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地図にも載っていないとある山の奥深く、ラルヴァの住む集落がありました。
そこに住むラルヴァたちは外見もほとんど人間と変わりが無く、しかし人間と接触を絶ち独自に生きておりました。
その理由は彼らの生態にあったのです。かつて人と交流があった時に起きた、悲劇を繰り返さぬために彼らは結界を敷き、隔離された異界でひっそりと生きてきたのです。
だけど、いつの時代も、どんな場所でも、幸運にも、あるいは不運にも……そういった所に迷い込む人間がいるものなのです。
これは、そんな少年と少女の物語。
双葉学園怪異目録
第十ノ巻 忌無名《イムナ》
どうしてこうなったのか、と少年は痛む足を押さえて考える。
双葉学園の課外授業で遠くの街に出て、そして霧に包まれてみんなからはぐれてしまった。この山奥では携帯電話も役に立たず、そして足を滑らせて崖に落ちるといういたせりつくせり。今のところ命に別条は無いものの、この痛みはどう見ても足が見事に折れていた。
救助を待つしかないのだろうが、霧はどんどん濃くなるばかりで、さらに困ったことに日まで暮れてきた。
灰色の闇……なんとも不気味な視界の中、ほう、ほう、と鳥の鳴き声が聞こえてくる。それが岩肌に反響して不気味なこだまとなり、いっそう不気味さを際立たせていた。
少年は双葉学園の生徒ではあるものの普通の人間であり、自力でここから助かるすべはない。故に、絶望と諦観が少年の心を支配する、その時……
「誰か……いるのですか?」
闇の中から、少女の声が聞こえてきた。ああ、助かった。少年はそれを疑うことなく、安堵の中で気を失ったのだった。
そして、少年が気づいたとき、そこは時代錯誤なみすぼらしい山小屋の中だった。
「ここは……」
少年は周囲を見回す。まるで昔話に出てくるやまんばの住処のような山小屋だった。だが……
「お気づきになりましたか」
布団に寝かされていた少年の傍らで、少年を見守っていた少女は、どう見てもやまんばなどという化け物ではなかった。なんというか、ひと目で心奪われるほどに美しく清楚な少女であった。
長く揃えられた髪は夜の闇のように真っ黒で、肌は雪のように白い。深い藍染の着物も良く似合っている。
「足、怪我されていましたので、応急処置ではありますが手当てさせていただきました、その、すみません」
少年が足を見ると、確かに添え木をされている。ひんやりと、薬草を塗られ包帯でしっかりと巻かれている。素人目に見ても、適切な処置だと少年は思った。現に、痛みは少なく、動かしさえしなければ痛まないも同然だった。
「あ、ありがとう……」
お礼を言う少年に、少女は笑顔で返す。
「よかった、喋れるようなら大丈夫ですね」
「……」
その笑顔に少年は黙る。なんとも顔が赤く、熱くなっていくのを少年は感じていた。
「雑炊ですが、お食べになりますか?」
そうやって少女が差し出したのは、野菜や雑穀の煮込まれた雑炊だった。いい香りが鼻腔をくすぐる。そしてそれに反応して、少年の胃袋が豚のような悲鳴をあげた。
「……」
「……」
沈黙の後、二人とも笑う。
「じゃあ、いただきます」
「はい、めしあがれ」
芋の甘みや醤油のだしがきいていて、雑炊はとてもおいしく、腹に染みた。
「あの……なんでそんなにしてくれるの?」
三杯も雑炊を平らげた後、少年は少女に聞く。
「なぜ……って、そうですね」
「初めてなんです、外の方を見たの。それで珍しくて」
「へえ……」
「人間は此処にこないんです。きても接触してはいけないって掟で決まってたんですけど、怪我人はさすがに放ってなんておけなくて……」
「……優しいんだ。 ……って、人間? もしかして、君……ラルヴァ、なの」
「……はい。恐ろしいですか?」
少女の言葉に、
「ううん。だって君、俺を助けてくれたじゃないか。怖いわけないよ、それにかわいいし……あ」
「!」
その言葉に、二人とも真っ赤になる。
「そうだ、名前……聞いてなかった」
少年は自分の名前を名乗り、そして彼女の名を聞く。だが彼女はかぶりを振るだけだった。
「私たちには名前って無いんです」
「名前が……ない?」
「はい。私たち忌無名《イムナ》の民には、人間や他のラルヴァの人たちのように名前が無いんです。理由が昔はあったようなんですけど……」
「そうなんだ……」
少年はそれ以上は聞かなかった。正直、どうでもよかった。
ただ、少女が掟を破ってまで自分を助けてくれたことが嬉しくて、そして……一緒にいたいと思っていた。
それから、少年は何度か学園に連絡を取ろうとしたが無駄だった。携帯は繋がらないし、少女の家を出て他の村人に見られるわけにもいかない。まあ足を骨折しているわけだから出ることも出来ないし、何より……
彼女ともっと一緒にいたい、そばにいたい。その想いが強かった。
だが、それでも傷は癒える。
少女の薬と看護が利いたのか、一ヶ月もすればその足は動くようになっていた。
「本当に、行かれるんですか?」
少女が上目遣いで聞いてくる。それを少年は嬉しく思いながらも、それでも……もう先延ばしには出来なかった。
「うん。双葉学園に、俺が無事だってちゃんと伝えないと……最悪、ここに双葉学園の連中がきてみつかったら大変だから」
「それはそうですけど……」
「約束するよ。俺、またここに来るから。いや、迎えに来る」
「……」
「約束する。君が好きだ、愛している。だから……必ず迎えに来るから」
「嬉しい……」
少女は目を閉じる。そして少年は、唇をあわせる。
「本当にお世話になった。お礼……したいけど、俺何も無いし」
「気にしないでください。あなたといたこの一ヶ月、とても楽しくて……幸せでした」
「……それはこれからも続くよ。かならず迎えにいくから、それからずっとつづく」
「……はい」
少年は気恥ずかしくなって頭をかく。そして思い出したようにいった。
「そうだ、名前なかったんだよね」
「はい。私たちに名前はありませんから」
「俺が、名前をつけてあげるよ。そうだな……」
しばし思案した後、少年は言った。
「よみ、ってどうかな?」
その頃。
少女の家へと走る大人が二人いた。
彼らも同じイムナの民であり、そして大人であるから故に、少女が知らぬ事実、真実を知っていた。
何故、イムナの民に名前が無いのか、その真実を。そして今、彼女の家に外から来た「人間」がいるという事実も知ってしまった。知ったが故に、それを止めねばならなかった。
忌無名が名前を持ってしまう、という事を。
大人たちは、少女の家の戸を乱暴に開ける。
「人間がいると聞いたぞ、娘!」
「人と交わってはならぬ掟だ、いますぐ人間を外に帰し……」
口火を開くが、その言葉はとまってしまう。異様なまでの違和感が二人を襲った。
寒い。
冷えているのではない、温度が、いや生気が奪われているような寒さ。冬の静かな静謐な寒さではない。もっと無機質な……
命無き温度がここにあった。
「……しまった、まさかお前」
「すでに……名づけられた……のか?」
そう二人は恐る恐る口にする。返事はない、その沈黙こそがなによりも雄弁に語られていた。
そう、名づけられてしまった。
名は体を現すと古くから伝わるように。そして言霊や真名と呼ばれるものが魔術や呪術の世界に伝わるように。
名前とは、本質を表すもの。その存在を表す言葉。
名前を持たぬ忌無名《イムナ》と呼ばれるラルヴァは、人間に名前を付けられることにより、その名前を体現するという性質を持つ。そして名付け親に絶対の服従を強いられるのだ。
故に危険。故に人と交わるべからず。
かつてイムナは人の道具となり、数多の不幸を振りまいた災厄の種族ゆえに、山奥に隠れ生きるべし。
それがかつて人とイムナの間に交わされた、忘れられた盟約。
そう、忘れられた故に――ここにひとつの悲劇が顕現する。
黄泉《シ》。
「長に……あ、あああ」
「逃げ……ひ、アガアアア……ッ」
イムナの大人二人は、そのまま倒れた。肌が青く変色し、そして腐り、干からびていく。
その二人だけではなかった。山小屋は朽ちはじめ、木々は枯れていく。
それは……死、だった。
「な、何が……」
「黄泉、です」
「!?」
「あなたがつけてくれた名前……死を意味する黄泉という名前。だから私はそう在るように、死を撒き散らすのです」
「な、何を……何を言ってるんだよ!?」
いみがわからない。わけがわからない。
「あなたが私をそうしたんです」
もはやそこにいるのは……少女ではなかった。
眼窩が落ち窪み、その闇から赤い光が少年を見据える。
肌は青白く干からび、髪はざわざわと枯れ木のようにうねりざわめく。
ただの……化け物と化した少女が、愛を訴え、少年を掴み、引きずる。
黄泉醜女《ヨモツシコメ》。
日本神話にそう語られる、黄泉平坂の住人と少女は化していた。なぜなら、少年から与えられた名前はまさしく黄泉であるがゆえに。
「愛しています」
「い、いやだ……」
「だから……」
「たす、けて」
「ずっと、一緒に……」
「ひあああああああああああああああああああああああ!!」
少年が絶叫する。
だが、少年の肉も魂も何もかもが死に絡めとられる。愛によって奪われる。
絶叫の余韻が風に消えたその後には……
その山村は、死によって喰われ消失していた。
結界も、他のイムナの人々も、建物も木々も何もかもが、ただ死に絶えていたのだった。
今は結界もなくなっているが、それでもその場所には誰も近づかない。
そこは黄泉に通じていると言われていて、双葉学園大学部の研究チームが行方不明になったとも言われている――
そういって、夕凪健司は話を終えた。
「……」
「……」
『……』
三人とも、黙っていた。
というか、塵塚怪王にいたってはフリーズしていた。
「悲恋ねぇ……これも幸せな結婚に入るのかしら」
「いや入らないよ!」
ベルフェゴールに座敷童子のさやが突っ込みをいれた。
「……ていうか、それ作り話?」
「いんや、小さいおじさんに聞いた話だし実際にいたって聞いたよ。俺はイムナに会った事無いけど」
そう健司は言う。
「人とラルヴァが交わるとき、そこに不幸が起きる……よくある話だよ、本当によくある話」
「でも、黄泉って名前つけなきゃそうはならなかったんだ?」
さやが言う。
「うん。イムナにつけられた名前はその通りの力を体現するからな。名づけられたイムナは名付け親に忠実に従うようになるけど……死という現象は、名付け親の命令程度でどうにかなるものじゃなかった。まさに死は現象だからな」
死を覆すことも操ることも出来ない、それもまた昔から伝えられる教訓の一つだ。
「イムナは付き合い方次第じゃ、それこそ神様にだってなれるようなものだしな。まあ、今は生き残りはいないって話だけど」
「いたら会って見たいぃ?」
ベルフェゴールがからかように言う。
「まっぴらごめんだよ。イムナだって生きてるんだ、俺は彼らの人生を道具みたいに左右したくない」
名を付けられると、その人間に服従する。その付けられた名前の在り方に縛られる。
極端な話、仮に「爆弾」と名づけたら……そのイムナは、名付け親の命令どおりに敵に突っ込んで爆死する生体兵器となってしまうのだ。
それは本当に恐ろしい。そして哀しい。名付け親? だから何だ、人間にそんな権利などない。
だから……境界は守られなければならない、簡単に踏み入ってはならないのだ。安易な出会いは悲劇を生みかねない。
「人間とイムナ、相容れないとは言わないが……それでも、お互い出会わないのが一番の幸せだよ」
双葉学園の住宅街の公園で、今日も子供たちが遊んでいる。
そこに、見慣れぬ少女が歩いていた。藍染の和服を着込んだ、十歳ぐらいの少女。彼女は遊んでいる子供たちをじっと見つめている。
「なんだ、引越ししてきたの? 混ざりたいのか?」
ガキ大将の大宅誠二が、その少女に声をかける。
「お前、見たこと無い奴だな。名前は?」
その誠二の言葉に、少女は答える。
「……名前? ないよ。イムナの民、としか呼ばれてない」
「なんだよ不便だな。じゃあ俺が名前をつけてやるよ! そうだな、お前の名前は……」
了
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