そうこうしている内に、田原が戻ってきた。彼の後ろでは、少女が無理やり手を引かれて嫌そうに身じろぎしている。
「待たせたな……」
「えらい早かったですね」
なにせ、あれからまだ十分と経っていない。事が事だけに、数十分は覚悟していた。
「娘さんですか? 八神はやて言います。教授にはお世話になってます」
「ああ、娘の舞だ……さあ、乗りなさい」
舞は特に何の変哲もない、黒髪で大きな瞳の少女。美人の部類に入るだろう。
もっと不良然とした少女を想像をしていただけに、はやてにはとても放火を起こすような娘には見えなかった。
「よろしく、田原……舞ちゃん?」
「柏木! 舞です」
苗字を強調すると、舞は運転席の後ろに乗り込んだ。田原も溜息を吐いて隣に続く。
「それじゃあよろしく頼む。最寄りの駅まででいい」
シグナムはナビで場所を確認すると車を発進させた。ここからなら、車で十分も掛からない。
はやては胸を撫で下ろした。この窮屈な空気が短時間で終わってくれるからだ。
移動中も田原親子は会話もなく、険悪な空気をこれでもかと放っている。
何故苗字が違うのかなどと、とても聞ける雰囲気ではない。
「いつからだ。今日が初めてじゃないだろう」
「だから何度も言ってるでしょ! あたしが気づいたら目の前で燃えてたって! 火なんか絶対に点けてないんだから!!」
「それはわかってる!! いつからだ? 意識なく行動するようになったのは」
はやてからすれば意味がわからない会話だったが、舞が嘘を吐いているようには見えなかった。
当の舞はもっとわからないらしく、一時戸惑っていたが、すぐに目つきは鋭いものに変わる。
「……珍しいですね、あなたがあたしの心配するなんて。……雪でも降りそう」
「以前にも同じことがあったのか?」
「……何か変なものでも食べたんですか?」
敬語は使っていても、そこに敬意は微塵も感じられない。他人同然か、それ以上に警戒しているのがありありと見て取れた。
これでわかった、舞は田原を父親として見ていないのだ。
「話を聞きなさい!!」
「っ……触んないでよ!!」
握り続けていた右腕を揺さぶる田原を、舞は力ずくで振り解く。その時覗いた舞の右手首には、白い包帯が巻かれていた。
「落ち着いて下さい! 舞ちゃんも!」
はやてが仲裁して、どうにか二人は落ち着いたらしい。と言っても、騒いでいたのはほぼ一方的に田原だったが。
互いにそっぽを向いて黙り込む舞と田原。それでも、窓を開けて外を眺める姿勢が同じなのはやはり親子である。
二人を乗せたことを、はやてはほんの少しだけ後悔し始めていた。
数分で終わるはずだった気まずい相乗りは渋滞に巻き込まれて、まだ暫く続きそうだった。
申し訳なくてシグナムの顔も少々見辛かったので、二人と同じく窓を開けて頬杖を突く。すると、
「あれー、舞!?」
「運転手付き? セレブじゃ~ん!」
舞と同じ制服の少女が二人、こちらに向けて手を振っている。一人はポニーテール、もう一人は眼鏡の少女。
舞ははやてが制止する間もなく、渋滞で一時停止していた車から飛び出すと、
車と車の間を縫って少女達に駆け寄った。
「いいの?」「全然平気」などと談笑しながら、共に歩き去っていく。
「いいんですか……?」
はやてが後部座席の田原を振り返ると、田原は渋い顔で一言、
「構わん……」
と言うと、腕を組んでまた黙ってしまう。
一人減っても雰囲気は変わらず、はやてはその後十五分あまりを無言で過ごした。
田原を駅で降ろしたはやては、ようやく肩の荷が下りた気分だった。
緊張が解れてシグナムと雑談に興じていたが、ふと大事な用件を思い出す。
「あ、シグナム。悪いんやけど、翠屋で降ろしてくれるか?」
「はやて、それなら今日は夕食は……」
「うん、多分食べてくると思う。私だけごめんな、ヴィータには言うてあるから」
「私も行きたいのはやまやまですが……」
「シャマルが今日は遅くなるもんな。ヴィータとザフィーラだけにするんも寂しがるやろうし、
シャマルが帰った時、誰もおらへんかったら可哀想やし……」
少々申し訳なく思っていた。二人は働き、ヴィータは家事をこなし、
ザフィーラも獣の姿で家を守ってくれている。そんな中で、はやてだけが旧交を温めに行くのだから。
それからは他愛のない会話が続く。大学、シグナムの仕事、休日に出かける相談――ヴィータの今後についても話した。
大人の二人とは違い、ヴィータは子供の姿である。学校に行く選択肢もあったが、相談した結果止めておいた。
過去に管理局に用意してもらった戸籍では、彼女は来月には十八である。色々と面倒もあるだろうし、
流石にあの容姿で高校生は無理がある。
となれば見た目を年相応に変えるしかないが、彼女ら魔法生命体は何か不測の事態が起こった時、
この世界では対処の仕様がない。この世界ではデバイスの整備がせいぜいなのだ。
基本的に不必要でもあった為、なるべく影響を起こさないよう、魔法の使用は控えるようになっていた。
杞憂かもしれないが、命に直結するとなれば用心に越したことはない。
加えて、学校に行くのをヴィータが渋ったというのもある。最近は遊んでいた老人達と会う回数も少なくなっていた。
魔法の件もあるので、"発育不良の十七歳"で押し通しているらしいが、露骨に怪しまれているらしい。
それに、十年もあれば目に見えて数も減っていく。それが辛くなってきたのだとか。
暇を持て余したヴィータは、率先して家事をこなすようになった。一端の主婦としてはまだまだ修行中ではあるが、
熱心にやってくれている。が、やはり知り合いがなのは達しかいなくなるのは可哀想だ。
何かそのままの姿のヴィータにできる仕事があれば一番いいのだが。拘らず、詮索せず、
幼女が十八歳だと名乗っても怪しまず雇ってくれる、そんな職場が。
しかし、そんなファンタジーな設定を受け入れてくれる職場は、相当怪しい仕事くらいだろう。
(別にきっちりした会社とかじゃなくてもええんやけどなぁ。危険やないならどこでも……)
最大の問題はあの容姿である。あれで十八歳と言って信じてくれる人間は現実にはいないだろう。
それで通るのはフィクションの世界だけだ。
ファンタジー、フィクション――漫画、アニメ、ゲーム、小説等々。
以前すずかの家に遊びに行った際に読んだ本が頭に浮かぶ。
『薔薇のなんとか』いうアニメ原作のサーカス漫画だったと思うが、
その作品では十代前半にしか見えない少年が二十歳と書かれていた。
そういえばベッドの下にあったゲームもそう、確か彼女が中座した時に漁ったものだ。
児童とも呼べる容姿の美少年が裸で絡み合っているパッケージだったが、なんと全員十八歳以上らしい。
意外な抜け道があるものだと思い、そっと元の位置にしまっておいた。
そこではやては唐突に閃いた。意外なところに発見はあるものだ。
それはまさしく意外な抜け道であり、閃いた瞬間はある意味目の覚める思いだった。
(そうや! マンガやアニメ、ゲームなんかにどっぷり嵌った人間が職場におったら或いは――!)
「…………ハッ」
拳を握って数秒、本当の意味で目が覚めたはやては、冷めた目で自嘲した。
馬鹿馬鹿しい。少し冷静に考えればそんな馬鹿げた職場があるはずないのだから。
なのはとフェイトの件、ヴィータの件、自分自身の件――はやての抱える悩みは多い。
それに比べて、田原と舞の確執などは自分が口出しすべきではない。わかっていても、何故か頭から離れなかった。
シグナムに手を振って別れたはやては、翠屋の扉の前で固まっていた。もうなのはもフェイトも来ている頃だろう。
談笑しているだろうか、はたまた気まずい雰囲気が流れているだろうか。
しかし立っていても仕方がない。まずは大きく深呼吸、はやては意を決して扉を開いた。
「こんにちはー……」
そっと覗き込んだつもりが、カランカランとベルが鳴り、カウンターにいた三人が振り向く。なのはとフェイト、そしてもう一人、
金髪を後ろで束ねた眼鏡の青年。はやてには、その青年が誰か一瞬わからなかった。
「……ユーノ君?」
「はやて、久し振りだね!」
ユーノは椅子から飛び上がりそうな勢いではやてに駆け寄り、右手を差し出した。はやても少し戸惑いがちに握手を交わす。
「はやては変わってないね」
「ユーノ君も……ごめん、一瞬誰かわからへんかった」
「ひどいなぁ」と言いつつも、ユーノは破顔している。
昔馴染みの気安い雰囲気がそこにはあった。特に最近はなのはやフェイトとギクシャクしていた為、喜びもひとしおである。
「だってユーノ君、三年前は眼鏡してへんかったし、髪も短かったし」
「うーん、仕事のし過ぎかな。髪はなかなか切りに行く暇がなくて」
「へぇ、大変なんやね」
立ったまま二、三言交わしていると、カウンターの士郎に席に促された。横では桃子が優しげに微笑んでいる。いつもの翠屋の光景。
なのは達はまだぎこちなさを感じさせるが、ユーノとの再会を喜んでいるのは同じらしい。一週間ぶりに笑顔を見せていた。
「李君、コーヒーお願い」
「はい、かしこまりました」
はやてが注文したのは、李舜生〔リ・シェンシュン〕。最近翠屋にアルバイトに入った留学生である。
日本語の発音や文法は、日本に来て間もないのに怖いくらい完璧。
人のいい純朴といった感じの好青年なので、今ではすっかり馴染んでいた。
「ユーノは今何処で働いてるの?」
「今年からは東京だよ。多分暫くはいられるんじゃないかな?」
「ほんと? じゃあ、これからはユーノ君と簡単に会えるね」
「できればそうしたいけど、なかなか時間が取れないかもしれないなぁ。なんせ今日まで休みが取れなかったくらいだし」
「やっぱり仕事が忙しいん? 確かゲート関係の施設としか聞いてへんけど……」
「お待たせしました」
李がはやてにコーヒーを差し出す。はやてが言い終えるのとほぼ同時だった。
それから李は、はやて達――厳密にはユーノの前でニコニコ笑いながら立っている。
「そういえばユーノ君……。ゲートとの関係……何かわかった……?」
次におずおずと話題を切り出したのは、なのはだった。不自然でないタイミングを計っていたのだろうが、
フェイトがピクリと反応したのを、はやては見逃さなかった。
ゲートとの関係――勿論、次元世界との隔絶の原因だろう。まさかこんなところで聞くとは、はやても想定していなかった。
チャンスはここしかないと判断したのか、それとも事情を知らない人間がいなくなるまで待てなかったのか。
ともかく、ユーノの答えは容易に予想できた。
「あー……ごめん、なのは。仕事についてはちょっと話せないんだ。守秘義務って言うか企業秘密って言うか……」
「あ……あはは、そうだよね。ごめんね、私ったら……今の忘れて?」
ユーノが困り顔で答えると、なのはは両手を胸の前でパタパタ振って誤魔化す。明らかに不自然な仕草は、落胆ぶりを隠せてはいない。
考えてみれば当然なのだが、それすら気付けなかった自分が余程恥ずかしかったのか、頬が僅かに赤らんでいた。
だが、これでこの話題は流れる。楽しくお喋りが続けられる。そう、はやては安心しかけた。がしかし、
「なのは、ユーノとは久し振りに会ったのに、いきなりそんなこと言うなんてちょっと酷いと思う。ユーノはなのはのスパイじゃないんだよ?」
フェイトの一言で場の空気が凍りついた。
「フェイトちゃん」
はやてが仲裁に入るが、フェイトは涼しい顔でジュースを啜っている。
「私がユーノ君をスパイだと思ってるって……フェイトちゃん、それどういうこと?」
なのはが立ち上がる。低く落とした声には静かな怒りが感じられ、それが逆に怖い。
ユーノには何が何だかわからなかったが、今にもなのはがデバイスを取り出しそうな雰囲気だけは感じていた。
「そのままの意味だけど」
フェイトが更になのはを煽り、それを見たはやては深く溜息を吐いた。
何故こうなるのだろう。ただでさえ今日は気分が悪いというのに。
付き合いきれなくなったはやては、早々に仲裁を放棄した。
「フェイトちゃ――」
「なのは」と、なのはが爆発する寸前でユーノは彼女の名前を呼んだ。
はやてが言わないなら、もう自分が言うしかないと思った。そもそも二人が険悪になっている理由はわからない。
だが、なのはの管理局と魔導師という立場に対する固執だけは、先の一言でわかった。未だ根強く残っているどころか、むしろ以前より強くなってさえいる。
フェイトの一言でここまで怒っているのも、図星を指されたからだ。
ユーノは予てからなのはに言おうと思っていた。もしも彼女が今も囚われたままなら、今日こそ言おうと考え続けていた。
(これを言ったら確実に嫌われるだろうなぁ……)
そう思いながらも、ユーノは言わざるを得なかった。曖昧な言葉では、彼女を納得させるには至らない。どうにかここで踏み止まってもらいたかった。
「なのは、もういいんじゃないかな……」
「……どういうこと?」
「もう、いつまでも"あそこ"に拘らなくってもいいんじゃないかな……って」
"あそこ"とは、言うまでもなくミッドチルダ及び時空管理局である。
なのはの頬がみるみる紅潮する。それもそうだろう、これまでユーノはなのはの理解者を気取ってきた。
そのユーノの口から諦めろと言うのは、彼女にしてみれば裏切りと思うかもしれない。
そして案の定、なのはは感情を露わにした。だが、ユーノも退く訳にはいかなかった。正面からなのはの目を見据えて、視線を受け止める。
「なんで? なんでユーノ君までそんなこと言うの? このままじゃユーノ君の故郷にだって帰れないんだよ!?」
「ゲートに首を突っ込んで、危ない目に会ってほしくないんだ」
これには、現に首を突っ込んで奇妙な体験をしたはやてもこっそり俯いた。やはり、あれは人の手に負える代物ではないのかもしれない。
なのはの望みはユーノも知っている。ユーノなら、なのはが強く頼めば多少の情報漏洩は辞さないかもしれない。
それでも隠すならつまり、欠片でも触れるのが物騒な情報なのだ。
「僕はゲート関連の施設の職員で、ゲートに関する機密情報も握っている。だがそれをここで話せば、君やおじさんおばさん、
フェイトとはやてには何らかの措置が取られる可能性がある」
ユーノは流石に声量を落とし、なのはやフェイトだけに聞こえる声で話す。士郎も桃子も、ユーノからやや離れた所で作業中。
店がさほど広くないとはいえ会話は聞かれないだろう。
だがこの時、ユーノの正面、カウンターの下に屈んでいる李舜生にユーノは気付いていなかった。
ユーノは口に出す一言一言まで気を遣っていた。『ゲート関連の施設職員』だの、『何らかの措置』だの、中途半端にぼかした、
はっきりとしない物言い。ユーノが警戒しているのが、自分達だけではないのは明らか。
盗聴器の類か、それともこの中の誰かが――店内にまだ残っている数名の客を、なのはは見回した。誰も平凡なカップルや学生であり、
とてもユーノをつけているようには見えない。
フェイトはというと、表面上は神妙な顔でユーノの話に耳を傾けていたが、その実、心臓の動悸は激しくなる一方だった。
まさかユーノも、こんなところで重要な機密を話したりはしないだろう。それならなのはには危害は及ばない。しかしユーノは違う。
詳細を話さなくとも、情報を握っていると公言している。それだけでも、情報を欲する人間にはユーノを狙う動機になる。
本当なら匂わせただけでも――職員であると名乗ることすら危うい。情報を狙う輩はユーノを攫ってでも情報を吐かせるだろうし、
どんな残虐な方法も厭わない。リスクとリターン如何によっては、それを躊躇せず、顔色一つ変えずに実行する人種をフェイトは知っていた。
それを誰より知っていているユーノが、何故敢えてそんな馬鹿な行動に出たのか。
決まっている、なのはを納得させる為だ。フェイトはそこにユーノの覚悟を見た。
ユーノとしては、どんな手を使おうとも、自分からは絶対に情報が漏洩しない確信があるからこそ言えたのだが、フェイトには知る由もない。
「なのは、僕は……君をとても強く賢い娘だと思ってる。人助けがしたいなら、きっと何だってできる。
僕の知ってるなのはは勇気の塊みたいな娘だ。なのに、今の君は自分で可能性を閉ざしてるように思う」
伝わってほしい――フェイトは切に願った。リスクを背負ってでも伝えたいというユーノの想いが、どうかなのはに届くように。
なのはは大勢の視線を受けて俯きながらも、振り解くように声を絞り出した。
「そんな……そんなお説教聞きたくない!!」
「なのは……」
再度張り上げたなのはの叫びで店内はざわつき始める。士郎も桃子も、何事かとなのはを窺っている。
「ユーノ君にはわかんないよ!! 絶対にわからない!! "この世界の人"じゃないのに、ユーノ君は一人で自分の道を決めて進んでる。
凄いと思うよ……でも、でも私には"魔法"しかないから……!」
これまで伏せていたキーワードも、なのははあっさりと吐き出してしまった。いつの間にか近くにいた李や
周りの客達は、突然の騒ぎと『魔法』という単語に怪訝な様子で首を傾げている。
フェイトがギリッと歯を噛み鳴らす。自分はなのはが何も知らないことを望みながら、何も知らないことに激怒している。
酷い矛盾だと思うが、それでも許せなかった。
フェイトも間髪入れずに立ち上がり、負けじと大声でなのはに怒りをぶつける。
「なのはのバカ! ユーノがどれだけ大変だったか知ってるくせに!
じゃあなのははユーノの気持ちをわかってるの!? ユーノが誰の為に――」
「フェイト!!」
またしてもユーノが言葉を遮った。フェイトには悪いと思ったが、それだけはなのはに知られたくなかった。
――僕は君の為にゲートの研究機関に入った。その為に色んなものを犠牲にして、何度か危険にも飛び込んできた。
だから信じて待っていてほしい。
そう言えば彼女は思い直すかもしれない。だが、言えるはずがない。
不連続な時空間。ランダム且つ恣意的に捻じ曲げられた物理法則。およそこの世のものとは思えない、切り離されたある種の異世界。
十年間、世界中で選りすぐりの頭脳が研究に研究を重ねてなお正体にまで至らず、その尻尾すら掴めていない。ゲートとはそんな怪物なのだ。
その謎が解明できるのは何年後だ? 世界の壁を取り払う方法が見つかるのは? その時自分となのはは何歳になっている?
何の保証もなく、一生懸けてもわからないかもしれない。
知れれば確実に、なのはに重荷を背負わせる。自らの意思で決断しなければ、これからもなのはは苛まれ続けるだろう。
後悔する度にユーノを理由に納得し、そしてまた後悔、その繰り返しだ。それはユーノにとっても、おそらくなのはにとっても、死と同等の苦しみだと思った。
或いは、それでもなのはが考えを変えなければ――それは即ちユーノ・スクライアとは、
なのはにとってその程度の存在だという証明に他ならない。それが怖くもあった。
矛盾している。嫌われてもいいと覚悟して苦言を呈したつもりでも、そこだけは譲れなかった。
それが男のプライドと言うには、些か陳腐なものだと自覚していても。
「いいんだ……」
諦観の混じった呟きを最後に、ユーノもフェイトも、誰もが続く言葉を失った。
十数秒、沈黙が流れる。残っていた僅かな客は居心地の悪さを感じてか、一人また一人と席を立ち始めた。
「……なのは、お客様のご迷惑だ。出ていきなさい」
沈黙を割って入ったのは士郎。その声は静かではあったが、確かな怒気が含まれていた。桃子を見ると、清算をしながら帰る客一人一人に謝罪している。
なのはは、急に自分が恥ずかしくなった。こんな公衆の面前で大声で喚き散らして、店に迷惑を掛けて。
ユーノの心からの忠告にも素直になれず、むきになって。
「~~~~!」
カァッと耳までが一瞬で朱に染まる。居た堪れなくなったなのはは身を翻して出口へ走り、客の横をすり抜けて扉を開け放つ。
「なのは!」
ユーノとフェイトが同時に立ちあがった。しかし、ベルを大きく鳴らして出ていったなのはを追い掛ける寸前で、
「君達、ちょっと待ってくれないか?」
士郎に呼び止められた。士郎は、空になっていたユーノとフェイトのカップにコーヒーを注ぐ。
「君達が行っても今のあの娘は頑なになるだけだ。あの娘もあの状況でここには居辛いだろう」
「でも……」
厳しくも優しい声音。遠くを見つめる目線。士郎とて、父として心配していない訳ではない。
ユーノ達が僅かに抗議の意味を込めて呟くと、士郎は軽く苦笑して李に振り向いた。
「李君、今日はもう上がっていいよ」
「あ、はい……」
「それと、もしも帰る途中で娘を見つけたら話し相手になってやってほしい。君が良ければ、だけど。
多分、君くらいの距離がちょうどいいんだろう。急がなくていいからね」
「はい」と快く頷いた李は、最後にユーノの方を一瞥すると奥に引っ込んだ。
「さて……何から話そうか」一息吐くと、数秒間士郎は口に手を当てて思案する。カウンターの隣に最後の客を見送った桃子も入る。
「君達がなのはと出会ったのは、なのはが魔法を覚えてからだったね。知らないかもしれないが、昔のあの娘は明るいには明るいんだが、
時にどこか遠い目をする娘だった。今思えば寂しかったんだと思う。でも、ある日からそれは劇的に変わった」
そうして士郎は、魔法と出会う前のなのはを彼なりの視点で語った。
士郎の言う通り、フェイトもはやても、魔法と出会ってからのなのはしか知らない。魔法を教えたユーノも同様、
なのはは明るく活発な娘だとしか思っていなかった。それ故に士郎の話は意外であり、新鮮だった。
「あの娘にとって魔法とは、ただの夢じゃない。自己の確立なんだ。ほんの一年程度なのに、いつの間にか自信の源、
自身の根幹を成すものにまで成長していたんだろうな。"胸を張ってこれだと言えるもの"を見失って、どうすればいいのかわからないんだろう」
「明るく繕った顔で私達には気を使ってるけど……まるで十年ちょっと前に戻ったみたいね……。ここは最近は特に……」
そもそもは私達の責任なのだけど、と桃子は悲しそうにつけ加えた。
「代わるものを見つけられなければ、十年経とうが二十年経とうが変わらない。最近、何か思い出す出来事があったんだろうね」
「それで……おじさん達はどう考えてるんですか?」
「相談してくるまでは様子を見る。昔ならいざ知らず、今のあの娘は十九だからね。こっちでも注意して見ておくよ」
「ユーノ君やフェイトちゃんが、何か話せない秘密があるのはわかるわ。あの娘がそれに関係してるのも。
だから、あなた達にできるやり方で助けてあげてほしいの……お恥ずかしい話だけど」
すると、フェイトとユーノはようやく緊張した表情を綻ばせ、
「はい!」
力強く頷いた。共に力を合わせてなのはを守ろうと、言葉にしなくても互いにそれは伝わった。
そして、そんな二人を尻目に、はやてが席を立つ。
「すいません……お会計お願いします」
会計をしようとしたが、コーヒー一杯だけならお詫び代わりのサービスだと士郎に断られた。
「ごめんな……フェイトちゃん、ユーノ君。私ちょっと体調が悪いんで帰る……」
はやては二人を振り向かなかった。力ない足取りで、静かに扉を開けて去っていく。
その時、はやての胸の大半を占めていたもの――それは疎外感。なのはを想うあまり、ユーノもフェイトもそれに気付かない。
はやてには話せない共有の秘密。はやてを気遣っての行為だと理解していても、一抹の寂しさは拭えなかった。
どんな理由であっても、輪から外されたという点では同じ。
なのはの為に――その一心で通じ合った絆。はやては、そこに加えられないと言われたも同然だった。
見送る二人は、その寂しげな背中の意味を、隠されたはやての心中を察するまでには至らなかった。
外は薄暗く、街灯には既に光が灯っている。翠屋の付近に停まったタクシーから出てきたのは、黒のスーツに赤のネクタイと青のシャツ、
サングラスを掛けた黒髪の男。この街、この時間には似つかわしくない姿の男。
彼は料金を払うと、大きく深呼吸して街の空気を胸に取り込む。この街も、この店も変わっていない。
一人しみじみと、思い出を振り返って感慨に耽った。
ふと横をすり抜けた少女に視線が移る。髪型も昔と同じ、おそらくは見知った少女だろう。俯いた表情は窺えないが、心なしか泣きそうに見えた。
「はやて――」呼び止めようとした瞬間、胸元の携帯電話が震えた。
無視しようかとも思ったが、番号を見てそうもいかないと思い直す。
「はい、クロノです。ご無沙汰しております。今、実家の方に荷物を片付けてきました。お言葉に甘えて一日休みを頂き、明後日、改めてご挨拶に伺います」
「(遠路遥々ご苦労だった、クロノ・ハラオウン。久々の日本はどうだね? 私は時差ボケで難儀しているよ)」
挨拶を終えるなり軽いノリの中年の声。通話の相手はクロノの直属の上司、ディケイドである。クロノも彼に付いて日本に滞在する予定になっていた。
「契約者は風邪を引かなければ、花粉症にもならない。つまりそういうことです」
「(では時差ボケにもならないと? ハハハッ、それは羨ましい限りだよ)」
「どの道、私は慣れていますから」
世間話に応じつつもクロノは軽く流した。するとディケイドもそれを察したのか本題に入る。
「(そうか、そうだったな。ところで、君は他のメンバーとは既に顔見知りだったかね?)」
先に日本を訪れているディケイドに遅れる形で、クロノは数年振りに日本の土を踏んだ。
イギリスでの残務に時間を取られ、今後共に行動する予定のメンバーとも別行動である。
「ジャックとは数年来の付き合いですが、『ジュライ』や『エイプリル』とはまだ……」
「(そうか、彼ら三人は現在東欧に向かっている。いずれ日本に来るのを楽しみにするといい。
長旅で疲れたろう、ゆっくり休みたまえ。これからよろしく頼むよ、『ノーベンバー11』)」
どうせ電話口ではわかるまいと、クロノは顔をしかめた。
その呼び名はあまり好きではなかった。所詮は借り物のコードネーム、その功績の殆どは自分で勝ち得たものではないからだ。
「失礼ながら、今はプライベートです。それに……紛らわしいので私の方はクロノでお願いします」
そう言うとディケイドは気分を害した様子もなく、軽く笑って通話を切った。
クロノは堅物だと皆に思われている。からかったつもりなのだろう。それを知っていながら、自然とこういった返事をしてしまうあたり、
そのイメージはあながち間違ってはいないのかもしれない。
クロノは翠屋に向かいながら、そんな割とどうでもいいことを考える。はやてらしき少女は、もう近くにはいなかった。
太陽が沈み、代わりに顔を出すのは偽りの星。遮る建物のない公園では、見上げると今にも落ちてきそうな星空が広がる。
この空は嫌いなのに、なのはの脚は不思議とここに向いていた。ここは千晶と初めて出会った場所。
ほんの一週間前なのに、随分と昔に思える。それくらい彼女と出会ってからは驚きの連続で、怒涛の二日間だった。
(そういえば李君とちゃんと話したのもここが初めてだったなぁ……。あの時は匿う為とはいえ、突然キスされて思わず殴りそうになったっけ……)
しかし、あの後李は何の関係もない千晶の為に力を尽くし、我が身も顧みずに契約者という異能者から千晶を守った。
その点では、自分よりも余程強く正義感がある。純朴な見かけによらない彼の勇気をなのはは高く評価していた。
彼のアパートで無様な泣き顔を見せて以来、李とはあまり話していない。契約者の存在を李も知ってしまっているだろうが、
彼からは何も言わないし、なのはも口にしなかった。
「あ……星が……」また一つ流れた。
何処かで契約者が死んだ。この星の一つ一つが契約者の命。だからこそ、こんなに美しいのだろうか。だからといって好きにはなれない。
真実を知ってしまったからには、もう星を眺めて喜んだり、流れ星に願いを込める気にはなれなかった。
なのはは暫く星を眺めていたが、背後から不意に草を踏む音がした。茂みを掻き分け、誰かが近づいている。
「誰……?」と警戒態勢を取りつつ、なのはは暗闇に問い掛ける。
「なのはさん……ですか? 李です、やっぱりここにいたんですね」
暗闇から姿を現したのは李だった。服装はいつもの様に白いシャツにジーンズ、緑のパーカー。
「李君……? もう、びっくりしたよ」
「すいません、驚かせてしまって……」
李は軽く頭を下げると、何も言わずになのはの隣に立った。街の空気から隔離された夜の公園、その中心に二人はいる。動くものも話すものもなく、
偽りの星だけが煌めいている。それは不安を煽る沈黙ではなく、風を感じながら眠れるくらい落ち着いた、不思議と心安らぐ静寂。
なのはが芝生に腰を下ろすと、李も隣に座った。
「李君……今日はごめんね、みっともないとこ見せちゃった……」
「気にしないでください、僕も早く上がれましたし」
膝を抱えたなのはは李を見ない。正面斜め下、闇の中で揺れる芝に視線は向いていたが、その目は何も見ていなかった。
「私ね、ちっちゃい頃から夢があったんだ……。その頃はまだ可能性の一つとしか考えてなかった。でもゲートが出来た日、それは消えてしまった……」
胸の内にあるあやふやなものを言葉に変換し、紡いでいく。懐かしむように、慈しむように、ゆっくりと。
目を細めたなのはの横顔は、笑顔にも泣き顔にも見えた。
「無くなってから気付いたんだ。私には他に自慢できるものがないってさ。勉強は割と出来たんだけどね、ほんとそれだけで……。
他にも道はたくさんあるってわかってる。でもね、何かが見つかりそうな直前で取り上げられた気がして……」
未だに伸ばした手を引っ込められずにいる。
ユーノはなのはを勇気の塊と評した。
なのはに言わせれば、それは正解であり誤りでもある。間違っていて合っている。
「ユーノ君の言葉の意味、本当はわかってる……」
十年前のどの戦いにおいても、ただの一度だって諦めなかった。戦うことも、想いを伝えることも、誰かを救うことも。それだけは誓って言える。
でも、彼の言いたかったのはそうではない。その対極なのかもしれない。
「私には……諦める勇気が無い……」
十年とは短いようで長かった。少なくとも、がむしゃらに突っ走るだけの少女が、大人の思考で物事を考えるようになる程度には。
「皆は未来を見て進んでる。でも、私だけ大人になりきれてない。ユーノ君達に置いていかれてるみたい」
失ったものは時間が経つにつれ、美化されていく。手に入らないもの程、欲求は強くなる。
それを踏まえても、自分が誇れる魔法を思う存分揮え、誰かを救える魔導師の道はこの上なく輝いて見えた。
「そのせいでお父さん、ユーノ君、フェイトちゃんまで怒らせて……情けないよ」
最後の言葉は、膝の間に埋めた顔からくぐもって発せられた。
なのはは黙って李の顔を窺った。その間も不安で体が強張り、緊張で喉が渇く。
何を言ってほしいのだろう? どんな言葉を期待しているのだろう?
慰めてほしいのか、責めてほしいのか、自分でもわからない。
友人と呼ぶにはまだ微妙であり、明らかに他人ではない。魔法の秘密は共有していないが、契約者の秘密は共有している。
そんな彼なら何か――そんな甘えを抱いていた。
「そうでしょうか? きっと怒ってなんかないと思います」
数秒と待たず、返事は返ってきた。李がよく見せる、優しい微笑みと共に。
「ほんとに……?」
「少しはそうかもしれませんけど、それだけならあんな風に言いませんよ」
「そう……なのかな」
「逆です。みんな貴女を心配しているんです。諦めろって言ってるんじゃない。前と後ろ以外にも、
周りと自分を見て考えてほしいって……そういうことだと思います」
流暢に語られるのは、聞こえのいい言葉を適当に繋ぎ合わせた綺麗事。被った仮面を上滑りしていくのは、中身も根拠もない慰め。
自分で自分に呆れながらも、生憎それに痛む心も持ち合わせていない。
叱るという行為は、本心から相手を想いやっていないとできない。それ故に、李にできるのは甘い励ましだけ。だから李はこう言うのだ。
「大丈夫、誰もなのはさんを置いて行ったりしませんよ。千晶さんも……貴女が優しいから、心配だから関わらせたくなかったと言ってました」
「千晶さんが……」
眉一つ動かさずに吐いた李の嘘の中で、最後の言葉だけは唯一の真実。
それは厳密には千晶でなく、千晶の姿と記憶を借りたドールの言葉。千晶の真意など、今となっては知る術もない。それでもその言葉を選んだのは、
そう思いたいからだろうか。あれは自分となのはが救えなかった、日常に帰してやれなかった哀れな人間だと。
「ありがとう……李君……」
李が言い終えると、なのはは心なしか涙ぐんでいた。嬉しいとも悲しいともつかない顔で立ち上がり、李から目を逸らす。
「私……そろそろ帰るね。お父さんとお母さんと……ユーノ君に謝ってくる。それと……フェイトちゃん……にも」
李は僅かに戸惑っている様子だが、なのは自身、感情の整理はついていなかった。ただ、千晶の名前を聞くと涙が零れそうになった。
それを隠そうと、なのはは李に背を向ける。
まだフェイトに謝る決心はつかないが、ここでこうしていても始まらない。励ましてくれた李に応えるなら、まずは酷いことを口走ってしまったユーノと、
営業妨害をした両親に謝ることから始めよう、と。
魔法という単語を、李も翠屋で聞いていたはず。なのははぼかして話したつもりだったが、内心では問い詰められるのではないかと恐れていた。
聞かれなかったのか、敢えて聞かなかったのか、どちらにせよ嬉しかった。父に言われたのかもしれないが、こうして来てくれて、話を聞いてくれたことが。
「おやすみ、李君」
「おやすみなさい、なのはさん。僕はもうちょっと風に当たって帰ります」
笑顔で手を振って別れる李となのは。去り際になのはが振り向くと、李も手を振った。
家路を歩きながら、なのはは胸の痞えが和らいだのを感じていた。それもこれも李のおかげであった。
李との距離がまた少し縮まった。そう感じると同時に、なのはは改めて、李とは根っからのお人よしであり信頼できる人物だと思った。
もっとも、本人の前では照れ臭くて言えなかったが。
なのはが去った後、李は近くの木に背中を預ける。
ここに来た時からずっと、話している間も絶えず視線を背中に感じていた。敵意や殺意の類ではなく、気配は木の上から、となれば心当たりは一つしかない。
邪魔者のなのはが早々に立ち去ってくれたのは僥倖と言うべきか。
「相変わらず女を口説くのは上手いんだな。よくあんなにスラスラと言葉が出てくるもんだ」
「猫〔マオ〕か……」
頭上から低い中年男の声。枝の上に目線だけを移すと、李を見下ろしていたのは一匹の黒猫。
コードネーム、猫――動物への憑依を能力とし、チームの情報の集約や伝達を担当する。当然彼も契約者である。
「仕事だぜ、黒〔ヘイ〕。マイヤー&ヒルトン社の社員が二人、新宿のホテルに入った。
連中の狙いの人物は、どうやらあの娘の友達と関係があるみたいだな」
一瞬で李の顔から薄っぺらな笑みが消える。目が据わり、瞳からは光沢が失せる。
そこにいるのはもう、朴訥で気の優しい留学生、李舜生ではなかった。
黒の死神、メシエ・コードBK201、様々な通り名で呼ばれる彼本来の顔。
高町なのはを一度は下した冷徹な仮面の契約者――コードネーム、黒。
黒は李の仮面を脱ぎ捨て、新たに仕事用の仮面を心に被せた。
最終更新:2010年04月20日 18:55