闇だ。
自分は闇そのものだ。
夜の闇に溶け込み、気配を消し、息を殺し、誰にも気づかれないようにしなければならない。
森の茂みから獣のように目だけを光らせ、道なき道を歩いている少年はそう頭の中で反芻していた。その少年、小録《おろく》晃《あきら》は小柄で、幼い顔立ちをしているが妙にギラギラとした目つきをしている。
時刻はもう丑三つ時を迎え、夜空に輝く月と星以外にその場には光は無い。人工的なものが一切排された森の中から晃は足音を立てずにゆっくりと歩を進めていく。彼の無音の歩は大したもので、辺りには虫の這う音と、時折聞こえる梟の間延びした鳴き声だけが冷たい空気の中に響いている。
(寒い――なんて泣きごとは言ってられーな……)
晃は白い息を吐きながら自虐するように嗤う。
この今の状況も自分で望んだことだ。寒さは苦手ではあるが文句は言えない。
やがて遠くからかすかに光が洩れているのを晃は見た。その光の方向へ森を進んでいくと、やがて森は終わり里に出ることが出来た。
茂みの先は崖になっており、なんとか晃はすべり落ちないように踏みとどまる。
(ここが、鬼泣村《おになきむら》……)
晃はその崖の上から里にある村を見下ろす。
そこは村と呼ぶにはあまりに小さく、家屋の数も両指で数えられるほどだ。集落と呼んだほうが妥当ではないかと晃は思った。
だが、その村の中心には朽ちた村には似つかわしくないほどの大御殿がそびえたっている。どうやら先ほど見えた光はこの家の灯りのようである。
厳格な雰囲気を醸し出している巨大な屋敷。最初晃はお寺か何かかとも思ったが、どうやらそこは一応民家であるみたいだ。その屋敷には黒服の男たちや、険しい顔をしている着物の男たちが何人もいた。
(あれが花宴《はなうたげ》家の屋敷みたいだな。思ったよりずっと大きい。こりゃあ少し厄介だぜ)
晃はそう心の中で呟くが、その言葉とは裏腹に、かすかに歪んでいる口元からは怖気づいているというよりはどこか嬉しそうな、浮足立っているような印象を受ける。
彼が村を見つめていると、かすかにポケットが震えた。
晃はそっとポケットの中のものを取り出す。それは学生証型の端末で、携帯電話の機能も果たしているものである。晃は通話ボタンを押し、できるだけ小声で応答する。
「誰だ」
『やあ晃くん。首尾はどう?』
すると、端末の向こうから若い女の声が聞こえてきた。
その人物が誰かすぐに悟り、晃は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ユキか……。隠密行動中に連絡してくんなってあれほど――」
『“さん”をつけなさい。私はあなたを心配してるのよ』
「嘘ついてんじゃねえよ。あんたが誰かを心配するなんてありえないね。それで、連絡してきたってことは何か情報があるんだろうな?」
晃は苛立ちながらそう促した。ユキと呼ばれた女は、感情の感じられない笑い声をかすかにあげて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『面白いことを教えてあげるわ晃くん。花宴はどうやら強力な殺し屋を雇っているという情報が手に入ったわ』
「…………」
『どうする? 怖いでしょ。きっと相手はプロの殺し屋よ。一介の学生が相手にできるのかしら。引き返す? こっちとしては別の異能者を派遣してもいいんだけど』
「けっ、笑わせんなよ。俺が引き返す? 敵を前にして?」
『…………へえ』
「俺を誰だと思っている深淵の魔女め。俺は両面《りょうめん》族の戦士だ。立ちふさがる敵は全員砕いて削ってぶっ飛ばしてやる」
晃は急に語調を荒くし、吐き捨てるようにユキに向かってそう答えた。
『うふふ。かっこいいわね晃くん。本当に男前だわ。濡れちゃうわ。もう大洪水よ。帰ってきたらエッチなこといっぱいしましょうね』
「…………気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ。俺は女なんかに興味はねえ。もう切るからな」
ユキとの会話にうんざりした晃は一方的に電話を切り、端末をポケットにしまい込んだ。
晃の服装は登山に相応しくない赤いジャージ姿に、下は子供っぽいハーフパンツ。しかしおかしなのはそれだけではない。
奇妙なことに彼の後頭部には仮面がくくりつけられている。
それはまるで頭の前後に二つ顔があるように見える。
その仮面は禍々しくも髑髏を模してあり、その後ろの顔は、じっと森の闇を見つめている。
彼は――小録晃は両面族と呼ばれる一族の一人である。神通力を操り、人を超えた力を持ち、秘術に通じる|人外の存在《
ラルヴァ》の一族。古来日本では妖怪天魔、悪鬼羅刹の類として恐れられてきた。
それと同時に晃は
双葉学園の生徒でもあった。
よくジャージの胸元を見ると、きちんと双葉学園の文字が刺繍されている。彼はそこの高等部の二年に席を置いている。
「ここには俺を殺せる奴がいるのか……」
晃は少しだけ寂しそうにそう呟く。だがその言葉も虚しく夜の闇にかき消えていくだけである。
晃は崖を降りる前に準備を始める。
準備と言ってもグローブに指を通し登山靴の紐をきつく結んでいるだけだ。
晃にとってグローブは、自分の手を護るためのものではない。むしろ殴った相手に対する配慮である。己の硬い拳がもろに人間の頭にでも当たれば、鍛えてもいない人間はそれだけで死ぬ可能性があるからだ。
人を超えた力を持つ両面族の武闘派は武器を使用しない。
その代わりに己の肉体が凶器となる。
それは誇りでもあった。自分たちは人間とは違う。人間のように武器や兵器などは使わない。武器とは人間同士の争いの中で生まれたものだ。両面族は身内同士で醜い争いはしない。
そう思っていたが、以前に学園で両面同士の衝突があったことを思い出し、また晃は馬鹿馬鹿しいと口を歪ませる。
(昔とは違う。俺も変わっていかなきゃならない……だけど)
晃は己の手のひらをぎゅっと握りしめる。
孤高にして誇り高い両面族の戦士が、人間の庇護を受け、人間の命を受けてこうして任務に赴いている。人間を嫌いながらもこうして生きるしかない自分を晃は嘲笑う。
(他の連中みたいに平和に生きるよりましだ。たとえ人間の言いなりであろうと、戦場から離れてぬくぬくと生きるなんてごめんだね)
晃は地面に落ちている枯葉を踏みしめながら村へと歩いていく。
戦いだ。
戦闘だ。
戦争だ。
血と骨の戦場こそが自分の生きる場所だと晃は思っている。それを奪われるくらいならば、戦場が与えられるならば人間の言いなりでも構わない。
矛盾し、歪んでいる考えだとは自覚している。それでも戦うために自分は生まれてきたのだ。
そうして両面の魔人は、鬼の泣く村へと足を踏み入れていったのであった。