零祢に案内された住居に着いてすぐに寝台に座り込んだ私は、ようやく張り詰めていた緊張を解いた。
「はぁ……本当に疲れたわ。雨華に引き継いでからはずっと休んでいたというのに。それに、どうしてちゃんとご挨拶しないといけないのかしら」
「本当にお疲れ様でした。本当はもうぎゅーってしたいんですけど、それは荷物とか色々整理してからにします」
その場にほったらかしにされた私の荷物をせっせか片付け始める。そんな彼女の様子を見ても分かるように、根はとことん真面目なのである。いや、もしかしたら自分の欲求には素直なだけ、ということはあるかもしれない。以前は隠していただけで。
「零祢、ああいうのは公衆の面前でやるものではないのよ?」
「本当に寂しかったもので、つい」
「つい、でやらないでって言ってるの。こういう人目のない場所だったら別にいいけれど」
ぺろっと舌を出して謝る様子を見て、肩を竦める。
彼女が私に好意を示していることが気になるわけではない。星詠候補として造られ、正式に私が29代目の星詠として修行をし、イム・フェーナに行くまでの間、ほとんどの時間を一緒に過ごしていた仲だ。このような反応は至極真っ当なもの。それを言えば、私も零祢に対して好意を抱いているし、同じ穴の筵である。
とはいえ、星詠として私がイム・フェーナにいた期間は決して短くない。その間に彼女の振る舞いは歳相応に穏やかになっていくものだと思っていたのだが……。これで変わらないのなら、ずっとこのままなのだろう。
「ところで、プラティナはどう? 何か変わったかしら?」
「んー、お年で総帥が変わって体制に若干変化があったりはしましたけど、それ以外は特に目立った変化はないです。街並みは建物の改装のたびにちょっとずつ変わってるので、亜里紗様が謳われる前に比べたら多少なりとも違いがあるかと思いますが」
「そう」
「基本的に外の世界との接触を絶ってますし、変わらないのも無理はありません。劇的に変わる時は、何か異変があった時くらいのものです」
「まぁ、変わらないってことはそれだけ平和だったってことなんでしょうね」
「はい。それはもう、亜里紗様がご立派にお役目を果たされたおかげですから」
「……この役割も、ずっと誰かがやらなきゃいけないというのは皮肉よね」
誰かが謳わなければ、ミュールがウイルスとして活性化し、ソル・シエールが危機に陥ることは理解している。そして、その役目がβ純血種……リューンの系譜である星詠が担わなければならないことも理解している。ただ、理解できたとて全てが納得できているわけではない。
「ま、もう私がどうこう言うことでもないわね。役目は雨華に引き継がれたのだから」
「そうですね……」
自分の手を離れたことまで気にするほどの余裕はないと、私は自覚していた。
諸手を上げ、体を一旦伸ばしてから寝台に横になる。
「それじゃ、私はしばらく寝るわね。夜になって起きなくても、起こさなくていいから」
「あっ、待ってください。せめて着替えてからーー」
零祢の提案は聞き流して、そのまま入眠した。
翌日の早朝……というには早すぎる時間に目が覚めた私は、ゆっくりと体を起こして寝台から足を垂らすように降ろし、そのまま立ちあがろうとして……そのまま寝台に仰向けに倒れた。もうここはイム・フェーナではなく、プラティナだ。星詠の役目はとうになくなっている。
結局途中で起きた記憶はない。壁にかけられた時計を見るに、半日近く眠っていたことになる。
「亜里紗様、目を覚まされたのですね」
その様子を見ていたのか、既に身支度を終えている零祢が寝台へ駆け寄った。私の背中を支えるようにして体を起こすと、支えた状態のまま隣に座る。
「何年も続けた習慣みたいなものだもの。数ヶ月くらいはきっと抜けないわ」
「……でも、やはりまだ起きるには早い時間ではないでしょうか」
「零祢、貴女がそれを言うの? もう身支度も済ませているじゃない。いくら零祢もβ純血種だからって、ちゃんと眠らないと倒れちゃうわ」
「亜里紗様のお世話をするのが私の役目ですから、亜里紗様が起きられる前に自分の準備を済ませておくのは当然のことです」
胸を張って言い切る零祢。たしかに、眠そうな表情には見えないけれど、それにしても準備が良すぎると思う。
お互いに笑いながら窓の外を見るとまだまだ薄暗い。ソルもまだ昇っていない時間なので、それもそのはずだった。
「この暗さだと、まだ外に出るのも難しそうですね」
「別にいいのよ。どうせ総帥もシュレリア様も起きていないでしょうから。せめてソルが昇るまでは、ここにいましょう」
「亜里紗様がよろしければ、そのように」
結局、この早朝の時間はささやかなティータイムになった。
最低限の身支度を済ませた私は、椅子に体を沈み込ませて零祢の準備が終わるのを待ちながら、まだソルは出なくとも徐々に明るくなりつつある外の様子を見ていた。窓から見えるプラティナは、星詠としてイム・フェーナに行く前と比べても、大した変化はないというのが正直な感想だ。
「どれだけ年月も経っても、変わらないものは変わらないのね」
「プラティナは閉鎖的ですから。ホルスの翼の文化が入ってくることもなければ、よほどの大事にならない限り、変化が乏しくなるのは無理もありません」
2つのカップに茶を注ぎながら返答する零祢の声音は、わずかに諦念が含まれているように感じた。
「はい、どうぞ。少し熱いので気をつけてくださいね」
「ありがと」
カップの半分程度に注がれた茶を、火傷しないようにおそるおそる口に含む。中に広がる味わいは久しいもので、無機質だった生活に変化を加えてくれる。一口目を十分に味わった後、カップに残った分をゆっくりと飲み干す。
「……でも、これは変わってなくてもいい。とてもおいしいわ」
「うふふ、ありがとうございます。おかわり、淹れておきますね」
空っぽになったカップにまた茶を注ぐ零祢は、後ろ姿でも上機嫌な様子が窺える。二人分のカップをテーブルに置いて、零祢も椅子に腰を下ろした。ニコニコと顔をこちらに向けているのを見て、そっと視線を外す。
「起きてからこんなにゆっくりできるのはとても久しぶりね。謳ってるときは、いつもバタバタしてたから」
「当分の間はこうなりますよ。今はもう復帰してますけど、先代の星詠の方もかなり長い間休まれてましたから」
「ふーん……」
とはいえ、今後何がどうなるかは今日総帥やシュレリアと話す予定ではある。プラティナに留まっていた零祢が言うのだから、予見が大きく外れるということもないだろうが。
ゆっくりと飲んでいたカップの中身を飲み干す。そのままテーブルにカップを置いて、ぐっと腕を上に伸ばす。今度はテーブルから少し離れてカーペットに座り込み、手を後ろに突きながら足をゆっくりと伸ばす。
「それにしても、タスティエーラはともかくとして、シュレリア様は1人の星詠が謳い続けるこの状態がずっと続くとお思いなのでしょうね? あ、ちょっと背中支えてもらえる?」
「少々お待ちを」
言うや否や、零祢はカップを片付けてから私の後ろに座り、背中に両手を当てる。
「こんな感じでよろしいでしょうか」
「ええ、少しずつ押してもらえると助かるわ。えーと、何を話そうとしてたんだっけ?」
「星詠が謳い続ける状況が今後も続くか、という話ですね」
「そうそれ。もちろん、シュレリア様としては続けなければならないというお考えだとは思うけれど、それが可能かどうかは違う話。謳える星詠がいて成り立つ状態なのだから、当然謳う星詠がいなくなったら破綻するでしょう」
「ですが、そのために星詠となるβ純血種を定期的に製造していますよね。」
「ええ。でも、製造されたβ純血種全員が星詠になれたわけじゃない。もし造られたβ純血種の全員が星詠になれるという前提なら、私か貴女のどちらかは造られていなかったはずでしょ?」
零祢に支えてもらいつつ体のストレッチを続ける。β純血種といえど、体の機能は基本的に人間と変わらない。何年も同じことを続けていれば、どこかにガタが出てくるものだ。
「たしかに……言われてみればそうですね」
「ミュールの封印が始まってからおよそ300年、それに対して星詠は私で29人目……シュレリア様によれば、不慮の事故があった時とか特殊な状況を除いて、長くても1代で30年って話だから。私みたいに20年ちょっとだったり、10年にも満たなかった代もあるけれど、それでも多すぎると思わない?」
「そもそも謳えなかったりしたケースもあるそうですね」
「それに、星詠の重荷に耐えきれなかったりして逃げ出した可能性も、十分にあり得る。でも、そうなっても仕方ない体制だというのも理解できるわ」
「亜里紗様……」
鈍りきった体はすぐには元に戻らない。無理に動かそうとすればするほど体は壊れていくことをよく知っている。リハビリと称して体を十全に動かせるようになるのがいつになるのか、到底分かりそうもない。
「結果的には、こんな私でも封印が始まってからの年月の十数分の一を担ったことになる。これがあとどれくらい続くかなんて到底分かりっこないけれど、こんな重圧に耐えながらたった一人で謳い続ける役目なんて、長く続かないほうが良いに決まってる」
「私もそう思います。ですが……」
「ミュールという世界の脅威がなくならない限り続けなければならない、でしょ。よわったものよね、ほんと。せめて、私たちの稼働が止まるまでになくなれば少しは気が楽になるのに……。あ、今日はもうこれくらいで大丈夫よ」
今日はまだ任務から帰ってきた翌日。単に体をほぐすと言っても、そううまくはいかない。零祢の手を支えに姿勢を戻し、ゆっくりと立ち上がる。
「少し早いですが、朝食にしましょうか」
「そうね。そろそろ良い頃合いかも」
「では、すぐにご用意しますね」
手近なところの遮光カーテンを開けるとソルの光が差し込んできて、その眩しさに目を細めた。ちょうどソルが顔を出す時間らしい。手で光を少し遮りつつ、外の様子を眺める。
「イム・フェーナにいた時はちょっと陽当たりが悪かったから、こうやってソルが昇るところを見たのがずいぶんと昔のよう」
「これからはきっと毎日見られますよ。飽きられるくらいには」
「そうだと良いわね」
ーーそれから約30年後、ソル・シエールは紆余曲折を経てミュールとの和解に成功し、誰の犠牲もない真の平和が訪れることとなる。そのことを知るのは、まだ先のお話ーー。