第八話 涙

「五度目の滅びの時を起こそうとしているのよ、オリジナルのアダムとリリスを使って。それこそが教会の掲げる【楽園創成計画】の実態……」

地下通路に漂うひんやりと湿った空気を切り裂くように飛翔するシルフィードの背に跨がったロングビルは、腰の前に広げた羊皮紙の地図を見定めながら、背後に跨がるシンジに、今現在、ハルケギニアを覆う陰謀の真相を語っていた。
土地柄、トリステインに数多く伸びる地下水脈の跡をそのまま利用したこの通路は、縦横無尽に入り組んでいる上に、申し訳程度にしか魔法灯が設置されていない為、著しく視界も悪い。地図を持たない者からすれば迷宮に等しく、しばらくは追っ手を気にする必要もなさそうだ。
しかし、二人に残された時間は限りなく少ない。
彼女達の背後では、城内へと侵入を許してしまった連合国軍に対して、トリステイン、ゲルマニア同盟軍による最後の抵抗が行われている。
オスマンの拘束は、もはや時間の問題だ。そして、リリスの接収を果たした教会は、直ぐさま滅びの時の儀式を始めるであろう。
ハルケギニア全土を巻き込んだ此度の大戦は、トリステイン王国が王都トリスタニアの陥落によって、一応の決着を付けようとしていた。
寡兵のトリステイン、ゲルマニア同盟軍は数の上で圧倒的優勢な連合国軍に対し、有効な策を立てられず、敗退に敗退を重ね、戦端が開かれてから間もないうちにトリスタニアへと押し込まれてしまったのだ。
もちろん、優秀な指揮官の下で、局地的に戦果を挙げることもしばしばあったが、戦の趨勢にはなんら影響を及ぼさなかった。

「種の生存競争を自ら放棄して、他の生命体に未来を託す……。私からすれば、それこそ悪魔の所業よ。彼等はアスモダイの血を憎むあまり、自身も悪魔に成り下がっていたことに気付いてないの」

ロングビルは肩越しにシンジの様子を窺った。少年は膝を曲げ俯いたままだ。
ロングビルは小さく息を吸い、決意を込めて口を開いた。

「いい、シンジくん。あなたが成すべき事は三つ。リリスの模倣体、……つまり、あなたがエヴァと呼ぶ存在の奪還、楽園創成計画の要であるジュリオの殲滅、そして、ルイズの覚醒と解放。一つでも取りこぼしは許されないわ。生き残る手段はそれしかないの」

「……もういやです」

シンジの消え入りそうな呟き声は、一瞬にして向かい風の中へと溶けていった。

「何を言ってるの?」

「もういやだ。なにもしたくありません……」

ロングビルは眉をひそめた。

「分かってるでしょ。逃げ場なんて、もうどこにもないのよ」

「ジュリオさんが言ってました。ぼくの世界、……今から二万五千年前、エヴァとぼくを失った世界は三度目の滅びの時に見舞われたそうです。ぼくの知っている人もほとんどがそのせいで死んでしまった。 今の時代もそうです。ぼくのせいで…、ぼくなんかがいるせいで……、みんなが」

何かに追い詰められたように自身の前髪を乱暴に掴み上げると、シンジは言葉を続けた。

「ぼくに何かが起こる度に誰かが傷付いていくんだ…、ぼくが何かをする度に誰かが死んでいくんだ…。だったら、何もしない方がいい、何もしないで死んだ方がましだ……っ!」」

「今更、泣き言なんて聞かないわよ。同情もしない。分かって、私達はもうジリ貧なのよ」

ロングビルは胸に溜まりいく同情心を理性で無理矢理押さえ付け、厳しい口調で言った。

「……ぼくは戦うしかないと思ってた。周りの人の為に戦うしかないと思ってた。だけど、そんなの思い上がりだ…っ。人の為に頑張ってるんだ、なんて思うこと自体、甘えに過ぎないんだ。 結局、ぼくは楽な生き方を選んでいただけなんだ…。何も知らない…、何も分からないぼくに戦う資格なんてないんだっ!」

小さく息を継ぎ、シンジは再び膨れ上がった剥き出しの嫌悪感を吐露し始めた。

「ルイズさんに酷いことしたんだ……。ぼくのせいでワルドさんも死んでしまった。ギーシュさんも、キュルケさんも、タバサさんも、みんな死んでしまった。だけど、涙すら出てこないんだ……。ぼくには優しさなんてかけらもない。狡くて臆病で卑怯なだけだ」

その時、前方からまばゆい光が差し込み、薄闇に慣れた瞳を焼かれるような感覚に襲われたロングビルは瞼を軽く閉じ、小さく呟いた。

「着いたわね」

先日、シンジが訪れた謁見の間程の開けた空間に入ると、シルフィードはまるで墜落するかの様に乱雑に着地した。

「……もう限界だったのね」

ロングビルの言葉にシルフィードはきゅいと小さく鳴いて応えると、ゆっくりと瞳を閉じ、そのまま絶命した。息絶えたシルフィードの腹部からじんわりと泡立った鮮血が広がっていく。
魔法によって錬成された大理石仕立ての部屋には、通路とは違い魔法灯がふんだんに使われていた。それが、かえって真紅の液体を不気味な程に映えさせている。
シルフィードの背中から飛び降り、その光景を目にしたロングビルの瞳に水気が増した。

「ここまでありがとう。安らかに眠りなさい……」

ロングビルはシルフィードの頭を優しく撫で、命を失った身体を自身のマントで被ってやった。
それが済むと、歩こうともしないシンジの体を無理矢理引きずり、部屋の奥に位置する金属製の扉に向かった。

「良かった、魔力はまだ生きてる。さすがはトリステイン王族御用達の脱出装置。いけるわね」

ロングビルは振り返り、表情もなく風竜の亡きがらを眺める少年の姿を見つめた。

「シルフィードは死んだわ。そうやって眺めてても生き返りはしないわよ」

「……また、ぼくのせいですか」

「あなたのせいじゃないわ。あなたの為によ」

「どっちだって一緒です」

ロングビルはシンジの腕を掴み取り、少年の小柄な体を扉に向かって乱暴に叩き付けた。そして、瞳の中に苦しみと悲しみの光を浮かべる少年の顔を覗き込んだ。

「いい、シンジくん。ここから先はもうあなた一人よ。全てを一人で決めなさい、誰の助けもなく」

「ぼくはだめなんだ…、だめなんですよ……。人を傷つけてまで戦う価値なんてないんだ。人を殺してまで戦う資格なんてないんだ」

ロングビルは、シンジの頭を挟みこむように両手を壁につけ、静かに言った。

「あなたがしてきたことで救われた人だって大勢いるのよ。一度はトリステインの危機を救った。そして、ウェールズ皇太子の魂を解放したのもあなた。タリブの村人だってそう。全部、あなたがしてきたことなのよ。胸を張っていいことだわ」

「それだって違うんだ……。ほんとはどうでも良かったのかもしれない。ただ……」

数瞬の静寂が訪れ、耐え切れずロングビルはシンジを促した。

「ただ……、なに?」

少年の心に自己嫌悪が張り付いた。

「ただ……、ルイズさんに褒めてもらいたかっただけなんだ……」

ロングビルは、はっと息を飲んだ。

「それだけの自分勝手な幼稚な気持ちのせいで、誰かを傷付けるのはもうたくさんなんだ…っ!」

少年はどこまでも悲しそうな顔で視線を落とす。
ロングビルは微笑みを浮かべ、少年の頭を自身の胸に優しく抱き留めた。

「好きな人に褒められたいから頑張る、か……。うん、いいじゃない。その方がよっぽど十四歳の少年らしいわよ」

「……だけど」

「じゃあ、シンジくん。最後にもう一度だけ、ミス・ヴァリエールに思いっ切り褒められることをしなさい」

不思議そうに少年が顔をあげる。

「……え?」

「ミス・ヴァリエールを救うのよ。それが出来るのはあなただけ」

「そんなの無理ですよ…。今のぼくにはエヴァもない。何もないんだ。何もないぼくには何もできやしない」

「何を言ってるの、あなたはガンダールヴであり、二万五千年前、アダム族に決戦を挑んだ最初のリリス族であり、五千年前、アスモダイの祝福を受けた唯一のリリン。伝説を三つも持ったあなたに出来ないことなんて、何一つありはしないわ。 シンジくん、確かに全ての事象はあなたを中心に廻っている、二万五千年前を契機にね。だからこそ戦いなさい。自分が何の為にいるのか。何の為にあるのか。今の自分の答えを見つけなさい。そして、全てに決着を着けたら……」

ロングビルはそこで首を振った。

「さ、もう、時間よ」

シンジの背後の扉が音も無く開かれ、もたれ掛かっていたシンジはその中に崩れ落ちた。

「これは……?」

「フライとレビテーションがかけられた昇降籠。あなたを地上まで連れていってくれるわ」

「一緒に乗らないんですか……?」

「あなたと暮らした二ヶ月間、悪くなかったわ。頑張ってね、シンちゃん」

そう言って微笑むロングビルの口端から鮮血が漏れていることに気付き、シンジの目が開かれた。
突如、昇降籠の扉が勢い良く閉じられる。

「マチルダさんっ!!」

シンジの口から紡がれた彼女の真実の名は、厚い石の壁に阻まれ、ロングビルの元へと届くことはなかった。
昇降籠が地表を目指し、急激な速度で上昇を始める。
シンジは咄嗟にデルフリンガーを引き抜き、取り乱したように絶叫した。

「デルフリンガー!これにかけられた魔法を解いて!早く!!!」

しかし、デルフリンガーは小さく息を漏らすと、淡々と語った。

「無理だよ。物や人にかけられた魔法は俺にも吸収できねえ」

「……そんな」

シンジは倒れ込むように力無く壁に両肩をついた。

「それに今更戻ってどうするんだい」

「そんなの、決まってる。マチルダさんを放っておくわけにはいかない……」

「お前さんは気付いていなかったようだが、ありゃ致命傷だ。シルフィードだけじゃなく、あの時、マチルダも喰らってたんだよ。むしろ、よくぞここまでもったって感じだ」

絶望しきったシンジは両手に顔を埋める。不意に手を離されたデルフリンガーが床に落下し、渇いた音を響かせた。

「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……っ」

呪詛を唱えるかの様に延々と怨嗟の言葉を呟くシンジを見つめ、自身を落としたことを責めるでも無くデルフリンガーは言った。

「相棒はこれまで十分頑張ったよ。いつも離れず相棒の傍にいた俺はそのことをよーく知ってる。辛いなら、何もしなければいい。みんな死んじまったし、今更、お前を責めたてる奴もいやしない」

「……え?」

「放っておけば、間もなく滅びの時が勃発する。苦しみや悲しみもそこで終わりさ。死んでしまえば、何も感じやしないからな」

シンジは床に転がるデルフリンガーを静かに見つめた。

「誤解の無いように言っとくが、皮肉や嫌味じゃないぞ。たった十四歳のガキがここまで踏ん張ったんだ。上出来さ。まあ、地上に着いたら、世界の終わりをのんびりと眺めようや」

まるでこれから舞台観賞に赴くかの如く、デルフリンガーは何処までも暢気に言った。
シンジはデルフリンガーを拾い上げ、光り輝く片刃の長剣を見遣る。

「……滅びの時が起きたら、どうなるの?」

「相棒だって知ってるだろ。間違いなくリリンは全滅さね。今度の滅びの時は、今までハルケギニアで起きてきた半端なものとは、全くの別物だからな」

「……ルイズさんは?」

「全滅は全滅だ。ルイズだけ、特別ってわけにはいかねーわな」

シンジは思い詰めたように俯いた。

「ルイズを救いたいのか……?」

「分からない……、何がしたいのか分からないんだ。まるで、自分が自分じゃないみたいで」

デルフリンガーは、そうか、と相槌をつくと、真摯な想いを感じさせる深く落ち着いた声で言った。

「なあ、相棒。見ての通り俺は武器だ。つまり、道具だ。情けない話だが、俺はお前に使われることしか出来ない。だけど、お前には、お前にしか出来ない、お前になら出来ることがあるはずだ。 俺はいつだってお前の味方だ。だから、俺は間違っても強制したりはしない。自分で考え、自分で決めろ、後悔の無いようにな」

「……デルフリンガー」

「もしも、お前さんが戦うと言うなら付き合うよ。何もしたくないと言うなら、それにも付き合おう」

「……まだ、間に合うのかな?」

「何にだい?」

「……今からでも、世界を救えるのかな?」

「お前さんがそんなことを考えているうちは、無理だろうな」

デルフリンガーは心底呆れたようにため息をついた。

「何もかも背負いこもうとするのは、もうやめろ。十四歳のガキの分際で生意気なんだよ。いいか、残された時間はほんのわずかだ。 だから、最後くらいは、自分の為だけに戦え。自分の為だけに剣(俺)を振るってくれ。自分がどうしたいのか、自分はどうありたいのか、自分の望む世界は何なのか。それだけを考えろ。 さっきも言ったろ、お前は人の為に十分頑張ったよ。この上ないくらいにな。そんなお前を責められる奴なんていやしないんだ。だったら、最後くらい、ガキのワガママ通してみろよ」

少年の顔が一気に歪み、瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちていった。

「……ありがとう、デルフリンガー。ぼく、やっぱり、戦うよ。やっぱり、ルイズさんを助けたいんだ…」

「……そうか。じゃあ、一緒にもうひと踏ん張りだな」

シンジは次々と溢れる涙を拭いながら、口を開いた。

「よく分かったよ。ぼくには何もない。力もない。勇気なんて、これっぽっちもない。支えてくれた人達も、もういない。大切な人だって、ぼくの傍にはいない。何もないんだ」

デルフリンガーは自嘲の言葉を並べる少年を心配しつつも、口を開こうとはしなかった。

「何もありはしないんだ。だから、ぼくはゼロだ。ゼロのルイズの使い魔……」

少年が決意に染まる顔を上げた。

「そう、ゼロの使い魔、碇シンジだ……!」

直後、昇降籠内に耳を突く金属音が響き渡り、シンジの体を激しい振動が襲った。
目の前の扉が開かれ、その先には緑豊かな森林が広がっている。鳥のさえずりが耳に溶け、木立の隙間から差し込む朝の光が少年の体を照らした。
長い、本当に長かった夜が明けたのだ。
少年は片刃の長剣を握ったまま光りの指す方に向かって森の中を歩いた。ロングビルの言葉が正しければ、その先にトリスタニアがあるはずだ。
しばらくして、その森が小高い丘にあることが分かった。
眼下には、トリスタニアの街並みが広がり、その中央に位置するトリスタニア城からは濛々と白煙が立ち上っている。
威厳に満ち壮麗であったかつての名城も、今では見る影もない。焦げ付いた瓦礫の山を縫うように静々と血の川が流れ、無残としかいいようのない光景を晒していた。

「トリスタニア陥落、か。戦端が開かれてから、六日目。シナリオ通りってわけだ。教会の連中は残された一日で全ての片を付ける腹積もりなんだろうよ。神様気取りにも程があらぁ」

デルフリンガーの言葉には応えず、朝の陽光に映える澄み切った青空をシンジは静かに見上げた。

「ギーシュさんの言う通りだ。こんな時でも、空の青さだけは、変わらないんだな……」

青年の言葉がリフレインする。

『辛い時は空を見上げればいい。そして、ぼくの言葉を思い出せ』

枯れたはずの涙が再び溢れ、片刃の長剣を握る右手に一層の力を込めた。

「行こう。ゴルゴダの丘に……。ギーシュさんの言葉に応える為にも、そこで、ぼくはぼくの世界を作るんだ……!」
最終更新:2007年11月21日 21:10
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