【部長は海が嫌い】

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 盆を過ぎたら海に入るな、と父に言われたことがある。
 もっとも記憶が確かなら、それは家族4人で来た海水浴場での言葉。私はまだ小学生に上がる前だったけれど、いざ海にまで来てそれはない、と母に漏らしたものだ。
 そのとき、どうして入っては駄目なのかという問いに、父は真面目な顔でこう答えた。

 魔境に引きずり込まれるからだ、と。


「菅、手が止まっているぞ」
 隣からかけられた男の声に、私――菅 誠司は現実へと帰還した。
 周りはものを炒める音と熱がこもっている。少し風通しの悪い、プレハブに備えられた簡素なキッチン。
 声の方へ目を向けると、安物のアロハシャツを羽織った、長身痩躯の青年。その眼光の鋭さと、妙に板についたフライパンを返す姿がミスマッチ過ぎる。
 彼の名は蛇蝎兇次郎。醒徒会選挙に立候補したこともあり、学園ではそこそこ名が知られている人だと思う。変人としてかもしれないが。
 そんな彼の今の肩書きは店長で、私はバイト店員である。廃業した地元の経営者を丸め込んで始めた海の家『だかつ』は、まあそれなりに繁盛していた。彼曰く、生活費と活動資金を稼ぐ一環であるらしい。
 それでも滞在費を考えてしまったら赤字なのだけれど。そこはちょっとした事情で、私を含めロハとなっている。
「昼の間はこちらを手伝って貰う約束だ。手を抜くのは許されんぞ」
 どちらかというと料理に対しての言葉に聞こえる。実際のところ、コストを最大限に下げた弊害……平たく言うと材料が非常に安物であるために、嫌でも手抜きは出来なかった。
 海の家なのだから不味くても別にいいのでは、と思わなくもなかったが、実際の海には十年ほど来ていないし、海の家も熾烈な市場競争の時代なのかもしれない。
「センパーイ、カレー2つッスー」
 背後から市原くんの声。私は気を取り直し、ポシェットに皮むきナイフを直すと、白い平皿を二枚取った。

 支部局からの報告で、この海水浴場で怪奇現象が増えているという話を学園が認識したのは先々週のことだ。
 犯人の見通しがつかない窃盗、幽霊騒ぎ、果ては失踪者が一人出るに至り、ついに報告内容に上ってきたという。
 本来ならばどれも警察の領分では、と思う私を余所に、どういう理由か先行調査の話が回ってきたのが先週である。
 盆過ぎの海水浴場に来るのは物好きだとか、皆帰省していて人手不足とかそういうことだと納得しておく。一番の理由は『最低限の旅費だけで使える』というところだろうけど。支部局員も暇ではないらしい。
「おねーさん、僕にもカレーちょうだい」
 二杯分のカレーをよそい終わったところで、日焼け防止を兼ねて羽織ったシャツの袖が引っ張られる。耳に優しい、庇護欲をくすぐる甘い声。
「相島。貴様は客ではないのだから、自分の分は自分でやれ」
 連れとして来ている相島くんに、蛇蝎さんは保護者が躾をするように言い聞かせる。私が、ついでですから構いませんと助け舟を出すと、彼は少し眉を跳ね上げてこう言った。
「いや、駄目だ。
 対価を払いもしない者に対してサービスを行うことは、金を出している客に対する裏切りになる。菅、放っておけ」
 なるほど、一理あるかもしれない。
 相島くんは愛らしいふくれっ面で蛇蝎さんに抗議した後、上目遣いで私を見る。無言。
「……そういう目をしても駄目です。
 今は単なるアルバイト店員ですし、店長の命令は絶対なので」


 ようやく人の多い時間帯が過ぎ、私は休憩を取ることを許された。
 お盆を過ぎるとクラゲが出ると言う。最近では異常発生も全く珍しいことではなくなり、盆の時期を過ぎた海水浴場は、来た頃ほどの賑わいを見せることはなくなっていた。
 ゴムのサンダルで焼けた砂浜を踏み、私は別の海の家の方へと向かっていた。本業の情報収集のためだけれど、多分今まで通り、大した進展は望めないと考えていた。

 ちなみに蛇蝎さん達には、私がお願いしてこの出張に同行して貰っている。
 部員数に合わせて4人分の旅費が支給されたので、いい機会だからと駄目もとでお誘いしてみたら、それならば昼は働け、と斜め上に良い返事を頂いた形だ。
 多分こちらの意図はバレている……というより、分かって貰わないと、誘った意味がない。
 そう。蛇蝎兇次郎とのつながりを持つことが、今回のひとつの目的。
 まあ特別、暗黒醒徒会の一員になろうというわけではないのだけど、敵になるつもりも全く無かった。ただ恐るべき荒唐無稽な目的を語るように見える彼に、親近感がわいただけなのかもしれない。
「センパーイ、泳がないんスかー?」
 市原くんが追いつき、横に並ぶ。最近また背が伸びたのか、少し上を向かないと顔を合わせられなくなった。
「せっかく水着を買ったのに、勿体ないじゃないですか」
「……君のセンスに不満はないけれど、あまり水に入るのは好きじゃないよ」
 そう。今付けているスイムシャツとチューブトップのビキニは、彼が部費で(!)購入したものだ。蛇蝎さんがバイト代を出すと言い出さなかったら、彼は夏のうちに餓死していただろう。
「そもそも市原くん。きみだって泳げないのに、何を期待しているの?」
 その言葉に、う、と彼は言葉に詰まる。少し意地悪な言い方だったかもしれない。
 ……この調子だとライフセーバーの真似事でもしない限り、水着を活用することはなさそうだ。
 なんか無念そうに涙を流している市原くんを尻目に、まあ、それでもいいかな、と思うことにした。水遊びをする柄でもないのだし。

 そして、結局今日の聞き込みも、大した成果を上げることはなかった。


 日が落ちる。
 ここ一週間ほどお世話になっているバンガローに皆で戻り、私はベランダからその様子をぼーっと見ていた。海が近く、さざなみの音が聞こえる。
 ――海には魔境、まやかしを見ると父は言った。今思えば、幽霊が出る、と言う程度の意味だったのだろう。ただ住職という立場上、そう言えなかっただけだ。魂が有り、幽霊がある、と断言するのは、霊能者がやることだ。
 父からすれば、今の私は『有見』に囚われて思考停止している、とでも言われるのだろうか。尋ねたことも、禅の教えを乞うたこともない私には分からない。
 ただ父の言葉はいつも正しいと思う。少なくとも十年前から、私にとって海は嫌な場所のひとつだった。
 そして今でもこうして、私の気分をそこはかとなく沈ませる。

「――センパイ。なに黄昏てるんですか?」
 いつの間にか、辺りは暗くなっていた。私は声の方へと振り返る。
 ベランダの小さなランプに照らされて、市原くんの姿が浮かび上がる。まだ昼間のまま、トランクス型の水着に、スイムシャツの前を開けた格好。
 ……なんだろう。もう見慣れたものだろうに。
「なんでも、ないよ。……お疲れ様」
 自分でもこういうキャラじゃないと思うけれど、何故か目を逸らしてしまうのはどうしてだろう。直視ができない。
 暫くの無言。……これでは、ダメだ。
「だ、蛇蝎さん達はどうしてる?」
 言いながら、これはないなぁ、と自分でもしみじみと思う。
 このタイミングで他の男の話をするのは我ながら――つまり、それは。
 意識をしているということなのだろうか。


  *


 結論に固まった誠司の思考がようやく融け始めたときには、密着してしまいそうになるほど近くに、彼の姿があった。
 離れようとしても後がなく、手すりに後ろ向きで手を掛ける。
 手が、彼女の背を撫ぜた。一度目は優しく。怯えるように震えた腰を引き寄せ、薄く付いた脂肪と、その奥にあるしなやかな筋肉を確かめるように、二度目は強く、掴むように押し付ける。
 誠司は身を僅かに縮める。市原は、その肢体を愛でる様に軽く抱き寄せた。
 その控えめなボリュームの胸元や、むき出しのへそや、内股の切れ上がりを手が慈しむ。
 そして、自然と男の唇が、女の唇を求め始めていた。

 誠司は、言葉が苦手だからこそ、言葉を求めようとした。けれども声は出ず、何も言えず。
 ただ、されるがまま。
 そうして、顔が近づけられていき――


 その動きが終着点に到達……することはなかった。
 ひたり、と市原和美の首に当てられたのは、短めのペティナイフ。
 誠司は思い詰めたように、彼を見つめている。
 我を取り戻したわけではない。
 ただ衝動的に、思いつくものを手に取り、思いつくままにそうしただけでしかない。

「……センパイ、そんな物騒なものはしまいましょう、ね」
 だがそれが、致命的な違和感となって、誠司の目を覚まさせた。

「――君は、偽者だ」


 男一人と心臓の音しか聞こえていなかった彼女に、視界と、波の音が戻ってくる。
 未だほぼ密着状態にあることは変わらなかったが、誠司は最早、毛ほども気にすることはない。
 市原の姿をしたものが後ずさる。誠司はナイフをしまい、手を空にした。
「なにを――」
「言うんですか、とでも言いたい?
 ……言葉真似はそれなりみたいだけど、生き方までは真似られないってこと」
 何を言っているのか分からない、と疑問符を浮かべる男に、誠司は告げる。

「……市原和美という青年はね、命を惜しむ気のない馬鹿なんだ。
 だから、こんな刃物くらいで怖気づいたりしない」

 言葉と共に一歩踏み込み、誠司は襟を掴む。
 偽者もまた掴みかかろうとするが、完全に反応が遅れていた。男の視界が回転し、身体は易々と宙を飛ぶ。
 ベランダから砂浜に投げ落とされた男は、ぐえ、とベタなうめきを上げる。しかし。
「――あ」
 しまった、と彼女が気付いた時には遅い。
 変身も解けた男が死に物狂いで立ち上がり、走り出す。女相手に随分と逃げ腰ではあるが、この場合は非常に良い判断だった。
 そう、彼女一人だけならば。
「む? 何事だ」
 丁度そこに、夕食の食材を買い込んだ蛇蝎と、蛇蝎に引きずられた相島と、荷物持ちをさせられた市原が通りかかる。
「市原くん! そいつを――」
「くそっ、どけ!」
 誠司の声に、市原が逃走を防ごうと身構え――蛇蝎の手が、それを遮る。
「わざわざ組み合って服を汚すこともないだろう。――相島」
「はいはい」
 はいは一つだ、とまでは蛇蝎は言わなかった。相島は蛇蝎の前に進み出て。
 次の瞬間、男と蛇蝎達の間の地面が、半球状に消失する。
「うおっ!?」
 急停止した男はギリギリ転落を踏みとどまり、安堵の息を吐く。
「てめぇ、異能力者……」
「はあい、さよーなら」
 しかし続く男の言葉は、頭上から大量に降ってきた土砂に、有無を言わさず押しつぶされた。


「ご苦労だったな、相島」
「後でアイスちょーだいね。ハーゲンダッツでいいからさ」
 蛇蝎のねぎらいに、現金な返事を返す相島。
 視認できるポイントを中心にした球状空間を、文字通り『切《カッ》り《ト&》貼《ペー》り《スト》』する。その力で転移した砂によって生き埋めになった男は、掘り出され、簀巻きにされて転がっていた。恐らく支部局なりに連絡して、学園に移送されることになるだろう。
「しかし、相手の理想を叶えるとはな。催眠的な働きかけではなく、相手の意識を読むとは大した能力だ」
 先刻の誠司の説明を反芻するように、蛇蝎が呟く。もちろん、誠司は説明の具体的な部分を、殆ど端折っていたが。
 そして蛇蝎は彼女の説明を十分としてそれ以上何も聞かず、相島はその嗅覚で何が起きたかを感じ取ったが空気を読み、市原は誠司を信頼する故に、そもそも気にしなかった。

「ふん。それだけの異能を持ちながら、やることは痴漢と窃盗とはなんという小悪党ぶりだ。いや、それ以下だな。
 せめて誇りを持たねば、貴様は悪党にすらなれん」
 
 傲岸不遜に見えながら、必ず相手を発奮させようとする言葉を忘れない。……相手が聞き入れるかはまた別だろうけれど。
 誠司には蛇蝎が、そんな人間に見えた。


 そうして、一件落着と思った市原がやっと異変に気付いた。相島は先刻から気づいていたが何も言わなかった。蛇蝎の観察眼はここぞと言う時に反応しなかった。
 そして誠司は自分自身が冷静だと思い込んでいたが、そんなことはなかった。

 そしてそのとき、不運にもトラックのハイビームが彼女達を照らし。
 取っ組み合いのせいで布地がどこかにいってしまった、一糸纏わぬ胸元が白日の下に晒されたのだった。


 少女はわなわなと震え、叫び声の一つでも上げたかったが声は出ず。
 いたたまれない気持ちに耐え切れなくなり、誠司は胸を隠しながら走り去っていった。


 市原和美はその一部始終に、ああセンパイも乙女だったんだなぁ……としみじみと感じ。

「なあんだ残念。ニプレス装備だったかぁ」
「相島。貴様は少し自重しろ」
 蛇蝎兇二郎はどう状況を収拾するべきか、まず何から片付けるかについて二秒ほど考え、深いため息をついた。





  終わり


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