村上春樹「蜂蜜パイ」
日にち:2009年1月24日土曜。5時から7時。
場所:はねっとの森大広間
text:「蜂蜜パイ」村上春樹。(『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)所収)
以下頁数は新潮文庫、初版二刷のものを引用しています
レジュメ(粗筋トピック by村上野郎)
(一)
- 熊のまさきちの話(淳平、沙羅、小夜子)
- 沙羅が寝て(淳平、小夜子)
- 大学時代のこと(淳平、小夜子、高槻)
- 淳平の煩悶(淳平、小夜子)
- 小夜子がうちに来て
- また学校に行く
- 小説書いたり
- 両親とどうのこうの
- 現在の話(淳平、小夜子、高槻)
- 高槻は新聞社に
- 小夜子と高槻が結婚、妊娠
- 淳平は小説家に
(二)
- 破局と離婚(淳平、高槻、小夜子、沙羅)
- 「どうだい、小夜子と一緒になるのはいやか?」(高槻>淳平、p218)
- 離婚後(淳平、高槻、小夜子、沙羅)
- 地震があって(淳平、カメラマン)
- 動物園(淳平、沙羅、小夜子)
- とんきちの話(「もっとうまいやり方はなかったの?」、小夜子>淳平、p228)
- ブラはずし(淳平、小夜子、沙羅)
- 沙羅が寝て(淳平、小夜子)
- 沙羅が起きて(沙羅、淳平)
- エピローグ(淳平)
各自一問一答
(ある程度、順番もシンクロさせてます。すがぬまが打ち込んでいるため、すがぬまの意見だけ詳細になっています。各自、訂正補完をお願いします。)
淳平と高槻のことをどう思いますか?(野郎)
- 淳平にとって高槻は世界の起点。神と救世主。(ハタノ)
- 二人のいる次元が違う。淳平、小夜子、沙羅は人間だが、高槻はその上に立つ(ような)存在。淳平が、蜂蜜パイによってまさきちととんきちを社会的な関係にしたように、高槻が、沙羅によって淳平と小夜子を新たな関係(よりあるべき関係)に作り上げた。(すがぬま)
- 人間らしい。(まつい)
- 文中における理解のされ方が違う。淳平のように深く思う(??)高槻は微妙にバランスが悪く、理解されていない。(野郎)
- 淳平は根暗でコンプレックスの塊。高槻はリア充レベルの一般人。著者本人とその友人の関係を参考にしているのだろう。(村上)
「4」という数字に意味があるのか。(まつい)
「四人というのは、はたして正しい数字なのだろうか?」(高槻>淳平、p216、その後高槻は小夜子と離婚し三人に戻る。)
小夜子が淳平に高校時代のクラスメートを紹介し、四人でデートすることもあった。淳平はそのうちの一人と交際するようになり、最初のセックスをした。(中略)恋人はやがて、ほかの場所に本物の温もりを求めて離れていった。同じことが何度か繰り返された。(p207)
- 節末の文章なので、次節でその関係が崩壊することを示唆している。また、高槻のカンの鋭さを表している。(高槻の持つ常人ならざる感性。また、さっぱりとした文章の中でも、そのような第六感のようなものの存在をうっすらと示している。)でも結局、高槻は人間ではない(とすがぬまは思っている)ので、四人ではないのでは?(すがぬま)
- 四人の不釣合いさに意味はあるのか…?(まつい)
- 物語を書く、またはものを語るときに、そこに登場するキャラクター、四人全員が揃っていては、語る者と語られる者の関係が崩壊してしまうため。物語上の意味というよりは、メタ的な視点に立ってのテクニカルな意味で。(野郎)
- 文法の基本的な部分に、一人称と二人称さらに、外への視線としての三人称の関係があり、この三人が最小単位の社会となっている。そのため、余分になってしまう四人目は避けた。(村上)
- 野郎とほぼ同意見。三人の関係は、相当な緊張状態にある関係だったため、簡単に四人目を入れることはできない。(ハタノ)
- 短編であるため、最小限の人数にして、シンプルな人物構成にしたかった?と村上くんの話を聞いて思った。 -- すがぬま (2009-01-27 20:32:38)
地震おじさんの存在とは?(ハタノ)
地震の物語に与える影響とは?(村上)
- 深い大きなものに繋がっている。ハコを開けてまっている。(??)(野郎)
- 地震は時代的要素。(淳平が地震のときにスペインにいる必要性がない。)つまり、物語の外部にある。地震おじさんは沙羅とともに、淳平と小夜子の仲をくっつける、恋のキューピッド的存在。(村上)
- 悪意。擬人化したのが地震おじさん。(この物語のひとつのテーマが再生。地震によってコミュニケーションが崩壊。また、淳平と小夜子の肉体的な繋がりを打ち切る、地震おじさん(沙羅)。コミュニケーションの再生を嫌った地震おじさん。)(ハタノ)
- 沙羅への干渉。「蜂蜜パイ」の世界で川から鮭が無くなったような社会的な影響と現実世界で地震が起こったこととを対比させている。地震自体にどのような意味があるかは分からないが、形容できないからこそ小説で纏めたのだろう。小説家が現実を描くために小説を書くように、地震こそが、この小説のモチーフであり、「現実」なのだろう。地震というのは、どうしようもない体験であり、形容しがたい体験であり、物語の中の重しのようなものである。(すがぬま)
文体についてどう思うか。淳平を著者自身と重ねて読んだか?(すがぬま)
- 鼻につく文体。なんか腹立つ。自分のことをサブカルって言うような感じがする。また、この文章は、半自伝的なものだと思っていた。(村上)
- 文体はカタい。乾いている。会話文は柔らかい。一回英語で書いてから邦訳して文章を書いているからだろうか。帰国子女の話し方にそっくり。また、小説では、作者の意図が明らかでない限り、作中のキャラクターと作者を重ねないようにしているため、本人だとは思わない。(ハタノ)
- アメリカ文学っぽい。出来事の羅列が多く、またその間の因果関係が書かれていない。しかし、それぞれの出来事は必然的に起こっているように思わせる。出来事が起こる、また感情の移行に理由や一貫した論理がないため、不条理的である。(アメリカ文学というもののテーマは、時間ではなく空間であり、また過去ではなく未来を担保としている、という評論をなんとなく思い出した。)また、淳平は本人だとは思っていない。しかし、自分に似たようなキャラクターが描きやすかったのだろう、と思った。(すがぬま)
- 文体はニュートラルな印象を受ける。伝え方として、非常にうまいと思う。感情の動きを描いて安易な感情移入をさせるよりも、伝わりやすい文体に感じる。また、キャラクターにおいて、モチーフの採用はあると思うが、自伝ではないと思う。それよりも、内容を見るべき。(野郎)
全体的な意見、感想など
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最終更新:2009年01月27日 20:38