あたしは急ぐ。
こんな、こんなはずじゃなかった。
ほんとならとっくに終わらせて、姉御のところに戻ってるはずだったのに。
ここはどこ?
辺りの景色はどこもかしこも見たようで、出口の無い無限回廊に迷い込んだような錯覚を感じる。
ない。ない。ここにもない。
お願い、あの角を曲がったら。
……その先に続くのは同じように続く廊下。
軽く絶望で心が塗りつぶされそうになる。
止まっちゃ駄目だ。限界は近い、もうすぐ急げなくなるかもしれない。
なんとしてもその前に見つけなくちゃ。
心を奮い起こし、再びあたしは急ぎ始める。
……トイレ、どこ………?
――五時間前、午前6時40分。
窓から差し込む日が眩しい。
小鳥のさえずりに引き寄せられて、あたしは現実に浮かんできた。
身体を起こして窓から見上げるとミロスの美しい空が見えた。
うん、今日もいい朝だ。
歩きながら腕を頭の上で組み、目一杯伸びをする。
若干身体を捻りながら背骨を鳴らすと、眠気が少し消え代わりに爽やかな気分が沸いてきた。
ドアをくぐる。
テーブルの向こう、あたしの向かいに光の反射で紫に見える黒髪の女の人が座っている。あたしの師匠だ。
テーブルの上には七人分の朝食。ちなみにその内容は
白いご飯。
味噌汁。
焼いたメザシ。
漬物が少々。
小鉢に納豆。
……いまどきアイゼンでもなかなか見ない朝食ではなかろうか。
「って言うか、姉御料理できたんですね……」
「起きてくるなり開口一番それか」
あたしの口からつい漏れた本音を耳ざとく聞きつけた姉御が、味噌汁をすすりながら軽く睨んでくる。
「前から思っていたがそもそもお前は私をどんな風に見ているんだ。
昔からよくお手伝いをしてさっちゃんはいいお嫁さんになるわねと言われた私だぞ」
「へぇーへぇーへぇーへぇー」
「こいつ……」
「えー、だってギルマスもリーダーも姉御は料理が出来るなんていってませんでしたよ?
他に誰もいないときは自分で何か作れって」
「む……そうなのか?昔おままごとで泥団子を喰わせた事を根に持ってるんだろうか……」
「何やってんですか」
「まさか本当に食べるとは思わなかったんだ、大体食うほうも食うほうだろう」
「いや、そりゃそうですけど……」
「まあなんだ、もうこの話はいいだろう。……おはよう」
「……おはようございます」
「おはよう、今日もいい朝だね……」
テーブルについて朝食に取り掛かっていると、朝だと言うのにメイジ衣装フル装備の男の人がやってきた。
席に着き、肩まであるボサボサの青髪を手櫛しながらふああふ、とあくびをひとつ。
「ああおはよう、また徹夜したのか」
「うん……帳簿つけて届出の書類書いて内職やって新しい魔法の詠唱書いてたらいつのまにかこんな時間でさ……」
「あの、昨日もそんなこと言ってませんでしたっけ?ほんとに寝てます?」
「寝なきゃ人間生きていけないでしょー。少なくともおとといは……あれ?その前だっけ?えーとちょっと待ってね」
「食え。そしてさっさと寝ろ」
この人がうちのギルマスだ。
性格はなんというか、理知的で柔和ないい人なんだけど電波体質なのが玉にキズだ。
完璧な人間をやって尊敬されるよりも見下されてでもネタを仕込みたいという彼の美学は理解できない。
そんなギルマスだが放っておくとすぐ肉体の限界まで仕事や研究をやって過労で倒れるので注意が必要だ。
暇さえあれば本を読んでいるくせにギルドの誰より(ローグであるあたしより)目がいいという分からない人でもある。
「朝っぱらから寝てたら駄目人間でしょーが、まだ大丈夫だよ」
「お前は別ベクトルですでに駄目人間だ。いいから寝ろ」
姉御達が押し問答をしているうち、残りのメンバーが起き出してきた。
さっきまで朝の静けさに包まれていた食卓に、にぎやかさと活気が満ちてくる。
「味噌汁……懐かしい味だ」
あたしの右前方にいる丈夫そうなファイターの人がリーダー。
ギルマスがいるのに別にリーダーがいるのかと突っ込まれそうだが、あまり気にしないで欲しい。
しいて言うなら机仕事はギルマスが、畑仕事はリーダーが先導することが多いのでこういう呼び名になったみたい。
実直だけどギルド一物分りのいい人間の出来た人で、かついい感じにヘタレなのが何ともいえない。
苦手なものは爬虫類全般(何でこの人ハントマンになったんだろう)、特にワニが大嫌いらしい。
「懐かしいですか……私にはまだ良く分からない味ですね……」
その隣で味噌汁と格闘している女の人が副長。
ギルマスがいてリーダーがいてその上副長がいるのかと(以下省略)、
これはあだ名だ。眼鏡の真面目そうな冒険者がいいんちょと呼ばれていても変には思わないでしょ?
ちなみに命名はあたし。リーダーについて歩く様子と、ナイトらしい生真面目な性格からなんとなくつけた。
正義感が強く、というか強すぎて若干空回り気味なところもあるけど自己反省を忘れないいい人だ。
「……」
あたしの正面でもくもくと漬物をつついているのが姫ちゃん。
正直この子のことはよくわからない。無口な子だ。
頭の上で耳が揺れているが実はこの子はルシェでは無い。つけ耳だ。
従ってこのギルドには一人もルシェがいないことになるが、ギルマスいわく別に雇用機会均等法に
喧嘩を売っているわけではなく単に出会いが無かったから……らしい。
あの耳はルシェの親友から送られたおそろいのもので、その親友はいまはこの世にいないらしい。
「どうしたの、箸が止まってるよ?食欲が無い?」
「あ、ううん。なんでもない」
そして、今あたしに話しかけてきた彼が……このギルドのヒーラーだ。
あたしより三つ年上の彼はその、まあ、なんというか、あたしの、いい人……っての?
こんなあたしを女の子として見てくれる数少ない人で、大人しげだけどいざというときにはとても頼りになる。
初めて会ったときは単に童顔だなー、位にしか思わなかったけどこうして見るとなかなか……いい男だよね。
……あー、おほん。
安全な場所で怪我した人を直すだけではなく脅威であるドラゴンを倒さなければならないと考えた彼は
ハントマンになることを決意、ちょうど振り返った先でドラゴン退治について計画を立てていたあたしたちに
勢いで入団を希望して今に至る。
以上、これがうちのギルドのメンバー。
なかなかクセのある人達だけど、皆いい人なのはあたしが保障……
……しまった。
すっかり紹介した気になっていたが、この人の事を最初に書くべきだった。
姉御に目を向ける。
寝乱れた長い黒髪で、メザシを口の端にくわえながら漬物に箸を伸ばす。
……この人はこういうのが本当に絵になる人だ。
これが姉御。サムライだけど、さっき言ったとおりあたしの師匠。
そしてお世辞にも育ちの良くないあたしのお目付け役。
姉御と言う呼び名はこのギルドにお世話になることが決まったときびくびくしながら呼んだのが始まりだったが、
なんとなく定着して今でも基本的にこう呼んでいる。あとは気分でたまに師匠と呼ばせてもらっているが
そういうときの姉御は口では『師匠と呼ぶなと言ったろう』とか言いながら何だかまんざらでもなさそうなので
これからもたまに師匠と呼んでみようと思う。
居合と無手に鍛錬を欠かさず、普段大雑把に振舞ってはいても常にサムライの魂は忘れない。
そんな姉御が昔は斬馬系のサムライ崩れだったというから世の中はよくわからない。
カタナを扱う自己流の剣士として己が信じる道を往き、ブシドーだのなんだのを歯牙にもかけなかった姉御だが
こっちに来て本物のサムライに出会いその教えに一転心酔、それまでのスタイルを捨て去って
名前まで変えたというんだから本当に極端な人だ。よっぽどどこか感銘を受けるところでもあったんだろう。
と、あたしの視線に気付いたのか、箸を咥えた姉御がこちらへ視線を送り返してくる。
「……なんだ?私の顔に何か……ご飯粒か?」
「すいません、なんでもないです」
ぺたぺたと頬をさわる姉御に首を振って否定する。
そうか、と食事を再開しようとした姉御はふと何か思い出したように持ち物を探り始めた。
「……そういえば福引で劇のペアチケットをもらったんだが……お前、一緒に来るか?」
――――――――――――――――――――――――――
ああ、できない、私にはできない。
たとえ永久に手に入らないのだとしても、
この手でこの方に血を流させるなんて。
それならばいっそ、……私は、泡となって消えてしまおう……………
「……っ……うぅ………」
「まだだ、エンディングまで泣くんじゃない」
そういう姉御の目には既に今にも溢れそうなほどの涙が揺れている。
あたしたちは文化ホールの一席に座り、遠い昔に書かれたというおとぎ話をモチーフにした劇を観賞していた。
「そんなこと言ったって……あ、姉御こそもう限界じゃないですか……」
「ば、馬鹿……目にゴミが入っただけだ」
「それならあたしだって、せっかくの、ペアチケットなのにっ、あたししか誘う人がいない姉御の不憫さを……」
みしっ。
「……痛い、超痛い」
「この、馬鹿………うう……」
「えうう………」
あたしも姉御も結局のところ、エンディングまで耐えることは出来なかった。
「副長もチケット持ってるみたいなこと言ってたけど見えませんね」
「午後から来るのかもしれないな」
「うー……それにしても久々に心から泣いた」
「やっぱ古くてもいいものはいいんだな……」
演劇終了後、あたし達は喫茶ルームでお茶にしていた。
国風に合った美しさで知られるミロスの劇場は、副長も一度来てみたいと言っていた話題のスポットだ。
しばらく無言で心と身体を温めなおした後、気分を変えるために話題をシフトしてみる。
「それにしても姉御、ほんとに誰か他に誘う人いなかったんですか?いやあたしは連れて来てもらってよかったけど」
「お前もしつこい奴だな……おらんと言ってるだろう。ほっといてくれ」
「だって……姉御24だよね?あと六年って長いようで短いですよー、姉御は婚活とかしなくていいんですか」
「……」
「……」
「……コンカツ………………あ、油揚げに衣を着けて揚げなおしたものとかか?」
――駄目だこりゃ。
「……はぁ」
「え?違うのか?……え、えと、まさか本当に狐を揚げたりしないよな……?
ちょ、ちょっと待て。じゃあ、ええと……」
「や、もういいです。姉御はつくづく恋愛に縁が無いってことだけ分かりました」
「なっ!?」
一瞬呆気に取られる姉御だが、やがて眉間に険悪な色が浮かんでくる。
「……って、何だと?お前最近ずいぶん態度がでかくなったんじゃないか……」
しかし悲しいかな、泣きはらした目のせいでご機嫌斜めの子供が頬を膨らましてるようにしか見えないんだよね。
はっきりいって怖くない。全然怖くない。
「だってそーじゃないですか。こちとら彼氏持ちですよ?そーゆー相手は普通外すか
もしくはこれをやるから二人で行ってこい、ってのが大人の対応ってもんでしょ」
「ぐ……」
姉御がごにょごにょと詰まる。だって私だって見たかったし、とか言ってるみたいだ。
あのおっかなかった姉御に競り勝っていると言うささやかな優越感に浸っていると、姉御が話題を切り替えにかかった。
「……お前が誰と交際しようと勝手だがな、むしろもうちょっと慎めんのか?
仲良くするのはいいがそれにしたって恋人ができるなり暇さえあれば四六時中べたべたと……」
「なんですかそれ。ちゃんと戦う練習だってしてるじゃないですか、ダガーフェティシュだってレベル5まであげたし」
「あぁっ……、そういう問題じゃなくてな、……色ボケは少し控えろといってるんだ」
むっ。
色ボケとは言ってくれるじゃない。
あたしにあの虐待のような訓練を毎日受けさせた人の言うことだろうか。
ちなみに前回がソードマスタリー編とすると、今回はダガーフェティシュ編だ。
そりゃ最初の頃こそ
「握りが甘い、それだとすぐに吹っ飛ばされるぞ」
「はい」
「リラックスして構えることとゆるく構えることは違う、忘れるな」
「はい!」
「左旋回したときに半身が解けてるぞ!いかなるときも付け入る隙を与えるな!」
「はいっ!」
みたいなまともな訓練だった。
それがどうだ、最後にはまたもや置き去りで、しかも今度はまだフロワロの残っている洞窟だ。
フロワロが残っているということは当然『奴ら』がいるわけで……
他にも色々ひどい目にあって、今日やっと休日なのだ。
ちなみに明日からは姉御と一対一の実践訓練、姉御から一本取れるまで続くらしい。
冗談じゃない、構えを取らず純粋な接近戦だけなら短剣が勝つのが当たり前だと姉御はいうが、
そんなこと絶対にありえないのは空を飛ぶ猫がいないくらい明らかだ。
とまあそんな訓練をサボりもせずやってきて色ボケとはあんまりだと思うんだよね。
あたしの口から棘を含んだ言葉が飛ぶ。
「色ボケって何ですか、あたしが今までやらなきゃいけないことすっぽかして遊んでたことありますか?
別に姉御が目に毒だっていうなら控えますけど何もそんな言い方しなくたって」
「だからそうじゃなく……いや確かにそういう意味でもあるんだが……」
「……」
「……」
「……」
「………夜」
「夜?」
「……夜、お前の部屋から声が聞こえてくる」
「……」
「……」
えーと、それって。
「――――――――――――!!?!??!?!!!??
な、な、な、なんっ………」
「それもアホのように毎夜毎夜。昨日だって寝ようとしたら……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!?昨日は普通に寝ましたって!だって火曜と金曜はお休みにしようって……」
「……」
「……」
「あ、そ、そうか、悪かった」
「い、いや分かってくれればいいですけど」
「……」
「……」
「……え、週二日以外は毎晩?」
……………………。
……
じ……
自爆したーーーーーーー!?
っていうか彼との夜の生活を曜日まで!?
羞恥と極限の混乱に陥りながらも、
あたしの耳は姉御の「なんだ、やっぱり色ボケじゃないか」と言うセリフを聞き逃さなかった。
くうぅっ。
恥ずかしい。消えてしまいたい!セクハラだ!……ええい、これも全部姉御のせいだっ!!
あたしの心に理不尽な復習の炎が灯る。
心の奥からこみ上げるヤケクソ気味の羞恥に突き動かされ、あたしは報復の刃を抜いた。
「あ、姉御だって人の事いえないじゃないですか!?
昨日の晩、壁の向こうから一人で慰めてる声を聞かされてなかなか寝付けませんでしたよ!
……き、聞きたくなかったけど聞いちゃったんですからね!?」
「……」
「……」
「……………ええと」
え、何この反応。そんなナチュラルに困惑した顔をされても……
「昨日から、私の部屋は一階に移ったんだが」
「え」
そうなの?とするとあの声は……
かちゃん。
音のしたほうに顔を向ける。
あ、いつの間に来たんですか副長。
どこにも見ないと思ったがやっぱり来たらしい。
建物自体のおしゃれさと劇場への期待で興奮しているみたい。
スプーンを取り落としたことにも気付かない様子で、緑色の髪と見事なクリスマスカラーのコントラストを作るほど
顔を
真っ赤に
……………………。
……
ご……
誤爆したーーーーーーー!?
「いやあの」
「すっ………
………すいませ……………………!!!」
誤魔化そうとする間もなく副長は泣きそうになりながら逃げ出した。
そのまま逃げていくかと思いきや、空気の読めないレジ員に止められて半泣きでお金を支払っている。
後に残された気まずい沈黙の中、あたしも冷静さを取り戻してきた。
「……お前、あれは」
「スイマセンでした、ほんとスイマセンでした」
「いや別に悪気が無いのは分かってるんだが……」
「うぅ、悪いことしたなぁ。姉御もなんかすいませんでした」
「あ、まあ、気にするな」
大きな犠牲を(副長が)払いながらもなんとなく和解する。
何か話す雰囲気でもなくなり、あたし達はしばらく無言でお茶をすすった。
……
しばらくして、下腹部に誰もが知るあの感覚が走る。
外に比べてここは石造りの大きな建物で気温は低いし、身体を冷やしたかな?
「すいません、トイレ行って来ていいですか」
「ああ、そこをまっすぐ行って突き当たりを右だ。しばらく行くと分かるはずだ」
「はい」
そうしてあたしは喫茶コーナーを離れ、トイレを探すために歩き出した。
「あ、右じゃなく左だったか……まあ案内も出てるしすぐ気付くだろ」
――――――――――――――――――――――――――
――現在、12時05分。
あたしは急ぐ。
なんだってこんな事になったんだろう。
まだまだ大丈夫だと思って迷子の親を捜してあげたのが間違いだったのか。
ううん、あれを間違いと言うほど不人情な人間ではないつもりだ。だけど、そのツケは今確実に来ている。
あたしが別のところに気を取られて気付かないでいるうちにそれはいつのまにか差し迫ったところまで来ていた。
意識した瞬間、時間経過で増大したそれはあたしから全ての余裕を奪う。
焦ってあたしは元の場所へ……
……あたしは、自分のいる場所が分からなくなっていた。
そんなわけであたしは今、下腹部を刺す感覚に耐えながらトイレを探してこの広い建物をさまよっている。
一歩歩くごとに、着実に大きくなるその感覚。
おかしい。トイレはどこ?この西館どこかにはあるはずなのに……
ふと目を向けた先に、所狭しとプリントや張り紙が貼られている掲示板を見つける。
今も職員らしき女の子が脚立に上って新しい張り紙をしている最中だ。
もしかしたら館内の地図が載っているかもしれない。
そう判断したあたしは、その掲示板へと近寄っていった。
「遅いな………何やってるんだ?……何だか私もトイレに行きたくなってきたぞ……」
掲示板に近寄っていくあたしの先で、女の子が作業を終えたようだった。
張り紙をしている間前のめりだった身体を戻し、屈めていた背をうーんと伸ばす。
あ、危ないよ?
そんな不安定なところで身体を反らしたりしたら後ろにひっくり返っ………ちゃったああああぁぁぁ!!
「ひぁっ……!?」
女の子の悲鳴になりかけた声が耳に届く。
あたしは反射的にダッシュをかけ、脚立ごと倒れてくる女の子の下に走りこんだ。
オーライ、このくらいなら楽勝で間に合うって……
どさっ。ガッシャアアアン。
「………!!!」
はっきり言って、このときの自分をほめてあげたい。
尿意のことも忘れて本気でダッシュした上、これだ。
確かに落下位置にいくのは楽勝だった。
だけど、あたしには生憎落ちてくる女の子を受け止めて姿勢を崩さない程の腕力は無いのだ。
当然のことながら、姿勢の悪さも手伝ってあたしは女の子を受け止めたまま床にしりもちを突き……
……女の子が、下腹部に落ちた。
もう一度言おう。はっきり言って、このときの自分をほめてあげたい。
膀胱が破裂するかと思うような衝撃に声も出さず悶えるあたしに、女の子がおずおずと声をかけてくる。
「あ、あの!すいません、大丈夫ですか!?……あ!あの、私が落っこちたせいで何か怪我を……」
「だ、大丈夫、平気……」
「そう……ですか……?」
「うん……あ、それより……聞いてもいい?トイレ、どこ……?」
「え?」
不幸中の幸いだ、この子にトイレまでの最短距離を教えてもらおう。
「えと……一番近いトイレは反対側……東館の二階にありますけど。案内、出てませんでした?」
「………え?」
……
………
…………姉御ーーーーーーー!?
……そろそろ本当に限界だ。
あたしは気の遠くなるような距離を踏破し、東館までやってきていた。
気の遠くなる距離といっても百メートル足らず、普段のあたしなら10秒とちょっとで走り抜けられる距離だ。
だけどもはや走ることすら出来ないあたしにとってそれは無限とも思える距離だった。
辛うじて普通の歩き方に見せているが、見る人が見ればあたしの歩き方の不自然さに気付くだろう。
あと少し、あと少し……
……
……見えた!
東館二階、職員も使う小トイレ。男女用それぞれ1つずつしかないそのトイレのくすんだ扉も、
今のあたしには天国の扉に見える。
洗面所に入ってすぐ右側、『女子用』のプレート。あたしはそのドアノブに手をかける。
長かった……間に合ってよかった。
やっと、やっと。
やっと………
がたん
……………え?
ドアノブに付いた小窓。
そこから覗く色は。
……『使用中』を示す、赤、だった。
――――――――――――――――――
ざーーー。
未だ被害を抑えるために無限と思える時間を耐え忍ぶギリギリの感覚。
そしてそれでも間に合わずに一部を漏らしてしまった絶望。
その二つが入り混じって奇妙な温度になっているあたしの頭に、遠くで水の流れる音が聞こえる。
そして、ドアの開く音。
「……こんなところで何してるんだ?」
聞こえるはずの無い声が聞こえてあたしは顔を上げる。
……姉御?
………。
ああ、そうか。
姉御が入ってたのか。
姉御が入ってたからあたしは、
「……っ!」
「うわっ!?」
だっ。
ばたん。
かちゃかちゃかちゃ……
――――――しばらくお待ちください――――――
ざーーー。
醒めた頭であたしは昨日の訓練を思い出す。
「常に半身で……グリップは柔らかくしっかりと……」
習ったことを呟きながら身支度をする……下着はトイレットペーパーに包んで捨てる。
ズボンに隠してある簡易ナイフを取り出し、しっかりと握る。
「……」
そして、何かに導かれるように、もう一本をこれまで使わなかった左手に握った。
「……よし」
よし、これで、戦える。
「……」
そしてあたしは、
「……っ!!」
ドアを蹴り開けた。
「どうし……うわっ!?」
「うわああああぁぁぁぁん!!」
「ちょっ、おい、ちょっと待て!いきなりなんだ!?」
「うるさい、うるさい、うるさああぁいっ!!」
「待てって!何だ!?何で泣いてるんだ!?私が何か悪いことをしたか!?」
ああ、ごめんね姉御。
本当は分かってるの。
姉御のあれはほんのちょっとした間違いで、あんなでかでかとした案内に気付かなかったあたしの過失の方が
ずっと大きいんだって事は。
でも、でもね、姉御の言うことを疑わなかったあたしの最後の希望を、
よりによって姉御が打ち砕くのはあんまりだと思うんだ。
なんかもう、自分でもどうにもならない。誰かにこの怒りをぶつけないとやってられないの。
ほんとにごめんね、でも今だけは言わせて。
「姉御なんて…………だいっきらいだああああぁぁぁぁ!!!」
余談だが、翌日からの修行は一対一をすっ飛ばして次のステップに入った。
最終更新:2013年04月28日 23:10