【情報文章】水先案内人 2005年10月04日
●紹介状
その船が長い航海を終えてマウサツの港へと入港したのは、日も暮れて
宵闇が深まりつつある頃合であった。
にもかかわらず、舫い綱を渡し岸壁に船を寄せる様は、昼日中に入港する船よりも
滑らかで精確無比なものであった。
「何時もながらにお見事な操船でございますなぁ」
「……アンタの世辞なんざいらねえよ。この積荷を降ろしたら契約は終わりなんだ。
とっとと終わらせちまうから、アタイらの邪魔をすんじゃねえ!」
大仰に出迎えた商人風の男に、舳先に立って船員たちを指揮していた
小柄な人影が答えを返す。粗暴な口調ではあるが、若い、そう若い女性の声であった。
「つれないお言葉でございますなぁ。このサイカイ屋ジンエモン、チヒロさまを
始めとしたアソウ一家の皆さま方とはこれからも懇意にして戴きたいと……」
商人風の男――ジンエモンが皆まで言い終わらない内に、舳先に立っていた
人影が岸壁へとひらりと飛び降り、その雇い主の元へと歩み寄る。
チヒロさまとジンエモンが呼んだその女性は、燃えるような赤い髪と
瞳を持つ娘であった。年の頃は二十歳を少し越えたくらいであろうか?
「アンタは金払いのいい雇い主、そしてアタイらは腕のいい水夫。
それ以外に何が必要だってんだい?
アンタの専属になるつもりなんざ、アタイらには更々ないんだからね!」
「お嬢の言う通りだぜ? サイカイ屋の旦那さんよぉ!?」
「俺たちを金で縛ろうったって、そうは行かねえ!」
娘の凛とした言葉に野太い男たちの声が追従する。見れば停泊作業を終えた
屈強な水夫たちが、サイカイ屋を取り囲むように集まっていた。
アソウ一家の水夫たちである。
が、その程度の脅しに屈するようなサイカイ屋でもなく、ニンマリと浮かべた
笑みを崩さぬまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「もちろんでございます。アソウ一家と言えば、誉れ高きアソウ水軍の……。
そのような方々を手前如きの一介の商人が独り占め出来るなどとは、
思ってもございませぬ」
「……判ってるならいいさ」
じろりとジンエモンの鉄面皮に一瞥してチヒロが素っ気なく言い放つ。
既に娘の怒りの矛先は、別の方向に向きつつあったのだ。
「……ところで、さっきお嬢って呼んだのは誰だい?」
凍りつくような冷たいチヒロの言葉に屈強な海の男たちの表情が恐怖に青ざめて行く。
「へ、へい。ありゃあ、サブの野郎でさぁ」
「そうかい、サブだったのかい……」
娘の顔に凄惨な笑みが浮かぶ。逆にサブと呼ばれた男の顔は恐怖に凍り付き――
「アタイの事は、お頭って呼べってあれほど言ってるだろう?
この大きな耳は飾り物かい!? 今度、アタイの事をお嬢って呼んだら、
この耳を引き千切ってサメのエサにしてやるからねっ!!」
「わ、わかりやしたっ! 以後、気を付けますのでお許しを~~!!」
サブと呼ばれた男の耳をぎゅむーと引っ張って、キッチリと『説教』を聞かせるチヒロ。
そんな喧騒の最中、不意にぽんと手を打ってジンエモンが声を上げる。
「おっと、手前どもとした事が大事なお話がある事をすっかり失念しておりました。
チヒロさま、よろしければ少々お時間を戴けますかな?」
「おや、アンタまだいたのかい? まあ、話があるなら聞いてあげようじゃないか」
サブの耳から手をパッと離すと、チヒロは面倒気にサイカイ屋へと向き直る。
何かと気に入らない相手ではあるが、金払いの良さだけはチヒロも評価していた。
恐らくは『商売』絡みの話なのだろうが、話を聞くだけ聞いて割に合わない
『商売』の話なら蹴ればいい、そんな値踏みをしつつ。
「実は、手前どもとも取引のある方々が腕の立つ水夫を探しておられまして、
手前どもと致しましては、是非ともアソウ一家の皆さま方をご紹介致したいと
思っているのでございます。皆さま方でございましたら、
手前どもも自信を持ってご紹介出来ると言うもの。如何でございましょうか?」
予想だにしなかったジンエモンの言葉に、目を見開いて驚くチヒロ。
「アタイたちを? はっ、笑えない冗談だねぇ。自慢じゃないが、真っ当な商人が
アタイらを雇ってくれるとはこれっぽっちも思っちゃいないよ。余程のワル相手か、
それとも相手への嫌がらせか、いったいどっちなんだい?」
「これは異な事を。至極真っ当なお話でございますよ。なにせ、手前どもがアソウの
皆さま方をご紹介したいと思っておりますのは、マウサツの国の護衛士の方々で
ございますので」
「な、なんだって!?」
その言葉を聞いて、娘は再び大きく目を見開いて驚く。やがて、恵比須顔のまま
揉み手を続けていたジンエモンに向き直ると、チヒロはおもむろに口を開く。
「……いいだろう。アンタの顔を立てて、マウサツの護衛士とやらに会ってやろうじゃないか。
そいつらにアソウ一家の雇い主になるだけの度量があるかどうか、
この目で確かめさせてもらうよ!」
「ありがとうございます」
一瞬、その赤い瞳に思い詰めたような色を漂わせつつも蓮っ葉に言い放つチヒロ。
それを受けてニンマリと笑みを浮かべて見せるジンエモン。マウサツ護衛士団に
ジンエモンからの紹介状が届いたのはそれから間もなくの事であった。
●アソウ一家
「……その者たちが、アソウ水軍の流れを汲む者たちであるならば、
某にも少々心当たりがござりますな」
ジンエモンからの紹介状にあったアソウ一家に付いてサコンから尋ねられ、
暫く考え込んでいたクラノスケだが、ふと思い出したかのように口を開く。
「その昔、アソウ水軍と呼ばれるジリュウの国と主従関係を結んだ海賊武士団がござった。
彼の者たちは、セイカグド随一の水軍にして、セトゥーナの海賊にも比肩するほどの
実力を誇っていたと、某も記憶してござる」
「……武士団、ですか?」
そのクラノスケの説明を聞いてサコンが尋ね返す。
「然り。そのアソウ水軍でござるが、元々はジリュウと隣接した小国の武士団でござった。
しかし、平時ならばともかく、戦乱の世にあっては小国が生き残る術はそうはござらん。
当事のアソウの領主が選んだ道は、強国であるジリュウに己の領地を差し出す代わりに
グリモアの支配権と武士団とをそのまま存続させ、ジリュウ配下の水軍として
独自の立場を勝ち得る事にあったのでござるよ」
「そして、その目論見は的を得て両者は手を結んだ、と」
サコンの言葉に、うむと大きく頷くクラノスケ。独自の勢力としてジリュウの意向に
沿って戦う水軍の存在は、やがて他国にとって脅威となって行ったとクラノスケは
続け様に語った。
「ジリュウとアソウ水軍、この両者の蜜月関係は永きに渡って続きもうした。
しかし、アソウ水軍の力がジリュウにとって重要度を増した事が、
思えば不幸の始まりだったのでござろう」
そう告げてクラノスケは深い溜息を吐く。そして、暫しの沈黙の後――
「……二十年ほど前の事でござろうか。ジリュウはアソウ水軍に謀略を仕掛けて、
当事の総領とその一族郎党を謀殺し、グリモア及び水軍そのものをジリュウに
接収してしまったのでござるよ。その事変の折に、乳飲み子であった総領のご息女が
無事に落ち延びたとの噂が、まことしやかに囁かれてござった……」
「……」
昔語りを続けるクラノスケを無言で見守るサコン。
「そして数年後、ジリュウの商船をアソウ一家を名乗る海賊船が襲うようになったと、
風の噂に聞いた事がござりまする。
それが、この紹介状にある者であるのか否か、そして彼の者たちがアソウ水軍の
流れを汲む者たちであるのか否かは、某には判断が付きませぬが、恐らくは……」
「関係ない者がわざわざ名乗る名前ではない、と言う事ですね」
そのクラノスケの言葉に扇で口元を押し隠しつつサコンが続ける。
「左様、ジリュウと敵対すると公言しているような物でござるからな。
マウサツの船乗りとして雇い入れるにはある意味、願ったり叶ったりの相手では
ござろうが、はてさてどのような事を要求してくる事やら……」
ふう、と本日何度目かの深い溜息を吐いて説明を終えるクラノスケ。
ともすれば、ジリュウの水軍に喧嘩を売る事すら
要求しかねない相手とあって、クラノスケも気が気でないらしい。
ともあれ、護衛士たちの元に届いたジンエモンからの紹介状。
それを使うか否かは、護衛士たちの判断に委ねられる事となったのである。