風の音が静かに響く。
背丈の低い草花が風になびき、彼の頬をくすぐった。
「…んっ…?」
彼は目を覚ます。眼の前に広がる視界はぼやけていた。
(…あ、れ?確か、僕は…。)
寝ぼけた頭の中の記憶を探りながら、彼はゆっくりと体を起こす。
地面を探り、見つけた自分の眼鏡をかけ、眼の前に広がった世界に彼は絶句した。
色とりどりの小さな花が一面に敷き詰められている。
その先には灰色の地面、そして水面。
そこは、彼の知っている世界とはまるで違った。
そしてやっと思い出した。
そうだ、僕はあの時「死んだ」んだ…。
灰色の地面は薄く丸い石だったようだ。
あたりを見回しても、いる人間はほんに僅か。
しかも彼らはこの石を集めては、積み重ね続けている。
何をしているのだろう。純粋に疑問に思い、直ぐ近くにいた少女に声をかけようとした。
その直前だった。
「…おい、そこの。」
肩を叩かれ、振り返った。
自分よりやや背の低い、少年のような男だった。
上は黄色、下は薄紫の袴姿。上から袴と同じ色の上着を羽織っていた。
首には赤く大きな首飾り。四角いそれには逆さに「獄」と刻まれていた。
右目の下には赤い刺青。そしてこちらを見る目は血のように赤かった。
「お前じゃろ、『オトナシ
カイム』とか言うのは?」
「え、あ、はい。貴方は…?」
「お前の迎えに来た者じゃ。ついてこい。」
水面に浮かぶ小さな船には、彼ら二人だけが乗っていた。
「…あの、此処は何処なんですか?それに、先程の人たちは…?」
「落ちつくんじゃ。一つずつ説明する。まず、此処は人間界の死者が渡る輪廻の狭間。通称「三途の川」じゃ。」
「さ…、「三途の川」?」
生前国語教諭だった彼は、何度も古典作品に触れていた。
必然的にこういった死者の国に対する文章も触れるわけだが、本当に存在するとは思わなかった。
「…じゃ、じゃああの人たちは生前に罪を…?」
「そうじゃ。罪を背負って、なおかつ前世に未練のあるものたちじゃ。」
生前に罪を犯し、未練を残した者はあの河原…「賽ノ河原」で石を積み上げる。
天高く積み上げ切るまで、三途の川を渡ることは許されない。
しかし、折角積もあげても、時折やってくる鬼にその石の塔は崩され、またはじめから…を延々と繰り返すのだ。
先程彼が声をかけようとした少女も、その一人なのだろうか。
「…そうですか。本当に僕、死んでしまったのですね…。」
「今更後悔したところで運命は何も変わらん。今は事実を受け入れて、来世に期待するんじゃな。」
興味がない、という風に目の前の男は櫂を漕ぎながら言った。
「…向こう岸につくまで、どれくらいかかります?」
「知らんのか?49日って言うじゃろ?あれはこの三途の川を渡り切る期間なんじゃ。」
「ああ、そうだったんですね。」
「そして、生前の記憶を完全に失う期間でもある。」
男がそう言うと、彼は「そうですか…。」と頭を垂れた。
「皮肉な話ですね。「人の噂も75日」なのに、その半分の期間で皆忘れ去ってしまうなんて…。」
「…。」
「…あの、もし良かったら、貴方の名前、教えていただけませんか?」
「? わしの、名前?そんなの知ってどうするんじゃ?どの道直ぐに忘れることになるぞ。」
「いいんです。せめて49日だけでも、貴方の名前を覚えておきたいから。」
戸惑う男。今までにそんなこと、言われたことがないのだろう。
それほどまでに彼は親切で、無邪気で、無知だった。
「…二代目閻魔大王・地獄王じゃ。獄王と呼べ。」
「えっ、閻魔大王がなんで、こんなことを…?」
「まだ本職にはついとらん。今は初代が仕事をしとるからの。わしはまだこれが仕事なんじゃ。」
「そうなんですか…。」
櫂が水を切る音だけが、あるはずもない空間に響き渡る。
二人の男は黙ってその音に聞き入っていた。
既にどのくらいの時が流れたことだろう。
そんなことさえも分からなくなっていた。
「…もし、向こう岸で閻魔大王が待ち受けているのならば、僕はきっと地獄に落ちるんでしょうね。」
「? どうしてそう思うんじゃ?」
「だって、何か罪を犯したから、僕は早く死んだのでしょう?」
自嘲気味に彼は言った。
「それに、罪を犯さない人間は絶対いません。罪を犯すことで地獄に落ちるのなら、僕も、誰もかも…ね。」
「…確かに、罪を犯さない人間はおらん。」
彼の言葉を肯定し、未熟な閻魔は返した。
「でも、お前はきっと浄土へ行ける。わしが保証してやるわ。」
「…ありがとうございます。でも、いいんです。」
「僕は、自分の罪と真剣に向き合いたいんです。そのためにならどんな罰でも食らいましょう。」
「…初めてじゃ、嘘偽りなくそんな言葉を言った者は。」
男は笑った。彼も微笑みを返した。
このまま静かに49日が過ぎ去る。
二人はそう思い込んでいた。
しかし、転機は47日目に起こる。
向こう岸が見えてきた、その時だった。
「…わっ!?」
突然、小さな船の底に穴が開いた。
いや、違う。穴の色が闇のように暗い。
その真上に居た彼が支える地面を失くし、そのまま穴に入りこんだ。
「危ない!」
その右手首を、男がつかんだ。
引き上げようとするも、向こう側からもものすごい引力で引っぱられる。
彼は慌てて叫んだ。
「離してください!このままじゃ、貴方もこっちに引きずり込まれます!」
「いや、それはできん!」
櫂を握っていた手も手首をつかみながら、男は叫んだ。
「その先は鬼門じゃ!輪廻転生から外され、「存在」として永遠に彷徨い続けなければならん!罰どころか、幸せもそこにはない!」
「なら、尚更離してください!貴方まで巻き込むわけにはいかない!それに!」
「これは僕の真下にできた。なら、これこそが僕の受けるべき罰で、僕の定めなんです!」
彼は男の手を振り払った。
すぐさま引力が彼を襲い、闇の奥に吸い込まれていく。
離れた手を再び握ろうと男は手を伸ばしたが、もう届かなかった。
「カイム!!」
「獄王さん!御縁があれば、いつかまたお会いしましょう!あなたとの47日間、僕は決して忘れませんから――!!」
その言葉を最後に、彼は「実体」を失った。
跡形もなくきえさった穴に向かって、男は言った。
「縁なんて…もうありえなかろ…。わしとお前は、もう、二度と会えない…。」
心なき閻魔に、初めて心がうかがえた瞬間でもあった。
47日の高瀬舟
ソノココロハトワニツナガリ
ノチニフタリマノウイチド
ユイイツムニノナカマトシテ
サイカイスルコトニナロウトハ
最終更新:2011年07月30日 04:32