「やあラスカル君。今日はまた随分と不機嫌そうだね」 「勝手に侵入しやがった仮面女のお陰で五割増しにな」 「そう邪険にしないでくれたまえ。ほら、お土産に洋菓子の老舗プティ・ローゼのエルメロールを持ってきたんだ。これでお茶にしようじゃないか」 「……お前はいつから菓子もって遊びに来る友達になったんだ」 「フッ。生死をかけて戦いあった私達は強敵と書いて友と読む仲に……」 「そういう友とはケーキ食ったりしないんじゃねえか?」 「偏見はよくない。まあケーキは前置きで今回もちゃんと本題はあるが、やはり最初はお茶にしよう。ウォフ君、お茶の用意をお願いできるかな?」 「はい! すぐ用意します! エルメロール万歳!」 タッタッタ。 「……むかつくほど機敏だったな」 「女の子ならこのエルメロールはまさに垂涎の一品だからね。きっと君だって気に入るさ。美味しく頂きたまえよ」 「仕事と作業で暇じゃねえんだがなぁ……」 「エルメロール、まさかここまで美味しいものだったなんてぇ……もう死んでもいいですぅ……」 「ふふ、喜んでもらえたようで何よりだ。ところでラスカル君、忙しそうだったけれどどうかしたのかい?」 「忙しそうなのわかってるなら……まぁいいけどな。お前が言ってた『断片』とかいう代物手に入れちまったんだよ」 「君、変な物品を引きつける磁石だね」 「うるせえ」 「わ、私も変な物品ですか?」 「当たり前だろ。……で、『断片』絡みの都合でちょっと厄介なのと揉めてるだけだ」 「誰と?」 「お前が前に言ってた永劫機だよ。十二番目だ」 「おや奇遇だね」 「ああ?」 「実を言えば私の本題もその十二番目の永劫機に関係したことさ。そして彼らと敵対しているならこれは君達にとっては良いニュースなのだろうね」 「?」 「彼ら、この国に来てから色んなところを荒らしまわったみたいだね。カジノや航空機、港、加えて異能を使った連続殺人や強盗。そんなことをしていればどうしたって目につくさ。ゆえに当然の帰結として」 「彼ら、色んな組織から命を狙われることになったよ」 ・・・・・・ 壊物機 第七話 『“敵”』 ・・・・・・ 其処はビルの一階に収まる喫茶店だった。正午過ぎの高い日光がガラス越しに店内へと差し込んでいる。 平凡な店構えの店内には昼食をとる客の姿が多く見られたが、ある一席に座る男女だけは異常なほどに異彩を放っていた。 「実際さぁ、このちっさい『断片』を四個もどうやって集めりゃいいんだーってのよ」 「…………」 「そりゃ俺が一個であいつが一個って数えりゃもう半分はゲットしたも同然なわけよ? でもそれってかなり運が良かっただけでさすがに後の二個まで永劫機とセットで転がってるわけねーじゃん?」 「…………」 男性は赤いジャケットと黒い長髪というロックアーティストもどきの風貌が特徴的な青年で、女性はゴシックロリータの衣装を身にまとったさらに際立って特徴的な美少女だった。 言わずもがな、『悪人』我楽糜爛と『十二番目の永劫機』メフィストフェレスの二人である。季節が冬に移りいい加減肌寒くなったのか、糜爛は地肌ではなくジャケットの下にシャツを着込んでいた。 「だからさー、どっかにいるかもしれない凄腕情報屋とか見つけて情報手に入れたいわけよ」 「…………」 「けど俺ってこう見えて裏社会とかあんまり詳しくないんだよねー。でさ、裏社会謹製っぽい悪魔ちゃんなら何か知っているんじゃないの? 情報屋とか諸々のあれこれ」 「…………」 先刻から糜爛がメフィに話しかけているのだがメフィはそれに対して無言に徹している。メフィの見た目が精巧な人間のそれでなければ周囲からは人形に話しかけているように見えただろう。 メフィは、先日の『悪党』ラスカルと『六番目の永劫機』ウォフ・マナフとの戦闘後からずっと糜爛と一言も言葉を交わしていない。何らかの意思表示をもって無言を貫き通している。 「いやー、ダンマリだねー悪魔ちゃん。盾にしたことはあやまるからさー、いい加減機嫌直してよ。ほら、好きなもの注文していいからさ」 「…………」 メフィは差し出されたメニューを手に取り、そっとメニューの写真の一枚を指差す。 スーパーデリシャスストロベリーパフェデラックスという名前が付いたその一品はデザートでありながら値段が30ドルを超えていた。 「高っ!? ま、まぁいいか。それで悪魔ちゃんが機嫌直してくれるなら安いもんだっての。ウェイトレスさ~ん」 糜爛がメフィのリクエストを注文すると、意外と早く五分ほどしてどちらもテーブルに配膳された。 「うわー、写真で見てもすごかったけど実物もっとすげーねこのパフェ」 メフィの注文したパフェはまず量が凄まじく、次いで色が恐ろしかった。アメリカの菓子らしく原色のカラフルな着色料をたっぷりと使い、明らかに天然素材ではない彩りになっている。 悪魔ちゃんこういうの好きなのかー意外ー、とのたまう糜爛の前でメフィはスプーンをパフェに差して一掬い分を口に入れた。 そしてそのままスプーンを置いて……あとはまた無言だった。 メフィがリクエストしたパフェは山のように残っている。 「口に合わなかった……ってーわけじゃなさそうね」 単に一番高くて処理に困りそうなものを注文して糜爛に押しつけただけ。ただの嫌がらせだった。 (……嫌われすぎたか。ちょっとこれからやりづらいかもな) しかし後悔先に立たず、糜爛はメフィが残したパフェをもくもくと食べ始めた。 「うわ、きっついねえこれ。人間の食い物だけど人間の食い物じゃねーってのよ」 過剰な糖分と甘ったるすぎる味付けに辟易しながら糜爛はパフェを処理する。ひょっとすると本当に口に合わなかったのか?と考えるほどだった。さすがはアメリカ、世界でも指折りの料理がまずい国。 「中華街の飯は上手かったのになぁ……ここしか食う場所見当たらなかったからって早まったかなぁ。うぅ不味い、悪魔ちゃん。嫌がらせするのは別にいいけど財布に響くようなもったいない嫌がらせはやめてくれね? あんまりお金ないんだから」 「…………どうしてですか?」 そこで、メフィは久方ぶりに口を聞いた。 冷めた声音は別に糜爛を許したというわけでなく、気になったから質問しただけのようだった。 糜爛もそれは察したのでメフィがようやく話したことには触れず、質問にだけ触れた。 「どうしてってなにが?」 「どうしてお金がないんですか? あんなに沢山あったでしょう?」 糜爛はつい先日まで半非合法な手段で稼いだ紙幣の詰まったアタッシュケースを持ち歩いていた。それが今はなく、なおかつ金もないという。 「あー、あれね。ちょっと家族に送金したらなくなっちまった」 「え?」 日本円にして一億円近くの大金を送金したのも驚きだが、メフィがそれ以上に驚いたのはその直前の単語についてだった。 「家族が、いるんですか?」 「そりゃーいるってのよ。悪魔ちゃんにも図体のでっかい姉ちゃんがいたじゃん」 「たしかに私とウォフ・マナフは姉妹機ですが」 メフィが言いたいのはそういうことではなく……。 「家族がいるのに、どうしてあなたはそうなんですか?」 「そう、って?」 「迷惑で好き勝手な最低の糞野郎ってことです」 オブラートに包むつもりもまるでなく、メフィははっきりと糜爛が最低であると断言した。それまでにも何度かメフィが糜爛を最低だと言ったことはあったが、今回が最も真に迫っていて、同時に不可思議そうだった。 それに対して糜爛は。 「家族がいるのに俺みたいになるとおかしいかい?」 と返した。 「ひょっとして貧乏で恵まれなかったんですか? だから仕送りを?」 「普通、かな。死んだ両親が大学出るまでもつくらいの生活費は遺してくれてたし。ちなみに今回の仕送りは俺のおせっかい」 「じゃあ家族仲が悪かったんですか?」 「仲悪かったら仕送りしねえっての」 「だったら……何か陰惨な事件に巻き込まれたんですか?」 「いやぁ、俺が巻き込まれた大事件なんて悪魔ちゃんとのファーストコンタクトが最初だよ」 「なら実はまともな家族じゃなかったんですね、カルト教団の一員とか」 「怒るけど?」 いくらか真剣な顔で糜爛は言葉を返した。 だが、メフィは糜爛がそうして自分の予想を否定するたびに余計に訳がわからなくなっていく。 「それなら、どうしてあなたは悪人なんですか?」 「…………」 メフィの言わんとしていることを糜爛は察して、何と言葉を返したものかと少し悩んだ だが、糜爛がその答えを言うのは少し先のことになる。 なぜなら 暴走したトレーラーが喫茶店のガラスを破って店内へと突っ込み、爆発炎上したからだ。 ・・・・・・ 「危なかったぁ」 『そんな一言で済ませていい話ではないでしょうけどね』 炎上する店内から何食わぬ顔で糜爛と、永劫機メフィストフェレスへと姿を変じたメフィが姿を現した。 彼らの周囲の空間は停止し、爆発の衝撃も火炎も動きを止めている。メフィストフェレスの固有能力『時間堰止結界』の効果である。 店内に視線を戻せば、そこには多くの人間の姿が残っていた。 トレーラーに驚き逃げようとしているウェイトレス、気づかず食事を続けていた老人、夫が妻を守ろうとしている夫婦、恐怖に引きつった顔でトレーラーを見るレジの男性店員など店内にいた多くの人間もまた硬直していた。 ――その身を爆炎に巻かれたままで。 ウィトレスの背中には深々とガラスが突き刺さっている。老人の首から下は無くなっている。夫婦は二人とも炎にまかれている。男性店員はトレーラーと壁に挟まれている。 彼らは今、死の一歩手前の瞬間で停止しており、糜爛がメフィストフェレスの能力を解除すれば停止していた死の牙が彼らを捉えるのは確実だが。 「『時間堰止結界《クォ・ヴァディス》』、及び戦闘形態を解除」 『……了解、マスター』 糜爛は躊躇わなかった。 火中から人を助けようとすることも、引き伸ばすこともせず能力を解除した。 糜爛自身が『悪人』であるか如何かに関わらず、彼らを助けることがもう間に合わず、引き伸ばすことにも意味はないとわかりきっていた。 だから、時間の無駄遣いを避けるために糜爛は早々に能力を解いた。それが最良の選択だと彼の頭脳は判断していた。 そうして店内で爆発は起こり、店内にいた人間全員の命は途切れた。 「……えげつね」 「人のことを言えた義理でもないでしょう」 似たようなことをこれまで糜爛がしなかったわけではないのだから。 突然の惨事に巻き起こる悲鳴と阿鼻叫喚の中、糜爛と永劫機化を解いたメフィはさも『近くで事故が起きて驚いた』という風に野次馬に紛れた。 そして、 「ああ、やっぱりね」 自分達の紛れていた野次馬の列に乗用車が突撃してきたことで、これが事故でなく自分達を狙った“攻撃”なのだと糜爛は確信した。 糜爛達は咄嗟に飛び退いて乗用車を避けるが、気づくのが遅れた野次馬数人が車の餌食となる。自動車に撥ねられ、轢かれて呻き転がった。 「……見境がないですね」 「悪魔ちゃん、現状をどう見る?」 その場から駆け出しながら糜爛はメフィに尋ねた。 「どう、とは何ですか?」 「相手の正体や目的、次の手、とか。わかる?」 「……私達が目的なのは一目瞭然です。それと時間堰止結界中で止まっていたことからあのトレーラーの運転手が非異能力者なのもわかります――あの時点で死んでいたら関係ないですけど――ですが、結界解除直後に店外の私達の位置を掴んで正確に攻撃できたのは相手側に時間堰止結界内でも動ける者……異能力者がいたということです」 「要するに相手のメインは異能者。それも非異能力者を自爆テロ要員として使えるような異能か組織力を持った奴らだっての」 「なら彼らが次に執る手は」 「異能による攻撃か、自爆テロの続行」 答えは後者だった。 糜爛達の背後から過剰なエンジン回転数が巻き起こす異音と連なるエグゾーストを響かせて三台の車――大型のタイヤを装着した4WDが迫ってきた。 障害物《ニンゲン》を跳ね飛ばし、障害物《ニンゲン》を轢き潰し、減速を最小限に抑えながら糜爛達に迫る。 我が地上の日々の追憶は 永劫へと滅ぶ事無し その福音をこの身に受け 今此処に来たれ 至高なる瞬間よ 時よ、止まれ――お前は美しい 糜爛は永劫機の式文を唱え、再度永劫機メフィストフェレスを召喚する。 同時に時間堰止結界を再起動、接近する殺人車の動きを止める。 そして、動きの停止した車のタイヤとエンジンを時計の針を模した両腕のブレード――『時を刻みし針なる剣』で貫き、破壊する。 「さすがに全速で動いてる車に真正面からぶつかったらこっちもきついしなぁ」 『これからどうしますか?』 「今のこっちの動きも把握されてるだろうし“次弾”が来るのは間違いないっての。むしろ、次弾が来るならまだいい」 『……そうですね』 「かと言ってこうして結界を張り続けるわけにもいかず、生身の足や永劫機の足じゃ車から逃げ切れない。やっぱこっちもアシが必要だっての」 そう言って糜爛は静止した周囲を見回し、道路の脇に駐車してある車の中から一台の車に目をつけた。 それは普通の車だったが、中に“あるもの”が乗っていたため糜爛はその車を選んだ。 糜爛は結界を張ったままその車の傍に移動し、結界と永劫機を解くと同時に運転席のドアを開いて車内へと潜り込んだ。そして車内を確かめた糜爛は「ビンゴ」と呟いた。 「な、なんだよあんたたち!?」 車内にいたのは小学生高学年ほどの日本人らしい少年だった。車の中には少年一人だけで、少年のために暖房を利かせるため車のキーは刺さったままだった。 糜爛の読み通りだ。 「少年少年、ちょっくらこの車借りるぜ。乗ったままでも降りてもいいけどあと一秒で出発するっての」 「な!?」 少年がどうする間もなく糜爛はシフトレバーを動かし、車を急発進させた。 「あー、マニュアルで免許取っといてよかった。左ハンドル慣れねーけど」 などと呟きながら糜爛はアクセルを踏み続ける。 背後から迫ってくるであろう自爆車から距離をとるため、ブレーキを一切踏まず他の車を避けながら加速するその危険運転は傍から見ていればハリウッド映画のようだ。 もっともそんな感想も傍から見ていればの話。 親の車を強盗されて同乗する羽目になった少年と助手席に座るメフィにはそんな感想やハリウッド映画のシーンではなく走馬灯が脳裏に浮かんでいる。 「うわぁ~~ん!? おかあさーーーん!! おとうさーーン!!」 「この速度だと事故が起きたら私でも壊れるんじゃ……」 そんな二人の恐怖を余所に 「運転なんて免許とって以来だけど案外いけるもんだっての」 などと言いながらどこ吹く風で糜爛は危険運転し続けた。 ・・・・・・ 『こちらエレ・キーパー。対象は乗用車を奪い逃走中。現在はこちらで信号をコントロールして誘導している。予定は狂ったがあと一時間もすればそちらに追い込める。しかし……』 「こちらヒューマン・ホイール。『しかし……』どうしたの?」 『我々以外にもあの男を狙っている奴らがいる。一組……いや二組だ。一組は随分と乱暴な手口を使っている』 「どんな?」 『異能で操った人間を車に乗せて爆弾代わりにしている。被害も広がっているし隠蔽も考えていない乱雑な手だ』 「たしっかに乱暴。いったいどこのどいつらだろうね、そんなやばいの」 『……君の古巣じゃないか?』 「ないない。目立ちたがりは多いけど。目立たせるのは自分と作品だけで被害者《他人》を目立たす馬鹿はいないから」 『そうか』 「第一、他の何が関わっていてもボクのやることはかわりゃしないでしょ?」 『ああ。対象を確実に斃したまえ。それが君の<聖痕>での初任務だ』 「了解だよ御同僚。派手に決めてくるからステージセッティングよろしく!」 ・・・・・・ 一時間して、糜爛達を乗せた車は人気のない郊外の舗装道路の上を走っていた。 ここに辿りつくまでの間、奇跡的にも事故は起こらず、また警察のパトカーに追われてカーチェイスが発生することもなかった。 もっとも後者は自分達を狙う組織が予め何らかの手を打っていたのだろうと糜爛は踏んでいた。 加えて、途中の信号機の点等や交通状況に進路を選択させられた感もあった。 それらの状況から推測されるのは 「……そろそろ、弾じゃなくて本人が仕掛けてくる気かねぇ」 その推測を糜爛は嫌そうに呟いた。 「うぅ、降ろせよー……何なんだよあんたたち……」 「見ての通り強盗で『悪人《ヴィラン》』で糜爛《ヴィラン》かねぇ」 後部座席で泣きながら呻く少年の言葉に糜爛がいつもの調子で答えた。 「降ろしてもいいけどさー。こっからじゃ一人で帰れないでしょうよ。片がついたら両親のところに返してあげるからもうちょっと付き合ってねーっての」 「そう言っておきながら後で殺して私に食べさせるんですねわかります」 「ヒィッ!? カニバリズム!?」 「ないから」 メフィの言葉に少年は身を竦めて怯えたが、その言葉を糜爛は否定した。 「柄にもない。あなたならもうとっくにそうしていてもおかしくないでしょう? 今日は随分と消耗してますしね」 「そうだねぇ。けどまぁ、今日はそういう気分じゃねーのよ。ああ、少年少年。大丈夫だから怯えんなって」 そう言ったところで既に車強盗兼誘拐犯になっている男の言葉を信じきれるわけもない。 「うぅ……おかあさん……」 「あ、そうだ! こうしよう! 少年、ちょっと両親に電話すればいいんじゃないか? そうすれば気も紛れるし両親の方も安心するかもしれないじゃん!」 「…………」 メフィは「今のあなたがそれをやらせても『誘拐犯が子供の無事を確認させて身代金用意させる』図にしかなりませんね」という顔で糜爛を見ていたが、今度は口に出さなかった。 少年はやはりまだ怯えたままだったが、ポケットから携帯電話を取り出して電話をかけ始めた。 「へぇ、最近の小学生って携帯電話持ってんだ」 「持ってなかったらどうやって親に電話をかけさせる気だったんですか」 「それもそうだ。っと、そう言えば少年の名前を聞いてなかった。何て名前?」 「け、慶介」 「へえケイスケ君か。やっぱり日本人だったっての」 「……さっきから日本語で話してるじゃないですか」 「ヒッヒッヒ、たしかに。あ、ケイスケ君、電話繋がった?」 糜爛が尋ねたが、少年――慶介は首を横に振った。 「つながらない……携帯に何度かけても留守番電話になってる」 「ご両親は何やってんの? 仕事中?」 言ってから、それはないなと糜爛は思い直す。キーが刺さった車の中に子供を置いていたのだからあの近くにいたはずだ。そうなると子供がいなくなっているのに携帯電話がその状態というのはますます妙だ。警察あたりと長電話している可能性もないではないが。 「仕事じゃないよ……。今日は家族旅行で、日本からこっちに来たんだ。お母さんの実家がこっちにあるからって」 「ふぅん。で、旅行中なのにどうしてケイスケ君一人で車の中にいたんだっての。両親は?」 子供が行方不明になっているのに携帯電話が繋がらない状況は避けるはずだ。こうして子供から電話をかけてこれるのならば余計にだ。 ただ、慶介の両親が電話に出られない理由は、他ならぬ糜爛達こそ知っているはずだった。 「お父さんとお母さんは俺がお腹空いたって言ったから喫茶店にお昼買いに行ったよ。そしたら何か騒がしくなってあんた達が……」 途中から耳に入らなくなったその言葉が意味するところを、糜爛とメフィはすぐに理解した。 なぜならあの場所の近くの喫茶店は、あの喫茶店しかなかったのだから。 だから、彼の両親が電話に出れない理由は彼よりもよく知っていた。 「…………」 「…………!」 糜爛とメフィはそれぞれ異なる表情を浮かべて沈黙した。 糜爛はどこか痛ましそうな表情で、メフィはその糜爛の表情に驚くような表情で。 『マスター、いえ……糜爛』 メフィは永劫機とマスターの間で通じる心の会話で語りかけた。 『……なんだい悪魔ちゃん』 『あなたは巫山戯ているんですか?』 メフィの心声には、隠れもしない怒りの色が浮かんでいた。 『何で?』 『あなたは自分がこれまで何をしてきたか、私に何をさせてきたか覚えていますか?』 『覚えてるよ』 『どれだけ人間を殺してきたか覚えていますか?』 『大体ね』 『そのあなたが、今回の件だけは悲しむというのは……巫山戯てます。いくらなんでも、勝手すぎる』 『今更何言ってんのさ悪魔ちゃん。俺は最初から勝手だっての。好き勝手に悪事を働いて、悲しむときも勝手に悲しむ。血も涙もある悪人だもの。当然だろ?』 『……当然?』 『悪人だから悲しまないなんて話はないし、悪人だから愛を知らないわけでもない。家族がいないわけでもない。悪いけれども人間だからな』 『…………』 そんな糜爛の言葉にメフィは沈黙し、少し間をおいて言葉を切り出した。 『今日のあなたは変だと思ってましたが、家族と何かあったんですか?』 『……何でそう思う?』 『昼に家族に送金したと言いましたよね? そのとき家族と電話でもしたんじゃないですか?』 『…………』 今度は糜爛が沈黙する番だった。 『それでセンチメンタリズムにほだされて、少し優しい気分になってしまっている。だからこの子供も殺してないしこの子供の不幸を悲しんでいる。『そんな気分じゃない』、たしかにそうなんでしょうね』 『だったら?』 『別に。構いませんよ。あなたが何を思って何をしようとしても好きにすればいい。私はそれに従います。ただ、喫茶店で言いそびれた質問をさせてもらうだけです。貴方に望むのはそれに答えることだけ』 『言えよ』 『糜爛。あなたはどうして悪人になったんですか?』 『悪人になってしまいたかったからだよ』 同じ質問、今度は即答だった。 『どういう意味です?』 『善人だと死んじまうから』 メフィは糜爛の意図を掴めない。そもそも、糜爛にも理解させようという意思はないのだろう。 単に、答えをはぐらかさずに、自分だけにわかるように答えているだけだ。 『それは……』 メフィは糜爛の言葉の意味を解釈しようとしたが。 『考えるのは後回しにしようぜ……来た』 「後ろから何か来てるぞ!?」 思索は遮られた。 遮ったのは内と外からの声にメフィがハッと意識を戻し後ろを振り向くと、そこには巨大な影があった。 それは確かに『何か』としか形容できないものだった。 大まかな形状は今自分達が乗っている車に近い。しかし、シルエットまでがそうかと言えば決してそうではない。 長方形に収まるはずの車体は左右両方向に膨らんではみ出し、ラインも決してスマートではなくごちゃごちゃとしている 『車ではないモノを無理やり畳んで車の形に押し込めた』ようなソレ、明らかにまともなモノではない。 周囲を見れば、ソレ以外の車両は消え失せていた。 「チッ!」 糜爛はアクセルを踏み込んでソレとの距離を引き離そうとするが、二瞬早くソレが加速した。一瞬後、ギリギリまで距離を詰めたソレの車体の一部が『ガコン』と外れ、巨大な腕となって糜爛達の乗った車両の後部を鷲掴みにした。 ソレは車を掴んだまま腕をぐるんと振り回し、車を逆さまにアスファルトへと叩きつけた。 車体は拉げ、全開の最中にあったエンジンは破損し、タンクから洩れたガソリンはエンジン内部に接触し――車は爆発炎上した。 『…………』 ソレは腕を引くと、反対側から同じような腕を生やし、煤を払うようにパッパと手を擦り合わせ……両の手を虚空に振り回す! 金属音が響いたのはその直後だった。 見れば重金属の腕と、黄金の刃が激突していた。 「隙突いたつもりだったんだがねえ、っと」 ソレが背後を振り向くと、そこには漆黒の永劫機が立ち、永劫機の背後には糜爛が、糜爛の足元には気絶した慶介がいた。 『いつ車の中から抜け出したのさ? それにそんな大きいのどこから……あんた手品師?』 「そんな大雑把なもんに乗ってるから目端が利かねえのよ。……で、どこの誰だ?」 名を問われると、ソレはどこか嬉しそうに躯体を揺らし答えた。その声はスピーカー越しで若干変質しているが若い女性のものだ。 『ボクは<マスカレード・センドメイル>のラファエロ……は昔の名前。今のところは<聖痕>のヒューマン・ホイールって名前さ』 「どっちにしても知らねえっての。こちとら物知らずなんでね」 『あ、そう。じゃあ物知らずにもう一つ教えてあげるよ!』 ヒューマン・ホイール-―ラファエロの叫びに答え、ソレが立ち上がる。 そう、文字通り“立ち上がった”。 車体下部は下半身となり、腕を生やした車体上部は上半身へと変形する。 人型へと変形したソレは、車型だった時にも増して異様だった。躯体の手足は異様に膨らみ、車としての面影を残しながら、ソレの胸部と腰部、そして顔は明らかに女性を模していた。 『車輪が唸る! 炎神吼える! 敵機砕けとボクが言う! 戦陣走破の超機兵! 『車輪聖母《マドンナ・デラ・ルータ》』ここに参上!』 『車輪聖母』――マドンナは威容を誇るようにポーズを決める。 「…………」 糜爛とメフィはラファエロの口上を白けた――と言うよりは引いた――顔で聞いた。 メフィは『でも糜爛の口上はもっと痛いですよね?』と心中で呟き、糜爛は『あれほどじゃねーって。でもちょっと考え直すわ』と返した。 「どうすんのさこれ。さっきまでのシリアスどっか逝ってるんだけど。空気変わりすぎだっての」 『ボクの『車輪聖母』に恐れをなしているようだね!』 「ある意味。で……その不細工なガラクタごと中身《お前》を叩き潰せばいいわけか?」 『やれるものならやってみなよ……絶対に無理だけどね!』 「小物くさい台詞ありがとよ」 操者の意に従い、黄金の永劫機が大地を蹴立てて、車輪の機兵が足刀の車輪を廻して駆ける。 疾走の速度を乗せてメフィストフェレスが旋回する右腕ブレードを、マドンナが高速回転する脚部ホイールを叩きつける。 回転と回転。摩擦と摩擦が火花を上げる。 だが、 「バーカ」 押し込んだのはメフィストフェレスの方だった。 それも道理。両足を地に着けたメフィストフェレスと片足を宙に浮かせたマドンナでは馬力が違う。 体勢を崩されたマドンナはコンクリートに膝を着き 『バーカ!』 即座に、下半身を車両へと変形させた。 「!?」 エグゾーストが轟き、瞬時に再加速したマドンナが全身をメフィストフェレスへと激突し、交通事故のような激突音を響かせる。 両腕をマドンナの両腕に押さえられ、バイクスタントのように足裏《ソール》から火花を散らせながらメフィストフェレスは半人半車のマドンナに押し込まれる。その背後には、無数の街路樹。 「ッ……!」 『何本折れるかなーーーー!!』 マドンナはメフィストフェレスをバンパー代わりにして街路樹へと衝突していく。 一本、二本と人間の胴回りの倍ほどもある木の幹を圧し折りながらもマドンナが減速する気配はない。そして激突の度にメフィストフェレスの背部装甲と、メフィストフェレスとリンクした糜爛にダメージが入る。このまま損傷を受け続ければやがてメフィストフェレスが街路樹のように圧し折れるだろう。 『三本四本まだまだいくよーーーー!!』 「……あまり調子に乗るなよチョロQ女」 毒づくと共に糜爛は脳内で計算を走らせる。 (メフィストフェレスの唯一の武装である両腕はマドンナにホールドされている。ご丁寧にブレードの回転域を計算した押さえ方だ。これでは両腕は使えない) 「と思ったか?」 『え?』 瞬きほどの間隙の後、メフィストフェレスはマドンナの背後にいた。 そして両腕のブレードをマドンナの胴体に突き込み、息の根を止めた。 ・・・・・・ 「大した相手じゃなかったっての」 黒煙を上げて各坐したマドンナを見やりがなら糜爛は呟いた。 メフィストフェレスがマドンナのホールドを抜け出して背後に回ったトリックは、種を明かせば何てことないものだ。 単に、一度召喚を解いて懐中時計に戻してから再召喚しただけ。 永劫機の特性を知っている相手には弱点を晒す危険な手だろうが、車から脱出した直後のやりとりで相手が永劫機のこともろくに知らないのは判っていた。勝算は十二分、というわけだ。 「もっとも、真っ当な異能者に出張られるよりはこういう易い相手でよかったって考えとくべきだろうがね」 『そうですね』 「それに曲がりなりにも異能者一人。今日使った時間もある程度補填できたはずだっての」 『そうで……?』 「どったの悪魔ちゃん」 『……時間を捕食できていません』 「…………」 再度、黒煙を上げるマドンナを見やる。 破壊痕から覗く内部には機械が詰まっており、人の乗るスペースなど微塵もない。 更に言えば、メフィストフェレスのブレードにも血糊は突いていなかった。 「……へぇ」 糜爛は底冷えするような声音を漏らした後、何を思ったか両手を胸元まであげた。 そしてパンッ、と両手を打ち鳴らす。 直後、付近の茂みからガサリと音がした。 「悪魔ちゃん」 『はい』 メフィストフェレスが茂みに向かって走り出すと茂みから何者かが飛び出して逃走し始めたが、如何せん人と永劫機ではストロークが違いすぎた。逃走者はすぐに捕まり、猫のように襟を摘まれながら連行された。 「…………」 『…………』 「や、やっほー」 「よし、絞め殺そう」 『了解』 「待って! ウェイト! 簡単に殺すとか言わないで! 日本人って道徳必修でしょ!? 殺人ダメゼッタイ!」 日本以外の国は道徳必修じゃないのか?と思いつつ、糜爛は逃走者――ラファエロの手にあるものを見る。 一見するとラジコンのプロボのようだが、モニターらしきものや使途不明のレバーやボタンも複数取り付けられたそれは複雑怪奇な代物となっている。 「ラジコン操作だったわけ」 「だ、だから中身ごと潰すのは絶対に無理って言ったじゃないかぁ……!」 「あの小物臭い台詞にはそんな意味が……いやどうでもいいけどな」 何にしろ、殺さないことにはどうにもならない。 使いすぎたメフィストフェレスの時間は補充しなければならないし、何より糜爛自身の……。 「顔はいいし普段ならやるとこだが、やる気もおきねえし時間もないからやるだけでいいか」 「わーい、日本語むずかしー。って、だから殺したらダメだってば!?」 『こちらエレ・キーパー。ヒューマン・ホイール応答せよ』 糜爛には聞き覚えのない声が聞こえた。 音源を辿ればそれはラファエロの襟元、そこに取り付けられたピンマイクのようなものからだった。どうやら通信機らしい。 「……えーっと」 「…………」 糜爛は話をするように無言で促す。 「こちらヒューマン・ホイール。どうしたの?」 『任務は中止になった。すぐにそこから引き上げろ』 「……もう五分早く教えてくれればいいのに」 『? どういうことだ?』 「何でもないけど……何でさ?」 『ターゲットを追っていた連中の裏が取れた。奴等と事を構えるのはまずい。我々のクライアントとしてはターゲットが死んでくれれば構わないのだから我々がここに居座る必要はない。すぐに撤退だ』 「奴等って……」 『“敵《ネメシス》” 通信は、途絶えるように切れた。 ラファエロが再度通信に呼びかけるも、あとは砂嵐のようなノイズが返ってくるだけだ。糜爛も自身の携帯の画面を見るが、当然のように液晶のアンテナは圏外を示していた。何らかの通信妨害がなされている。 「たはー、よりにもよって“敵”かー。嫌な狂犬とかち合っちゃったなぁ」 「……で? その無駄に悪ぶった名前の頭の悪い集団がどうしたって? どういう奴等でどうやべえってのさ?」 「んー、ターゲットさんを」 「糜爛だ」 「糜爛を狙うために一般人をラジコン代わりにして自爆テロさせる連中、って言えばやばいのわかる?」 「…………なるほど。お前らじゃなくてそいつらだったってわけね」 「それにあいつら、頭もおかしいからねー。ねえ、糜爛はどうして異能があると思う?」 「知らねえ。あるからあるんだろ」 「奴等の“教義”だと、異能は戦う為にあるんだってさ」 ・・・・・・ 異能は強靭な肉体を与える 異能は超常現象を起こす 異能は強力な兵器を生み出す 異能は魔道の英知に至る 平和のため、守るため、怒りのため、復讐のため、形は違えども異能は闘争に通じる。 ならば異能は神の手により何者かと戦うためにこの世界の人類に与えられたに違いない。 では何者と戦うためか。 何者でも構わない。 人外のバケモノ――ラルヴァでもいい。 人内のバケモノ――異能者でもいい。 人内のヒト――ただの人間でもいい。 何でもいい。何だって構わない。 戦うことが目的で使命なのだから相手など何だろうと構わないのだ。 故に我らは“敵《ネメシス》”を名乗る。 我らが敵であるならば向かう先には闘争がある。 それが―― [ソレガ我々――“敵”ノ教義デス] 何時から、そこにいたのか。 ラファエロの話の間隙から引き継ぐように、『彼』が話していた。 『彼』の風体は異様だった。 マドンナのように歪んだシルエットをしていたわけではない。シルエットはヒトと同じだ。鎧を着込んでいるが、ヒトの範疇のシルエットだ。 しかし、身の丈がまるで違う。 メフィストフェレスや、姉妹機のウォフ・マナフをも上回る8メートル近い巨体。 空気が変わったというのなら、それこそ『彼』の登場によって完全な変質が起きたと言えよう。 どう見ても人間の身体ではないが、『彼』からは人間特有の生温かさと、放置された古傷のような腐臭が空気を通して伝わってくる。 そして伝わってくるのは、温度と匂いだけではない。 威圧感。 ラファエロのマドンナやラスカルのウォフ・マナフ、あるいはそれ以前に相対したどんなものよりも強烈なプレッシャーが糜爛の身を貫いていた。 「…………」 [嗚呼、申シ遅レマシタ。私ハ“敵”の長ヲ勤メサセテイタダイテイル、『フェイス』ト云ウモノデス] 「信仰《フェイス》、ねえ。それがまたいったい何の用でここに来てんだっての?」 [貴方ノ] フェイスが言葉を発すると同時に糜爛はフェイスから距離をとるように駆け出し、逆にメフィストフェレスは捕縛していたラファエロを放り捨ててフェイスに向けて突撃した。 言葉を発する際のわずかな隙を狙った攻撃、そのためだけに糜爛はフェイスに質問した――何より話が通じるような尋常の相手でないのは一目瞭然だった。 隙を突いたのが功を奏したか、メフィストフェレスは易々とフェイスの懐に潜り込み 『獲った!!』 ブレードを深々とフェイスの心臓に突き入れた。 マドンナのときとは違う、背中から飛び出したメフィストフェレスのブレードにはハッキリとフェイスの血糊が付着している。 [痛イデスネエ] 『!?』 だが、致命の一撃を受けてもフェイスの巨体は小揺るぎもしなかった。 それどころか、言葉に反して声にも苦痛の色がない。 メフィストフェレスはブレードを引き抜き、後方に飛び退く――が、その後退は空中で静止した。 見ればフェイスが左手をメフィストフェレスに向けて伸ばしている。あの左手から念動力が放たれ、メフィストフェレスを拘束しているのだ。 それは異常だ。 フェイスの巨体と生命力は普通ではない。ならばそれが異能のはずだ。 だというのに、念動力まで駆使している。これはルールに合わない異常だった。 [暫ク、大人シクナッテモライマショウ] フェイスの右手が紫電を纏う。 フェイスが発現させた更なる異常、第三の異能の雷がメフィストフェレスの身体を貫いた。 [困リマシタネエ] 戦闘――とも呼べぬ一方的な行為の後、勝者であるフェイスは言葉面だけ困った風に足元を見下ろしている。 彼の足元には糜爛が倒れていた。メフィストフェレスが雷を受けた際のダメージフィードバックにより気絶していた。心臓が停止していても不思議でない。 [コレデハ暫ク『断片』ノ所在ヲ聞キ出セマセン] 「団長、如何いたしましょう」 フェイスの傍に侍るように痩せぎすの男が立っていた。フェイスへの態度から“敵”のメンバーであることがわかる。 [我々ノ拠点ヘト運ビマス。ソコデ気絶シテイル女性ト子供モ一緒デス] 「畏まりました」 ・・・・・・ “敵”はその場から立ち去った。糜爛とラファエロ、慶介の三人は気を失ったまま彼らに連れ去られ、メフィの身体である黄金の懐中時計も持ち去られた。 後に残ったものは痕跡だけ。薙ぎ倒された街路樹、砕けたアスファルト、潰れて炎上する車、そして車輪聖母の残骸。 彼らは街中で行ったテロリズムと同じく、後始末など何もしていかなかった。 ゆえに、その人物にとってここで何があったのかを推し量るのはそう難しいことではなかった。 去った登場人物の入れ替わりに舞台へと上がるように、その人物は戦跡に立っていた。 暫くの間、その人物は現場の惨状を見回していたが、遠くから幽かに車のエンジン音が聞こえると、前にその場にいた者達のように立ち去ってしまった。 しかし、“敵”とその人物には一つ違う点があった。 その人物は痕跡を一切残していかなかった。 無関係の車がその場所を通り過ぎたときには街路樹は全て立っていたし、アスファルトは砕けてなどいないし、炎上した車と車輪聖母の残骸は影も形も無かった。 まるでそんな物々は存在していなかったように、それらがここで辿った時間が消去されてしまったように、なくなっていたのだ。 壊物機 継続