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ソウヤの発症(仮)

人間とはあっけなく死んでしまうものだな、と、ソウヤは二回ほど感じたことがある。
十八年前、父親が死んだ。交通事故だった。今から帰るよ、と母親に連絡したのを最後、居眠り運転のトラックに撥ねられた。即死だったらしい。
ソウヤは父を失った事実を全く実感しないまま、粛々と進んでいく葬儀の中にいた。肉親の死とはいえ古い出来事であるため、彼には端々の記憶しかない。ただ、棺桶にしがみついて声を上げるあの姿が、最後に見た優しい母だった、それだけは忘れられないでいる。
幼心にも、両親の仲がとても良いことは感じていた。実際、母は父を、父は母を愛していただろう。父は仕事に忙しい日々を送っていて、少なくとも、毎日の食事は十分すぎるほどだった。色々な場所に連れて行ってもらったし、欲すれば与えられた。母は専業主婦だったので、父親の仕事ぶりが如何であったかは、今では想像に難くない。それに男前な容貌であったし、汚い言葉を吐いたり母に暴力をふるったことも一切無かったと記憶している。だから母も、毎日家の中を美しく、平穏に保っていたのだ。
ソウヤの幸せは、父と母が存在することによって成り立っていた。そして、その片方が欠ければ、幻と消えてしまうものだった。

「どうしてあなたは!」
その叫びを聞く度、脳が凍りついた。直後の痛みに備えて、身体も強張る。襟首を掴まれ、床に叩きつけられて、丸めた雑誌やスリッパで、虫のように殴られた。その間は何も言わず、ただ丸まって、涙を見せないようにするのだ。痛い、やめて、などと訴えれば、母はますます激昂して彼を足蹴にした。
埃まみれの床に伏して、この家はこんなに汚くない、と思う。我が家はいつだって、床がきらきらと輝いて滑らかで、窓ガラスは一点の曇りもなく空を映していた。ベランダには季節の花が虹色に咲いていて、部屋の中で嫌なにおいがしたこともない。常に片付いて、広々としていて、そこにおもちゃをばらまいて世界を作るのは、とても楽しいことだった。
ソウヤの持っていたおもちゃは、この間、ゴミ袋に詰められてどこかへ売られた。おもちゃだけではない。本も、ゲームも、父親が買い与えてくれたものは全て。
彼はその時期、体中が痣だらけだったから、自然と入浴が苦痛になった。髪がぼさぼさで、服も薄汚れていたのは、母が自分の分しか家事をしなくなったからだった。
今までの友人が、悪いからかいのように自分を遠ざけ、見てみぬふりをするのを感じた。だが、ソウヤには何も出来なかった。彼は物言えぬままに翅と脚をもがれた、一匹の虫だった。

ある日、帰宅すると見知らぬ男が夕飯を作っていた。中肉中背で、その他には強いて述べるほどの特徴の無い、言ってしまえば冴えない風体だった。男はソウヤに気が付くと、非常に驚いた顔をして、まずは彼を風呂に入れた。それから、伸びに伸びて後ろで結んでいた髪を切って、制服をきれいに洗ってくれた。見かけからして特に警戒もしていなかったが、この男が悪人ではないことはすぐに分かった。
男はヨウイチと名乗った。母の知り合いらしい。
その日は二人で麻婆豆腐を作って食べた。母は帰ってこなかった。訊ねると、買い物にでも行ったんじゃないか、と言う。思えば母親は、父の死以来まともな外出をしていなかったから、もしかすると次に会える母親はあの優しい顔をしているんじゃないか、と期待した。
そして翌朝、母は家にいた。いつぶりかも分からない明るい笑顔で、ヨウイチと話をしていた。食卓には、三人分の朝食。ソウヤはうれしくてうれしくて、胃が重くなるほどの速さで朝食を平らげて学校へ向かった。我が家が戻ってきたのだ。ようやく長い悪夢が終わったと、彼は信じて疑わなかった。
だが、自分の席にあった食事の盛り付けだけが妙に不慣れで、卵焼きも形が崩れていたことには気付いていなかった。
もしもその意味を考えていれば、彼はもう一度、転落しなくて済んだだろう。




ヨウイチの頬に、青い痣が出来ていた。
その日、ソウヤは帰ってくるなりそれを見てしまい、部屋に篭って宿題を始めた。
この時間であれば空腹に鳴るはずの胃が、きりきりと痛むばかりで動かない。
無理やり、自分を鞭打つように数式を解く。算数は得意だ。得意だからすぐ終わる。楽しい。
言い聞かせて、宿題に出されていない範囲まで。ドアの外から届く、罵声と騒音が消えるまで。
母の足音に体を強張らせる。だが自分の部屋には訪れなかった。
それもそうだ。母は、ヨウイチが来てから、自分を見てはいなかったのだから。
食事の時も、それ以外でも、母はヨウイチを介さないと、ソウヤと話をしなかった。
まるで存在を信じないかのように、目線を合わせず、声をかけず。
彼女は二人分の食事しか用意しなかった。
そのだいぶ後でヨウイチが、もう一人分を作って持ってくるのだ。
当然だ。父がいたから成り立っていた我が家を、父以外の人間に直せるわけはない。
突然、視界が真っ白に滲んで、宿題が手に着かなくなった。
ソウヤは布団に潜り込んで、声を殺した。
辛くて、痛くて、悲しくて、汚くて。明日が怖くて。
何度眠って何度起きても、彼が安らげたあの家には帰れなくて。
自分がいなければ、ヨウイチと母は、二人で幸せに暮らすだろうかとも考えた。
だから、母が寝静まったと思った頃、台所へ包丁を取りに行った。
だがヨウイチが起きていた。
彼は駆け寄ってくるなり、「駄目だ」とうわごとのように呟きながら抱き締めた。
随分泣いたはずなのに、また涙が溢れてきて、その場に崩れ落ちる。
声を上げることはやはり出来ないのだった。
まるで絞り出したような、呻くような嗚咽だけがソウヤの口から漏れていた。
ヨウイチは彼の涙を受け止める間にもずっと、ごめんな、ごめんな、と言い続けていた。
ああ、この人はいなくなってしまうんだ。何を考えるでもなく、そんな予感がしていた。

引き留める術など、無い。

程なくヨウイチは、帰ってこなくなった。
それから一つ季節が巡り、ソウヤはまた母に暴力をふるわれるようになったが、
日常が戻ってきただけのように思えた。
凍える寒さの中を、ソウヤは買い物に行って、麻婆豆腐の材料を買ってきた。
最近では、母は自分の食事だけを買ってきて、その余りしか与えてくれなくなっていた。
貯金箱の中身も、もうすぐ底をつきそうだった。
家の中は暗くて、外と同じくらい寒い。母が既に就寝しているからだ。
暖房を勝手につけるとまた殴られる。
電気をつけても薄暗くて、黴臭い台所で、踏み台の上に立って調理をする。
ほんの一年ほど前、ヨウイチが作ってくれた麻婆豆腐を思い出した。
辛くて、ご飯のおかずになる、ただそれだけ。
平凡な味だったろうが、あの時の自分には至福のごちそうだった。
久しぶりに与えられた、「自分のための」食事だったからだろう。
だから、これもきっと――。
出来上がった麻婆豆腐を皿に盛り付けて、暗いダイニングへと移る。
凍える指が、皿の感覚を見失った。
体の芯が凍りつく心地がして、静寂を砕く皿の音。
たった今まで湯気を立てていたおいしい料理は、床の上にぶちまけられた汚物と化していた。
慌てて拭き取ろうと動いた彼の耳に物音が届く。
家庭という空間にあるべきでない淀んだ暗闇の中に、母の姿を見た。
髪を振り乱して、肌は荒れ、赤い目をした、まるでたちの悪い心霊映像のような。
最早、何の言葉も意味は持たない。
彼は襟首を掴まれると、冷蔵庫まで引きずられた。
何をするのかと思うと、母は数少ない中身を雪崩のように掻き出して、
仕切りの板を外し放り投げる。
呆然とその場に立ち尽くしていると、母親はまた同じ場所を掴んで引き寄せた。
ここで寝ていろ、と言われた。
殆ど反射だった。
ソウヤは自分で考える暇の無いまま、人一人が入れる広さにはなった冷蔵庫に入り込んで、
体を縮めていた。
そうすれば、母にぶたれずに済む、母を怒らせずに済む。
自分も痛みを感じずに済む。
今考えれば抵抗することも出来ただろうに、しかし心が動くよりも強く、
脳が、体が、それを憶えていたのだろう。
ばたん、と冷酷な音がして、軽い衝撃とともに視界が消える。
やがて、じわりと肌を蝕む冷気と、冷蔵庫特有のにおいに包まれた。
ソウヤは当時、それほど背が高くはなかったが、やはりその中は窮屈だった。
息苦しくて、程なく吐き気がした。
外では、冷蔵庫の中にあったものを野菜室に放り込む音がして、足音が遠のいていく。
それを確かに聞き届けたはずなのに、彼はドアを開けるのが恐怖だった。
母がまだ見ているのではないかと。
いや、あれはもう母ではない。
あの女が、まだ自分を痛めつける機会を窺っているのではないかと思えて、
暗く冷たい地獄から逃れようとはしなかった。
目を閉じる。皮膚が、内臓が、少しずつ軋んでいくような気がしていた。
彼は恐ろしい妄想をかき消そうと、昔読んだ楽しい本の印象を、
遊んだ友人のことを思い出した。
しかし何もかもが、途中で手元を離れていく。
目を潰してしまいたいくらい、恐ろしい。
そこに現れたのは懐かしい父の笑顔だった。
隣では、彼の知る優しい母が、柔らかく手を招いている。

体温が上がったような気がした。
いつのまにか閉じられていた瞼には、明るい幻が映っている。
意識がふわりと離れ、流石に危ないと思ったが、もう遅い。
大丈夫だ。冷蔵庫の温度など、高が知れている。このまま、何も感じないで眠ればいい。
そう囁いたのは、或いは死神のような、死や運命を司る何かだっただろうか。




夢を見た。
そこは、見知った我が家の台所だ。自分は仰向けに倒れている。
色合いは陰影の無い白と黒だけなのに、何故かそうと分かった。
まもなく、空気の擦れる音さえも、どこか別の世界に吸い込まれたように消える。景色の中の白が無数の糸になって、闇の彼方にぼんやりと灯る光の中へ消え行く。

そして――覚醒した。
明かりのついた、台所の天井。
空きっぱなしの冷蔵庫と、傍らの気配。
夢から覚めたのか、それとも夢が始まったのか分からないでいると、
覗き込んだ顔があった。
ソウヤは驚かなかった。あの女だ、と認識したときには、既に手に力を込めていて。
顔は突然、焦ったように歪んで、何事かを叫んだ。
尚も握り締めたままでいると、まずはその瞳から光が消え、瞼が閉じた。
どさり、と横たわる音がして、冷たい感触が左手に残る。
しばらく、彼は天井を仰いだままだった。
体が急激に熱っぽくなって、起き上がることが出来なかったのだ。
その間に、途切れた記憶が息を吹き返して、彼は自分が冷蔵庫の外にいると気が付いた。

生きている。

自分で抜け出した記憶は無い。
あの女が、母親が、出したのか。
ならば母はここにいるはずだ。自分の知る唯一の母が。
隣に、倒れている。
起き上がり、彼は左手に握っているものをようやく知覚した。
母の右手だった。
それは彼が憶えているよりも骨ばって、爪は伸びて色褪せ、血管が浮き出ている。
何よりも、冷たい。そして、白い。
冷蔵庫から出てきたばかりの自分が、こんなに暖かいというのに。
まるで、自分が体温を奪ったみたいだ。
恐る恐る、首に手を添える。
急に目を覚まして、また自分を怒鳴りつけるのではないか、とは思った。
それでも良かった。首にあるはずの脈や、鼻を覆えば見つかるはずの呼吸が無いことを、
否定してくれるのなら。
例えそれが骨を傷つけるほどの拳でも構わない。
あれほど恐怖だった暴力を、彼は願っていた。
母の手を両手で包んで、奪ってしまった温もりが戻るように念じていた。
母を救えなかった自分なら死んでもよかったのに。
ソウヤは夜が明けるまで、力なく座り込んでいた。
母は二度と動かなかった。自分の手を強く握り締めたまま、死んでいた。
よく分からない。それもそうだ。自分は気を失っていたのだから。
麻婆豆腐をこぼしてしまって、母親がそれを怒って、
冷蔵庫に自分を閉じ込めて。
自分は眠ってしまって。それを――それを、母親が出して。
まるで立体感の無い照明に照らされた、色の無い母の頬を眺める。
一筋の干上がった川が見えたと思った。
どうして泣いているのだろう。殺してしまったと思ったのだろうか。

死んだのは自分なのに。

外が明るくなって、いつも起きてくる時間になると、ソウヤは家を飛び出した。
それから、どこかの公衆電話に駆け込んで、以前教えてもらったヨウイチの電話番号にかけた。
きっと近所だっただろうが、その時は全ての景色が、夢の中の見知らぬ土地に見えていた。
ヨウイチが車で迎えに来ると、後部座席に乗せられて、彼の家まで連れて行かれた。
窓の外を全く見ていなかったから、町のどの辺りなのかは全く分からなかった。
だが、随分と長く走った気がする。
ヨウイチは時折こちらを振り向いては話しかけた。
彼の頬から、いつかの青痣はすっかり消えていた。
彼の家はアパートだった。
リビングに通されて、朝食を振舞われたが、食欲というものがなんだったか思い出せなかった。
ソウヤは何も聞かれなかった。




それからしばらく、ソウヤは学校にも行けなかった。
家から勉強道具を何も持ってきていなかったから、当然といえば当然であったのだが。
ただ、ヨウイチはたまにパズル雑誌や問題集を買ってきては与えてくれたから、
それを解いている時間もあった。
いつだったか、警察の人間が来て、自分にいくつか質問をしていった。
分かる範囲のことを答えた。
嘘も、ついたかもしれない。
ヨウイチは、話を聞くと、この子がそんなことをするわけがないと主張していた。
それを聞いても、心は麻痺して痛まない。

あの出来事が本当だったのかどうかを知る術が、もう彼には無かったのだから。




ソウヤがヨウイチの家に匿われてから、三年が経った。
母の死から数週間後に、ソウヤの勉強道具や制服は引き渡されて、
彼は再び登校しはじめた。
勉強は、持ち前の真面目さや、ヨウイチが与えてくれた本のおかげですぐ追いつくことが出来た。
だが、相変わらずかつての友人は他人のままだった。
中学校に上がっても、顔見知りのはずの人間は誰も、ソウヤに関わろうとはしなかった。
いじめという形すら取らなかった。
誰も、彼が見えていないようであった。
母親の件について、既に噂が回っているのだろう。
だが遠ざけられるのには慣れた。

ソウヤはどことなく、自分が母親の死を他人事のように思っていると感じた。
あの記憶は、重荷というにはあまりにも曖昧過ぎていた。
全てが悪い夢だったと言われれば、信じてしまうほど。
それは、願望だったかもしれない。
真実しか見せない現実から逃れるための、
たった一つの、卑怯な言い訳だったかもしれない。
ともかく、彼はあの日以来、夢を見ているような気分で過ごした。
確かに名前を呼ばれた。人に触れることもあった。
話すことも、笑うことも、泣くことも出来ていた。

それなのに、どこか自分が自分ではなくて。
ひょっとして、あの時自分は死んでいて、
別の誰かに乗り移ったのかもしれないなどとも考えた。
もしくは――ようやく自分は、幸せな幻から決別できたのだ、とも。
別の体に乗り移った、という案は、あながち間違いでも無いかもしれないと思った。




あれ以来、ソウヤはある能力を身につけていた。
ヨウイチが作っていった朝食を、電子レンジで十分に温め直す。
席につき、湯気の立つ白飯を眺めていると、
何を思ったのかその中に指を突っ込んでいた。
火傷するに決まっているのに、何故か指先を引き抜くことが出来なかった。
体はその動作が必要ないと判断していたのだ。
どれだけ長くそうしていても、指先が全く熱くない。
その代わり、全身が温まってくる。
やがて、頭がぼんやりと熱くなって、眩暈がしたのでその行為をやめた。

すると、数秒前まで湯気を立てていた米が、まるで数時間を経たかのように冷えている。

彼はヨウイチのいないところで、食べ物以外にもそれを試した。
金属、植物、蝋燭。
手で触れた、或いは手の平を向けたものが、冷えて、萎れて、火が消える。
直接触れれば即座に、離れていればゆっくりと。
何度か繰り返すうち、触れたときには体中が熱っぽくなること、
触れなければあまり熱が回らないことを発見した。

どうやら、自分は別の人間になったというより、
冷蔵庫に入ったせいで冷蔵庫の能力を身につけたのだ。
彼はそう解釈していた。

もう一度、この能力を使う機会はあるだろうか。
今度は、後悔がないようにしたい。
人が殺せると言うことは、人を守ることも出来るはずなのだ。

その日こそが、ソウヤがこの家に来た三年後。




深夜、物音に目を覚ます。
ヨウイチだろうか、と思ったが、違う。彼の立てる音にしてはがさつすぎる。

眠い目をこすりながら部屋を出、居間の電気をつける。

黒い服をまとった、見知らぬ男。

目が合った、と思うより先に相手が動き、こちらへ向かってくる。
殺される、と思った。脚が竦んで、力のない叫び声を上げる。
腕を掴まれ、無我夢中で振り払おうとするが、細い少年の力では叶わなかった。
背後で物音がする。ヨウイチが起きたのだ。
強盗もそれに気付いたのか、ソウヤの首に腕を回して、何か冷たいものを喉に押し当てる。
自分がどんな状況になったのか理解するのに、時間はかからなかった。
部屋から出てくるなり、ヨウイチは顔を青くする。
そして何か交渉を始めた――
どうやらヨウイチが金目のものを全て渡せば、自分は無事に解放されるのだそうだ。

ヨウイチが部屋へ戻り、カバンの中をひっくり返すのを、強盗と自分は背後から見つめている。
ソウヤは強盗の腕に、無意識に手をかけていたことに気付いた。

今思えば、そのまま大人しくしていた方がよかった。
だが、ソウヤは自分が何かをすることでヨウイチを助けたいと、その思い一つだったのだ。
だから他の選択肢は、最初から見えていなかった。

母のとは違う、不快な熱を手の中に捕らえる。
思い出す。握っているのが母の手と分からずに、温もりを奪ってしまったあの時を。
体を巡る血が熱い。
あっという間に冷たくなった強盗の腕が、程なく緩み、その場に崩れ落ちる。
何とか平静を保とうとしたソウヤも、目を開けられぬほどの熱に耐えかねて、ほぼ同時に倒れた。

ヨウイチが自分の名を呼んで駆け寄って、抱き起こしてくれたことまでは憶えている。
それから次に目を覚ますまでの記憶が、ソウヤにはない。
彼は部屋にいて、ベッドに横たわっていた。
家の中はどこもかしこも消灯していたが、外は昼のようで、カーテンを通る光は明るかった。
部屋を出る。
声をかけてもみるが、返事らしい物音はしなかった。

まるで、世界から切り離されたような静けさが耳を押さえつける。
荒らされた部屋の形跡はそのままに、昨日自分の手で殺したはずの強盗の体も消えていた。

外に出る。
まだ覚束ない、回復しきらない体で、彼の車を探しに行ったのだ。

駐車場が見えてくると、彼は愕然として、その場に膝をつかんばかりだった。
ヨウイチの車が見当たらない。
彼がどんな行動に踏み切ったのか、予想するのは簡単だった。
ソウヤは部屋へ駆け戻って、震えて力の入らない体を何とかもたせて、紙と鉛筆を取り出した。

どうして。
殺したのは自分なのに、どうしてあなたが罪を被るのだ。

大体あなたは自分の何だというのだ。
突然現れ、まるで父親のようなことをしたくせに、母を救えなかった。
それどころか逃げ出して。なのに、自分をまだ助けようとするのか。

あなたがそこまでする理由がどこにある。

言いたい事は山と積もった。
だが、それをメモ用紙の、たった一枚に収めることが出来なかった。
ソウヤは骨を砕くほど強く打っている心臓を、上から押さえつけて、
子供が書いたような字で記すのが精一杯だった。

「ごめんなさい」。




彼は、その日のうちにヨウイチの家を出た。
持っていたものは、ヨウイチから分けられた小遣いの残りと、
パズル雑誌や本。
電車に乗って、聞いたこともない遠くの街を目指した。
うとうととしながら揺られ、目を覚ましたとき、
広がるのが見知らぬ風景であるのを確認して電車を降りる。
果たしてそこにあったのは、生まれ変わったような心地のする夕空だった。

もう、自分を結びつけるものはない。
寂しさが、不安が彼の足を括りつけるが、引き返そうとした電車は無情にもホームを過ぎていく。

これでよかったのだ、とソウヤは言い聞かせた。
濃い橙の光に染まる街は、何故か自分を拒まなかった。
むしろ、暖かな空気を伴って、自分を迎え入れるように微笑んでいると見えた。


全ては夢だ。
遠い昔、幸せそのものの生活も。
父親の死も、変わってしまった母親も、死んでしまった母親も。
殺してしまった強盗も、罪を隠しに行ったであろうあの男も。
全て、悪い夢だったのだ。
踏み出す足は、景色が現実であることを、せめて楽しい夢であることを願っていた。


しばらくして、彼はこの賑やかな世界の一人になった。

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最終更新:2011年09月07日 19:16