架空地域の歴史について記載する。
架空地域、主に荻沢・東島地区について記載する。
黎明期
愛浜や荻沢といった、愛浜県近郊地区に人が住み始めたのは1300年ほど、日本では墾田永年私財法が発布、世界を見渡すとカール大帝が即位した頃にあたる。発見されたその当時、荻が河口に多く自生していたため、発見者である武士、小磯小太郎により『荻沢』と命名された。愛浜の発見はそれより数年遅れ、同じく小磯が発見した。当時の住民の間では、魚に会える浜、すなわち「アウハマ」=会う浜と通称されていたが、それを聞き間違えた小磯が、『愛浜』と命名し、分家である乙田家に管轄をさせるようになった。
しかし大政奉還まで、現在の荻沢や愛浜といった地区は豊富な漁場であるという以上の認識はなく、小さな漁師町でしかなかった。その小さな漁師町が発展を遂げるようになるのには、明治の廃藩置県以降まで待たねばならなかった。大政奉還以降、浜崎県となった旧大久保藩の中心地でもある東浜(あがりはま)が県庁所在地として定められたのとは対照的に、一関藩では県庁所在地が、当時の中心であった荻川(現:荻ノ川)と、新たな漁場が直前に発見された愛浜との二案で内部対立があった(一関藩県庁所在地論争)。結局、愛浜派が趨(すう)勢的になり、計画都市である愛浜市が作られることとなった。しかしこの時点でも、荻沢は発展を遂げることはなく、一地方都市のままであった。
荻沢が一転、発展を遂げるようになるのは1889(明治22)年、当時の県令であった紀作徳重が資源の輸入港、および製造加工のための集積所として目を付けたことから始まる。花本海峡の入り口にあたり、船の往来も多くなるであろうという先見から、荻沢を県費で開発・開拓することとなり、英国人技術者であるデリュー・マックスメードを招聘、英国流の港湾設備と港町を整備させた。この工事に、県は当時の国家予算にも匹敵する1500万円、現在の価値にしておおよそ3千億円程度の予算を投じ、県の財政はこれによって傾いてしまうほどであった。そのため、『荻沢はデリューの虫食い港』とか、『荻ばかり沢』と揶揄されたばかりか、紀作は内務省からも目をつけられ、港の完成を見ずに故郷の石屋へと戻っていったのであった。
発展期
しかし、荻沢の港を整備した紀作の先見の明は、彼が浜崎を去った10年後の1899(明治32)年、ついに実を結ぶこととなる。二年前に完成した港湾施設とその周辺設備により、荻沢は当時の最先端技術を集めたセンターとしての役割を与えられることとなる。《カモメの営巣地でもつくったのか》と揶揄された港には、多くの船が行き交う中枢となり、また、センターとしての役割から旧制荻沢高校を中心とした学園都市の原型も形成され始める。そして荻沢は第二の都市として成長を遂げてゆく。そこで鉄道建設の機運が高まるのだが、多数の会社が乱立、免許の取得と失効が繰り返されたことにより着工は進まず、当時の新聞にも『免許だけが走る鉄道』(荻沢日報・1901年)と掲載されてしまうほどであった。そうこうしているうちに東浜に先を越され、1925(昭和元)年東浜市交通局の手によって県下初の鉄道である東浜市電(現:荻鉄
東浜市内線)が敷設される。そして翌年には第三の都市大具知にて大具知電軌(現:大具知自動車、廃線後バス会社へ転換)が敷設、不毛な争いで時期を逃した荻沢の鉄道開通は、それから40年近く後の1968年
荻沢電鉄本線(現:東風ヶ丘本線)開通まで待たねばならなかった。
大戦、そして破壊
1942年、大戦の波が南部にも影響を及ぼした。大戦に向け、不要不急線の撤去などが進んでいった。しかし1945年1月、愛浜市に空襲の波が襲い掛かり、愛浜市は焼け野原と化してしまった。これによりインフラはズタズタになってしまう。愛浜市電もこれで半数近くの車輛が被害を受けるが、一部の車庫が郊外にあったためその車輛が無事だった。その車輛を用いて市内を走行、被害を受け悲しんでいた市民を大いに勇気づけた。そして終戦を迎えることとなる。南部は愛浜を除きさほど被害を受けず、復興に向け愛浜市の交通網復旧が急がれた。
車輛差異の発生
1950年、それまで安泰であった東島地区に魔の手が襲い掛かる。年の瀬を控えた12月14日。東島都中心部のとある住宅で火災が発生した。それだけであればすぐに消し止められたはずであった。しかし当時の東島都内は木造の建造物が多く、道は未だに目抜き通りが多く消防車の出動を妨げた。それに折からの強風が火の手を大きくした。火の手がさらに大きくなり、都内の大半が全焼、または半焼するという凄惨な事件が発生した。火の手は浜崎県(現、愛浜県)との県境付近まで延焼したが、現在も運河である南都水道がクッションの役目を果たし、火は浜崎県まで燃え広がらなかったのであった。そのことが以降の交通網に影響を及ぼした。年が明け翌年の1951年、英国からW・A・クラドウェルを招聘、英国の規格に基づき格子状である、現在の街並みが再建された。
それが影響を及ぼし、東島都電は再建時に撤去されてしまった。これが契機となり、欧州からのバス車輛導入が進み、1990年の規制緩和へとつながっていった。
荻鉄の誕生
1950年代、火災発生以降の東島からモーターリゼーションが始まり、火災を免れ生き残っていた東浜市電に暗雲が立ち込めた。自動車が増え定時運行の妨げとなり始めた。定時運行を行えなくなった東浜市電は乗客離れが進んだ。これをきっかけに赤字に転落、赤字に苦しんでいた。それを解決すべく、1961年、半公営半民営、現在の第三セクター方式で荻沢電気鉄道株式会社、現在の荻沢電鉄株式会社が設立された。市は当初、負債に喘ぐ東浜市交通局の救済のため現・東浜市内線の買取を要請していた。しかしながら当時浜崎県が全株式の5割を保有していた。県は赤字が予想され一地方線の東浜市電の買い取りよりも基盤強化を急いており、1968年東風ヶ丘本線荻沢-大具知間が開業した。東浜市電の買い取りは1678年の予定であった。しかし東浜市内への空港開港が決定。その空港アクセス路線として白羽の矢が東浜市電、現在の東浜市内線に立った。1970年、空港アクセスを目的として東浜市電を買収、東風ヶ丘本線東浜支線、現在の東浜市内線・篠山線として一部延伸の上運行を始めた。買収当時は路線を縮小していた東浜市電の旧型車を集結、現在のライトレール的側面を持った路線として運行していた。1975年、旧型車を駆逐するため、ホームを鉄道線車輛と同じ高さに合わせた。これにより鉄道線用車輛が走行する、現在の東浜市内線の基本形がここに完成した。
規制緩和の波
1980年代、長岡・東島地区のバス路線では欧州仕様の車輛が台頭しつつあった。行政は緩和申請に手間取っていた。このため、規制を緩和しようとした。しかしながら火災の影響によって拡幅工事を行った東島、その影響を受けた長岡と、旧来の規格のまま建設された荻沢・神沢・田原地区、離島であり独自の系譜で交通網を構築していった愛浜地区とは規格が大幅にことなっている。それを合わせるとなると大幅な工事が必要となる。それに対し、荻沢・神沢地区の自治体から反発。しかしながら長岡・東島地区の声に押され政府は緩和を決定。それに反発した荻沢・神沢地区は緩和前の規格を条例で維持し続けたのであった。
県同士の合併、そして現在
2009年、平成の大合併が進む中、県同士の再編もすすむこととなった。古くから結びつきの深い愛浜県と浜崎県が合併、(新)愛浜県が誕生した。そして2010年、愛浜県が学術奨励地区に指定、株式会社立・NPO立の学校設置が可能となった。また、荻ノ川市が条例により学研都市特区となり、新たに『荻ノ川学研都市』が設置された。
最終更新:2014年12月10日 20:51