3/14 音楽友の会におけるすがぬまの意思表明
音楽について
第一の疑問、音楽はどのような「ことば」で語りえるものなのだろうか?
長い間、このことを考えながら、音楽を聴いてきた。はっと閃き、その原理を掴めたようなときもあり、混迷を極め、前後不覚のような感覚で音楽を聴くときもあり
とどのつまり、音楽は共通の「ことば」で語りえることはできない!
→なぜなら、音楽は定義されていないから。
マクロに「音楽」を定義するものとは何なのだろうか?(「音楽」と「音楽」以外を区別するもの)
→音によって構成された時間
→→顕著な反例「4分33秒」
→→音のない世界、音のない時間とは?
ミクロに「音楽」を定義するものとは何なのだろうか?(ひとつの曲と違うひとつの曲を区別するもの)
→メロディー、コード、編曲、人物etc
→→全て、定義としては不十分に感じる。
→→例えば、民謡というものは、民族の唄だったはずだが、録音技術の完成によって、個人で歌われるものとなった。例え、そのメロディー、コード、編曲が同一でも、不特定多数の「顔のない」個人が歌っていた曲と、特定された個人が歌う曲は、同じものと見なせるのだろうか?
→→同じ人が歌った同じ曲でも、編曲が違えば、全く違う曲に聞こえやしないか?(rearrange,remix)
例えば、jazz,blues,R&Bなどの黒人音楽、黒人のリズム感と、country,hillbillyなどの白人音楽を、融合して、Elvis PresleyはRockabillyというジャンルを作った。やがて、Little Richard,Chuck BerryそしてBeatles,Rolling Stonesらにより、Rock'n'Rollは発明された。
みたいなことが語られることは、少なくない。しかし、そのどの部分をとっても、定義はなく、あやふやなものの塊でしかない。(世界は豊饒であり、当然リズム感の薄い黒人音楽もあり、リズム感に優れた白人音楽もあるだろう。Elvis Presley以前に、ロック的な曲を作っている人もいたし、このご時世でも、何食わぬ顔で、まったく進歩してない音楽を発表している人もいる)
定義があやふや→ひとつの命題を語ることはできる。けど、定理として検証されえないため、論理的展開は不可能
音楽は根無し草
例えば、シド・ビシャスとかカート・コバーンが当時の若者の怒りの表現者であり、その表現によって時代を一変させた、などというような、パイオニアや過去の偉人を語るようなストーリーも少なくない、と思う。(主にロキノン系の雑誌では)
しかし、最近よく思うのだが、音楽、しかもバンドとかを組んで、自己表現!とかいう人って、そんなに頭が良い人間ではないのではないか。そんな時代の分析をするのは、バンドマンではなく、結局、音楽ライターであり、記者なのだろう。音楽をやってる人間が、「今の若者は怒っている!ぼくも怒っているから、一緒にそのエネルギーを音楽にしよう!」なんて言う発想は、まずないんじゃないか?(スピリチュアル系は除く)
あるミュージシャン個人をもって音楽を見てみる。ルーツ(根)とはどのようなものか?
それは、社会、時代、人種などの要因ではなく、その個人が、個人の成長のなかで、どのような音楽を聴いたか、に関わってくる。(聴かれた音楽が、社会、時代、人種などの外部的な要因の影響を受けて、取捨選択される状況はあるが)
つまり、歴史を見る、例えば、人類の進化の歴史をみるときに、一本の大きな木をモチーフとして、根っこにアメーバや単細胞生物がいて、幹が哺乳類や爬虫類などの枝に分かれ、一枚一枚の葉っぱが人間であり、猿であり、鳥であり、みたいな歴史観がある。
しかし、音楽の歴史観は、そのようなものではないだろう。
流れなどではなく、もっとランダムで取り留めの無い集合で音楽は成り立っているのだろう。隣の人からの影響は受けるが、さらにその隣の人の影響は受けない、とか。(生まれ持っての音楽的趣味というものは存在するのだろうか?アウトサイダー・ミュージックのようなものは存在するのだろうか?Richard D. Jamesは本格的に音楽を聴く前に、シンセを買ってもらった、という話はあるが、真偽は疑わしい)
音楽を語る上での重要な考え(歴史においては全て)
音楽について語られる場合、必ずそこに何かしらの意思によって取捨選択された、という条件が存在していること。
例えば、歌謡音楽を考える時点で、そこには「人に聴かれる」「人に聴かれていた」というフィルターを通っている。
「その当時」聴かれていたか、「現在でも」聴かれているか、という違いも大きい。つまり、どのフィルターを用いて選択された楽曲群を語るかを意識すること。過去の歌謡音楽を語るにしても、現在から見たその音楽たちと、その当時の状況でのその音楽の相対的な位置というものは、当然違うし、再現はほとんど不可能なのだろう。
☆結局、音楽は、快か不快か、好きか嫌いかをもって、語ることは許される。自分の音楽遍歴を厚顔無恥に語るのもいいだろう。それは、あくまでも「個人的」な範疇において。
そのときに、「他人」の判断基準を否定することはできないし、肯定するときには、「他人」の判断基準の肯定ではなく、改めての「自分」の判断基準の個人的な肯定・確認・刷新をしているのである。(もしかしたら、他人との感情・感覚の共有というのは、常にそうなのかも知れないが)
☆☆個人的な歴史観の「種」のようなものでも獲得してもらえれば、有意義だったと言えるのではないでしょうか?
そこを足掛かりに、追加・削除・変更・更新を繰り返し、今後、音楽をより一層楽しみ、認識を深めながら、聴くことが出来れば幸いかと思います。
雑文、乱文失礼申し上げます。
最終更新:2009年03月14日 14:09