社会、というものはある意味での閉鎖空間と言える。
ルールと言う大きな壁、不文律あるいは暗黙の了解という見えざるラインによって区切られ、その内にあるものを閉じ込める、大きな箱庭とも言い換えられよう。
無論、その壁を越えようとすれば、あるいはそのラインを越えようとすれば、社会の方からそれを弾き出してしまう。
翻って、これは学校というものにもそのまま当てはめられる。
違いと言えば、ラインの方が大きな力を持っているという一点。そして、そのラインはいくつも存在しているという一点であろうか。
そしてそれらのラインは、往々にして生徒の間に張られるものであり、また往々にして関わりのないものには全く感知の出来ないものであり、そしてまた往々にしてその中に入らざるものを攻撃しようとし、さらにまた往々にして対象の意思とは無関係に起きる。
人の数が多ければ多いほど、このような事例は増える。
ラインを張っている方は、それに当てはまらないものを攻撃する。この場合、当てはまらないものが、そのラインに当てはまろうとしているのかどうかは関係がない。
重要なのはただ一つ、その誰かが自分たちのラインに当てはまらない。その一点に尽きるのだ。
別の理由としては、ラインを維持するための生贄、というものがある。
この場合、信頼や協調という名を与えられているこのラインは、妬みや嫉みという名にすり替えられる。
そしてこの場合もやはり、対象の意思や真偽は関係がなく、ただラインを維持するために、あるいはそこから弾かれないために攻撃を行うのだ。
さらなる理由として、単純なものがあげられる。それは即ち、フラストレーションや生活の中で生じるストレスを昇華し、己の精神を守るための能動的な防衛衝動という観点である。
この場合、ラインには共犯あるいは連帯という名が与えられる。対象を攻撃することによって生じる罪悪感を軽減・消去し、己を守るためにラインを張るのである。罪悪感もまたストレスの一種である以上、精神的な面から見ればこれは至極当然の帰結と言えよう。
それに対して思うところがあるとしても、大抵はそれを表現することはない。それは即ちラインへの抵触であり、論を進めれば攻撃対象となるからだ。それでも表現するとすれば、それは立場として強いのか、あるいは攻撃を攻撃として受け取らないのか、そもそも興味を持っていないのか、大抵の場合そのいずれかに分類される。
そうして助けられた対象は、攻撃から外される。しかし、ラインを維持するため、あるいはそこから外れたがゆえに攻撃されるものはなくならない。
これは、学校という閉鎖空間が潜在的に持つ危険性の一つであろう。思考も志向も嗜好も指向も全く異なる人間が一堂に会しているのだ、ひずみの生まれない方がどうかしている。
彼らもそれを無意識の底で理解しているのだ。だからそのひずみを何とかしようと、全く見当違いな行動に出るのだ。その意味では、この「苛め」という攻撃衝動はなくなることはないのかもしれない。
亜當、阿厭、邂舉、亞吾、上会、倦充、唖合、呀在、堊婀、鴉安、宛当、或蛙、扛抵、揚痾、浴翹、錏辮。
まったく、何という世界だ。
(常から無口気味ではあるが)
(頭の中では小難しいことを考えている)
(蒼崎 啓介はそういう男である)
最終更新:2012年07月10日 17:40