その両手がカウンターの上で並んでじっとして、ランを見ていた。なかばかがんでうずくまるような格好で、どちらもまるで野生の生き物があえぐような動きでぴくぴくしながら、見ていた。見つめていたのではない。見つめるようになったのは後のことだ。いまは見ているだけだった。それていうのも、ランは二つの視線が合わさるのを感じたからで、彼の心臓はどきどきした。(p.12 l.6)
その手の片方を母親がつかもうとすると、それは嫌がってすばやく逃げた。カウンターから離れずに、指先を立てて端っこまで走り、それから一跳びしてビアンカのドレスの襞に隠れたのである。(p.12 l.14)
お洒落な貴族然としている手は、ビアンカに食べさせたりなんかしない。美しい寄生体で、それを支えてくれるずんぐりとした肉体から生き物としての栄養をとり、お返しには何も与えない。皿の両脇にぴくぴくしながらじっと控えていて、そのあいだビアンカの母親がよだれをたらしている無関心な口に食べ物を放り込むのである。二つの手は、ランの魅せられた視線が注がれると恥ずかしそうにした。(~手の描写が続く(手のもつ運動性)が中略~)
二つの手はお互いに睦みあっていた。ビアンカ自身には触れようともせず、互いに身だしなみを整えてやっていた。労働という卑しいものに甘んじるのはそれだけだった。(p.16 l.10)
まさしくそのときだ、手がランを見つめだしたのは。ランは魅惑された心の奥底までその視線が貫くのを感じた。手は互いに撫であっていたが、ランがそこにいるのを知っていたし、ランの欲望も知っていた。(p.17 l.6)
ランの太い指がその手をつかまえ、虜にした。手は身悶えして、必死にふりほどこうとした。手は腕から力をもらっているのではない。ビアンカの腕はだらりとして弱いからだ。その力は、その美しさと同じで、内在的なものであり、掴んでいる場所をぶよぶよした前腕部に変えてようやくランはその手を捕らえることができた。(中略)それは身構えて、指を蜘蛛のように曲げてから、ランに飛びかかり、手首をしっかりつかまえた。締め上げる力があまりにも強烈で、ランは骨が砕けるかと思ったほどだった。悲鳴をあげながらランは少女の腕を放した。一緒になって倒れた二つの手は互いに駆け寄り、情熱にかられたランにどんな小さなかすり傷をつけられたかわからないと、身体をまさぐりあった。手首を抑えながら坐りこんでいるランは、手が小さなテーブルのむこう側まで走っていき、そのへりに身体を引っかけ、ぎゅっと縮んで、ビアンカを今いる場所からむりやり引き剥がすのを見た。ビアンカには意志というものがない――ところが、手にはあったのだ!(p.17 l.12)
こっそり見ると、手が無抵抗な白雉の少女を引きずって部屋に入ってきたのである。(中略)手は喜びに震えながら、ランの涙を飲み干して酔いしれていたのである。(p.18 l.11)
手は神聖にして犯すべからざる存在であり、けっして赦しを与えないことをランは知った。彼の前には姿を見せず、いつもビアンカのドレスの中か食卓の下に隠れていた。(p.18 l.17)
しまいに、手はランを赦した。ランが視線をそらしているときに、手は恥ずかしそうにしながら彼に口づけ、手首に触れ、ほんの一瞬の甘美な出来事だったが、彼を抱きしめた。(中略)もし手がお互いにほほえみあうということがあるとすれば、このときがまさしくそうだった。(p.19 l.3)
指輪が触れるとビアンカの手はおびえたようにふるえ、身悶えしてのたうってからおとなしくなり、美しく赤らんだ。(p.21 l.18)
ランはビアンカを洗ってやり、高価な化粧水を使った。身体を洗って髪をとかし、光るくらいに何度もブラシをかけてやった。それというのも、結婚した手にもっとふさわしくするためだった。その手にはけっして触れなかった。自分で身づくろいができるように、石鹸やクリームや道具を渡してやりはしたが。手はすっかりご機嫌だった。片手がランのコートを駆け上がって頬に触れたことが一度だけあり、ランは有頂天になった。
ランは身動きもしないでカウンターにじっとしたまま、ビアンカの手のことを考えていた。ランはがっしりして、日焼けした男で、あまり頭はよくない。美や不思議について一度も教わったことはないが、そんなことを教わる必要はなかった。(中略)ランは夢見心地でビアンカの手をもう一度思い浮かべていた。息苦しくなるほどに……。(p.13 l.1)
ランはそこに坐ったまますすり泣いた。腫れ上がった腕が痛いからではない。己のしたことが恥ずかしかったからである。もっとやさしくしていれば、我が物にできたかもしれないのに……。(p.18 l.6)
その後十九日間も、手はランに苦行を強いた。手は神聖にして犯すべからざる存在であり、けっして赦しを与えないことをランは知った。彼の前には姿を見せず、いつもビアンカのドレスの中か食卓の下に隠れていた。その十九日のあいだ、ランの情熱と欲望はつのった。それがさらにつのって(愛は真実の愛に変わった。なぜなら、真実の愛だけが崇拝の念というものを知っているからだ)手を我が物にすることが生きる理由となり、その理由が与えた人生の目的となった。(p.18 l.17)
金色の光のような幸福感が押し寄せた。情熱が彼を駆り立て、愛が彼を虜にした。崇拝の念は金色の光を放つ黄金だった。部屋がぐるぐる廻りだし、想像もできないような力が閃光を放って彼を貫いた。己と戦いながらも、栄光に酔いしれて、ランは身動きもしないで坐ったまま、世界を超越し、奴隷の身でありながらすべての所有者だった。ビアンカの手はぽっとピンク色に染まった。もし手がお互いにほほえみあうということがあるとすれば、このときがまさしくそうだった。(中略)一人きりになれば、彼を虜にしたこの新しいものが何なのか、もっとわかるかもしれないと思って。(p.19 l.6)
外は夕方だった。曲がりくねった地平線が太陽の浮力を飲み干し、それを引きずり下ろして、がつがつと啜っていた。ランは小高い丘に立ち、鼻孔をふくらませ、肺の奥底まで感じ取った。吸い込んだ爽やかな空気は、まるで日没の色合いがその中に溶け込んでいるみたいに、全く新しい香りがした。ランは太腿の筋肉を盛り上がらせ、なめらかで硬い拳をみつめた。そして両手を頭上高くさしだして伸び上がりながら、大声をはりあげると、太陽が沈んだ。それを見守っていると、自分がどれほど大きくて背の高い人間か、どれほど自分がたくましいか、焦心とは何なのか、献身とは何なのかを知った。それから清らかな大地にうつ伏して、ランは泣いた。(p.19 l.18)
ランは小川の岸辺で何時間もぶらぶらとすごし、くすくす笑っている川の水面に映った太陽を眺めた。小鳥が一羽やってきてかれのまわりを旋回し、恐れ知らずにも喜びの光の輪の中を飛び回った。翼の先がかすかにランの手首をかすめた。それはビアンカの手から受けた、あの初めてのひそかな口づけの感触を思い出させた。彼を満たしている歌声は、川のせせらぎや、岸辺の葦がそよぐ風の音といった、笑い声に満ちた自然の一部だった。手への思いは狂おしいまでになった。今こそ帰れば手を握りしめ、我が物にできると思った。その代わりに、ランは岸辺に寝そべってほほえみ、こうやって待ち、欲望を否定することの快感と刺激にすっかり我を忘れた。しみひとつないビアンカの手のひらに抱かれた、憎しみのない世界の中で、ランは心からの喜びにあふれて笑い声をあげた。(p.22 l.10)
およそ一時間ほど、二つの手はランの温かい首筋にひんやりと押し当てられたままじっとしていた。ランはその一本一本のなめらかな渦を、しっかりとした小さなひろがりを、喉で感じ取っていた。心と頭を喉に集め、触れている手の一部一部に集中して、ひとつそしてまたひとつと、触れてもそのまま動かずにじっとしている指を己の全存在で感じた。そして、今こそもうすぐそのときがやってくるのを知った。もうすぐだ。(中略)いったい自分がこれまで長いあいだ目指し夢見てきたのは何だったのか、ランはようやく飲み込みはじめた。そして頭をさらに沈めてほほえみ、そのときを待った。これこそが所有であり、成就になるのだ。(p.23 l.9)