しかしすでに述べられたように、
ウパニシャッドの中核をなす思想は、
象徴主義的な祭儀学と深く関連している。
そして銃砲・祭儀から「知識」への以降の必然性も、祭儀主義それ自体に含まれていた。
ブラーフマナから
ウパニシャッドへの流れは、決して非連続的ではない。
ただ、
アーリア人社会が東漸(とうぜん)し拡大するにつれて、
民間にあった呪法や素朴な信仰が、
婆羅門たちによってたえず摂取されていたという事情はある。
また当時、ようやく
婆羅門教の中心をはずれた地方に勃興しつつあった民族国家において、
王族たちが、宮廷に司祭者として招く
婆羅門から神学的・哲学的知識を吸収するとともに、
婆羅門にまだ伝わらない伝承や俗信についての知識をもっていたとしても不思議ではない。
学識に飛んだ
王族の者が、まだ
婆羅門の強権下におさめられてない村落の巫女や呪法師など
を通して得た思想を、神学的知識に加味して、得意気に
婆羅門に教えることもあったであろう。
このようにして新たな要素をとり入れながらも、
ウパニシャッドの主潮流は、
いぜんとして
婆羅門の思想的伝統のうえになりたっていたというべきである。
最終更新:2007年07月28日 12:59