キャッチボール
七月○日
本を借りてから、初めて野崎君がやってきた。
私は憶えはじめたばかりの野球の知識について教えてもらっていた。
「野崎君は、このピッチャーってポジションだったよね?」
「ああ、そうだ」
「高校野球のピッチャーって一試合で何十球と投げなくちゃいけないんでしょ?」
「もちろんだ。まず強い肩を作っておかないと、スタミナ切れしちまうからな」
「強い肩?」
「……強い肩ってのは、ボールを速く遠くまで投げられる能力の事だ。
ほら、お前も春にスポーツテストでソフトボール投げくらいしただろう」
「うん。えっと……私は5メートルくらい? だった気がするけど」
「おい……」
「な、何?」
「それ、ちゃんと本気でやったのか?」
野崎君は私をジロッとにらみ付けてくる。
まるでふざけてやったんじゃないだろうな、と言いたげな顔だ。
「ま、真面目にやったよ」
「それならいいが。たまにわざと手を抜くことがカッコいいと勘違いしてる奴が居るからな」
「わ、私の場合はそれが実力で……」
「まぁお前は特に貧弱そうだし、ショボイくても納得できるけどな」
(な、なんか馬鹿にされてる気がする)
「……じゃあ、野崎君はソフトボール投げ、どれくらい投げられるの?」
「俺か? 俺はだいたい60メートル強ってところだ」
(60メートル……ちょっと想像つかないけど)
「それって、きっとすごいんだよね」
「だいたい男子平均は30メートル前後だ。まぁ……普段の鍛え方がそもそも違うからな」
「鍛え方?」
「ああ。速い球を投げるための筋トレを毎日嫌というほどしてれば、これくらにはなる」
そう言うと、野崎君は白シャツのそでを捲り上げた。
すると小麦色に日焼けした逞しい腕が、私の目の前に現れた。
まったく贅肉の無い太くしなやかな筋肉の上を、浮き上がった静脈が走っていた。
(彫刻みたいに綺麗な腕……ぶよぶよの私とは大違い……)
「お前も引きこもってるなら、ついでに筋トレでもやったらどうだ?」
「えっ? ……ごめん、聞いてなかった」
「筋トレだよ。女だからここまでいかなくても、貧弱くらいは克服できるだろう」
(私が筋トレ……)
→「ちょっと遠慮しておくよ」
「そうか。お前が乗り気じゃないなら仕方ないな」
そう言った野崎君はちょっと残念そうだった。
→「筋トレって、どうやるの?」
「そうだな。まずは基本的な腕立て伏せなんてどうだ?」
「うん……少しやってみる」
次の日、私は起き上がれないほどの筋肉痛に悩まされることになった。
七月○日
野崎君のおかげで野球のルールがかなりわかるようになった。
お陰で、自然とスポーツニュースや野球中継を気にするようになっていた。
「この前、お父さんと一緒に野球中継みたよ」
「へぇ……」
「私がルールに詳しくてビックリしてた。でもお父さん、ちょっと嬉しそうにしてたんだ」
「そうか。よかったな」
「お母さんも最近明るくなってきたねって言ってくれたんだよ」
「そうか。いい傾向だな」
野崎君はあまり感情を表に出さないから分かりにくい。
それでも毎日厳しい練習の後にきてくれているのだから、きっと喜んでくれているだろう。
「今日はこれ持ってきたんだ。俺が昔使ってたヤツだけど」
「えっ、何?」
「これ、昔使っていたグローブだ。多分、お前の手ならいけるだろう」
「へぇ……」
紙袋から出したグローブを、私は受け取る。
触ると、使い込まれたグローブから古い皮の匂いがした。
「もしよかったら、今から少し外に出てキャッチボールしないか?
今日は早めに来れたから、空もまだ明るいしな」
「外に出る……」
もう何十日と外には出ていない。
またくつを履いた瞬間、気持ち悪くなるかもしれないと一瞬考えた。
「どうだ? 毎日この部屋じゃ退屈だろう」
「うん……」
「どうして動かない。外に行くんだろう?」
選択
→行く
「うん、ごめん。今行く……」
私は野崎君に促されるように、玄関までやって来た。
「浮かない顔だな。もしかして、キャッチボール嫌いか?」
「やった事ないから、よく分からないけど……」
「じゃあ一度やってみろよ。本当に楽しいからさ」
「うん……」
「最初はうまく投げれないかもしれないけど、俺が教えてやるし心配いらないから」
「そ、そうだね……」
野崎君は先に靴を履き、玄関のドアを開けた。
私も追いつこうと、急いで靴を履く。
「どうした? ぼやぼやせずに早く来いよ」
「うん。でも……」
「急がないと、すぐに日が沈んじまうぞ」
「わ、わかって……る……けど……」
「どうした? 顔色が悪いな」
「ごめん……。やっぱり、無理……かも……」
頭の芯が痺れて、視界がぐらぐらと歪む。
息苦しさに胸を押さえる。
次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
「うっ……」
「目が覚めたか。よかった」
「わ、私……」
「お前、一瞬気を失ってたんだよ。俺が居なかったら、頭ぶつけてたところだった」
「えっ……私……」
足元が不安定で、体が浮いたようにふわふわしている。
次の瞬間、野崎君に抱き上げられている事に気づいた。
「ぎゃ……!!」
「暴れるな。部屋まで運んでやるから、大人しくしてろ」
(で、でも……)
「辛かったなら、早く言ってくれ。無理されるのが一番困る」
「ご、ごめん……」
「まさか本当に外に出れないなんて思わなかったからな。正直驚いた」
「本当にごめんなさい……」
「いいや、俺こそ謝らなくちゃならない。お前を少し誤解していたみたいだ」
「誤解……?」
「ああ。こりゃ、色んな意味で今までより頑張らなくちゃならないな……」
そう呟くと、野崎君が支える腕の力が少し強くなった。
→行かない
「体調悪いから止めておくよ」
「そうか。じゃあまた今度にしようか」
「ごめん……」
「そんな顔するな。キャッチボールなんていつでも出来るんだからな」
そういうと、野崎君は少し困ったように笑った。
最終更新:2009年09月10日 16:08