にじっと立ちすくんだままでいるほかなかった。
そういえば、前に少しだけ見かけた、喜緑先輩とかいう2年生の生徒はどうしたんだろう?確か朝倉さんの親戚だとか言っていたけれど(実はわたしと朝倉さんも遠戚にあたるらしいのだが、当然ながら2人とも面識がない)、こんな時に来てくれやしないかな……?
やめよう。来るかどうかどころか、わたしのことを覚えているかどうかすら甚だ疑わしいのだ。そんな人に助けてもらえることを前提条件にして物事を考えるなんて、我ながら最悪のパターンだ。文芸部室の備品といい勝負の、わたしのポンコツコンピュータはまた考えることを放棄した。
※ ※ ※
「……長門さん?」
どれくらいの時間が経っただろう?誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえたような気がした。或いは、それは物理的な声ではなかったのかもしれない。
ああ、これは幻聴なんだ。誰かに助けてもらいたいと強く願いすぎたせいで、有りもしない聖母マリアの声が、ゴルゴタの丘まで歩くこともできない出来損ないのイエスに、実体のない空虚な慈悲の言葉を投げかけているのだろう。
「……長門さん?」
わたしは恐る恐る後ろを振り返る。妖怪口裂け女が「わたし、きれい?」なんて言ってわたしに問いかけて来るかもしれない。その時は思いっ切り叫んでやろう。
「ポマード!」
「ふぇえっ!!何ですかぁ!?」
わたしが振り返った先にいたのは、マリアでも口裂け女でも、メデューサのような怪物でもない。
どこかで会ったような、それでいてこれ以上ないくらい可愛らしい、栗色のロングヘアーを持つ女子生徒だった。
誰だったっけ……思い出せない。気まずい空気だけがわたしたちを支配してゆく。
喜緑先輩ではないことだけは確かだ。あの特徴的な容姿は忘れようもない。
「えっと……朝比奈、です……」
「朝比奈、先輩?」
思い出した。去年の12月18日に“彼”が突然文芸部室に駆け込んできたその次の日に、少しだけ顔を合わせた人だ。
「ええ、覚えていて頂けましたか?」
「はい……」
「雨、降ってますね」
「はい……」
「傘、ないんですよね」
「はい……」
「じゃあ、一緒に帰りませんか?」
「わたしと、ですか?」
「そうです。今まで、あまり長門さんとお話したこともなかったですし……」
そう言いながら、朝比奈先輩はパステルピンクの傘を広げた。意外と大きい。何故パステルカラーで大きなサイズの傘なんて持っているんだろう。
「ほら、入ってください」
「すみません……」
私は、朝比奈先輩がただ可愛いだけの人ではないことを、初めて知った。彼女はきっと万人に対して優しいのだろう。人嫌いの激しいわたしには到底真似できない。
ありがとうございます。わたしはか細い声で呟いた。朝比奈先輩には聞こえなかったかもしれない。優しい人だから、ひょっとしたらお礼なんて全然聞こえないのかもしれない。
「長門さんは期末テストに自信はありますか?」
「あんまり、自信がないんです……他のみんながどんな風に勉強してるのかも分からないし……」
「きっと長門さんなら大丈夫です。真面目にやっていけば、それに見合った点が取れると思いますし、こんなあたしだって真面目にやればそこそこの点が取れてるんですよ?」
「朝比奈先輩は、頑張ってるから……」
「でも、それは誰にだって平等にチャンスが与えられてるっていうことなんです。あたしだけが特別頭がいいわけじゃありません」
「そう、いうものなんでしょうか……」
「大丈夫。自分を信じていさえすれば、自ずと結果はついてきます」
「……分かりました。やれるだけやってみます」
「そう、その意気ですっ!」
最近はいろんな人がわたしを元気付けてくれる。それは彼であったり朝倉さんであったり、或いは全然違う生徒であったりするのだが、いずれにせよ共通して言えるのは、皆一様に親切な人だということだ。そう、皆優しいのだ。
ついつい、わたしはこれが当たり前だと錯覚してしまいそうになるが、実はこんなに人に恵まれているのはものすごく有り難いことなのである。ならばわたしには何ができるだろう?わたしの中でその答えは未だに明確な形として出ていない。
朝比奈先輩の傘はとても大きかった。ひょっとしたら最初から誰かと一緒に入るのが前提なのかもしれない。例えば……彼氏とか。
つまり、朝比奈先輩にはその人間的な大きさに見合うだけの、相応しい恋人が居て然るべきなのだ。
これだけ可愛らしくて(上級生に可愛い可愛いと連呼するのも失礼極まりないのだが、如何せん事実なのだから仕方がない)しかも人当たりの良さも芯の強さも併せ持っているのだ。それはこの数分間だけですでに証明済みである。
実際のところはどうなのか、つまり、朝比奈先輩に彼氏はいるのかいないのか。それを本人に直接聞けるだけの度胸なんて持ち合わせていなかったから、この疑問は当面は解決しないことに決めた。
※ ※ ※
「朝比奈先輩は、」
「はい?」
「なんで、今日は学校に残ってたんですか?」
「今日は書道部だったんです。活動が終わって後片付けして出て来たら、長門さんが1人で棒立ちになってるのが見えたから……」
「わたしのこと、覚えててくれたんですか?」
「もちろんですよ!実は、去年初めてお会いした時から、長門さん可愛いなーってずっと思ってたんですっ」
「そんな、わたしなんか……」
「最近はあのキョン君っていう男の子と一緒に文芸部室にいますよね?何度か見かけたことがあるんです」
「え?」
「あの男の子の顔を見てれば分かります。間違いなく長門さんに惚れ込んでいるんだって」
「そんな、自意識過剰な……」
「人ひとり惚れ込ませられる人って、滅多にいるものじゃないんですよ?だから長門さんは自分で気付いたことがないだけで、本当はすごく可愛くて優しいんです。あたしが保証します」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
朝比奈先輩はふわりと、柔らかい笑みをこぼしてくれた。その如才無き笑顔は、彼や朝倉さんのそれにどことなく似通っているように思われた。
そうか。朝比奈先輩の傘が大きいのは、先輩自身が他人を包み込んであげられるような、大きくて優しい心を持っているからなのかもしれない。
わたしが傘を持っていないのもきっと同じことなのだ。わたしには傘を差して他人を招き入れるどころか、自分自身を雨風から守るだけの心も持っていないのだから。本当はそんなわたしにはずぶ濡れがお似合いなのだ。
そう、思った。もちろん口には出さなかったけれど。
朝比奈先輩は意外と――と言っては失礼だからこれも言わなかった――話し上手だった。わたしが頷くか首を振るかの二択で答えられるように上手く質問してくれていることが明確に分かるくらい、わたしを気遣ってくれていた。
しかし、四つ角まで来たところで、わたしと朝比奈先輩の行きたい道が違うことに気がついて、わたしは歩みを止めて言った。
「じゃあ、私はここで……」
「あ、お家の前まで送りますよ?せっかくここまで来たのに、ここから傘がなかったら意味ないじゃないですか」
「はい、すみません……」
「長門さん」
「……はい?」
「今日、お泊りしてもいいですか?」
「え?」
「長門さんのお家に、お泊りしてもいいですか?」
「わたしですか?」
「はい、明日は土曜日で学校ないですし。それに、長門さんのお家がどんなところなのかも知りたいんです。……本当はこっちの方が本音なんですよね」
「はぁ……。」
「実は、あたしも1人暮らししてるんですよ。だから長門さんはどんな生活をしてるのか、ちょっと興味あります」
「わかりました。部屋、片付けときます」
「ごめんなさいね、急にこんなこと言い出しちゃって……」
「いえ、なんにもない家ですし……あ、朝比奈先輩」
「はい?」
「わたしの部屋、708号室ですから……」
「あっ、……ありがとうございます。それじゃあ、また。独り身ふたりで、楽しい夜を過ごしましょうね」
わたしのマンションの軒下まで来たところで、朝比奈先輩は小さく手を振って去っていった。わたしは、足を滑らせないように小走りで帰ってゆく彼女の後ろ姿を、直立不動のままでじっと見つめていた。ローファーだけれど、その駆け足はなかなかに速い。
ぴょこぴょこと弾む背中と栗色のロングヘアーが見えなくなったのを確認してから、わたしはオートロックのボタンを押して強化ガラスの張られた重たいドアを開けた。
※ ※ ※
エアコンのスイッチを入れてから、無駄に広い自室を見渡す。ゆうべ着ていた水色の寝間着がほったらかしになっていた(まだ1日目だから今夜も着よう)。しかも今朝ベランダから取り入れた洗濯物がカゴに入ったまま放置してあった。去年はベランダから直接部屋にぶちまけていたから、カゴがあるだけまだマシか。
朝比奈先輩が来るまでの残り時間はどれくらいあるだろう。現在の最優先課題、もとい部屋の掃除と食器洗いが、どれくらいの時間で終わらせられるだろうか。
しばらく食器洗いをサボっていたせいで、食器がシンクに小山を形成している。もちろん食器洗い機なんて文明の利器はうちにはない。携帯電話さえ持っていないのだから当然と言えば当然だ。わたしは機械の扱いが絶望的に下手なのだ。今の文芸部に入ってから一応タイピングはできるようになったけれど、やっぱりわたしに機械を扱うのは無理だ。
いっそのこと携帯電話も買ってしまった方がいいのだろうか。幸いにして生活費に困ったことはないから、金銭的余裕はそれなりにある。本以外の何かに使いたいと思うほど欲があるわけでもないし、それなりにちゃんと生活していけてるからこれでいいや、と思ってきたのだ。
わたしは素手で食器を洗うことにしていた。手袋越しだと上手く洗えないような気がするからだ。確かに冬場は冷たいし、手が荒れるなんてみんな口にするけれど、本来ならそれが当然ではないかと思う。
手を滑らせないように、お皿を一枚一枚ていねいに掴む。右手より不器用な左手だから、常に細心の注意を払わなくてはいけない。そして全部洗い終わったら泡を落とす。経験的にはすすぎの方が手を滑らせる可能性は高かった。
食器洗いが好きな人なんてこの世にそうそう転がってないだろう。だからこそ食器洗い機の開発が進むのだ。犬を散歩させる機械がいまだに実用化されていないのも、逆の意味で同じようなことなのかもしれない。世間に散歩が好きな人なんて山ほどいる。大半はお年寄りかもしれないが。
洗濯物はとりあえず寝室にどかした。部屋に掃除機をかけて、適当に物をまとめだけで随時ときれいになったように思う。それを見ると、わたしは普段から全然生活感のない部屋に暮らしているのだと分かって少し虚しい気分になるから、わたしは掃除も今ひとつ好きになれない。もっとも、そんなことを言っている人間が将来的にゴミ屋敷を作っていることは紛れもない事実なので、たまには掃除することを忘れてはいけないとも思っている。
呼び鈴が鳴る。
部屋は完璧とは言えないまでも、そこそこきれいにはなっていた。わたしは急いで玄関まで飛んでいき、そっとドアを開けた。
「なーがとさん」
「……朝倉、さん?」
「おかずの配給にやって参りましたぁ!」
「え……?」
大声に驚いて平常心を失うわたしの両手にひとつずつ、朝倉さんは強引にタッパーを握らせる。
「例のおかずはこのタッパーに入ってるからね。こっちは肉じゃがで、こっちはサバの味噌煮。2食分あるから、今夜と明日の朝にでも食べて。それじゃっ!」
「あ、ありがとう……」
お礼を聞いたか聞いていないかの判断がつかないほど早く、朝倉さんはダッシュで帰っていった。曲がり角で内側の壁に手をかけて無理矢理に左に曲がった。何なんだあの人は。本当に一体何なんだ。
※ ※ ※
「長門さーん……」
わたしはぼんやりと立ち尽くしていたので気付かなかったのだが、朝比奈先輩はわたしのすぐ目の前まで来てくれていた。さっきと違って髪はアップで結ってあった。
「もしもーし……」
文字通りわたしの目と鼻の先で、右の手のひらをひらりひらりと振っている。雨は降り続いていたから、左手にはさっきと同じ傘。雨はまだ降り続いている。
「あ、朝比奈先輩……」
「大丈夫ですか?」
「はい、ちょっとボーっとしてたみたいです」
「お疲れ気味なんでしょうか?」
「大したことはない、と思います……たぶん」
「しんどかったりしたら、遠慮なく言って下さいね」
本当に、ありがとうございます。わざわざ晩ご飯まで持ってきてもらったのに、あろうことか玄関先で惚けてるなんて末代までの恥だ。相手が“彼”でなくてまだ良かった。彼に醜態を晒すわけにはいかない。
「今日は天ぷらを揚げてみたんです」
朝比奈先輩はそう言って、伊勢丹の大きな紙袋から濃い目のピンク色のタッパーを取り出して机に置いた。ピンク色と言えば、今は脱いでしまった白いコートの下に着ているのも薄桃色のワンピースだ(いささかピンク色が多すぎる気もするが、色が薄いのとモデルがいいので嫌味っぽくはない)。わたしはお皿と箸を取るために一旦キッチンへ引っ込んだ。
「あとは、ほうれん草のおひたしもどうでしょうか?」
「すごい……美味しそう」
「これくらいなら慣れればすぐに作れますよ?長門さんは料理されないんですか?」
「わたしは、全然ダメです」
キッチンとリビングに少し距離はあるが、静かな室内ならたぶん、まだわたしの声は届くと思う。ほとんど店屋物と朝倉さんにすがっています、とまで言ってしまって良いものか。
「でも一応、ご飯だけは炊いてありますから」
しかも無洗米です。朝倉さん経由で生協から買っている奴だ。あれは米を研ぐ手間が省けて助かる。水を吸わせて朝のうちに炊飯器のタイマーをかけておけば夜には美味しいご飯が出来上がり、それをその夜と次の朝、そして昼食で消化する。
いつも弁当はご飯だけが自前で、おかずは前述したように店屋物か朝倉さん手製である。あるいは冷凍食品か。
現に今日の晩ご飯だって、朝倉さんはわたしが独りで食べると見込んでおかずを持ってきた。今日に限ってはその予想も外れてしまったが、普段はどれだけ助かっていることか。朝倉さんがいなければ、そのうちにわたしも飢死確実である。
こちらも美味しそうだったので、せっかくだから朝比奈先輩のと一緒に頂くことにしよう。
「お好きなのを取って下さいね」
お皿や茶碗を揃え、ご飯をよそってキッチンから戻ってきたら、朝比奈先輩はそう言った。わたしは再びキッチンへ戻り、塩を取ってきた。
タッパーの中身はエビとサツマイモを筆頭に、ササミやかき揚げ、シソ、といった具合だ。量も十二分といえる。これだけの天ぷらを揚げるのに、一体どれくらいの時間がかかったのだろう。
「昨日のうちに仕込みは全部やってありましたから、今日は揚げるだけです。さっき揚げたばっかりですから、早めに食べちゃいましょうか」
「あ、いただきます……」
わたしはその場に正座して手を合わせた。
「どうぞ、召し上がってくださいね」
朝比奈先輩は、さっきよりも数段、優しさに満ち溢れた笑顔を見せてくれた。
わたしは手始めに、サツマイモとシソをもらった。
「天つゆもありますよ?ペットボトルで申し訳ないんですけど」
用意周到な朝比奈先輩は、またしてもわたしより一枚上手だった。ひょっとしたら朝比奈先輩の紙袋の実態は某猫型ロボットの四次元ポケットかもしれない。出てきたのは、350mlの小ぶりなペットボトルだ。
「あ、一応、塩もあります……」
不意打ちを喰らったわたしは、本当にささやかに対抗する。一方的に気を使ってもらってばかりだったことに何となく悔しさを感じたからだ。憎むべきは自分自身だというのに。
「ありがとうございます。じゃあ、あたしは……お塩、もらいますね」
何だろう。朝比奈先輩が、わざわざわたしのくだらないレジスタンスに付き合ってくれたような気がした。唐突に、そんな考えが頭に浮かんだ。どうにも朝比奈先輩といるとペースが狂うらしい。優しい人だけに、いつもわたしの想定よりも高いところにいるような。
天ぷらはまだ温かい。早めに食器洗いと片付けを済ませておいて本当に良かった。たまにはわたしもいいことをするものだ。
ほうれん草もおいしい。味が濃すぎないのがいい。変な個性を主張しているわけじゃないけれど、副菜――引き立て役の役目を忠実に果たす名脇役だ。
「あ、」
「どうかしましたか?」
「他にもおかずあるんですけど……食べますか?」
さっき朝倉さんがくれた肉じゃがとサバ。後者は2切れしか無かったので明日の朝ご飯と弁当に回すとして(脂っこいということもあるが)、前者はさっき見たところ、2食どころか4~5食はくだらないぐらいの量がタッパーに詰まっていた。どれだけ食べると思っていたんだろう。
「いただきます」
朝比奈先輩がそう答えるや否や、わたしはまたキッチンに引っ込んだ。
※ ※ ※
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
朝比奈先輩との食事は思いのほか会話が弾んだ。もちろんアルコールなんてなかったけれど、わたしもいつもより少しだけ饒舌になれたかもしれない。
それは多分、先輩が人から話を引き出すのが上手いからだと思う。何故だろう、この先輩に