ミッドチルダ北部 ベルカ自治領「聖王教会」大聖堂:八神はやて
部下として連れてきた女性を1人伴って来たはやては、一般の参拝客は決して入らない大聖堂奥の一室に通された。
そこははやての友人であり、聖王教会教会騎士団のカリム・グラシアの執務室だ。
分厚い木の扉を2回ノックすると、扉は内側から開かれた。
現れたのはカリムではなく、彼女の秘書のシャッハ・ヌエラだ。
短く切りそろえた赤い髪がよく似合う彼女は、少しきつい仕事用の顔ではやてに入室を促す。
「ようこそ、騎士はやて。カリムは奥でお待ちです」
いつもならカリムがいるはずの扉の正面にある大きな机には誰もおらず、仕事に必須の羽ペンはペン立てに刺さっている。
それならとはやては部屋の奥を見る。
案の定、小さく声が聞こえてきた。
「クロノくんはもう来とる見たいやな」
「ええ、つい先ほど来られました」
はやてはシャッハに促されるままに、部屋の奥に歩を進める。
ついたてを1つ横切った先にある窓際のテーブル──そこは、カリムのお気に入りの場所だ──にはすでにカリムとクロノが座っていて、お茶の合間にクッキーを摘んでいた。
「うちの分も残っとる?」
「もちろんよ。お代わりもたくさんあるわ」
はやては少しおなかがすいていた。
机の上をちょっと覗いてクッキーの数を数える。
──うん。まだ、たくさんある。
ゆるんでしまいそうになる表情を押さえて、はやては空いている椅子に座った。
テーブルに着いたハヤテにはすぐにシャッハが紅茶を運ぶ。
「あたしの連れは?」
はやては自分が連れてきた女性のことを聞いた。
お土産のケーキを持った彼女は、シャッハに連れられて別のついたての奥に行ってしまったのだ。
「お連れの方でしたたら、向こうでケーキを切り分けておられますよ」
はやては心底ほっとする。
どうやら、大人しくしてくれるみたいだ。
1つ大きな心配事から解放されたはやては、ほどよい熱さのティーカップを手に取り、その香りを軽く楽しむ。
次いで音を立てぬように口に含み、口に広がるほどよい渋みを味わいながら赤い液体を飲みこみ、目を見開いた。
「ファーストリーフのいいところやな!」
「まあ」
シャッハも目を大きく開く。
「よくわかったわね」
「あたしもな、ちょっと前から紅茶にうるさくなったんや」
「それじゃあ、もう変な物は出せないわね。そうだ、とっておきのを出しましょうか?」
「ええんか?うれしいなぁ」
「あ、あー、ちょっと待ってくれ」
ほっておいたら、聞き酒ならぬ聞き紅茶を始めそうな二人をクロノが押しとどめた。
ここに来るとゆったりしてくるのはいつものことだが、リラックスするのが目的ではない。
「はやても来たことだし、そろそろ本題に入らないか?」
はやてはティーカップを皿に戻して、居住まいを正したカリムに目を向けた。
笑顔ではなく、真剣さをみせたカリムが口を開いた。
「2人には聞きたいことがあって来てもらったの」
「聞きたいこと?」
「ええ、JS事件も一段落ついたわ。でも、すぐに大きな案件が持ち上がった……」
「新しい世界、ファー・ジ・アースとの接触だね」
「ええ」
新しい世界との接触は決して小さい事件ではない。
JS事件の陰に隠れていたが、それが解決された今、表に現れてきたのだ。
「ファー・ジ・アースは人もいれば、魔法もある。それに、他の世界の存在すら知っている。しかも、お互いのことを知ってしまったわ。そう言う世界との接触は聖王教会としても無関心でいることはできないの」
「だろうね」
異世界との接触の際、宗教は大きな問題となる可能性のある事項の1つである。
多数の世界に信者を持つ聖王教会は異世界の宗教との接触も初めてではないが、かなり気を使わなければいけないことは経験的にわかっていた。
「私も時空管理局理事官だから、資料はいくつももらっているわ。でも、実際に現地に行った人の話を聞きたかったの」
「それで、あたしらを呼んだんやね」
「それに、管理局の動き教えて欲しかったし。いいかしら?」
はやては少し考える。
ファー・ジ・アースの情報については機密とされていることが多い。
「僕はかまわないよ。個人的にも、立場的にもカリムに隠さないといけないようなことは知らないしね」
だが、カリムも時空管理局でそれなりの地位に就いている。
セキュリティレベルは十分クリアしていると言っていいだろう。
「うちも同じや。せやけど、報告書通りのことしかいえんよ?」
「ええ、それでいいわ。お願いね」
はやては紅茶をもう一口飲み込んだ。
少し長い話になりそうだった。
カリム:「管理局はファー・ジ・アースと交渉を行っているでしょう?まずは、それがどうなっているか教えてもらえないかしら」
はやて:「それなら、クロノ君の方が詳しいんやないかな?」
クロノ:「そうだな。まず、管理局からは数名の使節団が派遣されている。
彼らの窓口となっているのが、アンゼロット氏だ。
ファー・ジ・アースには複数の組織があり、それら全てがアンゼロット氏の直接の指揮下にあるというわけではないが、この交渉で彼女が代表となることについて反対しているところはないようだね」
管理局が新たに接触した世界と交渉する際、その窓口を絞ることは重要になります。
1つの世界の中に複数の有力な、しかも敵対した組織があることも珍しくはありません。
それでも、その世界がの状況、技術によっては管理局は管理世界の安定のために交渉せざるを得ません。
今回の交渉相手であるファー・ジ・アースは複数の勢力が存在する世界ではありますが、交渉先は1つに絞ることができました。
これは、管理局に取って幸運なことと言えるでしょう。
はやて:「アンゼロットさんか……」
カリム:「はやて。あなたはアンゼロットという方と直接話をしたことがあるのでしょう?どのような方でしたか?」
はやて:「そやな……とにかくイイ性格の人やな」
カリム:「はぁ……いい性格、ですか」
はやて:「そうや。あと、目的のためなら手段をえらばへんところもあるみたいやったな」
まったくその通りです。
はやて:「それでも、信用はできる人やと思うよ。でも、使節団は楽な仕事はできんやろうな」
アンゼロットですから。
クロノ:「この交渉で管理局側からファー・ジ・アースに要求したことは2つ。ロスト・ロギアの引き渡し。質量兵器の禁止」
カリム:「それで、どうなりました?」
クロノ:「両方とも強く拒否されたみたいですね」
カリム:「まあ」
クロノ:「今まで新たな次元世界と接触した際の通例に従い、少なくない援助を申し出たのですがそれも拒否されました」
カリム:「それは、ファー・ジ・アース側がより多くを要求した、と言うことですか?」
クロノ:「いえ、そう言うわけではありません。前者についてですが、これはファー・ジ・アースとの接触の原因になったステラの管理をファー・ジ・アースと管理局のどちらが行うかと言うことです。今のところ、互いに譲るところはないようですが」
カリム:「ファー・ジ・アース側は管理局を信用していないのですか?」
クロノ:「はっきり言って信用してないようですね。接触したばかりですし、当然とも言えますが」
強力なロスト・ロギアは次元世界の存亡に関わることもあります。
なので、これは管理局にとって最重要案件の1つといえます。
カリム:「もう一つの質量兵器の禁止についてはどうなのですか?あの世界もかなり魔法技術が発達していると聞きました。いまさら、質量兵器を必要としているとは思えないのですが」
クロノ:「それは、ファー・ジ・アースが現在侵略を受け続けている世界だから、というのが理由のようですね。エミュレイターや魔王と呼ばれる、その侵略者と闘う際には質量兵器が有効な物となることも少なくないそうです」
カリム:「質量兵器が有効ならば、魔法も有効なのでは?」
クロノ:「相手によるみたいですね。
魔法に対しては無敵に近い防御能力を持つが、質量兵器に対しては有効な防御手段を持たないエミュレイターも多数確認されているそうです。
そして、逆のエミュレイターもまた確認されているようです。
そのような状況では攻撃手段を限定してしまう質量兵器禁止は受け入れられないのでしょう。それに」
カリム:「それに?」
クロノ:「ファー・ジ・アースの特殊な事情、つまり世界結界に対する影響が大きいというのもあるようですね」
ファー・ジ・アースを守る世界結界は、エミュレイターの侵入を妨害します。
また、仮に侵入を許したとしても強力なエミュレイターは世界結界の中では力を大きく抑制されてしまうのです。
これは魔王と呼ばれる存在も同じです。
ファー・ジ・アースにおいて極めて強力な魔王にウィザードが対抗できるのはこのためなのです。
カリム:「ですが、その世界結界と質量兵器の禁止にどういう関係があるのですか?」
クロノ:「それには世界結界のシステムが大きく関わっています」
ミッドチルダでの結界とは個人、あるいは複数人の協力により行使した魔法で空間を切り取り、それに特殊な性質を持たせた物のことを言います。
しかし、世界結界はそれとは規模が大きく違います。
世界結界を支えるのは、その世界にいる住人全て。結界の大きさは世界全てです。
つまり、人々の持つ世界はこうある、と言う認識を利用しているのです。
それであるが故に世界の人々の認識が大きく揺らげば世界結界も弱まり、ついには破壊されてしまいます。
カリム:「では、あの世界が質量兵器禁止を実行した場合は……」
クロノ:「ええ。質量兵器禁止を受け入れた場合、一般市民にも質量兵器禁止を受け入れてもらわなければならないでしょう。そして、治安維持には質量兵器の代わりに魔法が使われることになります。そうなれば」
カリム:「認識が大きく揺らぎ、世界結界の破壊につながるわけですね」
質量兵器の禁止を進めるのは管理局の大きな仕事の1つです。
しかし、それは社会システムを大きく変えてしまうことになりますから簡単な事ではありません。
その中でもファー・ジ・アースのようなケースは管理局にとっても初めてのことではないでしょうか。
クロノ:「こういう状況ですから、多くはありませんがやはり過激な考えを持ち出す物もいるみたいですね」
カリム:「やはり……」
クロノ:「ええ。武力を持って、ファー・ジ・アースを制圧しよう、と言う考えです。あの世界には多数のロストロギアがあると予想されることもそれに拍車をかけているみたいですね」
カリム:「その考えは管理局で主流を占めているのですか?」
クロノ:「まさか。人手不足の管理局には無理がありますよ。それに、魔王の存在もありますし」
はやて:「そう言えば、この前の会議で魔王の戦力評価を聞いた時のクロノ君の顔。あれは、すごかったな」
クロノ:「僕だけじゃなかっただろう。誰だって、ああなるさ。はやてはそうでもなかったみたいだけどね」
はやて:「あたしは一回、魔王と戦ったことがあるし。それに力を押さえられてるってのも聞いとったしな」
カリム:「どういう物だったのですか?私のところには届いていないのですが」
クロノ:「ああ、あれはあまりにばかばかしすぎて文章にはされていないのです。ですから、もう一度再評価が行われているところ」
カリム:「参考程度に、そのときの話を聞かせてもらえませんか?」
クロノ:「ええ。いいですよ。確か、もっとも楽観的な評価では魔王1人の戦力は戦艦一隻に相当。逆にもっとも深刻な評価では、管理局の全戦力をも凌駕すると言う物でした」
カリム:「ずいぶん開きがありますね」
クロノ:「まだデータがそろっていない段階ですし、交戦記録もはやて達のみですから。どの結果でも、強力すぎることには変わりありません。正直、あまり会いたくありませんね」
クロノの話を聞きながらはやては頬を引きつらせていた。
「どうぞ」
彼女が連れてきた女性がケーキをのせた皿をそっとクロノの前に置く。
その女性こそ、他でもない。
今、話題に上っていた魔王本人。
1人で最低でも戦艦一隻に相当し、あるいは管理局の全戦力をも凌駕するというベール・ゼファーなのだ。
「クロノの横に、その魔王がおるよ」とはとてもではないが言えない。
「ファー・ジ・アースとの交渉が非常に難しい物であることは理解しました。クロノ、はやて。今後もお願いします」
「ええ、わかりました」
「ところで」
ケーキを置くために、側に立ってベルをカリムが手で示す。
「あなたが連れてこられたこの方の紹介をしてもらえないかしら」
「あ、ええ……」
ここに連れてきたのは、ベルに勝手な行動をさせないためでもある。
その意味では、これでよかったのだろう。たぶん。
「フェイトちゃんところで事務をやっとるベル・フライ。新入局員や」
「そう。よろしく、ベルさん」
「よろしくお願いします。カリムさま。噂は聞いています」
「あら、カリムでいいわよ」
握手と自己紹介を交わす2人をみて、何か感づかれやしないかとはやてはびくびくし通しだった。
やがて、ベルも交え4人は仕事を離れて談笑にはいる。
いつもははやてもこの輪の中にはいるのだが、ベルの事を考えるとそんな気にはなれず、カリムとクロノの話も耳に入っていなかった。
クロノがはやてに突然話しかけたのはそんなときだ。
「はやて、一つ聞きたいことがあるんだが」
「へ?あ?」
はやてはベルに集中させていた意識をあわててクロノにうつす。
話がもっと長かったら危なかった。
クロノの話をほとんど聞いていなかったことがばれていたに違いない。
「この前、フェイトの執務室に行ったら、写真立てが1つ増えていたんだ」
「それで?」
どことなくクロノの様子がおかしい。
張り詰めた物を感じる。
「いや、それが……フェイトとエリオとキャロ、それに僕の知らない男が写った写真なんだ」
「おとこ?」
どこか、どころではなかった。
明らかにおかしい。
具体的には殺気すら含んでいる。
「ああ、青いブレザーを着て、ネクタイをだらしなくゆるめて、しかも腕まくりをして指ぬきグローブをつけた男だ」
だん!
少しずつ熱くなっていくクロノは机を叩く。
ベルとカリムもお茶をやめて、クロノを見ていた。
「ああ、それはな。柊君や。ファー・ジ・アースでずいぶんお世話になったんよ。フィエトちゃんやエリオ、それにキャロとも仲がようなっとなぁ」
「仲良く!?ずいぶん!?あんなだらしない男が!!!」
ベルとカリムは顔を見合わせてくすくす笑っていたが、はやてはいやな予感がしていた。
後にはやては語る。
「フェイトちゃんでああなったら、本当の娘の時はどうなるんやろう」
このときの彼女には分かりようもなかった。
最終更新:2007年12月24日 10:36