自由思想家の時代(ウパニシャッドにつづく千年)

  • 概要
ウパニシャッドに続く約千年のあいだは、インド思想上、最も実りの多い時代であった。
その初期には、多くの自由思想家の群れが輩出した。
それらの思想家のなかで最も重要なのは仏教の開祖仏陀であるが、
その他にジャイナ教の開祖マハーヴィーラをはじめ、
いわゆる「六師」とよばれる哲学者の名が伝えられている。

これらの人々は、すべてヴェーダの強権に反旗をひるがえし、
伝統にとらわれずに自由思想を説いた。

他方、正統的な流れのウパニシャッドも、ひきつづきその中世に属する作品を作り出し、
また、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラダ』といった大きな叙事詩も形成されつつあった。
それらに次いで、紀元前一世紀ころから諸種の学派-いわゆる六派哲学が漸次形成され、
それらが完成の形をとるのは、紀元後四~五世紀ころのグプタ王朝の時代である。

同時にまた、古いブラフマニズムは、土着文化の影響をうけて次第に変貌をとげ、
ヒンドゥイズムへと移行する。

この千年間には、世界全体の思想史にも匹敵するほどの多種多様な思想潮流が出揃う。

  • 詳細
【紀元前六~五世紀頃】
アーリア民族の社会に、著しい変化があった。
すなわち彼らは漸次東方に移動して、ガンガー河中流地方に達するが、
そこでは東方の先住民との混血、先住民のアーリア人社会への同化が進み、
ここが文化の中心地となる。

それとともに、伝統的な儀礼や習慣は、次第に崩れる傾向にあった。
農産物は豊富になり、商業や手工業も著しく発達して、
多数の都市国家が興った。
自由思想が勃興した背景には、このような都市の成立や、その経済力の発達がある。

在来のバラモン教的な祭式主義にあきたらず、自由な立場から自ら思索し修行し、
自ら宗教的問題の解決をはかろうとする人々があらわれ、彼らは一般に
沙門(シュラマナ)(努める人)とよばれた。
その思想は唯物論、宿命論、快楽主義、懐疑主義などをふくんで、様々雑多であり、
その思想的な活動はきわめて活発で、ギリシアにおけるソフィストたちの時代にも
対比される。
仏陀もまたそのような沙門のひとりとして、ヴェーダへの批判の眼を、
インド思想史上に植え付けたのであった。


【紀元前四世紀頃~】
東方のガンガー河中流の一帯を中心にマウリヤ王朝が興った。
それはギリシャのアレクサンドロス大王が西インドに侵入した直後である。
やがてその三代目のアショーカ王(阿育王)の時代になるとその勢力は四方に伸び、
全インドを統一掌握して、インド史上はじめての大帝国が出現する。

アショーカ王は仏教の外護者(げごしゃ)として著名であるが、
同時に彼の時代に文化や芸術は飛躍的に発展したヴェーダ聖典の学習の補助学として、
祭事学(カルパ)、音韻学(シクシャー)、韻律学(チャンダス)、
天文学(ジョーテイシャ)、語源学(ニルクタ)、文法学(ウイヤーカラナ)
などの諸文化が発達し、それぞれの部門についての経典(スートラ)がつくられたのも、
マウリヤ王朝の興起に前後する時代であった。

宿命論や深い厭世観は、ジャイナ教や仏教もふくめて、
当時の思想家に共通して見られる傾向である。
そのころ、国家間には弱肉強食の戦争がはてしもなくつづいていた。
仏陀時代に、十六大国があったと伝えられるが、そのなかでもマガダやコーサラのような
強力な専制君主国は、次第に武力をもって小国を併呑(へいどん)した。

仏陀の存命中に、その故郷であるカピラ城が、隣の大国コーサラに滅ぼされ、
シャーキヤ族が皆殺しになったという惨事はよく知られている。
そのコーサラ国もやがてマガダ国のアジャータシャトル王に制圧された。
こうして部族や小国家は次第にその自主性を失い、
やがてマガダ国の全インド統一へと向かっていくこの時代は、
まさしく宿命論・厭世観を生む必然性をもっていた。








最終更新:2007年07月26日 02:46
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