爆発の直撃を受けたジョセフは朦朧とする頭を揺り起こす。攻撃が来ない。では奴は死んだのか?
周囲を見回すと、それはいた。倒れているデモニアックは自分同様意識を失っているのか、動く様子はない。
止めを刺さなければ。この機を逃せば勝ち目は薄い。XATの到着までも、そして倒されるまでにも大勢の人間が死ぬ。
身体を起こすと、全身が軋む。腕を動かす度に激痛が走る。それでも、剣を支えにして立ち上がる。
一歩を踏み出した瞬間、突如デモニアックが跳ね起きた。そしてジョセフに背を向けて走りだす。その先には、爆発によって空いた穴。
流石に状況の不利を悟り、逃げるつもりだ。現状では向かってこられるよりも性質が悪い。
ジョセフも痛みを堪えて追う。敵も相当のダメージを負っているのか、走るスピードは随分と遅いが、それでもジョセフよりは速かった。
「エレア!!」
ジョセフは声を張り上げる。ある種祈りを込め、この声が届く範囲にいてくれることを願いながら。
それに呼応して遠くエンジンの唸りが轟いた。
しかしまだ足りない。デモニアックは既に壁の穴から外に飛び立たんとしていた。
その時、ガルムのエンジン音とは別に、独特の風切り音。
それはセッテのブーメランブレード。いつの間に目を覚ましていたのか、ともかくジョセフの先へ回りこみながら、ブーメランはデモニアックを猛追する。
そしてデモニアックが空へと跳んだ瞬間、ブーメランはその両足を刈り取った。
これまで何度となく防がれた攻撃。それは敵が逃げに転じた時、初めて功を奏した。
デモニアックは空に放り出され、もがく様に姿勢を崩す。
ジョセフは足を止めない。飛行ができるなら、あの状態からでも飛ぶかもしれない。
ガルムの咆哮が近づく。一瞥したそれは戦闘形態でない、通常のバイク。ガルムはジョセフと同化することで、初めて戦闘形態を解放できるからだ。
融合している暇はない、その間に態勢を立て直される。
方法は幾つもない。いや、一つしかない。
「エレア! 俺を飛ばせ!!」
意図を汲み取ったのか、ジョセフの背後でガルムが加速。そしてデモニアックを追ってジョセフも跳ぶ。
計ったように正確なタイミングで、足裏にガルムが衝突。ジョセフを高々と空へと打ち上げた。
ガルムを蹴って跳躍し、剣を持った右手を振り被るジョセフ。その段になって初めて気付くことがある。
(距離が足りない……!)
セッテが敵を減速させ、体勢を崩した。
ガルムがジョセフを加速させ、距離を縮めた。
それでも後わずか、ジョセフの剣は届かなかった。
当然、足場もない空中で移動する術などない。翼も魔力もないこの身では。
このままではデモニアックの逃走を許すばかりか、墜落する最中を光線で狙い撃ち。
この高さで受け身も取れず叩きつけられればどうなるか。たとえブラスレイターであっても死は免れない。
ほんのわずかの距離が果てしなく遠い。
自分はここで墜ちて死ぬというのか。彼――マドワルド・ザーギンにも届かぬまま。
あの男、ザーギンはブラスレイターを優れた者、選ばれし者と呼ぶ。しかし、そんなものはまやかしだ。
ブラスレイターとデモニアックに然して違いなどない。共に人の輪から外れ、神に拒まれた者。
信じている。ブラスレイターとデモニアックを隔てる距離、それは単なる位階などでは決してない、と。
違いがあるとするならば、それは意思。
思考でも本能でもなく、悪魔に身を堕としても祈りを捧げる心。
もしもその意思が残っていたならば、デモニアックとて埋まらない距離を埋めようとするだろう。それがブラスレイターとの距離であれ、人間との距離であれ。
そして、それを可能にするものが意志。
どれほど過酷な世界であっても、生きる価値を見出すもの。旅を止めぬ理由。
魂が研ぎ澄まされる。
衝動が強く身体を突き動かす。死ぬわけにはいかないと叫んでいる。
断じて死を受け入れることはできない。
この身に成さねばならない遺志がある限り。
故に埋めてみせる。この距離も、ザーギンまでの距離も。
力をみなぎらせ、ジョセフは身体を反らせる。右手に剣を握り締め、全身を限界までしならせた。
「おおおおおお!!」
雄たけびを上げ、極限まで溜めた力を解き放つ。
渾身の力で振り被った剣を振り抜く。
ジョセフの身体が縦に回る。ヨーヨーのように小さく、正確に回転することのみに意識を集中させる。
一度は空振り。しかしデモニアックが振り向くより僅かに速く、回転を重ねた二太刀目。
蒼白い光の刃はデモニアックの身体を肩から脇へ一閃。強靭な肉体を袈裟切りに両断した。
距離は埋まった。埋めたのはブラスレイターの能力ではなく、紛れもなくジョセフ自身の意志によるものだった。
※
誰もいない地上で一人、ディードは佇んでいた。見上げるビルでは激しい戦闘が続いている。
指をくわえて見ているしかない自分が悔しかった。だからといって、どうすればいいのかもわからない。
どちらが勝っても辛いことにしかならないのならば、いっそここで目を背けていたい。 やがて一際大きな爆発の数秒後、上空に影が飛び出し、それを追ってもう一つの影が。
それは漆黒の影。前者よりも明らかに濃い影は単に逆光によるものではなく。
戦闘機人の優れた視力は、起きたことの全てを脳に焼きつける。たとえそれが望まない事実であっても。
追いついた黒い影は一方の影を切り裂き、二つに分かたれた影は動きを止め、落下。同様に落下する漆黒の影には楕円形の物体が高速で接近し、急激に落下速度を緩めた。
「オットー!!」
高速で路面に叩きつけられたのは、かつてオットーだったもの。ディードはその傍らに駆け寄り、改めてその姿を確認した。
転がっているのは、右手と顔だけを残した無残な怪物。断面は組織の崩壊が始まり、塵に変わっていく。
オットーは息も絶え絶えに、何かを求めて手を伸ばす。
あれだけ猛威を振るったデモニアックが、それでもディードには酷く哀れに思えた。
「オットー……オットー……!」
掛けたい言葉は山ほどあるのに、言葉が出てこない。出てくるのは涙ばかり。
代わりに、伸ばした手をきつく両手で握るが、その手すら、自分の手の中で崩れていく。崩壊を止めようと力を込めても、弱弱しく反応を返すだけ。
「あ……ああ……」
オットーが、彼女の存在が指の隙間から零れていく。
零れた塵が風に流され消えていく。
痕跡一つ残さず、己が半身が消え去ってしまう。
共に生まれ、短い間とはいえ共に生きてきたオットーが死ぬ。たったそれだけの事実で、身体の半分が引き裂かれるような痛みが走る。
この気持ちを例える言葉は何だろう。こんなに強い感情が自分の中にあるとは思わなかった。
手の中の感触が消え、塵となって崩れ落ちた時、ディードは深くその感情を理解した。
それは理解した瞬間に爆発した。
その感情の名は悲しみ。
「オットー!! 行かないで、オットー!!」
既に首だけしか残っていないオットーを抱き締めるディード。頬を伝う大粒の涙が、血液すら涸れた皮膚をわずかに潤す。それでも崩壊は止まるはずもなく。
何か言ってほしい。できるならもう一度、目を見て名前を呼んでほしい。でも、それは無理だと心のどこかで理解している。
ディードは自分の身体で包みこむようにオットーを抱えた。
「ごめんなさい、オットー……私何もできなくて……!」
これが目を背けてきた代償。だとすれば、どうすればオットーを救えたというのか。
両手は自然と額の前で組まれ、地面に這いつくばる姿はまるで懺悔するかのよう。
せめて彼女の全てが消えてしまわないように。
冷たい風に流されてしまわないように。
彼女の存在した証を守ろうと、ディードは震えながらオットーの名前を呼び続ける。しかし、祈りが届くことはなかった。
「ディード……」
やがて胸に当たっていた感触が完全に消える。
その直前、オットーの声が聞こえた気がした。
真実はわからない。声はたちまち風に流れて消えてしまった。
ディードは、ただオットーの残滓にすがって嗚咽する。
そして丸めた身体を更に丸め、ほんの少しでも逃すまいと必死に塵を掻き集めた。
彼女の為に自分ができることは、もうそれしかないから。
それだけが唯一遺されたオットーの欠片だったから。
オットーより遥かに遅れて、ディードの前に降り立ったのは、ウェンディに手を掴まれた黒のデモニアック。
二人は塵を集めるディードを見ても何も言わない。ディードも、身体を丸めたまま動かない。
動けばオットーが風に流されてしまう。濡れた頬を冷やす風に、これ以上オットーを曝したくなかった。
歩み寄るウェンディは泣き出しそうな表情、デモニアックはもとより表情など読めなかった。
「ウェンディ……」
「ディード……」
「何か……オットーを入れるものを……」
淡々とディードは言う。その声にはまったく感情が籠っておらず、自分でもそのことに驚きもしない。どうやらすべてが抜け落ちてしまったようだ。
ウェンディは無言で離れると、しばらくして戻ってきた。
「ディード……これ……」
ウェンディが差し出したのは、小さな金属製の菓子箱。そこらに散乱した物から適当なものを見繕ったのだろう。
キラキラと安っぽい外装は、光の反射で見る角度によって色が変わった。
ウェンディも手伝って、無言で塵を掬い取っては缶に流し込む。座り込んだ二人はどちらからともなく、順番にそれを繰り返す。
黒のデモニアックの立ち会いの下、二人だけのオットーの葬儀は粛々と行われた。
塵を集めながら、ディードは思った。何故自分はこんなことをしているのだろう。
戦闘機人として生を受けた自分、ドクターの為に死ぬならそれでいいと思ってきた。でもこれは違う。こんな終わりは間違っている。こんな死は誰の為にもならない。
こうしたのは誰だ?
そもそも何が間違っていた?
分からない。確かなことは、この気持ちを、奪われる悲しみの報いを、誰かに受けさせなければならないことだけ。
すべてが抜け落ちた空虚な胸に小さな炎が灯る。それもまた、これまで感じたことのない感情だった。
やり場のないこの感情を、どこかに吐き出さなければ気が狂ってしまいそうだった。
あの悪魔に、オットーを殺した悪魔に叩きつけてやらねばならない。
この憎しみを。
初めて生まれた感情を育てながら、ディードは表面上は淡々とオットーを集める。震える手の理由は、もう悲しみだけではなかった。
最後、塵とも砂埃ともつかない一つまみを入れて、ディードは缶に蓋をする。気づけば、隣にトーレとセインが立っていた。
顔を伏せたディードは幽鬼のように立ち上がる。虚ろな瞳は何も映さず、その手に握るのはオットーの入った缶ではなく、双剣ツインブレイズ。
自分はまだ、もう一つの弔いをしなくてはならない。
湧き上がる殺意は極力抑えたつもりだった。直前まで気取られず、確実に仕留める為に。
だらりと垂らした腕を跳ね上げ、地面を蹴ろうとした瞬間、背後から羽交い締めにされた。
「駄目ッス、ディード!!」
捕らえたのはウェンディ。
何故邪魔をするのか、彼女なら分かってくれると思ったのに。共にオットーを弔った彼女なら。
「放せ!!」
「こいつを殺っても何にもならないッス! それにあたし達じゃ勝てない!」
何度も何度も、肘をウェンディの腹部に叩きこむ。苦しげな呻きが聞こえたが構うものか。それでも掴む力は強まりこそすれ、弱まることはなかった。
デモニアックは微動だにせず、トーレがセインを振り解いてディードの前に立った。
立ち塞がるトーレの左手が動いたかと思うと。
パァンと乾いた音が響いた。数秒遅れて頬の痺れが伝わり、殴られたのだと気付く。
「子供の駄々に付き合っている暇はない。大人しくしていろ」
トーレは冷たい声で言い捨てると、デモニアックの方に向き直った。
「ドクターがお前と話したいそうだ」
それきりトーレはディードを一瞥もせず、会話を始める。完全な部外者扱いだ。
ディードは抵抗の意思を挫かれ、その場に立ち尽くす。オットーの仇討ちなど意味の無い些事だと姉に言われたことが、どんな説得や説教よりも気力を奪った。
張られた頬がじわりと痛い。涸れたと思った涙が再び溢れ出す。
ディードは崩れ落ち、顔を覆うと、声を殺して泣いた。オットーの死を嘆いているのは自分だけなのかもしれないとさえ思った。
自分がどれだけ叫ぼうと、この場ではさざ波のようなもの。邪魔にならないよう、独りで泣くしかない。それが酷く惨めで、堪らなく悔しい。
そっと肩に手が乗せられる。ディードが振り向くとそこには、同様に歯を食い縛り、顔をくしゃくしゃにして泣くウェンディの顔があった。
※
空中に浮かんだモニターに男の顔が映った。ジョセフにとっては初めて見る技術だった。
「初めまして、私はジェイル・スカリエッティ。彼女らの製作者、管理責任者、まあ父親だと思ってくれればいい」
胡散臭い男、それがスカリエッティの第一印象だった。顔に妙に薄っぺらい笑みを浮かべた白衣の男は、ジョセフの姿を見ても眉一つ動かさない。
「この度は、私の娘が大変な迷惑を掛けた。彼女はオットーと言って、君に斬りかかったディードとは双子だったんだよ。
いつも一緒で、とても仲が良くてね。残念なことだ……分かってやってほしい」
人間の姿だったなら、表情の変化を隠しきれなかった。斬ったデモニアックの身の上を聞いても無表情でいられるほど、ジョセフは割り切れてはいない。
この男はおそらくそれを知っていて、揺さぶりをかけている。なんのつもりかは分からないが。
「と……余計なことを言ったかな? 君には関わりのない話だった。それでどうだろう。
詫びと言ってはなんだが、君を私のラボに招待したい。色々と話を聞かせてほしい、君さえ良ければ」
「断る……」
ジョセフが答えに迷うことはなかった。この男は信用できない。
ディード、彼女にとっても、自分が招待されるなど望まないだろう。
返答に対し、スカリエッティはジョセフの予想外にあっさりと引き下がった。
「そうか、残念だが仕方ない。こちらも来客中ではあるし。しかし、せめて名前くらいは聞いてもいいだろう?オットーの父親として」
「ジョセフ……ジョブスン……」
「ありがとう。それではまたいつか会おう、ジョセフ。君達もご苦労だった。ただちに帰還してくれ」
通信が切れると、周りには新たに五人、見たことのない少女も二人いる。九人の戦闘機人は一様にジョセフを取り囲んでおり、いくつかの視線には明らかな敵意が込められていた。
「ドクターのご命令だ。戻るぞ」
トーレが言うと、他の少女達もそれに倣う。
彼女、トーレは他の姉妹に分からないよう、小さくジョセフに一礼して去った。
しかし何人かはまだ残ってジョセフを睨んでいる。当然、ディードもその一人。
ジョセフは少し逡巡した後、目の前で変身を解き、人間の素顔を見せた。
全員が目を見張る。ディードも同じく目を見開いていたが、すぐにその目は眇められ、
「ジョセフ・ジョブスン……その名前と顔、忘れない。絶対に……!」
そう言い残して飛び立った。重々しく掠れた、それでいて力強い声だった。
その瞳は例えるなら氷を内包した炎。激しいだけの怒りとは違う、静かで冷たい憎しみを孕んだ炎。
ディードが去ると、二人の赤毛の少女もそれに続いた。
「ジョセフ、どうして名前なんて名乗ったの。なんで素顔を晒したのよ」
「見ていたのか」
隣に停まったガルムからエレアが問いかける。露骨に不機嫌そうなエレアにも、
ジョセフは憮然として答えることはしなかった。
「あれでせめてもの償いのつもり? あの男の顔が娘の死を悼んでいる顔に見えたとでも?」
「別にあの男に対してじゃないさ」
「じゃあ、あの娘かしら? ジョセフ……あなたは間違ってないと思うけれど」
償う術などない。詫びるつもりもない。まだ死んでやることもできない。ならば仇の顔と名前くらいは知っていてもいいだろう。
間違っていないとエレアは言う。だが、あの目を見て、どうして自分が正しいなどと言えようか。
ようやく遠くからサイレンが近づいてきた。いつだって救いの手は来るのが遅過ぎる。だからといって、自分がそうであるとは口が裂けても言えない。
陽光に照らし出されるのは、横たわった死体と破壊された街。一台のバイクが遠く離れていく。それが去った後には、もう動くものは見当たらなかった。
XATの到着までに終わったことは、果たして良かったのか、悪かったのか。たぶん良かったのだと思う。
彼女達が去った方角を見つめるジョセフの目は、深い哀しみを湛えていた。
「……本当は泣きたい気分なんじゃなくって?」
「行くぞ」
エレアの言葉を冗談と受け取ったジョセフはガルムに跨る。襟首から自動で装着されるヘルメット。
それですべての音と感情を遮断してジョセフは前を向く。
そんなジョセフにエレアは呟いた。どこまでも不器用だと呆れながら。
「まったく……美しくないわ」
※
「恨みというのはいつ買うかわからん。たとえ正しい行いをしたとしてもだ」
時計は13時ちょうど。訪ねてきたシグナムの第一声はそれだった。
ドアに背中を預けた彼女は、言葉を尽くすというのは性に合わんと言いつつ、普段よりよほど饒舌だった。
「私達は自分の仕事の為、市民の安全を守る為に融合体を屠ってきた。だが、元を辿れば融合体も同じ人間。
殺せばそれを悼み、我々を恨む者もいる。それでも私は剣を収める気はない」
もしもティアナが、融合体になった姉や父が殺されたなら、自分はそれでも冷静でいられるだろうか。まったく恨まずにいられると断言はできない。
「融合体に関しては今も対策の研究がなされている。感染者を治療する方法は無いか、本当に殺すより他に手段がないのか、と。
だが、今危機に瀕している人間に、それを待てとはいえないだろう。ならば斬らねばならない」
「……だからティアも同じだってことですか?」
「お前にそう思えと言ったところで、できるものでもあるまい。ティアナも融合体も市民も命の重みは同じ、と言ったところで納得はできん」
しかし、と加えてシグナムは目を覗かせる。
今朝方見たなのはの目と同じ、確かな決意を秘めた視線は自分にはないもの。
「だからといって、綺麗事を否定して開き直った瞬間に我々の戦いは私闘になり、立ち行かなくなる。私もお前も、そういったジレンマ、一言でいえば業を背負っているということだ」
「業……」
「そこを考えず、二人を救いたいとのたまったところで耳を貸す者はいない。それだけは覚えておけ」
最後に、喋り過ぎた、とだけ言ってシグナムは歩き去った。
立ち尽くしたスバルはシグナムの言葉を反芻する。
シグナムの言うことは至極尤も、それでもスバルには割り切れるものではなかった。
融合体も元は人間であり、家族もいれば友人もいる。そもそもが死体でも、最近はそうとも言い切れない。生者がなる可能性も十分にあるのだ。
融合体の気持ち、周囲の感情。これまでは、なるべく考えないようにしてきた。その立場に立ってしまえば戦えないかもしれないから。
もっと考えておけばよかった。きっとシグナムもなのはも、自分なりの答えを出していたのだろう。
立ってみて初めて分かる。
これは――辛い。
スバルはベッドに寝転んでいた。何をするでもなく、何をしていいかも分からず。
眠る気にもなれず転がっていた時、ドアが小さくノックされた。
「スバルさん、キャロです。今いいですか?」
「うん、いいよ……」
覗き窓を見ても、姿はない。背が足りないのだろう。故にキャロの表情を窺い知ることはできなかった。
「あの……さっきエリオ君のお見舞いに行ってきました。2,3日は入院ですけど、すぐに退院できるそうです」
「そっか。良かった……じゃなくて、早く回復するといいね」
「はい。それで、あの……ティアナさんのこと、話を聞いてきたんです」
「ティアの……?」
「あの日とその前日に何があったのか、何か変わったことがなかったかを、看護師さん達に。……聞いてくれますか?」
自然と身を正すスバル。ティアナの身に起こった出来事、彼女の本心。それを知る為にはどんな小さなことも聞き逃す訳にはいかない。
深呼吸をし、緊張する胸に手を当てて答えた。
「うん、お願い」
「ティアナさん、スバルさんが来るまでは普通だったそうです。それが、夕食の頃から様子が変ったって言ってました。塞ぎこんで、何も話そうとしなかったと……」
「でも、あたしが言った時は普通だった。ううん、むしろ機嫌良さそうだった」
入院して以来、あれほど上機嫌なティアナを見たことはなかった。ただ一つ変わったことと言えば、クロスミラージュを持ってくるよう頼まれたことくらい。
あの瞬間だけは、どこか寂しそうに見えたのを覚えている。
「なんでもいいから教えて下さいって言ったら、スバルさんが帰った後、病室の前で世間話をしたらしいんです。スバルさんや私達がいつも傷を作って大変そうだって」
「え……」
「私達、ティアナさんの前では疲れてても、怪我してても元気そうに演技してましたよね。心配させないようにって。それがティアナさん、ショックだったのかも……」
それはスバルがティアナの前で重ねた嘘。だが、この瞬間キャロに指摘されるまで、それが問題だとは考えてもみなかった。
司令塔だったティアナが抜けてからというもの、出動、訓練共に三人は動きに精彩を欠き、大きなものではないが、ストレスや疲労は蓄積され始めていた。
それをティアナに気取られないよう、最初に取り繕うことを始めたのはスバル。エリオやキャロもそれに倣い、いつしか全員が嘘を吐く形になってしまった。
共通していたのは、心配を掛けたくないという思い。なのに、今になって急速に罪悪感が顔を覗かせる。
「でも、そんな些細なことで……」
「些細なことですけど、でも……私はちょっと分かる気がします。自分がちゃんと役に立ってるのか、ちょっと前まで不安になってたことがありました。
私は後衛で、傷つくのはいつもエリオ君やスバルさんばかりで……」
キャロの存在は必要不可欠であるが、その成果は目に見える形では分かり辛い。スバルもキャロが思い悩んでいたことは知っていた。その時は気付いてやれたのに。
「ティアナさんは、ああなっても役に立ちたかった。実感が欲しかったんじゃないでしょうか。自分には心配くらいしかできることがないから……私の勝手な憶測ですけど」
もうしそうだとしたら、スバルのしてきたことはすべて裏目だったことになる。
毎日、不必要なまでに順調さをアピールしていた。
心配するティアナの言葉をいつも流してきた。
ティアナの気持ちも考えずに、何十回と笑顔で疎外感を与えてきた。
それが彼女の為だと信じて。
相槌が返ってこないことで不安に思ったのか、キャロが慌てた声で言った。
「でも、これが正しいとは限りません。融合体になった理由は全然分かってませんし……。私にはティアナさんがそこまでショックを受けるとは……」
「キャロ……なのはさんに何か言われた……?」
キャロを遮って、唐突にスバルは話題を変えた。もうこれ以上、このことで会話を続けたくなかった。
キャロの前で自らの罪が暴かれるのが恐ろしい。そして、それを恐ろしいと感じることが情けなかったから。
「え、はい……明後日にはXATにティアナさんとヴァイス陸曹の手配が回る。その手で二人を殺すことになったらどうするかって……」
やはりなのはは、キャロにも同様の課題を出していた。エリオは入院しているからどうか分からないが。
本当は聞くべきではなかった。相談する内容ではないし、聞けばなのはに提示されたルールを破ることになる。
それでも、スバルは訊ねずにいられなかった。もしもキャロがティアナを救いたいと言ってくれれば。ほんの少しでも光明があるならば、自分も立ち上がれるかもしれないと。
「キャロは……どうするの?」
「正直分かりません……明日もう一度病院に行って、他に何か聞けるか試してみるつもりです」
「そっか……。ごめん、少し一人で考えさせて……」
互いの顔が見えなくて良かった。心底、スバルはそう思っていた。
平静を装っても、声の震えは隠せない。それは落胆と恥ずかしさによるもの。
キャロは手がかりを掴みかけている。少なくとも、手段すら分からない、分かってもままならない自分とは違う。
顔は見えずとも、スバルの様子を感じ取ったのだろう。キャロは、失礼しますとだけ言うと、静かに帰って行った。
なのはから突きつけられた選択。ティアナの真実。
思考の迷路に迷い込んだスバルに道を示してくれる者はいなかった。
「分からない……」
スバルは一人呟く。何が分からないのかも分からないほど、すべてが分からない。
スバルは再びベッドに寝転がっていた。仕方がない、それしかすることがないのだから。
目を閉じて、自分の世界に入る。ネズミ色の天井と儚い明りは見つめていると不安を煽られるからだ。
狭い独房では、自分の声も想いも全部跳ね返ってくるような錯覚に陥る。唯一外と繋がる覗き窓も、人が立たなければ無いのと同じ。
『彼女の気持ちが分からないのは、彼女の気持ちを理解しようとしていなかったから』
どこからともなく、不意に声がした。それは心の声、誰かに責められたいという自己満足が生んだ幻影だった。瞼の裏に浮かぶ声の主は、スバルと同じ顔をした分身。
「あたしはティアを一人にしたくなかった。傍にいて、笑っててほしかった」
『その為に吐いた嘘が彼女の孤独を助長した』
「本当は分かっていた。たぶん、キャロの言うことが正しいんだって」
『彼女は全てを失ったものと受け入れ、緩やかに、穏やかに諦める道を選びかけていた。それは薄々感付いていたはずなのに』
「裏切られたって思ったんだ、きっと」
『プライドの高いティアなら、そう思ってしまう自分が悔しいと思う……』
「つまりそれは……」
『全部あたしのせい……』
言葉を紡ぐごとに罪が浮き彫りになっていく。
最後の台詞は自分のものか、幻影の物だったか。スバルにも判断が付かなかった。
「あたしは、どうすればよかったんだろう……」
幻影は何も語らない。
それは欺瞞と偽善で凝り固まった自らの鏡像。スバルの答えられない問いに、答えられるはずがなかった。
『あの日、病院でも間違いはあった。彼女のことを顧みることもなく、見ていたのは自分ばかり』
「そんなことない……あたしはただ、ティアに謝りたかっただけ……」
『それが間違い。病院では己の贖罪を優先し、その結果彼女は罪を犯した。雨の中を探しても、事実に目を背け、求めていたのは都合のいい真実』
「……本当にティアを思うなら、首を絞める手を振り解いてでも、ティアの傍にいればよかった。どんな手を使っても、融合体になったティアを探すべきだった」
一つ一つ、答え合わせは続き、幻影はここぞとばかりに饒舌にスバルを責め立てる。
終わらない自己採点。それは、ある意味では自傷行為に等しい。最初から結果は落第だと分かっていても、せめて自身を痛めつけなければ、罪の意識に耐えられそうになかった。
朝のなのはとの会話を思い出す。
『他の融合体は殺しておきながら、仲間だったら助けたい。それは残酷じゃないの!?』
それに対して自分の反応はどうだったか。
『それはおかしいですか!? あたしは今もティアを仲間だと思ってます! たとえなのはさんにとって、ティアがもう融合体でしかなかったとしても!!』
感情に任せて酷いことを言ってしまった。なのはを怒らせてまで啖呵を切っておいて、何一つティアナを理解していなかったのは、仲間と思っていなかったのは自分の方。
それどころか、傷ついた彼女を一番追い込んだ。
いつもティアナに鈍感だの馬鹿だのと言われていたが、まったくその通り。救いようのない大馬鹿だ。
何としてでもティアナを救いたい。キャロが来るまでは、スバルも薄々ながらそう考えていた。もしそれが、管理局に背くような行為であっても辞さないつもりで。
今、その考えは大きく揺らいでいた。
ティアナから視力を奪い、夢を奪い、誇りと僅かな拠り所すら奪った。
無自覚の罪。これほど性質が悪いものはない。
おまけにそれが彼女の為だと思っていたのだから笑わせる。
こんなことでティアナを救えるはずがない。そんな資格があるとは到底思えなかった。
「ティア……あたし、もう……どうすればいいのか分かんないよ……」
声に乗せて放った迷いは、厚い壁に阻まれて宙を漂う。
行き場を失った想いの残骸が閉ざされた室内を埋め尽くす。
自分自身に押し潰されたスバルは、逃げるようにベッドの上で背中を丸めた。
現在時刻17時40分。
スバル解放まで残り、約16時間20分。
予告
虚ろな瞳が映すのは、温かかった昨日と灰色の壁。救いを求める子羊は、己の形すら見えていない。
第4話
慰めの対価
使命と願望の狭間から生まれ出でた物は、果てなき試練への片道切符。
最終更新:2009年11月27日 15:05