俺が考えてるこの小説の東京はもっとひどい。




 今の世の中は本当に腐っている。

 それは、弦司が常日頃から思っている事だった。

 昨年の3月に知念内閣が発足して以来、東京都は堕落の一途をたどっていた。それは、一重に知念が狂っているが故だと、秦弦司という少年は考える。

 とは言っても、知念は地方分権をスローガンに大きく掲げ、最初だけに限ればその手際と加減は目を見張らざるを得ないものがあった。そんなものだから、発足当初こそは都会の人々からも絶大な支持を受けていたのである。
 だが、一年も経ってみればどうだろうか。
 日本は知念の独裁政治に呑みこまれ、その政治システムは大きく瓦壊した。

 もっとも、日本がここまで混乱の渦に巻き込まれたのは知念が狂人であった事が最たる理由である、と考えるのは、弦司だけなのかもしれない。
 一国のリーダーたる者が狂人な訳が無いだろう、と多くの人は思うだろう。

 では、日本政府の予算の8割を地方の自治体に分け与え、政府が東京都に配布する金額が予算の1%にも満たないようなふざけた法案を、平気な顔をして作り上げ、さらに独裁政治の仕組みを利用して施行まで捻り通す人間を、狂人と呼ばずしてなんと呼ぶのか。

 お陰様で、東京都23区はこの一年間で、常識では考えられない程のスピードで大きく廃れた。かつてのような、夜でも昼のように明るい街は今やどこにもない。むしろ、昼でもその廃屋の薄汚さで夕方のように思える。
 アメリカの外交官であるマシュー氏は、今の23区を見てこう語った。
「ここはなにかの映画の舞台なのだろうか? まるで人が住む場所では無い」
 実に的確なコメントである。

 最近では、この東京都の惨事は世界的にも大きく問題として取り上げられ、知念内閣は非難の嵐を受けている。
 しかし、当の本人である知念はそのようなことはどこ吹く風、今年の予算では、とうとう東京都23区という自治体に予算を割り振らなかった。

 当然、東京都の住人(もう既に家と呼べるような家は23区内のどこにも存在せず、皆コンクリートの瓦礫で家作ってそこに住むか、ひび割れた道路の上で生活するかのどちらかになっている為、住人と呼ぶのにすら語弊が生じているだが)は知念を内閣から引きずり降ろそうとする。

 しかし、日本の衆愚政治は今に始まった訳ではない。
 文献によれば、今の衆愚政治の風潮はすでに21世紀前半から垣間見られたらしい。曰く、若者の政治に対する興味が皆無である、日本人のエゴイズムは日を追う度にエスカレートしていく、などといった、いわゆるゆとり世代の人間達が世に出てきたのが原因であるだとか。

 今や物事を考える時に、まず自分の利益を考えて行動する事など当たり前。政治は政治家がやるものであり、自分達のする事ではない。
 そんな情勢から、いくら東京都の人間が内閣を糾弾しても、他の道府県からの多大なる支持には勝利できないのである。
 当然だ。
 東京都に配分する筈だった分の金が、自分達の所へ元々分配される予定だったものに上乗せされてやってくるのだから。

 知念内閣が発足して1年と半年。未だにその支持率が70%を下回った事が無い。
 今でも、電波が非常に悪く、終始ザザーッという無機質な音を鳴らしながらテレビに映る番組では、知念内閣の政策の歴史を特集として取り上げている。
「はぁ…」
 弦司は何度目か分からない大きなため息をした。

 いくら心の中で愚痴を言ったところで、何が変わるという訳ではない。独裁政治はそういうものだからこそ厄介なのである。
 ゴミ捨て場の上に置かれた、ぼろぼろになった小さなテレビの電源を消して、弦司はどこへ行くでもなく歩き出した。

 弦司は、ストリートボーイだった。それも、両親に捨てられたのはかなり前であり、今ではその顔を思い出す事さえ出来ない。
 だが、両親がこの環境に忍耐できなくなり、弦司を捨てて地方へ逃げ出したのだろう、ということは簡単に予測できた。現在23区内にいる30万人の住人が地方に逃げることもせず都内に留まっている理由の中で、それは最もポピュラーなものである。

 自分では17歳ぐらいだと思ってはいるが、誕生日や生まれた年も知らないのだから、正確な年齢すら分からない。
 『秦弦司』という名前も弦司が自分で勝手につけた名前だ。本名など知らない。随分と幼い時に捨てられたことが、当時を覚えていなくとも容易に想像できる。
 弦司だけでは無い。自分で勝手に自分の事を名付けている人間は沢山いる。ここは、そういう場所だ。

 昔は舗装されていたのであろう、あちこちに亀裂が入ったコンクリートの道を歩いていると、不意に肩に手が置かれる感触に触れる。
「おい、弦司」
 振り向けば、そこには2mを超える巨体があった。眼光はそれだけで小動物を射殺せる鋭さ。過酷な環境下で生き抜いてきた証拠だ。

「どうした、翔」
「今からメシぶんどってくっぞ。アジト来いや」
「あ? まだ日落ちてねぇじゃねぇか」
「黙ってついてこいよクズが」
 翔、と名乗る少年は、それ以上は何も言わず、弦司に背を向けた。また大きくため息をついてから、弦司もその後を追う。

 一人では絶対に生きていけない環境の中では、人間は必然的に生き抜くための集団を結成する。それは人間の弱さであり、また強さでもある。
 弦司達も例外ではなかった。

 弦司が属する集団は、主に池袋の周辺に居る人間らで結成されている。その中でもやはり序列はあり、30人余りいるこの集団の中で弦司は上から3番目の地位にいる。

 この世界で生き抜く為にはひたすらに強くならなければならない事を、幼いながらに悟った弦司は、ただただ己を鍛えてきた。何度も大の大人と喧嘩をして、その中で勝って生き残る方法を模索した。
 荒んだ環境で育った人間は荒んだ心を持つ。23区に住む人間は、例外なく地方の殺人鬼より遥に凶暴だ。その中に居て尚生き抜くために、強くなる事は必要最低限の事だった。

 しかし、そこまで根を詰めて強くなろうとした人間は弦司の他にはそうおらず、簡単に弦司は周辺の中では最強の座を手に入れる事が出来た。
 それでも、強いという形容詞に強い憧れを抱く人間が多いというのが事実だ。そして、東京都という環境は、強いというただ一つの概念に驚く程固執している。つまり、この世界では、強いという言葉がもはや信仰といっても良い程崇められているのだ。
 そんなものだから、最近ではこの荒んだ環境こそが自分の居場所だと主張する奴も増えてきた。いや、むしろ既に8割型の人間がそういう思想を持ち始めている。

 が、「強い」という力を備えることが出来た弦司はそうは思わない。むしろこの環境を不幸に思い、憎しみすら抱いている。

 人の幸せとは一体何か、本当の平和とは一体何か。幼い時から一人で生きていた弦司には、常にそれを考える癖が出来ていた。
 そして今、弦司は自分が「ズレている」ということを強く自覚していた。

 テレビで見る地方の映像に映っている人々の顔は、東京に住む連中の、緊張感に満ちた顔とは程遠く、本当に生き生きとした笑顔を浮かべている。
 頬をこけさせたまま食べ物を求め、ふらつきながら歩く人間はいない。ぎょろりとした目をせわしなく動かして、周囲の人間から何か奪おうと企んでいる人間はいない。心臓が動いているだけで、心は壊れて実質死んでしまった人間もいない。

 街だって、道の至る所にゴミが捨てられ、終日蠅がたかっているような事はない。道や建物の壁に蔦が巻きつき、そこからアンモニア臭が臭う事はない。
 ちゃんと道は舗装され、その脇には街路樹が整然と立っている。

 同じ人間である筈なのに、同じ国に住んでいるはずなのに、こんなにも世界は変わっている。弦司は、それに疑問を抱かずにはいられないのだ。

 弦司達がたむろするアジトに到着した。




 元々はJRの池袋駅があった、コンクリートの塊が転がっているエリアの一角に、30人程度の人間が座り込んでいる。
 全員が全員、激しい嫌悪感で弦司が吐き気を催す程の殺気を放っている。この集団の中で最も新しく入った人間であるのに、あっという間に上位の序列を獲得した弦司を恨む人間は、この集団の中に限っても少なくはない。

「遅かったじゃねぇか、弦司」
 最早恒例となった、リーダーである晃人のガン飛ばしを弦司は喰らう。弦司も、そんな反応をされるのにもだいぶ慣れてきていた。

「テレビ見てたんだよ」
「テレビだぁ?」
 下らない理由で会合に遅れるな、とでも言いたげに、晃人の目が細められる。だが、喧嘩になった場合確実に弦司が勝つことを晃人は知っているため、殴りかかることをしない。
 そして、晃人がそんな風に怯えていることを知っている弦司は、それしきのことでは全く怯まない。

「知念の野郎を特集してやがる番組を見てた。文句あんのか?」
「ねぇよ。それより、これから飯『とり』にいくぞ」
 『とり』とは、「取り」ではなくて「盗り」なのだろう。弱い人間は、強い人間であろうとする為に自分の力を過大に見せつけようとする。わざわざ購入せずに盗みを働く理由はそこにあるのだろう。

 晃人が立ち上がると、その周りで座り込んでいた人間が一斉に立ち上がる。まるで自衛隊の訓練施設にいるようだ。
 弦司は前述のことを考えたりそれを見たりして、うんざりした気分になった。

 弦司は、この集団に入ってからまだ三カ月しか経っておらず、その前はずっと一匹狼だった。それは、昔から集団に入ることで束縛される事を忌み嫌っていたからに他ならない。
 弦司はルールに縛られることを極端に嫌った。過酷な状況下、たった一人で生き抜いて来れたのは、束縛に対する嫌悪感と自由への貪欲さが理由の中で大きな割合を占める。
 そんな弦司の強さを目に付けて、過去に何度もうちの集団に加入しないか、と誘われる事があったが、弦司はそのことごとくを断ってきた。

 しかし、晃人が率いる集団だけは特別だった。何が特殊かと言えば、召集した時に来る以外のことは好きなようにしていいという条件を提示し、弦司の最も嫌う束縛を最低限まで削ることを誓ったのだ。
 さすがに一人で生きていくことに限界を感じていた弦司は、その条件を呑み、そのままそこに入ったのである。

 さっき、弦司はこの集団で3番目に偉いと言ったが、実はそれは晃人が集団としての体裁を維持したかっただけであり、純粋に強さで序列をつけるなら弦司はぶっちぎりの1位だ。
 考えてみれば当然である。弦司は、この地区の中では誰よりも早く、生きるためには力が必要であることを悟ったのだから。
 先んずれば人を制す。文字通り弦司は他の人間を圧倒してきた。それは、池袋の地区内でもかなり有名になっていた。

「ま、そんな硬い顔すんなよ」
 どんどん鬱になっていく弦司の思考を止めるかのように、そう言って弦司の方に手を回す奴がいた。

 嫌悪感さえ感じる集団の中にあって、こいつ、白鳥徹だけは、何かが違うと弦司は直感していた。
 他の連中のように、終始ピリピリした雰囲気を纏っていない。目を皿のようにして、周りに食べられる物がないか隈なく探していない。迫り来る殺気に迅速に気づくよう、自分から殺気を発していたりなどしていない。
 晃人の集団の人間はどれもかなり嫌いだったが、徹とだけは腹を割って話し合える程、仲が良くなった。
 もしかしなくても、徹は弦司と同じ考えを思っているのが理由だろう。

「わりぃな。そんな顔だったか、俺」
「そりゃもう。怨敵を恨んでるような顔だったな」
 怨敵。確かに間違ってはいない。弦司はいつも、こんな空間からさっさと抜け出したい、と思っているのだから。

「そらみろ。また怖え顔しやがる」
 徹は、そう言いながら弦司の頬をぐりぐりといじった。
「悪かったよ。手が鬱陶しいから勘弁」
「ま、いいけどよ。俺もそうなる時あるし」

 同じ考えを持っているとはいっても、程度の差は当然ある。弦司は東京都を心の底から不快に思っているが、徹においては、自分がここに留まっていることに引っ掛かりを感じているだけ。
 それでも、東京都の環境に嫌気が差している人間は、ここ最近ではかなり稀少種になってきている。程度の差こそあれど、仲間意識を抱くのも当然であった。

「しっかし、ここらへんはどうも歩きにくいな、おい」
 道の亀裂に何回も足を躓かせながら、徹は困ったように言った。

「しかたねぇだろ。知念が道路整備しねぇんだから」
「お前、ホントなんかあると知念知念いってんな」
「当然だ。あいつの政策は、本当に腐ってる」

 弦司は、足下に転がっていた小さいコンクリの欠片を、怒りのままに思い切り蹴飛ばした。
 ――――ドガシャアン
 弦司が蹴り飛ばした石が廃屋の壁に当たり、その衝撃で廃屋がそのまま崩れ去った。

「ヒュウッ、さすがの破壊力」
「……あの壁がもろ過ぎなんだ」
「だからといって、なかなか石一つ蹴るだけで壁を壊せる奴はいないぜ」
「そりゃどうも」
 一瞬にして瓦礫と化した廃屋の壁を一瞥して、弦司はまた歩き出す。

「ところでさあ、弦司よ」
「あぁ?」
「飯、どうする?」
「当然、買う」
「だよな……」

 実は、池袋には有志のボランティアの人達が開いてくれている市場が存在する。
 知念は狂人の割には抜け目がないので、本来東京都内におけるボランティアを一切禁止する法案を通して既に施工されている。
 だが、池袋には市場がある。これは何故か。

 この理由も、最終的には知念が狂っていることに帰結する。

 前述したとおり、東京都をないがしろにする知念内閣は世界の中で糾弾の嵐に晒されている。それは、国際連合の中のおいても例外ではない。そして、知念が頭のネジが外れている。
 これが表す事実はただ一つ。
 知念内閣は、国際連合から脱退することを決意した。

 そうなると、国際社会は容赦することを躊躇わない。
 国際連合は、東京都の惨事を緊急事態と発表。国内のボランティアは足止めされているが、海外からのボランティアが都内にそれこそ波のように流れ込んだ。
 いくら狂人と弦司が考える知念でも、流石に全世界を敵に回せばどうなってしまうか予測が付いたようで、手が出したくても出せないという状態が続いている。

 池袋の市場は、そうしてできた内の一つである。

 晃人達は今そこに向かっているのだが、話によれば、晃人のグループは、食材を買った他のグループを探してそのグループからそれを奪うことで、食料を確保するのだそうだ。
 元々、池袋の市場にたむろする連中は、本当に市場で食料を購入するために来ている奴らもいれば、晃人達のように買った人間からそれを奪う目的で来る連中もいる。そして、市場に来る人間の9割が、だいたいどっちかの目的を持つ。

 弦司は、特にどちらが良くてどちらが悪い、という意見は持っていなかった。自分に関係のないことは考えてもしょうがない、というのが最たる理由だ。
 だが、弦司は知っていた。無用な喧嘩は可能な限り避けるべきだと。死ぬ確率は、全力で回避すべきだと。
 自分の命のためなら、名誉を捨てて逃げることすら迷わない。この世界の中で、名誉と名声ほど意味を為さない物はないのだ。
 だから、いつも弦司は道端で拾った小銭で、本当に最低限の分の食料しか買わない。

「着いたぞ」
 晃人は、そう言って歩を止めた。池袋の市場に到着したのである。

 見渡す限りでは、市場と呼べるぐらい店が出ているわけではない。しかし、生活の最低限の要素は揃えられる程度には、市場の品揃えもある。
 とりわけ、食料を扱っている店は、他の店と比べて賑わいの度合いが桁外れだ。
 食料は、人間が生活するにあたって、最も欠かせないアイテムだ。生活が苦しい東京都の中で食料店が人気なのは、当然といえば当然である。

「おい、おめぇは別だろ」
 市場に到着するなり、晃人が弦司にそう言った。

 ここで、食料を購入する弦司と強奪する晃人は、別行動を取る。
 だが、一人だけその時々で行動集団を乗り換える男が居た。

「ああ。じゃあ、集合場所はいつもんとこで。徹、お前は?」
「俺は……」
 徹は、自分のジーンズのポケットに手を突っ込む。
「ん……いくらかあるな。じゃあ俺も買いで」
「ふん・……」
 晃人は、徹を人睨みした後、連れてきた手下達を引き連れてどこかへ消えていった。

「お前、大丈夫なのか?」
 徹は自分が盗みをするのが面倒になったと言い張るが、彼が弦司のことを気にかけて自分と行動してくれていることに弦司は既に気づいていた。

 心配するのは柄じゃない、と思いながら、それでも弦司は聞かざるを得ない。
 弦司はともかく、徹は晃人のグループの正規メンバーだ。ある程度ルールを守らないと、何かしらの罰が下されるはず。

 だが、徹はそれを笑って吹き飛ばした。
「気にすんなって。弦司は到底無理だけど、晃人程度の人間なら、気が向いたらいつでもぶっつぶせる」
「……そうだったな」
 徹は、弦司と同じように、幼い時に強くなることが必要だと悟った勝ち組だった。
 弦司程ではないが、それでも大抵の人間ならたやすく捻り潰せる豪腕を持っている。

「まあ、晃人には返し切れねぇ恩がある。ぶっつぶせても、そんなことはしないさ」
「律儀だな、お前は」
「なんだかんだ言って、弦司も律儀だったりするよな」
「……」
「あーあー、照れちゃって。かわいいねぇ」
「俺のことを律儀っていったのはお前が最初だから、驚いただけさ」
「そうか?」

 そう言って首を傾げる徹は、晃人に恩を貰っている。
 といっても、飢えかけていた所に食料を貰った、というだけのことなんだが、徹は本当に律儀なことに、それ以降晃人には頭が上がらないのだそうだ。
 そんな奴に律儀と呼ばれ、弦司の心境は複雑だった。

「少なくとも、東京の中でお前程律儀な奴はいねぇ」
 結局そう吐き捨てるように言うと、にやにや笑っている徹に背を向けて歩きだした。

 食料を扱う店を覗くと、いろいろな野菜がそこかしこに積まれている。
「今日は当たりの日だな。食いモンが大して腐ってねぇ」
 この店では、外の世界で売れなくなった古いもの、腐ったものを、格安の値段で売ってくれる。
 池袋の市場では、断トツで人気を博している店だ。

「へぇ……おっ、珍しいな。胡瓜が売ってある。俺はこれにするかな」
 徹はもう決めたようだ。ここに来るものの中では滅多に見ることの出来ない、胡瓜を手に取って、店員に10円玉を渡した。
「ま、俺はいつも通りに……」 
 興味をそそられる物もあったが、その分値が張っている。結局弦司は毎回買っているトマトを購入することにした。

「ん……うめぇ」
 市場の中心にある水で軽く野菜を洗い、各々買った野菜をかじった。

「胡瓜なんて何ヶ月ぶりだよ、ホント」
「胡瓜は腐りにくいのか?」
「知らねぇ。でも、うめぇからいいんだよ」
 確かに、今日の野菜はかなり瑞々しくてうまい。市場の経営者がどこかいい農場を見つけたのだろうか。

「ま、とりあえず早く食え」
 買ったその場で食わずに持って帰ろうものなら、盗んでこようとする連中に、一瞬にしてたかられる。弦司と徹の強さならすぐに押さえつけられるだろうが、面倒な事態になることは変わらない。
 うまい野菜を味わう暇も無く、弦司達はそれを胃の中に流し込んだ。

「さて、腹ごしらえもしたことだ。戻るか」
「ん? ああ」
 弦司が晃人と集合する場所は、市場の外れの路地と決まっている。毎回弦司が単独行動をとる度にそうしているため、決め手もいないのに自然とそこで合流する流れが出来た。

 弦司達は、その合流する予定の路地に入り込む。
 そして……
「なっ!?」

 地獄を、見た。





 晃人達がたむろしている筈だったその場所は、二人が予想している訳もなく、彼らの血で真っ赤に染められていたのである。
 遅れて、噎せ返るような臭いが漂う。

「ふん……生き残りか」
 その中で、一人だけもごもごと動いていた人間が、弦司達の方を振り向いた。

 その体は、お世辞にも大きいとは言えない。160cmを越えているかいないか程度の背の高さ。
 しかし、その男は立派な殺気を放っていた。

「おいおい……」
 常人なら、それだけで卒倒しかねないような環境。
 しかし、血の臭いに染まる都内では、これしきで卒倒する人間は少ない。

 そんな中でも血に慣れている方である弦司は、足下に転がっていた死体を一つ蹴り飛ばす行為さえした。死体は、轟音を上げてコンクリートの瓦礫の中に突っ込んでいく。
 弦司の中では、仲間が殺された怒りよりも、面倒事に巻き込まれた気だるさの方が勝っていたから、そのことへの罪悪感は全く感じなかった。

「仲間の死体を蹴り飛ばす……なかなか残忍な男だ……」
 殺気だった男は、弦司の行動を見てから、顔だけでなく体もこちらへ向けた。
 その右手には、血塗れになった包丁。

 そしてもう一方の腕には首から下が無くなった晃人の頭が……

「ふっざけんなよおお!!」
 それを見た途端、徹が男に向かって突進した。

 自分が恩を感じていた相手を目の前で殺されれば、我を忘れて怒るのは当たり前だ、と弦司は思ったが……

 弦司はとっさに叫んだ。
「馬鹿野郎! 戻れ!」
 相手は凶器を持っている。いくら徹が強いからと言っても、刃物で急所を刺されれば即死だ。

 だが、徹は弦司の言葉を無視して、包丁を手に構える男に向かって走る。
 徹は、あからさまに我を忘れていた。

「……ったくよぉ」
 弦司も、ひとつため息を着いてから徹を追って走り出す。
 徹は、東京都に生まれ育った弦司にとって、初めてといって良い友達だった。だから、なんとか徹の頭を冷やして助けたい、と思ったのだ。

 だが、遅すぎた。

 すでに徹は男にかなり肉薄していて、今から全力で走ったところで、徹を押さえつけることは不可能だ。
 男の口の端が不気味に吊り上がる。

「徹ッ!」
 必死で走りながら徹の名を呼ぶが、返事は来ない。

 徹が拳を振りかぶった。
 男が、それを見てがら空きになった徹の懐に包丁を突き出す。
 一瞬、徹に理性の訴える表情が見えた。

「徹、徹――――ッ!」
 弦司は叫んだが、男の出した包丁は止まらない。
 ああ、もうダメだ。
 そう弦司が思ったときだった。



「でも、あたし達がそうせないよ~ん」



 少女が二人、現れた。



 轟音と共に現れたのは、少女が二人。一人は踵でブレーキをかけながら。もう一人は、地面に片手をついて低い姿勢をとりながら。

「……は?」
 弦司の口から漏れた間抜けた声は、当然の反応。
 血塗れになった路地には余りにも場違いな風景だった。

「なっ……」
 しかし、男の表情は気味の悪い笑みから、焦りの浮かぶそれに変わっていく。
 何故そんな変化が起きているのか。男の目線をたどってみて、そして弦司も驚愕した。

 現れた二人の少女のうち桃色の髪を長く伸ばした方の子が、手に持った身の丈の半分程ある剣で、男が突き出した包丁を止めているではないか。
 場違いな少女達と前述したが、ただ者ではないことがそこで判明する。

「うーん、もう少し狙いが左寄りだったらグッジョブだったんだけどねぇ」
 底抜けに明るい声は、桃色の髪をした少女から。その声こそがこの場の雰囲気に合っていない。
 しかし、男が全体重をかけて押さえつけているナイフを、少女はもろともせずに片手で受け止めている。
 尋常ではない膂力だ。

 そして、二人が鍔迫り合いをしている隙に、理性を取り戻した徹が俺の所まで引き下がる。
 徹の顔にも、驚愕の表情が見て取れた。

 そしてさらに、弦司達の前にもう一方の子――――深緑の髪をポニーテールにし、両手に一対の短剣を持つ小柄な少女が、弦司達の前に守るように立った。
「悪いんだけど、これが終わるまでちょっとそこで待っててくれないかな?」  
 小柄な体格とは対照的に、大人びた口調と声色で諭すように言う少女。

 弦司は、そこまで来てようやく現れた少女二人がいわゆる美少女であることに気付いた。
 東京都の中には、ずさんな環境も相まって、本当に女性が少ない。大抵はこの空間から逃げようとして、成功するか失敗して命を落とす。
 年が若ければ尚更だ。

 それが、どうだろうか。
 姿を現した二人の少女は、どう厳しく見ても成人しているとは思えないではないか。

 それだけで希少種枠には決定するのに、且つその少女らの容姿は可愛いと形容して余りがある。
 こんな少女達がいたら、真っ先に女に飢えた獣どもの餌食にされている筈。だが、二人はちゃんとした服を着て、清潔そうな肌をしていた。
 まるで、小説のような展開。弦司達の持つ常識は、そう簡単にこの状況を受け入れなかった。

 さらには、彼女らが持つ武器もまた、常識から逸脱した物だった。

「ぬらぁあ!」
「おっとぉ!」
 男と打ち合っている、桃色の髪をした少女の剣。

「残念、こっちが留守だよ」
 ポニーテールの少女が逆手に持っている二本の短剣。

 どちらも、男のような普通の凶器ではあり得ない、剣は赤色に、短剣は青色に、刃が蛍光灯のように光っている。
 まるで、その様子は大昔の宇宙戦争をテーマにした映画で登場する武器のようだ。

 しかし、それらは今起きている常識外れな現象のほんの一部でしかない。

「そらよっと!」
「ぐっ!……」
 弦司と徹が唖然としている最大の理由。
 二人が、途轍もなく強いということ。

「あんた、《文京区》の人間でしょ。《豊島区》の敷地に入ってこないでくれない?」
 現場は見ていないが、男は晃人達を相手に一人で皆殺しをした程だ。相当な強さを持っているのは間違いなかった。
 その男が、華奢に見える女の子二人に、完膚無きまでに叩かれている。それは、弦司達にとってショッキングな事態に他ならなかった。

「じゃあ、これがとどめでっ!」
「ぐあああぁぁぁ!」
「ごめんね~。でも、《豊島区》の中の人を殺しちゃったから、仕方ないんだ」
 最後も呆気ない。
 桃色の髪の少女が男の鳩尾に蹴りを入れると、男は一つ大きく呻いて、気絶した。

「これ……夢だよな……?」
 徹が、ぽつりと呟いた。その口は、ぽかんと開けられたまま。
 弦司も、半分くらい同じことを考えていた。

 しかし、夢ではない。今さっきまで目の前で繰り広げられていた喧嘩は、本物の他にない。

「終わった、のか……」
 だが、取り敢えず一通りの喧噪は終了したようだ。並外れた戦闘能力をまざまざと見せつけた少女二人も、それぞれの手に持った武器を己のホルダーにしまう。

「もう大丈夫かな?」
「見る限り、死んではいないようね。息はしてる」
「ふぅ。疲れた」
「あのねぇ、幾ら久しぶりだって言っても、ちょっと鈍りすぎじゃない?」
 あまつさえ、少女二人はまるで今日の天気でも話しているかのようなナチュラルな口調で話し出した。
 まるで、男二人の存在に全く興味がないよう。

 それに対する苛立ちもあったのかもしれない。だがとにかく、中身がぐしゃぐしゃに混乱している頭の中でも、弦司には二人に確認したいことがあった。
「なあ」
 両手を後ろについて座り込んでいた弦司は、そう聞きながら立ち上がる。それに従って徹も腰を上げた。

 弦司が呼びかける声が聞こえたのか、二人が会話を中断して、完全に伸びた男から目をそらして弦司の方へ振り返ようとする。

 その時だった。

「……油断したなあ!」
 気絶していた筈の男が、急に起き上がってナイフを少女――――桃色の髪の子に振りかぶった。
 どうやら、気を失っていたのは演技だったらしい。

 はっとしたように後ろを振り返る少女。二人の間にとっさに入ろうとするポニーテールの少女。だが、それは確実に間に合わない。
 振り上げた刃が、少女の眉間に直撃する寸前。

 今度は弦司達が反応できた。

「徹!」
 そして、幾度となく窮地を乗り越えてきた弦司には、次にどんなアクションを起こせばよいのか、瞬時に思いつく。
 徹の名を短く叫んだ後、弦司は足下に転がっていた石を思い切り蹴り飛ばした。
 その石は、轟音を唸り上げて一直線に二人の少女の間を通り過ぎ……

「がっ……」
 その軌道に乗った石は、見事に男の顔面に直撃した。

 少女らの目がさらに驚愕で見開かれたことに、状況を打開することに必死だった弦司は気がつかない。
 そして、連携は成功した。

 男が眉間に強烈な一撃を喰らい、ふらりとその上体がよろめいたところで、
「うぉりゃ!」
「ぐぬぅ!」
 座り込んでいた徹が低姿勢で男の懐に入り込み、そのまま突き飛ばして押さえつけた。
 最初は男も抵抗を見せていたが、徹が男の頭を思い切り地面に打ちつけると、今度こそ男は意識を無くす。

 ふぅ、と一息ついてから徹は立ち上がった。
 男は気絶しているどころか、呼吸すら危うい状態に見える。
 弦司は、ゆっくりと徹の元へ歩み寄って問うた。
「あれ、死んでないか?」

 すると、徹は静かに首を振った。
「いや、まだ息はしてる。本当は殺したかったけどな」
 しかし、その声は若干震えている。
 まだ晃人を殺されたことへの怒りが収まっていないのかと思って見ると、

「まあ、この世界は既にサバイバルだ。残念だが、割り切るしかねぇだろ」
 意外にも、さばさばした表情をしていた。

 暴走した徹を落ち着かせるという面倒な手間を避けられたことに、弦司は悟られないように安堵した。

「さて……」
 だが、これで一連の事件に終止符が打てたわけではない。
 弦司達は、伸びた男に背を向ける。自然、途中から華麗に現れた女子二人と向き合う体制になる。

「さっきの質問の続きをしよう」
 彼女らが現れた瞬間から疑問に思っていたこと。
「あんた達は、俺達の敵なのか? 味方なのか?」
 回り道をしてもしょうがないので、ストレートに聞いた。

 腕を組んで弦司の問いを聞いたポニーテールの少女は、はぁとため息をつく。
「全く、助けられて感謝の言葉も言えないのかい? ひどい人間だ。そう思わないかい? 麗魅」
 同意を求めたのであろう彼女は、そう言って隣に立つ桃色の髪の少女をちらっと見た。

「……」
 だが、同意を求められた方の少女は、黙って弦司達、というより弦司を見つめたまま動かない。
 どうしたものかと思えば、その瞳がキラキラと光っているではないか。

 根拠はない。だが、弦司は背中に冷や汗が流れるのを感じた。よからぬ予感がする。

 そして、桃色の髪をした少女はパンと手を打って笑顔をこぼした。
「決めた! 決めたよ、香奈ちゃん!」
「な、何よ? 麗魅」
 側にいる香奈でさえ、唐突にそう喜んだ麗魅に対し戸惑いを隠せていない。

 そして、なにやら何かを決定した彼女――――麗魅は、弦司に歩み寄り、その手を握った。
(うおっ……)

 もはや女子禁制と言ってもよい環境でずさんに育った弦司には、異性に対する免疫が目を見張るほどにない。
 さらに、麗魅は同い年近くの美少女。
 そんな人間にいきなり手を握られて、普段冷静(というよりぶっきらぼう)な弦司は、珍しく動揺していた。

 だが、麗魅はそんな弦司の様子に全く気がつかない。

 そして、弦司の手をぶんぶんと振りながら、



「君、あたしのパートナーにならない?」



 可愛らしい笑顔を顔全面に浮かべて、そう言ったのだった。












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最終更新:2011年04月27日 22:08