内池の歴史
前史(宇久氏領有まで)
そよかぜ他社のエリアが日本の1都道府県として歩んできたのに対し内池は独立性を戦前から保ってきた。
そこで内池島の歴史をここで詳述しておく。
内池に人が住み始めたのは2000年ほど前と意外に最近であるといわれている。起源は明らかでないがおそらく九州方面由来の海洋民族であろう。
日本人が内池にやってきたのは平安時代末期である。源平の争いに負けた平家の落人や源氏内の権力争いに負けた一部の木曽源氏などが内池に逃れてきたと考えられている。
その平家の落人達が最初に上陸したのが現在の平家原であるという。
先述の通り前州(当時の文献による。内池島は国前島と呼ばれていた)には先住民がいたが渡来した人々は融和の道を選んだ。内池において先住民問題が表面化しないのはこの時から混血化が進んだからである。
江戸期の前州(江戸時代)
16世紀中頃には肥前の宇久(五島)氏の一派が内池にやってきた。
宇久氏は平家側であったこともありそのまま全島宇久氏の保護下に収まることになった。内池弁に九州方言の影響が見られるのはここに由来する。
しかし五島の宇久氏は名前が五島氏に改まったが本領の福江から内池は遥かに遠いこともあり五島氏は内池の統治を事実上島の人々に任せたのである。
1603年五島氏は徳川家康に属し宇久氏以来の領地である五島列島の所領を安堵され福江藩1万5000石を得るがこの時に朝鮮出兵時より親しい関係にあった島津氏の勧めで内池の存在を隠し通すことにしたのである。
幕府も江戸から遠く離れた離島の藩のさらに離島の領地に対して特に興味も無かったことから幕末まで前州の存在は無かった事にされる。伊能忠敬ですら知らないまま江戸時代は過ぎた。
なお五島には信仰を捨てなかった外海や長崎のキリシタン達が移住してきていたがそのうち一部はさらに内池に移住している。
当然ながら前州は幕府の統治下ではなかったため絵踏もなく信仰の自由が一応保証されていた。
江戸時代中期には福江藩の三年奉公制から逃れるために内池に移住する人々もいた。新三井楽や椛島や玉浦(元々は玉之浦)や西浜といった地名はこの時移住してきた人々の出身地に由来する。
なおこの時前州宇久氏の文献に「国前国」という表記があることから一応幕府への服属体制はあったとみることができる。
この間内池城には前州宇久氏が住んでおり統治は前州宇久氏がそのまま行っていた。これはその後重成が内池に自邸を構えるまで続いた為内池城は廃城を免れ1937年まで宇久家所有の現役の城であった。この時代より決して政治が安定したとは言えなかった本領福江の宇久氏と異なり前州宇久氏には「宇久家に暴君なし」と言われるほど名君が多かったといわれている。
自治権への道(明治~自治権獲得まで)
版籍奉還時にようやく福江藩は新政府に内池のことを報告。新政府としては寝耳に水だったようで新政府の手に余るものとして引き続き福江藩の持ち分とされた。
1871年廃藩置県に伴い福江藩領をもって福江県が成立。同時に福江藩から国前地区が切り離され大島県が成立。この時点で内池が日本の施政下に入った。
この時に北海道を開拓していた開拓使に内池の開発を兼任させる。しかし北海道の開発で手一杯である日本に内池の開発をする余力も無くむしろ民間資本での開発に期待する対応となっていった。
そうこうしている間に明治維新頃より当時の宇久氏の当主宇久政重の命により日本本土で学んでいた内池出身の後の技術者や政治家達(内池では彼らを前州志士と呼ぶ)が次々と本土の技術や文化を学び帰島する。
さらに政重自ら本土を視察(宇久視察団)し様々な技術を持ち帰る。この前州宇久氏14代目当主宇久政重が内池にもたらした功績は大きく(早苗浦の命名も1890年の彼による。それまでは上之浦や浜守山浦と呼ばれていた)1905年72歳での政重の死去の際生前愛した早苗浦を望む宝泉寺に墓が置かれ早苗浦の対岸に当たる奈木には政重を祀った奈木神社がおかれた。内池で「宇久様」というと宇久政重を指すことも多い。
政重の経済政策のもと内池初の鉄道となる奈木軌道が開通する。さらに教育分野でも「人を育てるは島を強くするに等しい」と力を注ぎ1900年当時としては高い就学率を誇るにまで至ることになる。
これを皮切りに内池にも鉄道ブームが訪れた。1900年には内池市電の前身となる内池都市軌道が開通した。
15代目当主宇久重成は城南から内池島全体の発展に寄与した政重とともに内池町の発展に寄与し1904年36歳で初代内池町長と大島県知事に就任。1904年には内池電気鉄道が開通。
その間も日本政府は内池に対し冷遇こそしないものの大きな政策も取らなかった。
日夜内池の為に働き続ける宇久氏を見ていた大島県民の中には日本からの独立論まで出始めた。
その内池独立の機運を高めたのが1914年第一次世界大戦の開戦である。内池にも納税と兵役の義務はあったが第一次世界大戦において内池に何の得も無いのは目に見えていた。その為重成は内池地区からの出兵を止めるように政府に掛け合った。
この時内池の人々に日本政府への期待が無いに等しいことは重成ももちろん知っておりこれを機に内池を統治する気がないなら大幅な自治権を与えよと直談判するのである。
この時前州志士達も再び日本本土に渡り内池の自治権を与えよと関係各所に掛け合った。
そして重成や前州志士達の働き、国際連盟の誕生やヴェルサイユ条約の締結などの追い風に支えられて1920年3月1日内池条約発効により内池地区に大幅な自治権が与えられた。
これは中立を旨とする独自外交権も認められたものであり国防のみ日本に委託したものである。
太平洋の一部の国では国防のみアメリカに委託した形での自由連合という形での独立がある現在では一種の独立国ともいえる歴史的な条約であった。
宝泉寺の宇久政重の墓の前は政重に内池の自治権獲得を報告しようとたくさんの人々が集まったという。
この日は内池地区では条約記念日として祝日とされた。同時に大島県が廃止され内池自治府が誕生した。同日には自治議会や自治総監が成立し重成が初代自治総監に就任した。
内池条約と対米問題
1930年4月1日内池郡内池町・城ヶ崎町・川西町・湯野村・長野郡長野町・御門村・高田村・坂中郡坂中町・売布村・城方郡城南町・井岡村が合併して内池市が誕生する。
同日内池都市軌道が内池市に買収され内池市電となる。
1937年宇久家より内池城の所有権が自治府に移管される。これは当時宇久家の私有地となっていた内池城内の帰属先となる自治体が不明確であったことが理由である。1937年当時内池城の外堀に面している自治体は内池市、吉川郡吉川町、北野村、柴田郡柴田町、城北村、城北郡堀北町、城西郡夏川町、夏井村、城西町と1市5町3村に及んだのである。
1940年11月1日横江郡横江町・片浜町が合併して市制、横江市となる。その後1949年に横江郡小野村と横北村を、1965年には瀬名町、上浦町、白沢村を編入し市域が旧横江郡全域となる。
第二次世界大戦の際にも内池には日本軍が内池条約に基づき使用していた軍港由良を除いてほとんど空襲は無かった。
しかし由良では民家などにも空襲があった(由良事件)内池では外交上の中立を掲げていたためこれは大きな問題となった。
1945年4月には重成が渡米してアメリカ側に猛抗議するとアメリカも全面謝罪したため事なきを得たがこれは内池の安全保障政策を転換させる一因となった。
この頃には重成は16代目当主となる長男の宇久久重に自治総監の座を譲る考えであったが時節柄重成が総監の座を維持することになった。しかし民主的内政改革については既に久重が行っていたともいわれている。
1945年8月15日日本が敗戦。同時に進駐軍による間接支配が日本本土ではスタートした。
内池には日本軍の軍港となっていた由良基地の占領のために米軍がやってきた。なおこの時日本政府とアメリカ政府は止めようとしたものの米軍は聞く耳を持たなかったといわれている。なお当時の城西駐屯地については日本軍が使用していなかったこともありおとがめなしとなった。
しかし由良事件以後の内池の人々の対米感情はあまりよいともいえず冷たい視線を受けながらの占領となった。
元々政重や重成の開明路線により戦前から内池の教育制度に関しては現在の教育と変わらない制度であったこと(新制教育体制は内池の教育制度に範を取った説が有力)農地改革にしてもそもそも前州には地主制度そのものが無かった為(全島総自作農)行う必要がなく女性参政権は1915年には内池条約関連の法改革で容認されておりGHQとしてもあまり価値のある占領ではなかった。財閥解体という点では宇久家がリストアップされていたことが近年明らかになったがただでさえ米軍に対して冷たい内池の民衆の暴徒化などを懸念して取りやめとなったという。
しかし成果の無いことに不満を持った米軍側が由良一帯の民有地も含め占領しようとした為自治府側が激怒した。そもそも中立を保っていた内池に他国の軍隊がいるだけでも由々しき問題だったのである。
重成は高齢の体を押してついに東京のマッカーサーの元に直接出向き強硬に内池の中立確保を迫った。マッカーサーは治安維持を理由に拒否したため重成はついに内池の中立確保の為の戦力保持を決意したのである。これは武装中立への転換点であった。
1947年5月3日日本国憲法が施行。これについては自治府議会で憲法9条を除く形での内池での効力容認を決定。憲法9条が内池において効力を持たなかったのは内池の外交・軍事独立権の兼ね合いと後の中立守備隊の設置を見越したものとされている。
1947年11月23日第二次内池条約発効に伴い国防委託を終了し中立守備隊を設置する。これは現在の自衛隊内池総監部の祖である。
そして内池独自の中立確保手段を手に入れた自治府はついに対米交渉に入る。
この時アメリカやソ連などから自治府の国際連合加盟の誘いも受けていたが後の由良事件で頓挫することとなる。
しかしその半ばの1948年1月24日重成が病に倒れ自治総監を辞職。これに代わり内池市長であった久重が自治総監に選出される。
そんな中2月26日夜に由良に駐屯していた米兵が酒に酔った勢いで民間人を暴行し殺害する事件を起こしてしまう。内池で二・二六事件というとこちらを指す事が多い。
これにより内池の世論は沸騰し翌朝には内池自治府下の全ての自治体が全会一致で抗議声明を出し由良にはたくさんの人々が抗議に集まった。当時の内池自治府の人口114万人のうち30万人が由良に集結したのである。
事態収拾の為マッカーサーが由良に極秘上陸した際にもこの抗議の取り囲みは続いておりマッカーサーが基地内にいると分かった途端に民衆の殺気が増したといわれる。マッカーサーはこれを見て内池撤退を決意しアメリカ政府に撤退を進言した。
米軍は即座に内池撤退の準備を始める。そして1948年10月1日米軍が内池から完全撤退した。
1951年11月1日ラジオ内池(現内池放送/略称RUB/コールサインJOFF)が開局。内池最初の民間ラジオ放送でこれは内池新聞と宇久家の出資によるものだった。ラジオ内池に宇久家が出資しているのも政重以来の教育分野への注力の一環であり中部日本放送、新日本放送(現毎日放送)に次ぐ開局である。
内池の現代史
1952年には戦後の混乱も落ち着きいつまでも宇久家の世襲ではいけないと(久重に子供がいなかったのもある)久重は自治総監を辞職。この時より自治総監は自治議会内で選出されることとなった。久重はその後も内池の主要企業の株主となる形で内池に影響力を保持したがあまり行使することはなかった。
1953年ラジオ前州(コールサインJOTF)が開局。ラジオ前州は加倉・横江地区の有力企業の出資であり新聞も横江新報系であった。
1954年内池ラジオ放送開局。
1955年7月1日城西郡城西町、夏井村の編入により内池城の所有権が内池市と確定されたため内池城を自治府から内池市に譲渡。
1956年12月1日内池初のテレビ放送としてラジオ内池テレビ放送開始。甘南備山に送信所を構える。
同年日本の国際連合加盟と同時に自治府としても加盟。ただし内池自治府に関しては国際中立のためのオブザーバー参加とすることになった。なおWHOやユネスコには加盟している。敵国条項の適用についても議論はあったものの由良事件や内池二・二六事件などで痛いほど自治府の民衆の強さを思い知らされたアメリカの強い反対で適用されないこととなった。
1958年1月19日内池市高速電気鉄道(内池市営地下鉄)1号線(北野神社前~新長野間)が開通。1号線は福島線の前身であるが内池市営地下鉄特有の建設区間と路線番号が一致しない事情により後にこの区間は長野線の区間となる。
1960年3月1日自治総監であった時の横江市長が締結した第三次内池条約により中立守備隊が自衛隊と統合され自衛隊内池総監部となった。再びの日本との国防統合に武装中立を保てるのかと懐疑的な声もあったが財政面からすると有効策であった。なおこの時の取り決めで内池総監部と自衛隊については対等で相互防衛を行うことが決められた。この関係と内池の対米感情から日米安全保障条約の範囲内には厳密には入っていないものの在日米軍と自衛隊の合同軍事演習に内池総監部も参加するなど関係は良好である。
同日テレビ内池(略称UTC/コールサインJOBX)が開局する。開局日のトップニュースはもちろん第三次内池条約の発効であった。
1960年6月1日に内池の鉄道9社が合併し内池急行が成立。これは資金繰りに苦しんだ国前共立銀行と電気事業に注力したい内池電力が各社の株を手放したことが背景であり7月14日には国前共立銀行と内池銀行の合併が発表された。
現在でいえば内池急行はホールディングスになるのであろうが当時は持株会社が容認されていなかったこともあり9社はそれぞれの経営安定化の為に新会社を設立してそこに合併することにしたのである。
1964年には内池文化放送が開局。
1967年資本関係の整理の為ラジオ前州とテレビ内池が合併。テレビ内池はラジオ前州のコールサインを継承したうえでラジオ部門はUTCラジオとして再出発。(コールサインJOTF)
ラジオ前州には横江鉄道(内急に引き継ぎ)が出資していたがテレビ内池には内池急行本体が出資していたことにもよる。現在も内池急行はテレビ内池の大株主である。
1970年内池城守護の要となっていた城西駐屯地が西に2km離れた現在の瑠里丘に移転。跡地は丹野化学城西工場となった後に城西丹化タウンとなる。
1972年4月1日平野部のほとんどを合併した内池市が政令指定都市に移行。元々政令指定都市移行前から旧郡ごとに「~区」と住所に入れていたことから区制も概ね旧郡ごととなった。ただし旧郡と区名が一致しない例などがあったため完全に住所が同じというわけではない。(例…甘南備駅住所は東山郡山岸町甘南備→[内池市編入後]内池市東山区山岸町甘南備→[政令指定都市移行後]内池市山下区山岸町甘南備と変化している)
1977年3月1日内池市電全廃。この時点で自治府下に残った路面電車は加倉電気軌道のみとなる。
1980年4月1日横江市・加倉郡加倉町・佐屋町・港南郡港南町が内池市と合併して内池島の自治体が内池市に統一。加倉区・横江区・港南区が設置される。
この時たまたま内池条約の条約改正期に入っていたこともあり自治府の独立や横江市などへの配慮から内池市を廃止して特別区とする案などもあったが前者は自治議会や市民の反対で、後者は旧内池、横江両市民の反対で立ち消えになっている。
1987年内池最後発となる内池ワイワイテレビが開局。ワイワイとは自局のコールサイン「JOYY-TV」の略称。
2006年内池ガスと横江ガスが経営統合。2008年には横江ガスブランドが消滅する。
2010年内池と夜島を結ぶ池上海峡線が開通。内池の重要なライフラインとなった。
2011年3月27日日本本土に先駆けてアナログテレビ放送終了。各局特別クロージングで迎えた。
最終更新:2015年06月04日 18:51