こんな光景を見るのは何時振りだろうか。
闇の中に浮かぶ「僕」が見る者は、「過去の僕」。
せわしく響き渡る足音の中に立っている「僕」を、「僕」は見ているようだった。
そうだ、これはまだ僕が人間だったころ。
僕が「死ぬ」直前の風景だ…。
「界夢先生!さようなら!」
女学校の生徒が手を振る。
彼は笑顔で手を振り返した。
「気をつけて帰ってくださいね。」
「彼」の名前は、音無 界夢。明治時代、女学校の国語教師をしていた男だ。
特別目立つ教師でもなかったが、生徒と接するたびに笑顔で話しかけてくれていた。
この時は、何の能力ももたない、まして能力の存在を知らなかった。
そう。この時までは…。
「ふぅ…。仕事も終わったことですし、そろそろ帰りますか。」
書類を整理しトランクにしまいこむと、残業をしている仲間に一礼し、彼は学校を出た。
時刻はかなり遅かった。外はすっかり暗くなり、ガス灯もほとんど役に立っていなかった。
それでも帰り路を覚えていた彼は一人、暗い道を歩いていた。
歩いて数分経った頃だろうか。
一番暗い路地に差しかかったその時だった。
「…うっ!?」
突然、後ろから誰かが飛びかかって来た。
そのまま口元に湿った布があてがわれる。
必死に声をあげたり抵抗したりするが、元来体力に自信のない彼はのがれることができない。
そのうちに鼻から入ってくる匂いに意識が朦朧とし、彼は徐々に抵抗する体力を失ってきた。
そして、意識が飛ぶと同時に後ろの人に体を預けるように倒れ込んだ。
…今、自分は目を覚ましたはずだ。
それなのに、どうして真っ暗なんだ?
まだ目が覚めていないのか?
いや、そうではない。
彼は閉じ込められたのだ。
音も光もない「闇」の中に――。
『…経過はどうだ?』
『順調だ。今、被検体が目を覚ました。』
闇に閉ざされた男を見る、数人の男。
色の薄い髪と目の持ち主たちは、外国のものと思われる言葉をかわす。
『これが解明できれば、我々は大きく評価されることだろう。ぬかるなよ。』
『了解。観察を続ける。』
人間は常に「変化」を求める。
気がつかない間にもどこかが変化し、音を鳴らし、目に見える形と化す。
もし、「変化」が一切ない世界に閉ざされたとしたら。
音も光もない世界に閉ざされたとしたら。
変化を求める人間の脳は、変化しない情報に狂いだす。
本人が気付かないうちに神経が乱れ、少しずつ機能を停止させていく。
そして挙句、「生きたい」という生きるための根本の欲望までも殺していくのだ。
薄い酸素。蒸し暑く感じる湿度と温度。分からない時間。
それらはより、彼の体力を奪っていった。
彼がさらわれて16時間。既に彼はうつ伏せに倒れ込んだまま、動かなくなっていた。
荒い息だけが空間に吸い込まれ、虚ろな瞳は最早何処を見ているのかさえ分からない。
このまま僕は死んでいくのだろうか。
そんな思考にさえ、最早恐怖は感じられなくなっていた。
『…そろそろ、だな。』
『ああ。準備はできてるな?』
『当然だ。』
『よし。それでは、スイッチを入れろ。』
「それ」は突然、衰弱しきっていた彼を襲った。
何が襲ってきたかは、この時の彼には分からなかった。
ただ、覚えていることと言えば。
割れるような頭の痛み。耳をふさいでも鼓膜を貫いた高い音。
その「突然の変化」に、彼の頭はついていかなかった。
「うっ!うああっ!!」
上体を起こし、何もない空を仰ぐ。
吐き出される声は、最早獣の咆哮と相違なかった。
鳴りやまない音。静まらない痛み。目から涙が零れおちた。
そして。
完全に破壊された脳に命ぜられるままに、彼は素手で、その喉を引き裂いたのだ――…。
――――――――――
どれくらいの時間、寝ていたのだろう。
目を覚ますと、黒い猫が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「!
カイム!大丈夫か!?」
「…シキ…君?」
そう呟くと、黒猫は自らに飛び乗るように寄りかかった。
「よかった!マジで心配したんだぞ!このままずっと眠ってるんじゃないかって…!!」
「…そっか…。心配かけたね…。」
彼は黒猫の頭をなでた。
「ごめんね…。」
そういう彼は、静かに涙を流していた。
「お、おい、何でお前が泣くんだよ!泣きたいのは…俺だってのに…。」
「でもね…。ごめんね…。」
闇の中
「え?僕のこと?…いいよ。どの道長い付き合いになるんだ。君には、話しておいた方がいいかもね…。」
最終更新:2011年07月08日 20:41