輪廻と業

現代に至るまでインド人の人生観に強い影響を及ぼしている「輪廻」と「業」
の思想も、王族の者によって婆羅門に伝授されるという形式で、ウパニシャッドにはじめてあらわれる。
プラヴァーハナ・シャイヴァリ王が、ウッダーラカに教える「ニ道五火説」がそれである。
輪廻の思想がふくまれるのは、「神の道」と「祖霊の道」の区別を説明するニ道説の部分である。

ニ道説によると、死んで火葬された者は、定めに従って、光の道か闇の道を経て月に至る。
光の道を行った者は、月からさらに不死の世界におもむくが、
闇の道を行った者は、雨となって再び地上へもどってくる。
前者が「神の道」とよばれ、後者が「祖霊の道」で輪廻説の原型をなすのである。

この輪廻説には、水を世界の原質とする考え方がうかがわれる。
水は雨として地上に降り、植物に吸収されて養分となり、
それを食べた人間の精子となり、母胎にはいって人間として生まれる。
人間は死ぬと前述の家庭で月におもむく。
月は水をたたえておく容器で、水が充満すると雨として降らせるので欠ける。

この考え方は、その起源が婆羅門思想圏以外にあったのかもしれない。
しかしそれが婆羅門の伝統のなかへ摂取されたとき、素朴な表象は次第に消えて、
アートマンの哲学と結びついていくのである。

リグ・ヴェーダ』では、人は死ぬと最初の死者ヤマのいる天上の楽土に行くと
考えられていた。
そこは緑影深く、清らかな泉が湧き、光明に満ちた世界であり、
死者はそこで神々や祖霊たちとともに歓楽する。しかしこの天上界でも
再び死ぬのではないかという危惧がやがて芽生え、
「再死」を克服する方法が考えられた。それを説明するのが、
ブラーフマナの祭式解釈学であった。

他方、個体における不死の探求がおこり、アートマンが考察の中心的な位置を占めるようになった。
水の表象に結びついていた素朴な「輪廻」説は、不死のアートマンの思想と結合する。
人が死ぬと、その肉体は自然現象のなかに解消するが、
不死のアートマンはそこから出ていって、
あたかも草の葉の先端に達した青虫が次の葉に移るように、次の身体に移っていく
ヤージニャヴァルキヤは説明している。

輪廻の説に密接に関係しているのが、
人間は自らなした行為の善悪に応じて、その果報をうけるという「業」の思想である。

業(カルマ)=行為の余カ-輪廻をひきおこす力

この思想も、素行の悪い者は犬か豚になるという、素朴な民間信仰であったのかもしれない。
しかし、ヤージニャヴァルキヤの哲学において、それはアートマン論と結合される。
アートマンは、人の行為に従ってそれに応じたものとなる。

善行の者は善人となり、悪行の者は悪人となる。
そしてアートマンが体から出て行くとき、彼の「業」はそのあとに市が立っていくと説かれる。
「輪廻」の説も「業」の思想も、ウパニシャッドのなかではまだ十分成熟したとはいえない。
しかし後代の哲学書はの学説の基盤は、ここに確立されたのである。









最終更新:2007年08月13日 23:50
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。