765プロライブ劇場特別公演『CLOSED』 > コメントログ

  • 交流会の作品規定が40000文字以下という事らしいですが、この作品は規定ギリギリの39980文字。全力で詰め込んでやったというのがとても伝わってきて、調整も大変だったのではないかと思います。まずはそこを1番にお疲れまでした!と言いたいです。縦書きで書かれた戯曲形式というのも非常に面白く、本当にアイドル達が実演しているのが目に浮かぶようでした。ところどころ見ているお客さん達の笑い声が本当に聞こえるようで、とても意欲的な作品で素晴らしかったです。 -- (Cな人) 2019-06-24 08:37:48
  • 御託は良いからとりあえず読めと言わんばかりの世界観
    構成その他、実に計算されていて、その力量には脱帽です
    グイグイ引っ張られて気付いたら読み終えてる、そんな感じでした
    正に圧巻

    ちなみにこの台本を狂犬時代の千早に渡したら(ここで文章は途切れている -- (ラピス) 2019-06-29 02:47:43
  • めっちゃ皆が楽しそうで楽しかったです。
    観た感がすごい作品でした。 -- (フワピッ僧) 2019-06-30 17:04:23
  • 演目それぞれが面白いのは勿論、この物語をSSとして書こうという発想自体が凄い。「観客」の盛り上がり、幕間の暗転、明転ひとつひとつとっても、とにかくリアリティがあり、大変な熱量を込めて書かれたのだなぁ、ということが伝わってきました。
    この物語に、どのような称賛が相応しいか? 浅学の身である私には、これが適当かは分かりませんが、スタンディングした上での拍手を、この物語と作者様に送りましょう。 -- (直球) 2019-07-04 23:53:27
  • なるほどこういう書き方もあるのですね。勉強になりました。
    是非役者をつけてやってほしい感じです。 -- (もりやりりを) 2019-07-14 18:03:26
  • ・はじめに

    告白します。これは感想という名目の怪文書です。今回、私は交流会参加作の中でも取り分けてまいてぃん氏の取り組まれた挑戦に――つまり、戯曲形式を用いて『実際にあった』と想定されたコントライブの再現、またそれを表現するという試みに期待と注目を寄せてました。

    何故ならば"ソレ"は私がかつて『やりたかった事』と全く同じで、しかし、ある理由によって没とした草案と形式が一緒だった為です。ファンレターやラジオレター、郷里の文や恋文等に果てはメールも扱う手紙に関する短編『LETTER』。それから現場挨拶や上下関係、日本の古いしきたりやそれらに対する勘違いと言った礼儀に関する短編『MANNERS』……二つは765プロライブ劇場を舞台とした一連のコント公演その公演名であり、本作『CLOSED』同様一見何の関連性も持たない多様なオムニバスが実は、全体として眺めた時に一つの"個"として形作る――そういう構想のもとに生まれた私の大いなる野心でした。


    ……けれども前述した通り、私は両公演を形にする事はしませんでした。出来なかったと言うより止めたのです。「待て待て待て、確かにこの案は"成功すれば"面白いさ。だが重大な弱点を抱えている。現時点で私にそれを解決する事は不可能だ」……ハッキリと確信したのは自作『アイドル裁判』を書いた後で、これはかの有名なスケッチ『スペイン宗教裁判』をアイドルを使って再現したパロディでした。日本語版の訳を基にして台詞を起こし、三人称地の文で春香達の行動・反応その他を描き、始まりと最後に志保を置いて、幕間には抗議文もちゃんと仕込みました。

    つまり、あの番組のフォーマットを可能な限りコピーしたんです。三人称を試したのはより客観的に舞台を再現する為の物で、台本形式にしなかったのにも後述するようなワケがあります。私は文字で、文章で全てを賄いました。……とはいえ、この手の模倣は珍しくも無ければありふれてると言ってもよく、探せば台本形式で書かれた類似品がゴロゴロしているような状況。流行りの芸人のネタをそのままスライドさせて来たような、そういうシリーズ物を目にする機会も少なくないんじゃないでしょうか? そうして、それらは大抵の場合台詞だけあれば成立して、乱暴な言い方をすれば"替え歌"のように転がっています。それで、読者も満足なんです。SS界隈のコメディにおいて何より求められる"共感性"……それを満たす為に説明の地の文はむしろ邪魔であって、敬遠の原因にだってなりかねません。「テンポが悪い」と言ってしまう人だっているでしょう。

    しかし、私にはそれがどうにも我慢なりませんでした。「」の横に『スッ』であるとか、『バシーン・テレテレ・ガーン』なんて一律で杓子定規な表現、「……」だけで表される安っぽい沈黙描写に「お手本でもあるのか?」と問いたくなる既視感だらけのダイアローグ、それからゴリ押しを隠そうともしない説明台詞のオンパレードといった『台本形式のお約束』はお手軽で安心できる記号ですが、少しでも考えれば"詳細描写をするには力不足"だって誰にでも気付けるハズなんです。その『クスクス』が一体どんな笑いなのか? 嘲笑なのか微笑みなのか、周囲の人間の反応は? 声のトーンや表情、態度に姿勢……そう言った本来ならば『目で見て、耳で聞く』情報の一切を単体では表す事も出来ないのに!


    ――そうして、ええ、そろそろ本題に入りましょう。これこそ"戯曲形式"だけが許される強み、台本には無い"臨場感の再現"でした。地の文ではくどくなり過ぎる照明、音響、舞台装置の説明に演者の反応を必要最小限の字数でもってスマートに示し、会話は台本形式の良いトコ取りで複数の人間を一様に動かすことも出来る。ハッキリ言ってこれは"文章による映像の再現"以外の何物でもなくて……けれども、それ故に致命的とまで言える大きな欠陥を、戯曲が台本に取って代われぬ弱点を抱えてしまっているのでした。

    つまり――戯曲形式の前では全ての読者が"作者"のように、又はそれに近しい存在として振舞う必要に迫られてしまう……というギロチンの刃のように冷たく残酷な現実です。

    ・初めに、の【はじめに】

    さて、本作は作者さんの説明通り"徹底的に"戯曲であります。それを端的に表しているのが第一ページの【はじめに】で、冒頭から『この度は本商品をお買い求め頂き~』とこの作品が"形を持った本"であること、読者はそれを"手に取った"人間である事が明言されているんですね。これは速報などでも時折見られる『インタビュー形式のSS』とも共通している表現ですが、最後まで読んだら分かる通りこの作品は"『CLOSED』という公演が過去にあって、本作はそれを書籍化した物なのだ"……といったスタンスを一切崩す事無く進んで行きます。つまり"ラストで思わぬどんでん返し"のような『叙述トリック』の類はあり得なくて、もう、どこまで行こうが読み進もうが現実の延長からは抜けられない、起きた過去を書き換える事も不可能だと言う"厳しい態度"を見せるんです。

    要は「この先に書かれてる出来事ってーのは一切合切真実で、実際に起きた事なんだからお前の担当がどんな目に遭っててもピーピーさえずるんじゃねぇよ」って開幕から念押ししてるんです。強い。おまけに"本"という媒体から読み取れるのも表面的な事実だけで、演じているアイドル達の内情・裏方スタッフ達の献身なんかは何一つ語られる機会を持ちません。……これを作者の強気と言わずに何と呼ぶか? 凄まじいまでの喧嘩腰にページを捲る手が震えてしまうって話ですよ。

    ・【closing】かくして幕は開いた。

    そうして始まる【closing】は戯曲形式に慣れて貰う為の所謂ルール説明であり、裏を返せば「ついて来れないなら置いてくぜ」と読者を置き去るふるいの役割を持った一本目。

    開幕から口々に名物案を並べていく四人のアイドル達ですが、その会話に何やら奇妙な違和感を感じない人は一人も居ないと思います。それは昴が会話を回す側という珍しい立ち位置、ひなたの頭を下ろすジェスチャー、『おしくら饅頭を知っている!?』という千早の台詞でどんどん明確になって行き、最終的には歌います・歌いませんと言った彼女の突飛な行動で真実として成立します。
    そう、これらは全て"演技"なのです。事前に台本が用意されて、この日の為に彼女らが練習してきた会話なのです。だから細かい所が不自然であるし、読者はそれを"許容して"受け入れないといけない。『解釈違い』や『キャラ崩壊』なんて温い言葉は言った方の負けです。なぜならこれが舞台だから。観客でもある私達に出来るのは黙って劇場の席を立つか、照明に照らされた彼女達の"頑張り"を最後まで見届けるかの二つしか無いと改めて提示しているワケです。

    それもただ台詞をなぞるだけでは不十分で、読者は合間合間に差し込まれた注釈、その光景を実際に頭の中でイメージする必要が出て来るでしょう。……あるいは、場合によってはそれ以上の事も。
    しかし、それこそ本作を楽しむために求められる必要不可欠で大切なピース、"想像力"そのものなのです。

    ・【ぶとーかんけんがく】、及び公演見学のススメ

    二本目、【ぶとーかんけんがく】では前述した想像力が容赦なく試されます。
    何せ登場人物全てにアイドル本来とは別の役名・性格・立場と関係性が用意されて、それは台本形式における"そのキャラらしさ"を守る最後の砦、台詞や口調にまで大きな変更を加えられた四人はハッキリ言って"別人"です。一切方言を口にしないひなたはその例えとして上げるに最たるモノで、披露されるネタ自体も"アイドルと劇場"を使いながらアイマスとは一切関わりの無い状態……。

    でも、ここで「オリジナルでやれ」なんて言ってしまう人は本作の主旨が分かっていません。繰り返しになりますがこのコントは、公演は四人の練習の成果なんです。舞台の上ではアイドルマーちゃんを演じるひなたが一生懸命練習したであろう標準語の台詞を喋っています。真は一々大袈裟に、ファンならではの厄介な反応を表現している事でしょうし、千早もそれに負けじと高テンションな演技を続け、昴だって落ち着いた支配人の役を(ここで瑞希からコツを聞いたんだろうか? なんて、直接は出てこない他メンバーの存在にまで想像を広げられるのが実に楽しいのです!)最後まで見事に演じ切ります。

    しかしながら、そういった事をまるで気に掛けないような見方をすると「本作は明らかにキャラを侮辱してる!」そんな風に受け取る人が居ないとはとても言い切れない。そうして続く残りのネタにしても、それぞれがそれぞれに個性的で(暫し個性的過ぎる)役柄と際どい笑いに四人は打ち込み続け……結果、「今舞台に立ってるアレは誰だ?」という不思議な感覚を読者に抱かせるまでになります。

    ・結局"閑古鳥"はいつ現れるのか?

    では話は少々前に戻り、ここで戯曲形式の弱点を一旦まとめてみましょうか。

    ・まず第一に戯曲形式の台本では照明、音響、舞台セットに演者の服装反応台詞の強弱といった多くの要素を読者の想像力に委ねるリスクが存在する。(脳内映像イメージとしての具現化)

    ・第二に、この感情移入とも呼ぶべきプロセスで少しでも拒絶反応が出るとその後の一切が我慢のならないモノになる。(詳細描写・心情描写を省かれる、演じるアイドル自身からもかけ離れた設定を設けられた事によるキャラクター再現の困難さ)

    ・第三にこうしたコント公演が題材の場合(それも本作のようにオムニバスならば猶更)ネタ毎にリセットされる役柄と演者本来のキャラクターの境界は曖昧になってしまい、舞台が長引けば長引くほど読者に無用の混乱を――アイドルが演じる役を見ているのか、そもそも役(オリジナルキャラクター)自体を見ているのかがハッキリ分からなくなってしまう。

    以上、これらの事柄を地の文形式では視点の固定やより詳しい心情・情景描写でカバーして(ただし、そうするとその作品は"舞台"ではなく"物語"になってしまい、良い意味でドライな公平性が損なわれる。俯瞰的、観客視点の消失)台本形式ではこういった細かい指定は台詞横の擬音やテンプレ展開のパターンで記号化し(これも前述した通り台詞によるゴリ押し以外の面白味は一切失われ、大抵の場合作者個人のオリジナリティも希薄になる傾向が多い)……どちらにせよ読者の負担を減らす手法が取られるのが一般的ですが、戯曲形式というのは両者の良いトコ取りをした結果説明が簡素にならざるを得ず、「面白いかどうか」の判断を作者がコントロール出来なくなるんですね。(少なくとも本作のようにオリジナル要素を詰めれば詰めるだけ二次創作としては異質・困難な物になる)

    さらに加えて最大の弱点。致命的とまで言えるのは「戯曲は結局上演ありき」――これです。どんな脚本もまず観客と演じる舞台があって、その上に練習を重ねた役者が立って、照明が当たり、SEが鳴って、空気と空気の触れ合いがあって、そこから生まれる緊張感、緩急の具合で客が沸き、私達はそうした舞台を見た興奮、想い出を振り返る為にわざわざ『戯曲』を手に取るのです。逆に言えばその段階をすっ飛ばして開かれた本書は説明書の無い中古のゲームソフト。遊び方を知らなければ楽しむ事すら難しく、悲しいかな、多くの人はそうした手間と時間のかかる『手探りの探索』とは無縁の生活を送ってますし、調べるにしてもそのリソースを別の物に割いてる人が殆どでしょう。

    要するに文章として書かれている事を頭の中で想像する、映像のように再生する為に必要不可欠な『取っ掛かり』、人によってはこれをどうしても何処からも見つけられない……と言うか、造り出せない人がいるんですね。

    だから流行りのワードとやり取りといったウケる要素・テンプレートを引用して、登場人物の名前だけ変えたような"替え歌"作品がいつまで経っても減らないんです。これを王道と言えば聞こえの方も良いでしょうが、そうした物を好む層にとって本作は非常に噛み砕き辛い作りになってますし、場合によっては歯が立たないと言える。……そんな彼らにこの作品を"戯曲のまま"食べさせる為に必要なのが「今舞台(設定)がどうなってここはどんな場所か、役者はどういう動きで立ち位置はどこか」を教える分かりやすい映像(動画)であり、「今は誰が何の役で喋っているのか」を示す画像(おはジェネ等)であり、「さあ! ここで役者が面白いジョークを言ったぞ」と教えてくれる過剰なまでの笑い声(シットコムでよく聞くアレ。"その台詞がどうして面白いのか?"といった笑い所についての解説・説明)になるんです。

    結果、そうした"文章以外の補助"があってようやく"文章媒体である戯曲"は機能します。事前に動画で映像を閲覧し、画像でキャラのイメージを掴み、一つ一つのネタの笑い所を予習する事で『書かれてる事』を理解するんです。「こんなに分かりやすく書いてるのに」なんてのは誰もが抱く思いですが、そうまでしないと分からないし、なんなら分かろうともしない他人ってのは一杯いて……。

    要するに「労力の割りにウケないだろうな」と判断し、私はかつて草案を仕舞い込んだのでした。それは戯曲形式の持つ"読者にとっての"ややこしさが原因で、幾ら一本一本のネタが良くても需要が無ければ供給は生まれません。それが『実際に起きた出来事・事実だけを記す』遊びの無い公演・書籍・戯曲の形式を採るなら猶更窓口は狭くなります。

    ・それでも物好き達は本をその手に取った。

    しかしながら、以上の事柄は『作者にとっての都合』であり、中には物好きな読者が興味を引かれて手に取る事も十分あり得る話です。そうして運よく読者となった者が先に述べた様々な『補助』を必要としない人間ならば、彼、又は彼女は本作で披露された多くのネタに噴き出す事を我慢できず最後まで読み通す羽目になります。

    まず【エレベーター】はシチュエーションこそ良くある話のように思え、その実真と昴の学ラン姿、男装した二人が男子という設定で猥談に花を咲かせて盛り上がる可笑しさ、足立(昴)が昴のモノマネを披露する等ファンサービス満載なモノマネ合戦からの薔薇とも百合とも取れるオチ……と、考えれば考えるだけ笑い所が増える本作でもずば抜けた完成度の一本。

    【閉ざされた森の老婆】では悪役ひなたの赤ずきんがジェスチャーだけで笑いを取りに。序盤の可愛らしい仕草や控えめな反応からどんどんワルが滲み出す様、タンスに向かって舌なめずりなんて想像するだけで可笑しくって(そして不思議となぜか似合っていて)あっさりとしたオチのつけ方も含め、テンポとやり取りが終始小気味良く続くまさに戯曲だからこそ描ける話。

    【バーの常連】は千早……というより中の人が漏れ出してるような泥酔具合が(しかし念押しするが演技なのだ)普段の彼女とのギャップを生んで読んでいて楽しく、そして段々可愛くなってくる。真の的確なツッコミ含め会話の応酬も容赦なく、演目内では最も笑いやすい一ネタ。

    【アイドルハンターハンター】はこれまでの流れからすると少し変わり種の、派手さは無いがロジックで責める笑いがじわじわ効いてくる面白さ。そもそもの世界観設定から何から理不尽で、話が進むにつれてどんどんボロの出て来る正義のヒーロー(?)というのは古典的だけど良く出来ている。何より演出、笑いの見せ方が巧い。看板やジョンバといった小道具の活かし方も含めひなた好きは大満足じゃないだろうか?
    また先のバーがAS組メイン、今回がシアター組メインという事で両組の演技の比較だとか、そういった妄想を広げる楽しみ方も出来てお得。

    【自給自足アイドル】にて久々に四人が勢揃い。それぞれがそれぞれの方法で真のやる気を挫いて行き、最終的に言いくるめられてしまう理由は「誰もが知ってるお約束」で。劇場の舞台にテレビを持ち込んだある種の入れ子構造的自給自足術における真実が読んでてどうにも癖になる。特にファンは家族であるのくだり、二人揃っての「テッテレー」なんかは合わせた手と手を高々と上げる昴達の姿が想像できてしまうのが悔しい。

    そうして【閑古鳥は去る】は公演のモチーフとなった二人組を知っていればニヤリと出来る演目順、想像通りに出された内容(ジャンル)もあって大変印象に残る作品。ハッキリ言って無邪気(を演じる)千早が凶器的に可愛いんですが、『TODAY with ME』という選曲もあって緩やかな終わりを予感させる、全体的に不穏な空気漂う中でしかし、楽しい時間も後僅か……と物悲しさも感じさせるのが本当にズルくて凄くズルい。終盤、分かってはいたもののやっぱりそういう締め方をされると涙腺がどうにも緩んじゃって、竹刀を奪い合う二人、その後の昴の台詞を含めてフィナーレを飾るに相応しいなと。間違いなく心揺さぶられる一編で――作者さんのこぼれ話を読んだ後、【ぶどーかんけんがく】に戻った私は思わず唸らされてしまいました。

    【opening】はラストでありながらある意味では舞台の始まりであり、先に書いたばかりですが閑古鳥からぶどーかんへ続く流れも含めて作者さんの仕込みを感じられます。こういった細かいネタを成立させられるのも公演という一つ一つの演目が独立した形、そこに余計な演者の感情を挟ませない戯曲形式を採用した作品の見せ方・演出における取捨選択による結果であって、本作においてはそれが最高の形で実を結び高い完成度に繋がっていると感じました。

    ・あとがきにかえて

    そうして、最後に忘れてならないのは読者を現実世界に戻す魔法、特典コメントの存在です。これが【はじめに】と対を成す実質あとがきであり、作中のイメージを一旦リセットし、読者が慣れ親しんだ四人のアイドル達を取り戻す為に用意された……『CLOSED』という公演に預けていた彼女達を作者さんから返して貰う場面のようで。
    この特典があるからこそ公演中、どれ程彼女達がふざけ切ってもある意味安心できるような。全ては舞台の上の夢、ステージを降りた四人は変わらぬ私達のアイドルで――たまにはこうした仕事をこなす彼女達を見るのも良い物だ、なんて思わせてくれる・振り返る事のできる素敵で挑戦的な作品と出会えた事に私は大いに感謝、称賛の拍手を送り、心は充実した満足感に満たされ想い出の劇場から帰路にもつけるというモノです。鼻歌なんか歌いながら。

    ……加えてこうも考えます。本作は『戯曲』という形を取った・題材的に取らざるを得なかった作品で、それは内容含めて万人受けを狙うには正直厳しいスタイルです。が、果敢にもそれに挑戦をし、内容に逃げ道も敢えて作らず、架空の公演に現実的な形を与えて見事に創作して見せた作者さんの情熱は素晴らしいです。繰り返しになりますが心からの称賛を送りたいし、とても楽しく不思議で面白い体験、ここでしか味わえない感動を確かに覚えました。大変素晴らしい物を読ませて頂き私は胸が一杯です。感謝。 -- (餡煮詰め) 2019-07-20 12:40:33
  • 面白かったです。読んでいるだけで何の抵抗もなく公演の様子が頭に浮かぶのですが、何の抵抗もなく頭に公演の様子が浮かぶって凄い事なんだろうと思いました。
    最後のコメント、めっちゃ仕事しますね。 -- (azuu) 2019-07-24 02:15:53
  • 白水Uブックスで小田島雄志先生訳のシェークスピア作品を思い出す文章でした。
    縦書きなのは勿論、テンポややりとりが何となく似てる気がするんですが、ひょっとして古典作品や戯曲がお好きなのかなと思いました。
    このタイプの文章を書ける人はあまり見ないので、テンポや舞台描写など勉強になりました。 -- (uskP) 2019-07-25 22:21:35
  • 大いに笑わせていただきました。
    あまりピンとこないこのメンバーの組み合わせと、そこにコメディーまで掛け合わされるとどうなるのか、想像がつきませんでした。
    でもみんながみんな役に入りながらもみんならしいところがあって、最後までとても楽しい気分で読ませていただきました。 -- (蓮見) 2019-08-12 14:17:44
  • こういうのもあるかと驚かされた
    面白かったです -- (kbt) 2019-12-08 13:42:58
最終更新:2019年12月08日 13:42
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