「私」論09

「HOME」内検索 / 「「私」論09」で検索した結果

検索 :
  • 「私」論
    ...私」論08 「私」論09 「私」論10 「私」論11 「私」論12
  • 「私」論09
    だから、「公」によって「認められ」ない、もしくは「排除され」る「私」の「エリア」は、とても「限定的」となる。「私」とは、「許さた『範疇』」、若しくは「留められた『範疇』」にしか「存在すること」が「できない」から。 「公」を「前提」にした「社会」は、「私」とは「別にある」。
  • 「私」論07
    「私」というものは、「失われる」ことは「本質的」に有り得ない。もし、あるとすれば、「意思」が「物理的」に「ない」か、「外」からの「何らかの『力』」で、「意思」を「ハナから『持つようにさせられなく』なっている」というある種の「洗脳」「催眠」「被操作」状態にある時で、どちらにしてもそれらは「普通の状態ではない」。 「どのようなかたち」であれ、「私」が「ある」ことが「普通」であり、「私」が「意思」を「『存在』しない」「『存在』させられない」かたちでな「ない」ということは、到底「あるべきではない」し、それは「本来言うところででの」、「滅私」でも「無私」でもない。 「滅私」も「無私」も、「本来は」、「意志的」で「主体的」な「思想」であり、「私」である「自分」によって「なり得る」ことであり、それをキチンと踏まえなければ、「曲解」される、危うい「思想」でもある。
  • 「私」論03
    言い方をかえれば、みりんこの作品には、みりんこという「私」が常に「存在」する。「私」が「ある」ことによって、「世界」は「組み立て」られる。そして、そのことにより、みりんこのことを「私小説」を書く作家と位置づける人たちがいる。 そこでいう「私小説」とは、「『私ごと』について書かれた小説」ということを指して言ってると思われるが、そういう意味においては、みりんこは「私小説」など「一貫として」書いてなどいない。みりんこの書く小説にせよ他の作品にせよ、それらはみりんこ(の魂)を「もと」に、若しくは「通して」、「世界」が「表されて」いるのであって、「みりんこ『そのもの』」を「表して」はいない。よって、みりんこは「『私小説」作家」ではない。
  • 「私」論08
    そして、「私小説」とは、その「曲解」によって生じた「ジャンル」なのではないかと思う。 例えば、単純な話、「『私』小説」があるならば「『公』小説」もあるのかということなのだけれど、「そう呼ばれて」いるものはない。恐らくは(ただの)「小説」が「それ」にあたるのだろうけどそこには「私」の対となる「公」の字が「ない」。 なぜ「ない」のかを「邪推」すれば、「公」が「ある」ことは「当然」で、「私」を「だす」ことは「よくないこと」。 「だから」、「公」ではない「私」を「表す『ジャンル』」として、「『私』小説」が「ある」。
  • 「私」論05
    言うまでもなく、「私」という「自分」は「すべての基本」となる。「私」が「考えること」が「自分」の「行うことすべて」に「及ぶ」。たとえ、「『自分』のものでない考え」で「行った」としても、それによって、「私」が「失われる」ことはない。「そうすること」もまた「私」の「考え」によって「採択」されたことなのだから。 「意識的」にせよ「無意識」にせよ、「自分」で「考えない」、「自分」で「決めない」とした、「採択」を。
  • 「私」論06
    「どのようなかたち」であれ、「私」は「存在」する。しかし、この社会によるある種の価値観として、「『私』ありき」であることは、「よくない」としている。それは、「滅私」とか「無私」という言葉で表されて、それらは「尊いもの」とされる。しかし、それらもまた、「私」によって為されることには他ならず、もしそれが「本当に」、「自分」を「失わせて」のそれを指すのであれば、それは端的に言って、「自分ではないものの『考え』」によって、「為す」ということであり、もしそれによって何らかの「弊害」が生じた場合、その「責任」は結果「採択」した「私」にあるのだけれど、しかし「考え」が「自分」にないことで、「そう」ではなく、「自分」に「『考え』を『与えもの』」に「責」あるとも「できる」。 その典型は、「戦争に向かっていく」、「戦前」の日本社会だと言えるだろう。
  • 「私」論04
    なぜそのような「混同」が起きるのかと言えば、もしかしたら、「他の人」の「作品」には、「『私』が『ない』」からなのかもしれない…と、思わず「邪推」をしたくなる。言うなれば、「『私』(ばっか)小説」ならぬ、「『私』(がない)小説」。 しかし、「『私』(がない)小説」や「『私』(がない)作品」などというものは、本質的にあり得るものだろうか。 つまりは、この社会における「私」ということに対する考え方の「錯乱」、もしくは「誤謬」がこのことから伺え、またそのことが、様々な現在の「悪状況」を生んでいると言えるのではなかろうか。
  • 「私」論01
    いま、「私」という「個人」である「自分」から、この「現実社会」に溢れる「問題」を、「貫く」ことができる「作家」は、みりんこの他にいるのだろうか。いるのかもしれないけれど、自分は知らない。思いあたらない。そして、その事は、決して喜ぶべき状況ではない。
  • 「私」論10
    しかし、「どのように『おかれ』」、また、「どのように『呑み込んで」も、「私」は「すべて」の「前提」。「すべて」は「私」による「解」でしかないのだから、実は「どのような『小説』」も、それは「『私』小説」なのだと言える。そこに「公的」なことであれ、他の「何か」であれ、つまりは、「それ」を「私」が「纏っている」、もしくは「気がつかずに『纏わされている」に過ぎない。 「公」とは確かに「あり得べき『概念』」であるが、それは「私」を「前提」にしたものでなければ、「何だかよくわからないもの」になる。何故なら、「私」はそれとして「当たり前」に「存在する」が、「公」とは「それそのもの」として「存在しようがない」。それを「ある」ともししている人がいるならぱ、それは「私』が創り出した「架空の概念」だと言える。
  • 「私」論02
    『ゴールドラッシュ』に代表される、「みりんこの魂の有りよう」と「同時代の出来事」とが「共振」させ(られ)ることによって生み出した作品や、また、『8月の果て』に代表される、「みりんこの魂の有りよう」と「かっての出来事」とが、「時間軸」と「空間軸」を超えて「繋がる」ことによって生み出した作品、またノンフィクションというジャンルでもみりんこ自らの「内側」を専門家と共に「照らす」ことで、「みりんこの魂の有りよう」を「外側」に「照らし」だす『ファミリー・シークレット』、「民族」という「血の繋がり」に関わる場所としての「朝鮮民主主義人民共和国」という「外」を、「みりんこの魂の有りよう」の中で「照らし」だす『ピョンヤンの夏休み』等、みりんこの主だった「作品」(すんません、全作読めてない…)は、必ず、みりんこ自身(の魂)が、「底」に、または「真ん中」に、ある。 みりんこは、みりんこ自身にある「魂の...
  • 「私」論12
    でも、だから、みりんこは「表すべき『私』」を表しながら、「作品」を生み出していく「しかない」。 (もしかしたら)みりんこにしか「本来」を「示す」ことができる「私」を「持ち得ていない」のだから。 「この社会では」…
  • 「私」論11
    みりんこは、「私」である「みりんこの魂」によって、「自分」を、「家族」を、「社会」を、「公」を「分け隔てなく」、「照らす」。「みりんこの魂」を「もと」に、「すべて」を「貫く」。 それは、「本来」、「当たり前のこと」な筈なのだけれど、どうもそうにはなってなく、「他にいるのか?」という「レア感」でいっぱいであったりする。 はっきりしているのは、みりんこのような「前提」である人はいるとしても、みりんこのように「現実」や「311」に「向きあっている」人は、まずもって見あたらないということで、これは多分スゴいことであるし、とてもじゃないけど「喜べない」状況だと言える。
  • メニュー
    メニュー トップページ ◆やること ◆主要テーマ 「原発」からの照射 尊厳の輝き 「私たちは『なんなの』か」「私たちは『どこに』いるのか」「私たちは『なにが』できるのか」 ◆「育つ」「育てる」ために 「言論」と「社会」と「政治」 ◆「今」 ▽日本 原発 消費税 TPP 「基地」(「軍事」化) 東北復興 自殺 ▽世界 「金融」 「民主化」 パックス・アメリカーナ ◆論 「私」論 ◆「わたしの想い」 ◆「柳美里 韓国における『国際ペンクラブ』で話す」(仮題) ◆資料 2012年6月26日消費税増税案に反対票を入れた民主党衆議院議員 プラグイン紹介 まとめサイト作成支援ツール メニュー メニュー2 リンク @wiki @wikiご利用ガイド 他のサービス 無料ホームページ作成 無料ブログ作成 2ch型掲示板...
  • @wiki全体から「「私」論09」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索