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第4回読書会 - (2006/10/18 (水) 20:41:17) の1つ前との変更点

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**『プロタゴラス』を読む ■時 2006年07月12日20時~23時、翌日02時~5時 ■場所 民俗学研究会部室、夜警部屋 ■利用図書 内田樹 著 『寝ながら学べる構造主義』 橋爪大三郎 著 『はじめての構造主義』 レヴィ・ストロース 著 『悲しき南回帰線』 ■参加者 メンバー全員 +マエノソノさん、ピノキオ、ウィラポン ■感想文 以下参照 **感想文 ■サモン &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99" ><tr><th>題:構造主義</th></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 今回の読書会のテーマが構造主義に決まった時、私は正直「参ったなー」と思いました。前回の「プロタゴラス」でも、哲学が苦手で「うーむ」と唸ってしまった私が、今回は「構造主義」について語る…どう感想を述べればよいのやら見当もつきません。そもそも、構造主義って何なんだ?(同じように、実存主義とかマルクス主義というのも実はほとんど分かっていない)そういう状態の私が、構造主義の話についていけるのでしょうか。それを心配しつつ、今回の読書会に挑むこととなりました。</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 本を読んだ感想としては、とりあえず少しは興味が持てたという感じです。構造主義という言葉の説明は上手くできそうにありませんが、本の中に出てくる、どこかで聞いたことのあるような名前の方々が、どのようなプロセスを経てどのような考え方をしたのか…という部分を知ることは、非常に面白かったです。「寝ながら学べる構造主義」、さすがに「寝ながら学ぶ」というのは厳しかったですが、ロラン・バルトについての章は最も興味を持った部分です。言語、と言うか私が何気なく使っている「ことば」に焦点を当てているので読みやすかったのでしょう。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 身近なものなのですが、よくよく考えてみると「ことば」ってすごいものだなーって思います。私が特に面白いと思うのは、若いコ達が使う「ことば」。「ギャル語」なんてものがありますが、普通に聞くと意味のわからないものが多々あります。けれど、その「ことば」と意味を照らし合わせると「そうか」と納得してしまったりします。元々の単語を短くしたり、ことばとことばをくっつけてしまうところが、あのギャル語の面白さなのかなぁと考えています。これ、構造主義の話とは関係なんでしょうけれど。</font></td></tr><tr><td><font size=2>※ついでに、ギャル語と同じように意味不明なもので「ギャル文字」ってありますけれど、あれは読めないです。どういう仕組みになっているのか全く分かりません。</font></td></tr><tr><td><font size="2">(今日б読書会は「⊃ゥ'ノ”ゥシユ≠”」レニ⊃レヽζζ”す★)←ギャル文字</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></tr></td><tr><td><font size=2> んー、でも最終的な感想を言いますと…本当は、何を書いていいのか分かりません。構造主義って言葉自体、すごく難しいものに感じてしまうんです。私も知らず知らずのうちに「構造主義的に」物事を考えているかもしれませんが、それを実感することがないわけで。初心者向けに書かれた本を読んだはずなのに、構造主義が分からない…そこで、今回の読書会は、私は他の人の考えや感想を聞いて学ぶ立場をとり参加したいと思います。</font></td></tr></table>) ■サトミ &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99"><tr><th>題:「プロタゴラス」</th></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 私は「哲学」というもの苦手です。物事について考えたり、他人と話し合って意見を述べるのは嫌いではありませんが、今回の「プロタゴラス」のような内容は、ちょっと私と相性が良くないような気がしています。</font></tr></td><tr><td><font size=2>私の中で「哲学」というと、ちょっと「硬い」感じがするというか、私は自分が分からないことを延々と考え続けるのが苦手なんだと思います。「徳」とか「正義」とか、はっきり言って私にはよく分からないし、深く考えることがあまりありません。でも、それを言ってしまうと他人に「何も考えていない」と言われてしまいそう。そういってことも、私が哲学を避けてしまう原因かもしれません。</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 今まで哲学を避けてきた私には、この手の話題について知識が足りなかったので、少しだけ調べてみました。そこで出会ったのがプロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉。とても有名な言葉らしいのですが、実を言うと今の今まで知りませんでした。「人間は万物の尺度である」、これってとても素敵な言葉だと思います。なぜなら世の中に溢れる意見や価値観など、何でも「それは個人の主観によって良くも悪くもなる」って言えてしまうからです。「それはあなたがそう思うだけでしょう?」と言われてしまうと、私には何の反論もできません。絶対的な真理があって、それはどういうものかなんて、私には分からないし、説明も出来ません。確かに、腑に落ちないという気分は拭えませんが。でも、私もその言葉を使って人と意見を交わす時に逃げることもできるわけです。</font></td></tr><tr><td><font size="2">だから、私は最初、何故こんなにソクラテスがプロタゴラスに食ってかかるのか全く分かりませんでした。ソクラテスのやり方は人の揚げ足をとるようで、とても嫌な感じがしてしまい、実に巧妙だなと思わせられます。私だったらソクラテスは絶対に友達にしたくない人間です。</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2>ソクラテスのやりたいことって何なのか。それは単純に見れば「人の揚げ足をとって喜ぶ」ことかもしれません。</font></td></tr><tr><td><font size=2>でも、実はそうではないんですね。</font></td></tr><tr><td><font size=2>自分には分からない、知らないということを自覚して、もっと知ろうと努力することが大切だと言っているんだと私は思います。偉い人や有名な人の意見に踊らされて、自分もその気になるのは間違ったことだと。そこが分かると、やはりソクラテスは偉大なのかもしれないと感じます。<font></td></tr><tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><td><font size=2>だけど、やっぱりソクラテスは少し苦手です。自分が実は何も分かっていないということが分かるのは、けっこう怖いことだと思いませんか?それを人に指摘されるのは嫌だと感じるのが、とても正直な気持ちだと思います。</font></td></tr></table>) ■モンチ &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99"><tr><th>題:わかる+方=方法∽構造</th></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> わからないことは無数にあるのだから、そのことを生きる目標にすれば暇になるようなことは決してない。たとえば、今回の読書会のテーマとなった構造主義をひとつとっても、わかるまでに必要なことは無数にあるように思えてしまう。課題となった本を読んだだけでも、わからないことはいくつもあった。この読書会を機会に、わかるまでになったのはごくわずか。完全と思えるほど構造主義をわかるのに費やす労力が、数十倍必要であるのは目に見えている。</font></td></tr><tr><td><font size="2"> それでも構造主義をわかりたいと思うのは、わかろうとする本能があるからだと思う。僕は、構造主義にある無矛盾や正当性などは二の次で、この主義をわかろうとする行為自体を本来的なことと感じているのだ。一方で、構造主義の必要性に疑問をもったり、わからなすぎたりして、わかろうとする行為を今回限りだと決め込んでいる人もいるだろう。 </td></tr><tr><td><font size=2> 実のところ、構造主義を一人でわかろうとせずに、勉強会でもしようかと思っている。僕一人の力で手に負えないというだけでなく、ぼくのわかり方正しいのかチェックできないからだ。だから、僕は今回の読書会を始まりと見なし、読書会のメンバーと今後も構造主義についての勉強会をしたいわけだけれども、いったいそれに賛同してくれる人がどれほどいるだろうか。それほど期待できないだろう。勉強会が希望通りに開けないとしても、これだけは暫く心にとどめておいて欲しい。それは、構造主義の対象は実在ではなく、”わかり方”なのだということ。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 構造主義といういうのは、古今東西どの人間も当てはまる、わかろうとするときのわかり方や、問題を解決するときの解き方を探求する行為だ。つまり、構造主義をわかろうとしている僕達がやっていることは、ややこしいのだけれど、こういうことになる。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 「”わかり方”のわかり方をわかろうとしている」。さて、ここでもうひとつ考えて欲しいことがある。それは、一体”わかり方”のわかり方を記述することは可能なのだろうかということ。どこかレヴィ・ストロースは終わりのない解決できない問を立て続けるような行為をしている、沙門のように思える。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 終わりのない行為を続けていく気のある人が一人でもいれば、読書会が終わって具体的な勉強会の計画を考えましょう!</font></td></tr></table>) ■センセイ &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99"><tr><th>題:プロタゴラス</th></tr><tr><td><hr border="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2>読み進めていくうちにどうやって感想を書いていいものか不安に感じながら読了しました。とりあえず、本文の流れに従って感想を書くことにし、では早速</font></td></tr><tr><td><font size=2>p, 18 ソクラテスは、ヒッポクラテスがプロタゴラスから学ぼうとしているのは</font></td></tr><tr><td><font size=2>「一個の素人として自由人が学ぶにふさわしいものとして一般的教養」ではないかと述べ、私は大学そのものがプロタゴラス〈ソフィスト〉なのかと考えてしまいました。ただ、最近見聞きする大学像は心なしか異なっている気がしますが。</font></td></tr><tr><td><font size=2>p,23 ソクラテス曰く、「どれが有益でどれが有害かをちゃんと知っている」果たして有害なものとは一体何だろうか?その判断はどのように定めるのか。この本では主題が”徳”とは何か?教えられるものなのか?ということですが、私がもっとも気になったことは上記の事柄です。</font></td></tr><tr><td><font size=2>”人間にとって有益なものが、善いもの”</font></td></tr><tr><td><font size="2">果たしてそう言えるのか?必ずしもプロタゴラスの説明が適当とは思わないが、ソクラテスの表現に納得はいかない。</font></td></tr><tr><td><font size="2">そもそも有益なものとは何か?有害なものとは何か?普遍的にそうしたものが在り得るのか。<tr><td><font size="2">具体的に見ても有益なものと有害なものは、おそらく個人によって差があるでしょう。うーん、こう書いちゃいましたが、レヴェルが違いますね。どうやったら良いのか。</font></td></tr><tr><td><font size="2">徳、敬虔、節制(分別)、知恵、勇気</font></td></tr><tr><td><font size="2">「快苦-とはすなわち善悪なのだが-の選択について過ちをおかす人々があるとすれば、それは知識を欠いているから過つ」</font></td></tr><tr><td><font size="2">「ただ知識の欠如というだけでなく、その場合に欠けている知識とは計量術にほかならない」</font></td></tr><tr><td><font size="2">『自分自身に負ける』=無知、『自分自身に打ち克つ』=知</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size="2">正直いって、この本について巧く感想をまとめられなかったです。実際の集いのときにその辺を突き合わせられたらと思います。</font></td></tr></table>) #comment(size=40,vsize=16,nsize=10) &counter()
**『プロタゴラス』を読む ■時 2006年07月12日20時~23時、翌日02時~5時 ■場所 民俗学研究会部室、夜警部屋 ■利用図書 内田樹 著 『寝ながら学べる構造主義』 橋爪大三郎 著 『はじめての構造主義』 レヴィ・ストロース 著 『悲しき南回帰線』 ■参加者 メンバー全員 +マエノソノさん、ピノキオ、ウィラポン ■感想文 以下参照 **感想文 ■サモン &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99" ><tr><th>題:構造主義</th></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 今回の読書会のテーマが構造主義に決まった時、私は正直「参ったなー」と思いました。前回の「プロタゴラス」でも、哲学が苦手で「うーむ」と唸ってしまった私が、今回は「構造主義」について語る…どう感想を述べればよいのやら見当もつきません。そもそも、構造主義って何なんだ?(同じように、実存主義とかマルクス主義というのも実はほとんど分かっていない)そういう状態の私が、構造主義の話についていけるのでしょうか。それを心配しつつ、今回の読書会に挑むこととなりました。</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 本を読んだ感想としては、とりあえず少しは興味が持てたという感じです。構造主義という言葉の説明は上手くできそうにありませんが、本の中に出てくる、どこかで聞いたことのあるような名前の方々が、どのようなプロセスを経てどのような考え方をしたのか…という部分を知ることは、非常に面白かったです。「寝ながら学べる構造主義」、さすがに「寝ながら学ぶ」というのは厳しかったですが、ロラン・バルトについての章は最も興味を持った部分です。言語、と言うか私が何気なく使っている「ことば」に焦点を当てているので読みやすかったのでしょう。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 身近なものなのですが、よくよく考えてみると「ことば」ってすごいものだなーって思います。私が特に面白いと思うのは、若いコ達が使う「ことば」。「ギャル語」なんてものがありますが、普通に聞くと意味のわからないものが多々あります。けれど、その「ことば」と意味を照らし合わせると「そうか」と納得してしまったりします。元々の単語を短くしたり、ことばとことばをくっつけてしまうところが、あのギャル語の面白さなのかなぁと考えています。これ、構造主義の話とは関係なんでしょうけれど。</font></td></tr><tr><td><font size=2>※ついでに、ギャル語と同じように意味不明なもので「ギャル文字」ってありますけれど、あれは読めないです。どういう仕組みになっているのか全く分かりません。</font></td></tr><tr><td><font size="2">(今日б読書会は「⊃ゥ'ノ”ゥシユ≠”」レニ⊃レヽζζ”す★)←ギャル文字</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></tr></td><tr><td><font size=2> んー、でも最終的な感想を言いますと…本当は、何を書いていいのか分かりません。構造主義って言葉自体、すごく難しいものに感じてしまうんです。私も知らず知らずのうちに「構造主義的に」物事を考えているかもしれませんが、それを実感することがないわけで。初心者向けに書かれた本を読んだはずなのに、構造主義が分からない…そこで、今回の読書会は、私は他の人の考えや感想を聞いて学ぶ立場をとり参加したいと思います。</font></td></tr></table>) ■サトミ &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99"><tr><th>題:「プロタゴラス」</th></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 私は「哲学」というもの苦手です。物事について考えたり、他人と話し合って意見を述べるのは嫌いではありませんが、今回の「プロタゴラス」のような内容は、ちょっと私と相性が良くないような気がしています。</font></tr></td><tr><td><font size=2>私の中で「哲学」というと、ちょっと「硬い」感じがするというか、私は自分が分からないことを延々と考え続けるのが苦手なんだと思います。「徳」とか「正義」とか、はっきり言って私にはよく分からないし、深く考えることがあまりありません。でも、それを言ってしまうと他人に「何も考えていない」と言われてしまいそう。そういってことも、私が哲学を避けてしまう原因かもしれません。</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> 今まで哲学を避けてきた私には、この手の話題について知識が足りなかったので、少しだけ調べてみました。そこで出会ったのがプロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉。とても有名な言葉らしいのですが、実を言うと今の今まで知りませんでした。「人間は万物の尺度である」、これってとても素敵な言葉だと思います。なぜなら世の中に溢れる意見や価値観など、何でも「それは個人の主観によって良くも悪くもなる」って言えてしまうからです。「それはあなたがそう思うだけでしょう?」と言われてしまうと、私には何の反論もできません。絶対的な真理があって、それはどういうものかなんて、私には分からないし、説明も出来ません。確かに、腑に落ちないという気分は拭えませんが。でも、私もその言葉を使って人と意見を交わす時に逃げることもできるわけです。</font></td></tr><tr><td><font size="2">だから、私は最初、何故こんなにソクラテスがプロタゴラスに食ってかかるのか全く分かりませんでした。ソクラテスのやり方は人の揚げ足をとるようで、とても嫌な感じがしてしまい、実に巧妙だなと思わせられます。私だったらソクラテスは絶対に友達にしたくない人間です。</font></td></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2>ソクラテスのやりたいことって何なのか。それは単純に見れば「人の揚げ足をとって喜ぶ」ことかもしれません。</font></td></tr><tr><td><font size=2>でも、実はそうではないんですね。</font></td></tr><tr><td><font size=2>自分には分からない、知らないということを自覚して、もっと知ろうと努力することが大切だと言っているんだと私は思います。偉い人や有名な人の意見に踊らされて、自分もその気になるのは間違ったことだと。そこが分かると、やはりソクラテスは偉大なのかもしれないと感じます。<font></td></tr><tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><td><font size=2>だけど、やっぱりソクラテスは少し苦手です。自分が実は何も分かっていないということが分かるのは、けっこう怖いことだと思いませんか?それを人に指摘されるのは嫌だと感じるのが、とても正直な気持ちだと思います。</font></td></tr></table>) ■モンチ &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99"><tr><th>題:わかる+方=方法∽構造</th></tr><tr><td><hr size="3" align="left"></hr></td></tr><tr><td><font size=2> わからないことは無数にあるのだから、そのことを生きる目標にすれば暇になるようなことは決してない。たとえば、今回の読書会のテーマとなった構造主義をひとつとっても、わかるまでに必要なことは無数にあるように思えてしまう。課題となった本を読んだだけでも、わからないことはいくつもあった。この読書会を機会に、わかるまでになったのはごくわずか。完全と思えるほど構造主義をわかるのに費やす労力が、数十倍必要であるのは目に見えている。</font></td></tr><tr><td><font size="2"> それでも構造主義をわかりたいと思うのは、わかろうとする本能があるからだと思う。僕は、構造主義にある無矛盾や正当性などは二の次で、この主義をわかろうとする行為自体を本来的なことと感じているのだ。一方で、構造主義の必要性に疑問をもったり、わからなすぎたりして、わかろうとする行為を今回限りだと決め込んでいる人もいるだろう。 </td></tr><tr><td><font size=2> 実のところ、構造主義を一人でわかろうとせずに、勉強会でもしようかと思っている。僕一人の力で手に負えないというだけでなく、ぼくのわかり方正しいのかチェックできないからだ。だから、僕は今回の読書会を始まりと見なし、読書会のメンバーと今後も構造主義についての勉強会をしたいわけだけれども、いったいそれに賛同してくれる人がどれほどいるだろうか。それほど期待できないだろう。勉強会が希望通りに開けないとしても、これだけは暫く心にとどめておいて欲しい。それは、構造主義の対象は実在ではなく、”わかり方”なのだということ。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 構造主義といういうのは、古今東西どの人間も当てはまる、わかろうとするときのわかり方や、問題を解決するときの解き方を探求する行為だ。つまり、構造主義をわかろうとしている僕達がやっていることは、ややこしいのだけれど、こういうことになる。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 「”わかり方”のわかり方をわかろうとしている」。さて、ここでもうひとつ考えて欲しいことがある。それは、一体”わかり方”のわかり方を記述することは可能なのだろうかということ。どこかレヴィ・ストロースは終わりのない解決できない問を立て続けるような行為をしている、沙門のように思える。</font></td></tr><tr><td><font size=2> 終わりのない行為を続けていく気のある人が一人でもいれば、読書会が終わって具体的な勉強会の計画を考えましょう!</font></td></tr></table>) #comment(size=40,vsize=16,nsize=10) &counter()

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