夜間照明が青白い光を落とす廊下――平時は静寂が横たわる場所に銃声が響き渡る。
完全武装の兵士たち――研究所そのものを廃棄するために送られた部隊。
生き残った被験者――敵から奪った武器を手に、己の能力を駆使して撃退を試みる。
幾つもの銃声が、一つの轟音となって全ての音を掻き消した。通路全体が一つの銃身となって、弾丸の音を発しているようだ。
その天井を重力に逆らって歩くアサルトライフルを手にした巨漢――ディムデイルズ・ボイルド。
兵士の弾丸を不可視の壁で逸らしながら射撃。敵を撃ち倒しながら、天井を伝いエレベーターホールへ突進する。
ボイルドは銃撃の隙間を抜けエレベータに飛び込み、シャフトの壁面に立つ。
エレベーターロープを使って降下中の敵を真下から射殺した。
ロープにぶら下がったまま息絶える者/落下する者――かと思うと一人だけ、さっとロープを離して跳んだ者がいた。
壁を蹴り、飛び跳ねるように銃弾をかわしながら降りてくるそいつを見て、ボイルドは一瞬、相手も自分と同じように“重力(フロート)”を操るのかと思った。
獣じみた強靭でしなやかな四肢で壁と壁を捉えた敵は銃を捨て、全く別の武器――逆手に握った軍刀を振り回す。
ぞっとなる黒い輝きが走り、両腕に衝撃――信じがたい金属音。
驚愕――漆黒の刀が、“重力”の盾のこちら側を通過しライフルを両断した。
思わず壁を下方に退く。胸に挿すような痛み――服から血が滲む感触。刃が自分の胸にまで届いていたのだ。
ありえない――飛来した銃弾さえ逸らす“重力”の壁を、刀が突き抜けた。
敵が壁から足を離し、別の壁を蹴りながら刀を振るう。
緩やかにさえ見える滑らかそのものの動きで、全く無駄の最小限の軌道を刃が走り、ボイルドは咄嗟に壁から壁へ跳んだ。
刃が“重力”の壁に触れた瞬間、逸らそうとする“重力”に抗い、新たな軌道を描くのを感じた。
無形の盾を突き破った刃が、肩口へ。
肉が断ち切られ、血が壁に跳ねた。
右腕の指先にまで走る痺れる様な痛み――熱。だが、まだ腕は動く。
真っ黒い覆面で顔を覆い隠した敵と、一瞬目が合った。
黒い瞳ではない。色素が薄いせいで、暗がりでそう見えるのであろう暗黒の双眸。
反撃――左腕/切断されたライフルは、既に拳銃に“変身(ターン)”している。
敵がそれに気づく――刃を引っ込め壁を蹴った。
拳銃の引き金を引く/オートマチックによる一連の射撃。
敵はそれをかわしながら、ビデオの逆回しのように、もと来た道を倍速で戻っていく。
敵の一方の手がロープを掴む。逆手に握った軍刀/最初に邂逅した場所。
敵が、再び勝負をかけようとしている――獲物に襲い掛かる豹のように体を丸めた。
そして突然の大音響。
《政府との合意に達した!!》
施設のスピーカー=大音量。研究所の責任者――チャールズ・“厚顔無恥(フェイスマン)”・ルートヴィヒの声。
《施設内の全兵員に告ぐ! 間もなく撤退命令が出される! 速やかに交戦を停止し、屋外へ撤退したまえ! 繰り返す――》
撤退という言葉が三度告げられた時、敵がシャフトの上方へ昇り始めた。
最後まで目を逸らさない/睨み合う/上階のエレベーターホールへ姿を消すのを見届けた。
クラナガンヴェロシティ 01:楽園
枕元に眠るウフコックを横たえ、ベッドに腰掛けた途端に浮かぶビジョン。
遥か眼下に広がる破滅の火。友軍への誤爆。最初のキャリアの喪失。
研究所に来てからのビジョン。やせ細った自分と手の中の黄金色のネズミ――第二のキャリア。
窓から見た銃火/殺されていく被験者たち。襲撃者たちが告げる廃棄処分の言葉。
自分が精神と肉体を賭け、手に入れた新たなキャリアの喪失。
新たなキャリア――そんなものが存在するのか。
釈放を期待しながら部屋の隅にうずくまる囚人の気分。
ビジョン――部屋の隅に立つ人影。
オードリー・ミッドホワイト――撃墜され拷問を受けたヘリパイロット。四肢を切断され、精神に異常をきたす。
研究所で回復し、新たな手足を得た。
相手の脈拍/身体の僅かな振動/分泌物質/精神状態を読み取る手足――拷問を否定する超高性能の嘘発見器。
面影――漆黒の髪/瞳/透き通るような美貌/ときおり見せた微笑。
眩暈がしそうなクリストファーの言葉を的確に捉える唯一のメッセンジャー/ワイズの皮肉を黙らせる最高の皮肉屋/ラナを“グローブを嵌めた可愛い女の子”と呼ぶことができる存在。
ラナのパートナーであり、いずれはボイルドとウフッコクのペアとともに四人一組の組になるはずだった。
そのオードリーの突然の死。
彼女が首を吊った事に誰もが動揺した。
そして、ウフコックはその死に恐怖した。死の前日までオードリーから負の感情を一切嗅ぎ取れなかった。にもかかわらずオードリーが死んだ場所からは、それを嗅ぎ取った。
死の匂い――ウフコックが感じたことの無かった、強い絶望と怒りの悪臭。
死者=オードリーと、その背後に並ぶボイルドが銃弾を叩き付けた敵の無数の顔。
「人間が残酷になれるのは、生きる喜びを知っているからよ。きっとね」
オードリーが咥える煙草の火。
煙の臭い/硝煙の臭い/血の臭い――ヘビースモーカーの口から噴き出す。
「そういえば、使わなくなったあなたのベッドって、他の使い道があるかしら?」
「ベッド?」
生前の会話と同じように、死者の幻影に問い返す。
「心に秘めた悪夢を告白するには悪くない場所よ」
自分に誘いをかけた女の微笑/どんな毒にも決して冒されないと無言で語る鋭利な美貌。
血にまみれた淫虐の経験を客観視することに成功した者の虚無をたたえる言葉。
「告白したくなったらぜひ声をかけてちょうだい」
「ああ」
ボイルドの微笑――死によって永遠に失われたその機会。
悪夢のように馬鹿げた事態――廃棄処分。
お前の死はこのせいだったのかと訊ねたかった。
「お前は、プロフェッサーたちから何を読み取っていた?」
答えのないまま死者は消える。
そのまま一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、三時間が過ぎる――夜明け。
◆◆◆
朝六時。習慣に従いシャワーを浴びる――プレッシャーの回避。
湯の温かさ/傷の痛み――縫われた傷から滲み出す血。
どこの誰かも分からない敵――恐らく同じ軍属。
壁を歩く自分の“重力”の壁を突き破った黒い軍刀――常に切っ先が最適角度をとるような装置が内蔵された武器――最新鋭の白兵戦兵器。
覆面の隙間から見えた酷く薄い色の瞳――借りを返したくなる/宿敵のように思える/だがもう一度会えるとは思えない/忘れるしかない相手。
七時――朝食の開始時間のチャイム。
銃撃戦の直後に用意されているか分からないが、食堂へと向かう男/その肩に乗るネズミ。
男――ディムズデイル・ボイルド。
がっしりとした巨体/刈り込まれた灰色の髪/冷淡な印象を与えやすい青灰色の瞳。
研究所の特殊検診=成果――“擬似重力”を操り天井も壁も自在に歩き回る“徘徊者(ワンダー)”。
ネズミ――ウフコック・ペンティーノ。
黄金色の体毛/赤い目/お気に入りのズボンとサスペンダー。
人口衛星四基分もの予算を費やして生み出された“万能道具存在(ユニバーサルアイテム)”。
生きて喋る人格を得たネズミ。
最高の相棒/友人。
幸運にも破壊されなかった食堂/厨房。自動化された食料配給システム。
被験者の列にトレーを持って並び、朝食を取ってテーブルへ。
シリアルのピスタチオを小皿に盛ってウフコックに分けてやる。
食堂に人が増え、程なくして同じテーブルに仲間たちが座る。
「血の匂いがするよ」
チーズマフィンをパクつきながら話すジョーイ――ジョーイ・クラム。
茶目っ気溢れる童顔/短いブロンド/肩にはドクロのタトゥー。
度重なる強化手術によって、万力並の筋力と鋼の如き筋組織を得た小柄なハードパンチャー。
歩兵ボクシングクラブのライトミドル級チャンピオン=通称“拳骨魔(フィストファッカー)”。
その隣で無言で朝食を貪り食うハンサムな横顔=ハザウェイ・レコード。
毒ガスに冒されながらもジョーイを救助した元衛生兵。恩に着るジョーイに「大したことじゃない」の一言で生涯の盟友に。
全身に移植された特殊な癌細胞による半不死――銃弾に貫かれても五分で復活する“再来者(レプナント)”。
悩みは再生する度に発生する老化/飢餓感。未明に数回復活した分のカロリーを一気に摂取。
「あんたたち、あんな最悪のパーティのあとでよく食えるじゃない?」
眼前に山盛りのミートソーススパゲティを鎮座させる精悍な面立ちの女性=ラナ・ヴィンセント。
ジョーイを六ラウンドの激闘の末にKOした白兵戦のプロ。
類稀なるガッツでオーバーヒートした機関銃を爆発するまで乱射――両腕を失う。
新たに得た機械の両腕――超伝導体を内臓/生体電気を増幅――電撃を放ち、金属を機銃の弾幕と等しく発射する兵器。
「見なせえよ、ワイズ。こいつらの小食ぶり、どう思うだよ?」
のんびりした口調のレイニー・サンドマン――電話帳並みに重ねられたハムサンド。
味方の裏をかいて進軍する敵を止めるために、敵ごと火だるまになった斥候。
壊滅した皮膚組織に代わって与えられた人口皮膚――粒子状に変化しあらゆる変装を可能に。
義足・義手・人口声帯によって体格/声さえも変化させる“砂男(サンドマン)”。
「俺も、赤いものを見ただけで食欲がなくなりそうだぜ」
ハムエッグにケチャップをぶち撒けるワイズ・キナード。
人口の鼓膜と声帯によってあらゆる音を聞き分ける/どんな音や声も自在に発声する/特定の誰かにだけ届かせる――究極の通信兵。
喧嘩っ早くキレやすい“悪党(ワイズマン)”キナード――実際は一度として本気で怒ったことのない本物の“切れ者(ワイズマン)”。
「どうだ、オセロット。人間に味を占めちゃいねえな?」
《そんな不味い肉は要らない》
テーブルに近づいてくる宙を舞う豚の骨。
空間が歪み現れる漆黒の軍用犬――オセロット。
しなやかな体躯/短い体毛/茶色の目。
ウフコックと同様に人格を獲得/人語を理解。光学繊維による体毛で透明化する不可視の猟犬。
「皆揃っているな。戦闘でPTSDを獲得してしまった者はいるかね?」
トレーにトーストとベーコンを載せたオセロットの主人=クルツ・エーヴィス
盲人用の帽子で鼻の頭まで覆い隠す元狙撃兵。真横からの銃撃で両目を貫かれる――正真正銘の盲人。
光学情報を伝達する“線虫(ワーム)”を体内で飼育/指や口から散布し最大で半径数百メートルにも及ぶ視界を持つ“盲目の覗き魔(ブラインド・ピーピング・トム)”。
「そいつはお前のダチの名前か、クルツ?」
ワイズが真っ赤なハムエッグを口に突っ込む。
「そんなケツを拭く紙みてえなモンより、襲撃してきた連中が気になるぜ俺は」
「連中、銃だけじゃなくて“魔法”を使ってただな」
ハムサンドをもぐもぐ咀嚼しながらレイニー。
「ああ、そういう事だぜ兄弟。あのクソ野郎共はどう見ても“管理局”の人間にゃ見えねえ。って事はだ、あいつら軍人って事じゃねえか?」
「けどよワイズ、俺たちの世界で魔法を使える奴なんかほとんどいねえってプロフェッサーたちが言ってたでねえか」
「ほとんどって事は居なくはないって事だ。きっと使える連中を集めたんだろうぜ」
瞬く間に議論を展開する元斥候&元通信兵――二人の情報マニア。
この世界――一般的な認識ではこの惑星――の他にも無数の世界が存在する。
それらを統括管理する時空管理局にとってこの世界の扱いは“管理外世界”。だが、管理局は特例として政府に接触した。
理由――高度な文明/宇宙軍の創設が目前と言われるほどの優れた科学技術/魔法無しで発達した稀有な例=次元空間に乗り出される前に魔法に対する理解を促す。
政府の対応――相互不可侵の協定を締結/異世界と協定について一般へ公開/一定の条件の下での技術・人材の交流。
二つの大陸の間で行なわれていた戦争もそれを切っ掛けに徐々に沈静化――数年かけて休戦/停戦に持ち込む。
結果――戦争責任を問う/戦争のために開発された技術を危険視/規制を声高に叫ぶ=人ではなく銃を憎む世論の流れ。
研究所も何らかの形で影響を受けるという噂――縮小から廃棄まで。未明の襲撃=それを実証。
恐らく襲撃者は提供された魔法技術を用いられた実験部隊。
研究所のこれから――プロフェッサーたちは未だ無言。
朝食を終えても、職員たちがやって来て検診を告げたりはしない。
居場所を失ったような感覚をコーヒーとともに飲み下す。
やがて放送=チャールズの声。
《全ての被験者、全ての職員に告ぐ。これより研究所の今後について説明の場を設ける。ただちに一階ロビーに――》
ボイルドはウフコックを手に乗せた。皆無言で立ち上がる。
食堂から一階ロビーへ――職員と被験者の境界地域。
◆◆◆
ロビーで皆を待ち受けていた三人の男女=三博士――この施設の最高権力者たち。
中央――施設の責任者たるチャールズ・ルートヴィヒ。通称“厚顔無恥(フェイスマン)”。
丁寧に整えられた頭髪と髭/知性を武力に変える軍属科学者の眼差し。
軌道上都市の建設を夢想する野心的な宇宙技術の権威。
右側――職員たちを束ねる“猿の女王(クイーン・オブ・エイプ)”――サラノイ・ウェンディ。
理知的な顔/涼しげなブルネット/四十代だが三十代前半にしか見えない若々しさ。
人間は高度な猿と豪語する大脳生理学者。
左側――白衣にぶら下げた小物をじゃらじゃらと揺らす、被験者たちの管理責任者――クリストファー・ロビンプラント・オクトーバー。
軽やかな眼差し/フラクタル理論に基づいたというまだらに染められた髪/四十代のパンク青年。
一度話せば誰も彼も巻き込まれる“渦巻き(ホイール)”。ウフコックの生みの親にして名付け親。
チャールズが一歩前に出る。
「昨夜の不幸な行き違いで命を落とした者たちの冥福を祈ろう。
そして今日という日が、我々全員の新たな出発点となる事を約束しよう。
我々のキャリアは大いに変化した。だが無に帰したわけではない。新たなキャリアが、これまでの成果に従って始まるのだ」
淀みないチャールズの前口上――誰もが注意を向けているのを確かめるように見回す。
チャールズは言った。
「君たちには選択肢がある」
選択肢――三博士それぞれが示す道筋。
チャールズの主張――外部との接触を絶ち、研究所だけで新たな社会のモデルケースとして完結する完全な閉鎖性。
サラノイの主張――社会の階段を登り、社会をより高次なシステムの下で導く軌道性。
そしてクリストファーが前に出る。
「――社会から逸脱して閉鎖する試みや、社会をコントロールする試みでは、何の有用性も証明できない。
そもそも個人の幸福とは、以前からそこにあって個々人を待っている軌道に乗ることを言う。社会を思考の対象にするのは結構だが、個々人を物体扱いしてはならない。」
クリストファーの口から飛び出すチャールズとサラノイへの批判。
目を白黒させる皆に、まぁ聞けよと言うようにウィンク。
「個々人がその軌道から外れることを防ぐ――特に生命の危機から守ることこそ、民衆に求められる科学の成果だ。
我々は造りだしたものの価値を自ら定義してはならない。民衆の前に差し出し、民衆に決めさせる。
我々の技術を彼らに帰すために、進んで社会の矛盾と一体化するのだ。それは言い換えれば、階段を降りるという事だ」
面白そうだろうと言いたげな表情で、ゆっくりと皆を見渡す。
「有用性の証明。
それが規律の名だ。我々は、我々を必要とする者たちのために、惜しみなく力を使う。
ここで一つリスクについて言及しておこう。有用性の証明に失敗すれば――廃棄処分か、刑務所か、ゴミ缶か――とにかくジ・エンドだ。むろん働きによって巻き返す事も可能だろう。
それが私の選択肢だ。説明は以上だ」
質疑応答の時間――ボイルドは挙手した。
「質問がある」
「何だね、ディムズデイル・ボイルド」
起立し、クリストファーに目を向け「あんたの選択肢を選んだ場合、具体的に俺たちは何をさせられる?」
「おっと話すのを忘れていたな。では応答責任を果たすとしよう」
これから分かりやすく話すと言うように指を立てる。
「都市へ出るというのはサラノイと一緒だ。
だが、我々が行く先はマルドゥック市ではない。クラナガン――管理世界の中枢都市だ」
どよめきが走る――驚愕/動揺。
クリストファー――構わず続ける。
「気づいた者も居ただろうが、昨晩の襲撃者は魔法を使っていた。管理世界からの供与された技術を用いて魔力素養のある人員を集めた実験部隊だ。
我々が管理世界へ出るのは、その逆に管理世界への技術供与の一環でもある。ベースボールのトレード契約のようにね。
そして、我々はそこである種の人助けをする。生命の危険から救うというやつだ。バックには管理局がいる。
ボディガードを連想した者にはあながち間違っていないと言っておこう。君たちはその力を、無力な者の盾となることに使うのだ。
それは同時に、社会を底辺から揺り動かすことだ。不当な手段で階段を昇ろうとする輩に、ノーと叫んで階段から蹴っ飛ばし地上に叩き落すことになるだろう。
法執行機関を連想した者も、まぁ間違っていないと言っておく。戦闘のインストラクチャーや銃器コンサルタントを連想した者も同様だ。
それら全てを兼ね合わせた独立機関となるのだ。どのみち我々の技術は、法の規定外なのだからね。
いずれにせよ、君らは多くの人から受け入れてもらえる。そしてやがて、迎え入れられるだろう」
「了解だ。納得した」
ボイルドが座る――変わってハザウェイが質問を始めた。
ハザウェイとジョーイの疑問――施設の外に出て、もしもプールバーでイカした美人を見かけた時、何が出来るか。
チャールズの選択肢――そもそも施設から出ない。
サラノイの選択肢――必要以上の接触は避けねばならない。
クリストファーの選択肢――交流は可能。
例えば声を掛ける/マティーニを奢る/あわよくば番号を聞く/部屋へ誘う――あくまで丁寧に。
湧き上がる笑い――理解できないウフコックがボイルドの手を叩く。
「彼らは何を話しているんだ?」
「一般市民とのコミュニケーションが可能かどうか訊いているんだ」
「それはつまり……施設の外の人間と、仲良くなるってことか?」
「そうだ」
「そんなことがあるのか?」
ウフコック――研究所で生まれた存在。施設の外に出た事も無い。
そしてボイルドもそれがイメージできなかった。研究所での生活は何もかもが特殊すぎた。
「わからないが……クリストファーは、あると言っている」
その言葉に、ウフコックは希望を見出したかのように目を輝かせた。
「クリストファー教授について行けば、俺を受け入れてもらえるのか? 俺を廃棄しようとする相手ばかりじゃなく?」
クリストファーの言葉――受け入れられる/やがて迎え入れられる。自分たちの力を必要とする者のために働く。
ボイルドは、小さな相棒に与えてやれるものを見つけたという感覚になった。
自分の新たなキャリア――その意義がウフコックを通してくるようだった。
「それ以上に、俺やお前が必要とされるということだ」
ウフコックが目を大きく見開いた。その小さな体から溢れんばかりの希望が伝わってくる。
「本当に? この俺を必要としてくれる相手が現れるなんてことがあるのか?」
「そうだ」
微笑が自然と浮かぶ――ウフコックと同じように自分の匂いを嗅ぎ取れそうだった。
「お前を必要とする者が、きっと現れる」
◆◆◆
「俺は俺の有用性を証明する」
テーブルの上に仁王立ちするウフコックの高らかな宣言。
「研究所の外で俺を必要としてくれる人間を見つけるんだ」
地下に広がる人口の森/太陽光を模した照明の下――地下とは思えない光景。
その中にある巨大なプールに住み着く少年とイルカがウフコックの言葉を聞いていた。
《ふうん。それってそんなに凄いこと?》
《ウフコックにとっちゃな。道具として作られたんだし、自分をどんな奴が使うかは気になるところだろうさ》
トゥイードルディ&トゥイードルディム――生まれながらに軍属の少年とイルカ。
身体の障害故に軍に売り渡された少年の言語を司る脳と、イルカの行動を司る脳が互いに補い合うペア/親友/家族/恋人。
《そもそもクリストファー教授は、お前に名前をつけてくれた相手だもんな。そいつについて行くってのは、筋が通ってるぜ》
《ウフコック・ペンティーノ。ラストネームまでつけてもらってね》
《煮え切らない卵(ウフコック)、五つの(ペンタ)……何だっけ?》
「ペンティーノ――五つの理解行為だ。目的、論点、仮説、検証、示唆だ」
誇らしげに語るウフコック。
トゥイードルディムが笑うように頭部の呼吸孔から息を吹いた。
《難しい名前の分、悩みっぽいお前がそんだけ自信たっぷりってのが俺には嬉しいね》
《ウフコックがここを出て行くのに賛成なんだ、トゥイードルディムは》
《こいつが自分で決めたことだしな。応援してやろうぜ、トゥイードルディ》
《そうだね。でも、きっと寂しくなる》
木々の陰からやって来る人影――チャールズが腰の後ろで手を組んでまっすぐ歩いてくる。
「クリストファーの下へ行くそうだな」
ウフコックとボイルドがいるテーブルへ近づき、一人と一匹のパートナーを推し量るように眺めた。
「私は軍事開発された技術の民間の利用には反対だ。大抵は惨たらしい結果をもたらす」
確信に満ちたチャールズの否定――ウフコックとボイルドの両方に言い聞かせるように。
だが、どちらを引き留めたいのかは明白だった。
「そういった事例は実際にあるのだ。
我々の成果が外部で使用され、より悲惨な状態を生み出した。社会は我々の成果を利用するにはまだ未熟なのだ。
社会でものをいうのは暴力であり、正当な武力を論じる余地などありはしない」
訴えるようなチャールズの視線――ウフコックに。
「お前はここで生み出された“金の卵”だ。可能性に満ちている。
この“楽園”にとどまって欲しい。私はそれが最善であることを、経験から知っている」
ウフコックは揺らがず、首を振った。
「俺は、俺の有用性を証明することに自分の命を費やしたい。
すまないプロフェッサー、期待には添えそうにない」
「何故なのかね? そのような観念は瑣末なものに過ぎん」
「俺は死を知った]
小さな拳を握り締める。
「最初は大勢の被験者たちだ。限界をきたした彼らの死は穏やかなものばかりだった。
そしてオードリーの死を知った。苦痛と怒りに満ちた彼女の死の臭いを」
「彼女は……事故だ。お前が気に病むことはない」
陰鬱な表情のチャールズ――オードリーの死=研究所の失態。
チャールズの言葉に納得しないウフコックは更に語る。
「そして先日の戦闘だ。俺はボイルドとともに戦い、多くの命を奪った」
ウフコックは“使われた”という言葉を使わなかった。
ボイルドと共有するパートナーとしての誇り。
ウフコックを使って敵を殺害したという罪の意識が和らぐ。
「俺は殺害に加担したんだ。
そのことを受け入れるために俺は、俺がどんな有用性を持つのか明らかにしなければならない。
俺もいつか死ぬ。その時が来るまでに俺は見つけ出さなければならない。俺自身の有用性を」
ウフコックの軌道――明確な出発点から目指すべき到達点へと弧を描く――誰にも止められない。
それはボイルドの新たなキャリアの始まりであり、選択でもあった。
どちらもジ・エンドに至るリスクを承知してクリストファーの描く“渦巻き”に飛び込もうという意思を示す。
チャールズの溜め息。
「死を見つめ楽園を去るか……」
《門出を祝ってやろうぜ》
トゥイードルディムが陽気に口を挟む。
チャ-ルズ――仕方ないと言うように微笑み、去っていく。
ウフコックはテーブルを飛び降り、イルカの鼻先と少年の膝に触れる。
「さようなら、トゥイーたち。俺は行くよ」
《さようなら、ウフコック」。また遊びに来てね》
《もし見つかったら会わせてくれよ。お前を必要とする相手ってやつをさ》
「約束するよ、トゥイーたち。お前たちは大切な友人だ」
ボイルドはウフコックを手に乗せ、立ち上がる。
男とネズミは楽園を去った。
◆◆◆
襲撃から二日目の朝。
食堂で軽食を受け取り、ロビーへ。
荷物は殆どない。ハザウェイのTシャツやジョーイのラジカセ、ラナのブーツといったものは何もなかった。
食事しながら待つ。誰がクリストファーの選択を選んだのか。
じきにジョーイとハザウェイ。続くようにラナがやって来た。
レイニーとワイズ。クルツと姿の現したオセロット。
介護棟からやって来る二人――イースター博士とウィリアム・ウィスパー。
「ウィスパーの識閾テストをしたんだ。彼もクリストファー教授のプランに賛成した、僕も」
聞かれもしないのに話し出す“お喋り”イースターの肥満体――ヘリウムガスが溜まったような腹。
イースターの押す車椅子の上で虚空を見つめるウィスパー。
脳に損傷を負ったかつてのオードリーの同僚。
脳に埋め込まれたハード/頭皮を覆う金属繊維/直感でコンピューターの操作する“電子世界のシャーマン”。
その結果として、ウィスパーは他者を理解しなくなった。データが精神――ささやきとなったイースターの“体の悪い弟”。
最後に管理棟のドアから姿を現すクリストファー。
「ふむふむ」
くるくると円を指先で描きながら、一人一人を指差す。
「ディムズデイル・ボイルド。
ウフコック・ペンティーノ。
ラナ・ヴィンセント。
ジョーイ・クラム。
ハザウェイ・レコード。
レイニー・サンドマン。
ワイズ・キナード。
クルツ・エーヴィス。
オセロット。
ドクター・イースター。
ウィリアム・ウィスパー。
悪運と実力に満ちた九人と二匹のスペシャリストたちよ、よくぞ私のプランに賛同してくれた。心から感謝と歓迎の意を示そう。
さあ、こちらへ来たまえ。いざ扉は開かれん」
茶番を好むクリストファー――その指にいつの間にか挟まれているカードキー/軽快な歩み/ロビーの扉脇を滑るように通過するカード。
ロックが次々に解除され、ゆっくりと扉が開いていく。
ロータリーには初めて目にする管理局を制服を着た幾人かの男たち。
「いざ“楽園”を出て荒野を渡ろう」
そして“楽園”を出た十人と二匹は新たな戦場へと向かった。
最終更新:2009年01月25日 22:14