今日は定休日。それでも起きる時間は変わらないが、ゆっくりと時間を過ごすことが多い。
沙紗は滞っていた家事を片っ端から片付けていた。
一人暮らしの生活は、もう五年になる。その間に起きたことは途方もないものだったが、トコシヱ隧道の環境は大して変わらずにいる。
その当時から変わったことといえば、やや女性の比率が増えたことだろう。原因はクラスタニアのレーヴァテイルであるが、沙紗にはレーヴァテイルと人間を区別できない。否、沙紗に限らずトコシヱ隧道の住民のほぼ全てに当てはまる。
まだまだ蟠りがあるにせよ、こうして人間とクラスタニアのレーヴァテイルとが一緒に生活しているところを見ると、時代は変わったと思わざるを得ない。何しろ、五年前に星を再生させる以前は、人間とクラスタニアは敵対していたのだから。
家事を全て終わらせた時には、既に時刻は十四時を過ぎようとしている。ミズモリ広場に姿を現した沙紗は、立ち話をしている女性の姿の多さを見てそっと息を吐いた。そのまま食事処「よっこら」へと足を運ぶ。
昼食のピークを過ぎても、ここは繁盛している。いくつか空いている席はあるものの、少し客が来ればすぐに満席になってしまうほどだ。クラスタニアから客が来始めたことも、一つの要因と言える。
沙紗はほぼ毎日のようにここへ通っていた。朝と夜は自宅で食事を作っているが、鍛冶屋の営業日は昼食を作っている時間がないためにここへ通っており、その習慣が休業日にもついてしまっていたのだ。
沙紗がよっこら定食を注文して席で待っている間に、また一人来店した。その客も同様によっこら定食を注文すると沙紗の対面の席に座った。心ここに在らずといった沙紗の意識は、話しかけられるまでその人に向くことはなかった。
「やぁ、久しぶり。やっぱりここにいるんだね」
「あれ、フィア?」
鍛冶屋の常連で、クラスタニアのレーヴァテイルである女性、フィアだ。彼女は不思議そうな表情をして沙紗の顔を覗き込んでいる。
「……あたしの顔に、何かついてる?」
目をぱちくりとさせて、こちらもフィアの目を見る。しばらくそのままでいたが、フィアはあっさりと身を引いた。
やがて沙紗の頼んだ分の出来上がりを知らせる声が店内に響く。それを取ってはまた席に座り、さっそく山のように盛られたキャベツを崩していく。
食べている間、まだ父がいた頃のことを思い出していた。
* * *
「ありがとうよ。また寄ってくれい」
「ええ、また何か困ったらお伺いしますわ。沙紗ちゃんにも会いに♪」
装飾品の修理を依頼していた女性は、工房に続く扉からそっと覗いている沙紗にウインクをして去っていった。
店主である父ーーライは半ば呆れながらも本日最後の客を見送り、入り口に閉店を知らせるプレートを吊るす。常に街灯が照らす町も、賑わいは落ち着いてきていた。
店の中には、沙紗とライの二人。カウンターの椅子にちょこんと座る沙紗に、ライは頭を撫でて今日の苦労をねぎらった。
「今日もよく頑張ったな、沙紗」
「えへへ……」
無邪気に微笑み、ライはそれを見て顔を綻ばせる。
まだ幼いながらも、沙紗は父の仕事の手伝いをしていた。はじめこそ反対されたが、諦めずに幾度も懇願したことで折れてくれたのだ。
「それじゃ、いつも通り整頓してから帰るぞ」
「うん!」
二人で工房の中に入り、少しだけ乱れている作業場の整理を開始した。
その中で、ライは「ああ、そうだ」と前置きをしてから話し始めた。
「まだ本格的に仕事をする歳じゃないから、全部覚える必要はねぇ。……クラスタニアについては以前話したな?」
こくんと頷く。整頓作業の手は休めず、しかし父の言葉にしっかりと耳を傾ける。
「沙紗には分からないかもしれないが、この店を利用する人は大牙やアルキアの人間だけじゃねぇ。クラスタニアのレーヴァテイルも、その身分を隠して文字通り利用している人もほんの少しだけいる。だがな、俺の店に関してそんなことは問題じゃねぇんだ。何故か分かるか?」
静かな問いかけ。沙紗には当然分かるはずもない。
「それはな、人間だろうがレーヴァテイルだろうが客は客だ。鍛治ってサービスを求めてこの店に訪れた客を放っておくってのは、店として一番やっちゃいけねぇ。しかし、だ」
父は頭を振った。
「そんなことを大っぴらに言えば追放されちまう。だから、これは胸の内にとどめておけ。壁がなくなったその時に、積極的に俺達がその溝を埋めていけばいい。それまでの辛抱だが、俺の寿命が保つかも分からねぇ。だから、今のうちに話しておこうってな」
「お父さんは難しいことを考えてるんだね」
「そうだ。今はまだ難しいかもしれないが、いずれ分かる。その時に思い出してくれればいいのさ」
「うん。あたし、覚えておく!」
「良い子だ。そんじゃ、帰るとしような。カーナを待たせるといけねぇ」
「あ、そうだよ。母さん一人でかわいそう!」
二人は鍛冶屋を後にして母、カーナの待つ自宅へと駆けていった。
* * *
「……懐かしいわね」
「ん? 何が?」
記憶の波に漂っていた沙紗は、いつの間にか思考が口に出ていたらしい。
「少しね、父のことを思い出していたの」
「沙紗のお父様……ライさんのこと?」
「うん」
店内は客がまばらになっていた。相当な時間が経っていたらしい。
「最近ね、父や母と過ごした日のことをよく思い出すの」
「ふーん……何か、きっかけがあったみたいだね」
「きっかけ……そうね。あの日が変わり目だったのかも」
トーラ——フィアと同じクラスタニアのレーヴァテイル——と会わなければ、改めて考えることはなかっただろう。あったとしても、もっともっと先になっていたに違いない。
乾いた喉を潤すため、ついでにフィアの分のおかわりも含めて、セルフサービスの水を入れに行く。フィアはその背中をじっと見つめて
「人って……やっぱり変わるなぁ……」
ため息を漏らしながら呟いた。
「はい、どうぞ」
「ん、ありがと」
——もし父がこの様子を見ていたら、どう思ったのだろう?