「―――そう、事情は分かりました」



正気に戻った医師がハヤテをまず押しとどめ、何とか対話の方向まで持っていくことに成功した。
中々抵抗は厳しかったのだが、「お金の事は今回は何とか考えます」の言葉が効いたのか、少なくとも隙あらば逃げようという姿勢は鳴りを潜めたようだ。
保険証はともかくお金も無いから逃げるという患者は少なくは無いが、こんな若さならの少年がどうして、と思わなかったわけではない。しかし、カルテとは別に脳内に纏めたメモの、今ベッドで横たわらせている患者から聞いた事情を見直して納得する。



綾崎ハヤテ。現在高校一年生の十六歳。
幼少の頃より浪費癖かつ借金まみれの両親のもとで食うにも困る生活を続け、年齢を誤魔化して普通は成年が就くようなアルバイトを幾つも行う事で食いつなぎ、学費や生活費も全て自分で賄ってきた。
が、今日夕方に両親から強制的に借金を押し付けられる事で、かろうじて支えてきた生活の堤防が決壊。借金取りからは着のみ着のまま命からがら逃げ延びたものの、身体に限界が来て―――その後の顛末が今だ。
お金も貴重品も、私物の一つすら持ち出さず。



「要するに、原因は栄養失調と睡眠不足、疲労にストレスと、それに伴う肉体の消耗―――若いから何とかなってる、ってぐらいね」
言外に普通なら危険なのよ、という意味を込めて告げるが、相手は今さら慣れっこなのか、反省しているからなのか、反応が鈍い。
事情が事情なだけに強くは言えないが、念を押すように問いかける事でようやく返事を引き出した。
「はぁ……すみません」
「ほんまびっくりしたんよ? あんな夜中にいきなり倒れるから、どないしたらええんか分からんかったし」
「そういえば、その事についても聞いておかなきゃね。どうして、外出してたのかな?」
矛先がこちらに向いてしまい、うわ薮蛇、とはやてはうめく。医師の顔は笑っているが、目が笑っていない。
「えっと、それは、まあ……ごめんなさい」
「ふう……まあいいわ。それはまたおいおい、ね」
ちっ、ごまかされへんかったかと突然黒く舌打ちするはやてに驚きおののきつつも、ハヤテは肝心な事を聞き忘れていた事に気付いた。
「あの、すみません。結局、僕はいつまでここにいればいいんでしょう?」
少年はさっきからずっとそわそわとしている。これも彼曰く、病院みたいな場所に来るのすら生まれて数回しか無いと言うのに、ましてやベッドでのんびりと寝ているなんてブルジョアな行為がひどく落ち着かないとの事だ。
「今日一日は、安静の為にここで入院してもらうわ」
「えっ!? そ、そんな―――」
「今の貴方に必要なのは休養よ。それも身体だけじゃない、心も。特に身体に関しては、数日は絶対安静必須よ。
 せめて今日一日ぐらい、働くことも借金も忘れて、ちょっと話を聞かせて貰ってから、ゆっくり眠ってても罰は当たらないと思うわ。今日はクリスマスイヴなのだから」
そう微笑んで告げる医師に、しばらく躊躇ってはいたものの、やがてハヤテは決心して眠り出そうとする。
すきま風が吹き荒れ、ボロボロの畳の上に敷く布団の上で、借金取りからの油断を欠かすこと無く警戒しながらの睡眠とは、天と地の差であった。




ハヤテを入院させ、あまつさえ金の工面をつけると申し出たのは、特別憐憫の情や同情からだけでは無かった。
いや、そこから繋がると言えば否定は出来ない。八神はやては幼い頃から両親と死に別れ、親類の遺産管理があるとはいえほぼずっと一人暮らし。綾崎ハヤテも両親はいたが、味方どころかほとんど敵の状態で、幼い頃から友達と遊ぶ前に夜逃げや身の合わぬ労働続き。



両方とも、本質的には独りぼっちなのだ。
だからこそ、同じ家に住まわせてみればどうだろう、と思ったのだ。
はやての脚の病気に対しては様々な手段を講じてはいるが、どれも効果的な手段であるとは言いがたく、むしろ長年のうちに悪化の気配すら見せている。
精神的な方向からの支えも行ってみたいとは思うものの、自分は忙しい医者の身、どうしてもはやてだけにかかりきりという訳には行かない。ましてや一緒に暮らすこともかなわない。
その代わりといっては何だが、この少年を一緒に住まわせ、支えてもらうことで、はやての精神的な、またはいざ発作が起きたときの支えとなってもらうように考えた。
そして、病状が回復に向かうのであればそれは重畳である。



ただ、彼がそれに相応しい人間か、見極めなければいけない。はやてが初めて会った人間にあんなに遠慮無しに突っ込みを入れる相手は珍しく、さっき少し話した程度でも良い性格であるとは思う。
だが、はやてを任せて良いのかはもう少しはっきり話をしてから、と判断する。自分とて生まれて三十年を越えている医師だ、それなりに人間の見分けはつくつもりである。
そんな自己中心的だと自覚した腹積もりで、彼女はハヤテを入院させた。結局、他人にしてははやての事を十分すぎるほど考えているのだが。
「話をするのは、はやてちゃんを送ってからかしらね」



しかし、その話の予定は二度と達成される事が無くなるとは、今の彼女には知るよしもなかった―――。




結局石田医師にしぼられてから、はやては我が家の前に帰還した。
さっきまでの賑やかな空気の時間が、まるで数日前のように遠く感じる静寂。日々が同じ事の繰り返しの中、何が起こるか分からないような―――楽しかった出来事はどれほどぶりだったろうか、と思い返すが、殆んど思い返せないので考えるのをやめた。



先程の少年を思い返す。貧相な顔の、からかうと面白そうな少年。直感だが、あの人は多分いい人だ。そして、いろんな意味で楽しい人。
あんな人と一緒にいたら、日常が面白いだろうなと考える。きっと、誘拐事件に巻き込まれたり、豪華客船沈没事件に巻き込まれたり―――



「……あかん、何かおかしい考えになってる」



夢の時間は終わり、今からは再び現実の時間、ひとりぼっち。
防犯のために、出掛ける前に電気付けっぱなしやったかなと思い出しながら玄関の扉の鍵を開け、



―――お願いです、話を聞いてください



どこからか聞こえる囁くような声を、受け取ったのだった。





天使と言う言葉を聞き、普通の人々はどう連想するだろうか。
神に仕える存在。無垢なる者。白い翼を生やした、想像上の産物。
だが、世界にはごくまれに存在するのだ。黒い翼を生やし、俗世に堕ち、神に仕えることを止めてまで、一つの感情を知ろうとする者が。



天使は無垢であり、それ故に愛を知らず、知ろうともしない。
それを知る事が、知ろうとする事自体が、自らを傷つけなければいけないからだと、本能で感じ取っていたからかもしれない。
それでもなお、自分を傷つけても、苦しめても、その感情―――愛情とは何かを知るために、人の世界に降り立つものがいた。
彼女―――遊羽もまた、その一人であった。
尤も、彼女に関しては事情が多少異なってはいたが。



「あちゃー……参ったわね」



遊羽は俗に言うゴスロリドレスで包まれた華奢な身体を、地面で汚れることに何の躊躇いもなく倒れ伏しながら、少しも参っていない様子のおどけた声で現状をぼやく。
だが第三者から見れば顔は血の気が引いており、指の二、三本や顔以外はほとんどピクリとも動こうとせず、軽口で済ませるような状況ではないのは一目瞭然だった。
むしろ、刻々と命のろうそくが消え去ろうとしていた。周囲の寒さが、灯火を弱らせていく。
少しでも早く、助けを呼ばなければ―――そんな事はとうに理解しているのだが、まず周りがよく見えず、何処にいるのか分からない。大声を出す元気もない。這って進む気力すらない。



以前の人間界でのとある問題行動から遊羽は『病気』にかかり、天界の病院に入院を余儀なくされた。
が、彼女の友人の調べた結果、遊羽は治療をされていると見せかけ、徐々に衰弱して死んでいくように毒を投与されていたと判明。
幸い友人が天界でエリートの位置にいた事と、遊羽自身が入院当初は抜け出して人間界に降りていた事から、病院から抜け出すことは何の不自然もなかった。
せいぜい、「ああ、久しぶりにまたやったか」と思われるぐらいだろう、それはそれで複雑ではあるが。
「ずっとは無理だけど、しばらくはこっちで誤魔化し続けるわ。その病気ですぐ死ぬって事は無いはずだから、逃げなさい」
「……うん、またね」
天界での最後のやりとりをかわし、遊羽は人間界へのゲートに飛び込む。
また、出逢える事を信じて。



ただ、誤算が存在した。地上へと降りる前に、今まで投与されていた毒物が予想以上に遊羽の身体を蝕んでおり、ゲート転移に耐えきれなかったこと。
そのせいで、彼女の予想していない場所に飛ばされた事。
そして、今まさに身体を動かす体力すら残っていない事。



故郷には居る事も出来ず、人間界の知人の元にも向かえず、このまま誰知らず朽ちていくしかないのか。
微かな幸いと言えば、彼女がここがどこかを全く理解していないところか。
空には静かに舞う白い雪、木々がほんの少しやさしくざわめく夜。
その音を子守唄として、僅かに開かれていた瞳が今まさに閉じようとしていたその時。



「だ、大丈夫ですか!」





「え……誰? どこにおるん?」
開けたドアの奥や左右、後ろを見ても人の姿形は見当たらない。なんや空耳かあと気を取り直したが、
『そこの、車椅子に乗ったあなたです』
確かに、少年の声が聞こえる。聞き間違いでは、無い。しかも頭の中に聞こえるような気がするが、それにしても何処にいるのだろうか?
「なあ、どこにおるん?」
『待っててください、今姿を現しますから』
その言葉と共に、はやての前に姿を現したのは―――



「……茶色いねずみ?」
本当はフェレットが近いのだが、想定外の生き物が現れた為、つい大雑把なまとめ方の言葉しか出てこない。これは色々な意味でツッコミを待っているのか、素人ドッキリで本人は暗闇の奥で笑いをこらえているのか、そもそも何を話せば良いのか。
そしてフェレット―――ユーノ・スクライアの方も、この世界に来たばかりでねずみとフェレットの違いが分からず、否定も肯定もしなかった。こちらも、どう話を切り出すべきかで悩み、反応を窺いながら黙りこくる。
しばしの沈黙が流れる。両手の指で数えられないぐらいの秒が経過した時、ユーノがこらえきれず用件を話そうとして、



「ようできたぬいぐるみやねえ」
「って、違いますよ! 僕はぬいぐるみじゃないです」
「冗談やって」
いったいどんなからくりかは分からないが人語を話しているフェレットを前にして、はやてはあっけらかんとしている。つい先程の変人の件で、耐性が出来ていたのかもしれない。
もしくは、そんな細かい事を気にしない性格であるのか。



実際のところ、はやてにはもちろん驚きの思いはあった。この現代日本において、一般的に動物が喋ることがあるという夢物語や妄想を信じるほど、はやては子供ではない。
だが、それを些細なものとするほど、強い感情が彼女の心を塗りつぶす。



―――こんな面白いコト逃したら、また退屈な日に逆戻りや!



小さな胸の中に響き渡る鼓動が、止まらない。友達とも遊べず、身体をめいいっぱい動かしたい盛りであるだろうにそれもできないはやてだからこそ、沸き上がる強い思い。
今自分は、普通には出会わない事に足を突っ込んでいる!
嬉しかった。嬉しいとしか言葉が浮かばなかった。騙されているならとことん騙されてやれとも思った。
もし足が動かせるのなら、冷凍マグロを抱えて水中エレベータに乗り込んだり、忍者ごっこをして記憶喪失の兄を困らせたりするぐらい奇抜な行動を起こしていただろう。
非論理的で支離滅裂ではあったが、それぐらいユーノという存在の登場は、はやてにとって衝撃を与えた。
もっとも、衝撃が大きすぎて、結局当たり障りの無いボケをかます事しか出来なかったが。



どちらにせよ、特に驚きも怯えもしない相手に慌てる必要は無いと感じたのか、ユーノは本題を切り出す事にした。
「僕は、ユーノ・スクライアです。公園で先程、赤い宝石を拾いませんでしたか?」
「私は、八神はやてって言うんよ。……ああ、そういえばさっき拾ったよ」
言われてようやく思い出し、ポケットの中にしまったままの赤い石を取り出した。今の今までまで人生で一、二を争うほど濃すぎる時間を送り、つい忘却の彼方に放り投げていた。
「もしかして、これユーノさんの?」
「ユーノでいいよ、同い年ぐらいみたいだし。そう、この世界に来てしまった時に落としてしまったんだ」
「この世界……って?」
「なるほど、そこからだね。実は……」




綾崎ハヤテは、病院を抜け出していた。何て事はない、忘れ物をしたからである。
普通の人間がたった一晩、しかも二、三時間程度では、いくら命の危険から生まれる火事場の馬鹿力で全力疾走しても、三つも遠くの街まで逃げることは出来ないのである。
自称一般人のハヤテもそれは例外ではなく、もっと速く逃げる手段―――途中借りた放置自転車で相手の車とカーチェイスを繰り広げながら逃げてはいたものの、時速二百キロ以上の平均速度走行に先に自転車が息絶えてしまい、仕方無く偶然見つけた廃ビルに置いて眠らせてきた。
短時間ながら苦楽をともにしたもはや相棒とも呼べる存在、後で取りに来ようとは思っていたのだが、後は知る通りの顛末である。はやてと出逢い、倒れて病院へ行き、安静を命じられる。取りに行く暇など、無かった。



(少し眠って回復出来ましたし、書き置きを残して来たから大丈夫でしょう)



そんな事をしても怒られるのは必然であるのだが、ハヤテは行ってすぐに戻ってくるつもりであるので、たかをくくっていたのであった。
そして、そんな考え方こそが、死亡フラグもといトラブルフラグである事に本人は気付いていないのである。



廃ビルに到着して、果たして自転車はすぐに見つかった。そろそろ本気で寒くなって来た夜風にコートがはためくが、臨時の相棒を眠らせた屋内はそれほどでもない。
ついさっき雪まで降ってきたのに、やっぱり直接風が来ないからだろうか、とどうでも良いことを考えながら、自転車の容態を確認する。
フレームがボコボコに折れ曲がり、チェーンが外れてはいたが、タイヤは奇跡的に無事だった。ドリフトが平気で出来そうなぐらい磨り減っていたが、これなら病院に戻って落ち着いて直してやれば息を吹き返すだろう。
「……え?」
ほっとしたその時、ハヤテの視界の片隅にキラリと光る何かが飛び込んで来た気がした。
見間違いかと思い、目をパチクリと瞬かせるが、月の光を呼び寄せては弾いているのか、暗闇の中で確かに何かが光っている。
いや、よく見ると……



少女が、仰向けになって倒れていた。顔は美少女と言っても通用する形、中肉中背で、遠くから見る限りでは外傷、暴行の痕ならびにひどい出血は無さそうだと分かり、少しほっとする。
だが、ハヤテをそのまま絶句させたのは、廃ビル内にあるまじきその姿に驚いたからでは無かった。
全身が黒一色の、ひらひらがこれでもかと付いた、ゴスロリと言われるワンピース風の衣装、おまけに頭部にはメイドのようなヘッドドレス。しかもこんな冬の夜中だと言うのにそれ一着。それだけでも十分おかしいと言うのに、僅かに見える背中の部分から黒い一対の翼の飾り。
これをコスプレと言わずして何と言うのか。年に数回ある大型イベントにて見られるような姿ではないか。ついそんな言葉が脳裏をよぎったハヤテは、内心まずい人に出会ったなあと思いつつも、流石に見なかった事にも出来ず、近寄って呼び掛ける。



「だ、大丈夫ですか!」



つい言葉が上ずってしまったが、何も反応が無い。いや、彼女の開きかけの瞳が逆に閉じてしまった事で、何やら嫌な予感を感じた。
もう一度状態を確認。熱は無く、平熱程度か。服の乱れも外傷も無い。手首を握って脈拍を確かめる……生きてはいるが、かなり小さい。
「ん……う?」
色々探られている事に気が付いたのか、閉じた瞳が重々しくながら再び開き、困惑と疑問の視線で見られていることにハヤテは気付く。とりあえずまだ生きていることにほっとしながらも、ハヤテは出来るだけ不審がらせないように声をかけた。
「大丈夫ですか? 今すぐ、病院に連れていきますから」
「ん……たい、き……じゃ、ない?」
一瞬何の事か分からなかったが、それが人の名前だと言う事に気付く。
それは誰なのか、どうしてこんな奇妙な格好で、こんなところにいて、まるで息も絶え絶えな状態で倒れているのか。聞きたい事はそれなりにあったが、まずはそれを棚上げにして病院への帰還を優先する事を選択。
「痛いところとか、ありますか?」
「全身が……軋んでるみたい。かなり、痛いかも」
「今から背中に背負います、病院で見てもらわないと」
「え……っと、多分、こっちの病院は無駄だと思う」
「なんで、そんな事を? 諦めちゃダメですよ、コートで縛って固定しますから、背中に掴まっていて下さい」
「うん……これ、向こうの病気だし。そもそも、病気なのかな?」
後半の言葉はしかしハヤテには届かず、少年は少女を背負い、有らん限りの速さで走る。この状態での二人乗りは流石に危険な為、再び自転車を置いていかざるを得なかったが。




ユーノ・スクライアは異世界からの来訪者である。
彼らの世界は魔法が科学とならんで発達しており、宇宙人どころか異世界人の存在も特に珍しいものでは無い。
そして、魔法は既に一般生活には無くてはならないものとして、浸透しきっているものだ。
ちなみにそれを聞いたはやては、「ようある魔女っ娘やのうて、えすえふの方なんやね」と感想。
閑話休題。
彼は若くして、一族とともに世界を巡る考古学者として働いており、主に遺跡の調査・発掘を行っていた。彼らの世界は年齢よりも魔導師としての実力やその仕事の知識量で上下が重視されるが、弱冠9歳にして一つの発掘現場の指揮を任されると言えば、その実力も知れるだろう。
今回も、とある世界で新たに見つかった謎の魔導遺跡を調査中だった。最奥部に未知なる装置の存在する、年代すら不明の遺跡。
しかし、調査中に不意に遺跡の中心にあった謎の装置が起動し、気が付けばこの世界に飛ばされていたのだと言う。
「管理内世界では今まで知られていない魔導体系。何千年も昔と思われる材質。そして、その遺跡はかつて『根の世界への門』と言われていたそうです……話を戻します」
その後、突然異なる世界に飛ばされたという事は理解したものの、元の世界―――せめて見知った世界に戻る事すらすぐには難しいのだという。
突然海の真ん中に放り出され、地図と大した装備の無い船だけを渡されたのと同じようなもの。目的地は分かる、向かう手段もある。だが、そもそも自分がどこを出発地点にしているかが分からない。
無闇に世界移動を繰り返すわけにはいかない。それにも魔力が必要だし、いざと言う時のために魔力は温存しておきたい。



そういった話を一通り聞き、はやては頷いた。
「つまり、帰り方がハッキリするまで、置いといてほしいってことやね」
「ええ……って、そこまで飛躍していいの?」
ユーノ個人としては数日、せめて一日身体を休められる場所があればよかっただけなのだが、はやては何言うてるのとカラカラ笑う。
「ええんよ、ユーノ君みたいなかわええ動物がおったら、大歓迎やって」
(動物……って、今の姿はそうだった)
「それに、誰も知り合いがおらんと、世界にひとりぼっちってのも、寂しいで?」
妙に実感のこもったような言葉に少しつかえる何かを覚えたものの、それは脇に置いておき、ユーノは長いフェレットの首を丸く曲げて感謝を言葉に変える。
「……ありがとうございます」
「ええねん、そんなかしこまらんでも。それで、この石は返した方がええんやった?」
「いいえ、それは―――はやてが預かっていて」
思わぬ返答に、目を丸くする。そして視線で問いかける、これは君のとちゃうの、と。
声に出していない思考を読み取ったか、ユーノは懐―――動物体のどこに懐があるのかは謎だが―――から石を取り出し、掲げる。
はやてが拾ったのとそっくりの、赤い石。
「僕には、こっちのレイジングハートがあるから」
「この石って、そんな名前なん? レイジング……えっと、ストーム?」
「ハートです。これはデバイス―――分かりやすく言えば、魔法の杖の元なんだ」
「って、そこは魔女っ娘なんやなあ。それと、ツッコミ薄いで」
SFからファンタジーへ逆戻りした話に苦笑しながらもその目は、はよ教えてえなと食い付きを見せる。
はやてとて年齢一桁の少女、まだまだそういったものに対する興味は、強い。テレビから出てきたような存在が目の前にいれば、尚更だ。
ただ、魔法の杖と聞いたとき、この時はやては呪文を唱えてマハリクマハリタやぴんぷるぱんぷるなどの幻想的なものを想像していたのも無理はないだろう。
まさか数ヵ月後に、友人になった相手の杖から荷電粒子砲まがいの一撃を食らわされようとは、神ならぬはやてには想像しようがない。
「僕の―――いえ、僕らの世界のデバイスは、調整と本人の努力があれば、ある程度は誰でも起動できて、使用できる。だけど……」
きゅい、とマッチ棒のような指でユーノははやての持つ石を指差す。
「それは、デバイスとしては異質な存在なんだ」
「使ってる人が、大変な目に逢うとか?」
「そんな危険なデバイスは無い……訳じゃなかった気がするけど、その話は今は置いておくね」
言葉通り右から左へ物を運ぶ仕草をするフェレットを見て、和む。かわええなあ。
「以前ある遺跡から発掘されたそれを解析したところ、それもまた偶然『レイジングハート』って名前だって分かったんだ」
「じゃあ、ユーノのは発掘されたんや無いって事?」
「僕のは……って、それもまあ置いといて」
しかし、それ以外に分かることが全くといっていいほど無く、おまけに今まで何人もの魔導師が装備しようとしたが、誰もが反応すら無かった。
はっきり分かっているのは、どうやら意識がある―――インテリジェンスデバイスではないかという事だが、
「その意識がやっかいなんだ。この石は人を―――適合者を選ぶ」
「適合者? 使って欲しい人の事?」
「まあ、そうだね。それは今まで誰にも反応を見せなかった。光ることすらしなかったんだ。だけど―――」
「もしかして、私が公園で拾ったときの事?」
急いてはやてが尋ねると、ユーノはただ頷くのみ。語らず、あの時光ったのを見た、と目で告げられているように感じた。
「何か、心当たりはある?」
「ええっと……」
公園でこれを見つけたとき、光っているのを見たから拾えたわけだが、よくよく考えると暗い所で光っているからといって、そんなに簡単に闇の中で見つけられたものだろうか?
もしかしたら、この石が私を呼び寄せていた? と考え、
「……いや、なんもあらへんわ」
「そうか……いや、別に気にしなくていいから」
「あ、うん。
 さっきの話やけど、持っててええんやったら、私が持っとくわ。せやけど、ほんまに私が持っててええの?」
指でつまみ上げた小さく新たな知人は、しかし公園の時とは反応がまるで嘘のように沈黙していた。
「それに、私は具体的に何すればええの? 魔法とか言われても、私は何にもでけへんし」
「持っていてくれるだけでいい。正直、何が出来るかもそれが何を伝えたいのかも全然分からないし、選ばれたはやてと一緒にいれば、もしかしたら何か分かるかも―――」



ふと、言葉が途切れる。言い間違えて言葉を訂正しようとしているのか、さもなくばして欲しい事を思い出したのかとも思ったが、それにしては妙に表情が厳しいのに気付く。
何を考えているのか、呆然としているだけなのか、フェレットは長い首を天に向けたまま硬直している。
きょろりきょろりと、細長い首の先にある頭が二度三度、何かを確かめるように振られる。
迂濶に尋ねられず黙り込む事数秒、小動物の豆のような口から零れた呟きは、驚き。空中で鮫が泳いでいるような非常識を目撃したような、あり得ないと否定したがっている声。
「どうして……」
「ん、どないしたん?」
「―――行かないと!」
復帰するが早いか、ユーノは突然駆け出していく。逃げたわけでは無さそうだが、いきなりの奇行にはやては無視された事も忘れ、車椅子を動かし始めた。
ついさっき知り合った友達を、追いかける為に。
「何なんやろ……いったい……」
胸騒ぎがこだまする。さっきまでの面白さを覚える非日常では無く、嫌な予感がする方のそれを、彼の突如の言動からはやても感じずにはいられなかった。




銃を持った奴が相手なら、覇王○○拳を使わざるを得ない。そんなフレーズが浮かぶ程に、ハヤテは窮地に立たされていた。
繰り返すようだが、ハヤテは長年の貧窮生活によって、大抵の事なら何でも切り抜けられる力を身に付けている。
背中に妙齢の少女を背負っている程度、重荷にも感じない。雪が降るような寒空の下でも、大した活動阻害にもならない。
が、それも体調が万全の時には、だ。精神と肉体がともに消耗しきっている現在であれば、取るにも足らなかった筈の障害がとても邪魔なものとなる。
「くっ、は―――あっ」
骨や神経を通じて全身に染み渡る、まるで氷のナイフで抉られるような冷えた痛みに、ともすれば後ろの荷物を落としそうになる。が、堪えて背負い直し、一歩を進める。
「やっぱり、安静にしておけばよかったかな」
誰にも聞こえないように、後悔しつつ呟くハヤテ。彼女は再び気を失ったのか、静かなものだ。
医師の言う事を聞かず、勝手に自転車を取りに行った自分が悪いとは分かっていたのだが、
(取りに行かなきゃ、この人はどうなっていたか分からないだろうし……うん、いい方向に考えよう! 大丈夫、借金取りから逃げ切りましたし、何とかなります! ……なるのかなあ)
空元気で気勢をあげようとするが、いかんせん大元の元気が足りない。
脚の感覚が薄い。スポンジになってしまったかのように、一歩一歩の安定性が足りなくなっている。
手に力が入らない。自分が何の何処をおんぶしているのか、つい忘れそうになる。
そして、目がほとんど開かない。視界が狭い。きっと自分の顔を見ている誰かに感想を聞けば、遮光型土偶のような目だと言うだろう。
「―――あ」



転んで倒れ伏したのに気付いたのが、その事実から数秒も経ってから。
何故か何とかしないとと言う意識が働かず、身体は指一本も動かせない筈なのに、感覚だけが鋭敏になっている。
我が身を冷やす原因は、薄く積もった雪が原因か、それともコンクリートか。頭の回転が妙に速くなっているのか、段々と周囲の時間がゆったりと重みを増してくる。
同時に、昔に振られた彼女の事、ここで肉を食えとサファリパークで放り出された事、ついさっき親に売られた事。俗に言う走馬灯が頭の中を流れつつも、目の前を横切る雪の塊の粒々一つ一つや地面のでこぼこすらもはっきり認識できた。
(確か、これは頭の処理速度が向上されている事で起こることだって、どこかで聞いたかな)
目が覚めたら、自分は新たな世界の創造主になっているのか、どこかの女の人と人格交換でもしているのか。あるいは、時の滅びた世界に魂だけが投げ出されてしまうのだろうか。



こんな時でもそうつまらない事を考えてしまえる余裕がある辺り、もしかすると自分は心の片隅で終わりを望んでいたのかもしれない。
守られる筈の両親から押し付けられる枷。急激に何度も訪れる環境変化。終わりの見えない借金。
そして、願ってももがいても手に入らない、普通の生活。



(もう、――――――)



最期に想ったのは何だったのか。
全てのしがらみから解き放たれたかのように、ハヤテの瞳は固く閉じられた。
強く強く、何者をも寄せ付けないかのように―――。


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最終更新:2008年05月16日 21:38