序章
――建興12年8月23日。
一人の男が中国・五丈原にてその生涯を閉じようとしていた。
嘗て『臥龍』と呼ばれたその男は正に時代を走る龍だった。全ての人の熱が男の下に集まってきた。
時に凄まじいまでの熱に道を失いかけることもあったが、その度に周りの人に助けられてきた。
――何故平和を求めているのに、人を殺さなければならないのか?
世に才覚を表してからずっと男はその矛盾に苦しんできた。
自国の民を守る為とはいえ、十万の兵士を己が計略によって焼き殺した事もある。
男の人生の半分は後悔の念に支配されていた。
しかし――それでも男は理想を目指していた。いや一石を投じたいと思っていた。
『力』こそが全てと言われていた時代に、『力』を否定し『平和』への道を構築する事。
男の考えは当初青臭い理想論、所詮は戦を知らぬ青二才と一笑に付された時期もある。
しかし志を同じくする主君と仲間に支えられ――その多くは既にこの世の人ではなかったが――それでも少なくない犠牲を出しながら
男は平和への道を模索し続けた。
男の長年の努力によるものか、それとも必然か……時代は漸く乱世を終えようとしていた。
だが時代は無慈悲にも男に平和な世を見させることはしなかった。
男の人生はこれにて幕を下ろす筈だった。
親友である医者――華佗に看取られ、安らかに眠る筈だった。
だが何の因果か……時代の龍は男に人生の休息を与えることを良しとしなかった。
今まさに死出の旅へというその時――五丈原の陣に一匹の龍が舞い降りた。向かうは男の居る幕舎。
その場に居た華佗は唖然とした。仙人の養子だった華佗には『人の熱の走る道』である龍が見えていた。
龍は床に臥している男を見つけると、その魂と体を蛇のように長い自らの体に宿し、時の地平線へと消え去った。
(龍がこことは違う別の時代…別の世界へ引き寄せられていく…。
まだ孔明を必要としている時代があるというのですか……)
華佗は呪術も学んでおり、医術に関しては『死者を生き返らせる』との評判を与えられたほどの名医である。
しかしその華佗をもってしても『天命』には逆らえなかった。
嘗て自分が心の底から助けたいと思った曹操の子、曹沖……そして孔明。あらゆる手を尽くしているのに、天はいとも容易くその命を奪う。
何故肝心なときにいつも……あの時も、そして今も自分は何も出来ない。
孔明が死ぬ――その事実を前に彼は涙を流すことしか出来なかった。
しかし今の状況……時代の龍が孔明をその体に宿し、別の時代へ飛んでいくのを彼は確かに見た。
今ここにあるのは主を失った寝床だけ……。
華佗は自らの不甲斐無さと、孔明が新たな世界へ旅立ったという事実にしばし呆然としていた。
だがやがて思い出したかのように孔明の寝床へ行き、枕元に落ちていた彼の毛髪を数本手に取る。
華佗は懐から術が書かれた小さな紙を取り出し、孔明の毛髪を巻きつけた。
その紙を寝床に置き、やがて何やら詠唱を始めると、紙は見る間に肥大化し、やがて孔明の体を形作った。
勿論これは抜け殻である。これで傍目には孔明の体が消えたとは思われないだろう。
幕舎から外へ出た華佗は龍が飛んでいった地平線を遠くに眺めつつ、親友の新たな人生を案じた。
(孔明……貴方の行く先にはまだまだ険しい道が待ち構えているようです。
それでも……どうかまた貴方に救いの手がありますように)
建興12年8月23日。諸葛孔明五丈原に没する。
その夜……雲一つ無い澄み切った夜空から巨大な星が三度落ちる光景を人々は目にしたという。
星は天の涙か、はたまた三国の世がいずれ終わるという暗示だったのか。
だがそれはその世界に書かれた歴史の一つに過ぎない。
孔明の魂は天には昇らず、龍によって新たな時代へと旅立っていった。その事を知る者は極僅か……。
龍が引き寄せられた先は異世界――ミッドチルダ――
魔法少女リリカルなのは×諸葛孔明 時の地平線
始まります。
最終更新:2008年04月12日 19:01