リリカル・ニコラス 第一話「牧師と騎士」
青い空と白い雲、そして異形の方舟の下、彼が最後に聞いたのは遠雷に似た響き。
それが自立型プラント同士の力の拮抗が生み出した轟音だったというのを理解する事は出来なかった。
何故なら彼は死んでいたから。
その身に受けた数多の銃創、過剰に投与された代謝促進剤の影響、
その他あらゆる外傷が彼の生命を絶った。
だが運命の神は気まぐれで悪戯好きである。
プラント同士のこの衝突で生じた凄まじいエネルギー、これによっていかなる奇跡か悪夢か、空間は軋みを上げて裂けた。
彼のすぐ隣に座っていた自立型プラントの青年は空間の生じた時空の裂け目に目を奪われる。
そしてその刹那、最後の寝床となったソファに座る彼の骸は彼の得物である罪深き鉄火の十字架と共に宙に刻まれた暗き裂け目に消えた。
プラントの青年は暗き淵に消える朋友の骸に手を伸ばして虚しく叫んだ、彼のその名前を。
「ウルフウッドォォ!!!」
血と硝煙にまみれた歪な聖職者はそうして次元の狭間に消えた。
朋友、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの叫びと共に。
その日は恐いくらいに月と星がよく見える夜だった。
どこまでも澄んだ空、星月の眩い光の下、夜の冷気に白く染まった吐息が映える。
女性はその豊かなブロンドの髪を揺らして月夜の散歩をしていた。
それは彼女の数少ない趣味であり、ここ最近の日課でもある。
仕事柄、教会から離れる事の少ない彼女にとって夜の帳の下りた中を気まぐれに歩くのは密かな楽しみであった。
そして女性は天に照る数多の星と眩い二つの月に見惚れて思わず口を開いた。
「綺麗ね……こういう日はなにか良い事がありそうだわ…」
教会騎士カリム・グラシアは空の芸術にそう感嘆した。
夜の冷気に冷えて真っ白に染まった彼女の吐息が季節を感じさせる。
カリムは天の絶景に見惚れながら気ままな夜の散歩を楽しむ、そこにはいつもと変わらぬ緩やかな時間が流れた。
だがその中にいつもと違う相違点があった。
それは匂い、それも凄まじい異臭。
まるで腑分けられた臓腑のような血生臭い臭気、濃密な血の香り。そしてその中に溶けた鼻を付く硝煙の芳香。
夜の冷気の中に漂う異臭にカリムは眉をひそめた。
(なにかしらこの匂い……いったいどこから?)
心中でそう疑問を浮かべながらカリムは匂いを辿って足を進めた。
夜闇の中でも強烈な臭気を辿れば捜索はそれほど難儀しない、程なく辿り着いた場所にあった臭気の根源は人の形を成したものだった。
カリムが辿り着けば、そこには傍らに歪な鉄の十字架を持ち黒衣を纏った男が草むらの中に横たわっていた。
月光の下でも明らかに分かるほど、男の身体は夥しい流血に赤く濡れている。
凄惨なその姿に、冷えた夜気とは違う寒気がカリムの背筋を駆け抜けた。
一瞬呼吸すら忘れてカリムは立ちすくむが、即座に思考を冷静なそれに戻して男に駆け寄る。
「あなた、大丈夫ですか!?」
声を荒げながらも慎重に抱き起こした男の身体は温かかった。
だが生命の脈動、心臓の鼓動は感じられない。当たり前だ、既に男の命は事切れているのだから。
しかし、彼の容態をある程度察しながらもカリムは諦めようとは思わなかった。
即座に念話を展開し、自分の秘書である修道女へと繋げる。
『シャッハ!!』
『へっ? 騎士カリム? どうかなさったんですか?』
『人が倒れています、すぐに病院に連絡を! 大至急です!!』
『わ、わかりました!』
簡潔に念話を切り上げると、カリムは男に向き直った。
心停止状態で放置し続ければ確実に蘇生は不可能になる。最悪、蘇生に成功しても脳に異常などが出てしまいかねない。
彼女は昔聞いた方法を思い出しながら、即座に蘇生措置を開始した。
頭を後ろに傾け気道を確保し、胸骨下端部に手を当て心臓に狙いを定める。
集中する時間は一秒、その時間で手の先端に溜まった魔力を男の体内に流し込んだ。
ドスン、という音を立てて男の身体が跳ね上がる。魔力の衝撃に男の四肢の筋肉が収縮したのだろう。
だがそれでも彼に心の臓腑は動かない。
カリムは額に嫌な汗を流し、神に祈りながらもう一度手の平に魔力を集める。
今度はさっきよりも大量の魔力を集め、再び彼の身体に触れた。
「神よ…」
小さくそう祈りの言葉を呟き、再度魔力の放出が男の身体を流れた。
今度は先ほどよりも強く男の四肢が跳ねる。
そして…
「がはっ!!」
男の口から固まりかけた血の泡が吐き散らされる。
今までの比でない凄まじい血の匂いが周囲に漂うが、そんな事を気にかける暇はなかった。
息を吹き返してもなお、男の呼吸は再び止まりかける。
「そんなっ! 死なないでください!!」
そう悲痛に叫ぶが彼は答えられない。
苦悶の表情をしながらもカリムは弱まる心臓に刺激を送り続け、ついで彼の顔に手を当てると迷う事無く唇を重ね合わせて息を吹き込んだ。
濃い血の味を味わいながら目一杯息を吹き込む。
男の呼吸はそれで少なくともある程度は回復した。
そうしてカリムが汗だくになりながら蘇生を続けていると、空からヘリのローター音が響いてきた。
救急救命のヘリが到着すると、男は速やかに医療施設に運ばれる。
後には彼が持っていた歪な鉄の十字架だけが残された。
彼が目を覚まして最初に見たのは真っ白な天井。
全身に鈍く響き渡る苦痛を感じながら瞬きして視界を確認し周囲を見回す。
白いカーテンを透かして窓から部屋の中を満たす陽光が目に痛い。
死の淵を彷徨った思考はまどろみの中でゆるやかに再起動を果たしていく。
そして彼は静かに口を開いた。
「なんや……地獄にしては…随分綺麗やなぁ…」
間の抜けた声でそう言うと男は目蓋を閉じてもう一度眠りの世界に落ちようとした。
あの時の自分の状況から生き延びるのはどう考えても絶望的だった。自然、彼は自分自身が既に死んでいるものだと考える。
そして思う、ならばここは地獄だ、血の斑道を歩み続けた自分が上の方に逝ける筈が無い。
いやあってはならないのだ、故にここは穏やかな地獄の入り口だと覚醒寸前の鈍い彼の思慮は思い至る。
そして、そう考えたら後はもうどうでも良くなった。今はただもう一度、泥のように寝むりたかった。
疲労と苦痛が限界だったのだから無理も無い、だが運命は残酷で彼にしばしの安らぎを与える気は無いらしい。
彼が目を閉じようとした刹那、ドアが開け放たれた。
「えっと……まだ眠ってらっしゃるのかしら?」
澄んだ声と共に輝く金髪をなびかせた女性がそう呟きながら部屋に踏み入る。
女性は部屋に入ると手探りで電灯のスイッチを押し、病室を人工の光で満たす。
唐突に目を指す眩い白光に男は顔をしかめて手で顔を覆う、死神のキスから逃れたばかりの目覚めにこれは少しきつい。
思わずしゃがれた声を上げた。
「ああ……眩しすぎや…目ぇ溶けてまうで」
喉から零れたその言葉に女性は思わず男に駆け寄り、マシンガンの如く彼に言葉を撒き散らした。
「目が覚めたんですか!? ケガの具合はどうですか!? 痛くないですか!? 気分はどうですか!?」
「…ちょい落ち着いてくれや……ってか、なんやねんもう…地獄に仏やのうて姉ちゃんかいな…」
「ああ…すいません……つい…」
男はもういい加減にしてくれ、とでも言いたげな口調で女性を諌めた。
彼のその言葉に、女性は落ち着きを取り戻して一つ息を吐いて呼吸を整える。
そんな彼女の様子に男は思わず苦笑した。
「しっかし、ホンマ……地獄にしては随分VIP待遇やなぁ…」
「あ…あの、なにが地獄なんですか?」
「ん? なんや……ワイ死んだんやないのんか?」
男のその言葉に、女性は顔を真っ赤にして反論した。
せっかく必死になって助けたというのに死んだ気でいられては、たまったものではない。
「し、死んでなんかいませんっ! ちゃんと生きてます!!」
男は彼女の剣幕に一瞬ポカンとする。
一瞬の沈黙、男は冷静な思考を徐々に取り戻し状況を確認した。
自分は生きている、あの死の淵から生還したという実感が胸に沸いてきた。
静寂、彼はただ黙って感慨深げに瞑目する。
(そうか…ワイ、生きとんのやな……リヴィオ、トンガリ…なんやまた会えそうや…)
脳裏を過ぎるは共に死線を潜り抜けた朋友、そして踏み外した道から連れ戻った弟分達の事。
生き残ることができ、また彼らに会うことが叶うと思えば、柄にも無く胸が熱くなった。
そんな彼に女性がふと声を掛けた。
「あの、そういえば自己紹介が遅れましたね。私は聖王教会騎士のカリム・グラシアです」
「ワイはニコラスや、ニコラス・D・ウルフウッドっちゅうねん。よろしゅうな」
カリムは笑顔でそう言うと、ウルフウッドに一歩近づいて手をさし伸ばした。
ウルフウッドは軋む身体をやや起こして迷う事無くその手を握る、軽く握手を交わして彼もまた笑顔で答えた。
牧師と騎士、奇妙な運命に導かれた二人はこうして出会った。
最終更新:2008年07月06日 00:01