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「うっ……ん……」
小さく声を漏らして、ティアナは身動ぎした。
朝の光が顔に当たる。心地いいが眩しくもあり、目を開けるのが億劫だった。
それ故、寝惚けたティアナの脳が最初に認識したのは触感であり、匂い。
「あ……れ……?」
疑問符を発しながら抱いているものをまさぐり、形を確かめる。
これは何だろう。ごつごつして硬い、それに温かい。鼻腔をくすぐる匂いには、どこか覚えがあった。
差し込む朝日に、徐々に寝相を維持するのが辛くなり、ティアナが目を開くと同時に飛び込んできたのは、広く大きな背中。
同衾しているヴァイス・グランセニックの背中だった。
感じていたものの正体は、両腕で抱いている硬くがっしりとした肉体の感触と、男性特有の体臭。
彼はタンクトップ一枚、どうりでハッキリ体形が分かったはずだ。
徐々に昨夜の記憶が蘇り、起き抜けのティアナの頬に紅が差す。
「ぅわっ――!」
声を上げかけて、ティアナは抱き締めていた両手を放した。
そうだ。ここはヴァイスと逃避行の末、行き着いた安ホテルの一室。
寝惚け眼を擦ると、昨夜の出来事が徐々に思い起こされる。
(そうだ。あたしが我がまま言って一緒に寝てもらったんだっけ……。うわぁ……何言ってたんだろ、あたしったら)
今思い返すと、かなり恥ずかしい。とんでもない内容を口走っていた気がする。
もちろん、一緒に寝ただけで何もなかった。ただただ二人して泥のように熟睡していただけ。
神と聖王陛下に誓って、男女のそれなどあろうはずもないのだが。
だからと言って、ヤバイことに変わりはない。同僚――いや、元同僚か――と同衾して、
ともすれば愛の告白とも取れる世迷言を囁くなんて。
スバルやアルト、ルキノ、シャーリーあたりに知れたらどうなることか。八神部隊長も危険だろう。
いや、しかし、これはいわゆる吊り橋効果と言う奴でして……
誰も見ていないのに、あたふたと手を振って妄想を振り払う。
暫し一人ではしゃいでから不意に動きを止めると、
「そんなことある訳ないか……」
ふっと寂しげに、自嘲気味に笑った。
何を馬鹿なことを、と。
心配しなくても、どうせもう、笑い合った日々は戻ってこない。六課には二度と戻れないのだ。
自分とヴァイスの関係も、彼らの目には化け物同士が番ったようにしか映らない。
久しぶりの安眠でリラックスしたせいか、まだ幸せだった頃の感覚が戻ってきたのだろう。つい、懐かしんでしまった。
まだ二週間も経っていないというのに。
夢は見なかった。ここ最近は悪夢しか見なかったので幸運と言えた。
六課時代の、スバルやなのはとの夢なら幸せな夢だが、目覚めた時により一層現実が虚しくなるだけ。だから、これが一番いい。
時計はちょうど朝の八時を指していた。眠ったのが二十一時半だから、約十時間も寝ていたことに驚く。
昨日は、とてもよく眠れた気がする。
ベッドだったせいもあるだろうが、きっと何より、一緒にいたのがヴァイスだから。
隣のヴァイスに目を移すと、くかーっと安らかな寝顔を晒している。
「ふふっ」
その寝顔を間近で見て、思わず微笑みが零れた。
バイクのリアシートからずっと見ていた、広く大きく逞しい背中。自分の数少ない同類であり、今は頼れる存在。
それが、こうして無防備に眠りこけている。
なんだか子供みたいで可愛い。胸の奥から、何か温かい感情が湧いてくるよう。
これが母性本能という奴だろうか、それとも――。
「ま、どうでもいいか……」
彼への想いは言葉で言い表せるものではない。ティアナは眠りに就く前からの問いに対する答えを保留した。
一番じゃなくてもいい。どんな形でも傍にいてくれればそれでいい。
それ以上は何も望まないことにした。
ふと気が付くとパジャマ変わりのシャツがぐっしょり濡れていた。よほど緊張したのか、単に暑かったのか、
あれだけ抱き付いて寝ていればこうもなるか。
まだヴァイスはぐっすり寝ている。
「なら今の内に……」
朝からネガティブな方に向かう思考をリフレッシュしようと、ティアナは立ち上がった。
ヴァイスが起きる前に寝汗を流そうとバスルームに入る。
バスルームは狭い個室にトイレと洗面台とユニットバスが詰められた、些か粗末な物ではあったが、贅沢は言ってられない。
手早く服を脱ぐと、シャワーを浴びる。
熱湯が汗と一緒に眠気を洗い流していくようで気持ちいい。次はいつ入れるか分からないので、全身を念入りに洗って浴槽を出た。
裸で髪を拭いていると、ふと洗面台の鏡が目に入った。タオルを首に掛け、鏡に向き直る。
そこには、生まれたままの自分が映っていた。
濡れたオレンジの髪。
きめ細やかで滑らかな肌。小さな傷はあるものの、ほとんど分からないくらい。
体形は鍛えているだけあって引き締まってはいるが、女性的な丸みも申し分ない。
ふくよかなバストは、スバルには多少劣るかもしれないが、それなりに自信があった。
ウエストは言うまでもない。
総括すると、鏡に映る裸身は自分のよく知るティアナ・ランスターそのものだった。
しかしティアナにはそれが自分ではないように思え、触れて確かめようとしたのだろうか、恐る恐る左手を伸ばすが――。
「……ひっ!」
すぐに悲鳴を上げかけて左手を引っ込めた。
かつてのティアナ・ランスターとの絶対的な違いが鏡には映っていたのだ。
そういえば、と思い出す。
三日前の夜、ヴァイスとの劇的な再会の後、服と靴を買ってもらった。
その時、厚手の手袋も一緒に貰い、着けておけと言われた。ヴァイスもだ、バイクを降りてからもグローブを人前では絶対に外さなかった。
この時は然して疑問に思わなかったが、すべては身を守る為だったのだ。一般人なら見た瞬間、悲鳴を上げて逃げるであろう、それを隠す為に。
それは左掌に刻まれた、黒い紋章。
融合体と化した人間であることを示す、逃れられない証。
洗っても擦っても決して消えない悪魔の烙印。
入浴中も寝る時も、無意識に見ないようにしていたそれ。
改めて直視した魔法陣の紋章は、ティアナの楽観的な感情を吹き飛ばした。
衝動的に備え付けのカミソリを手に取る。
皮膚ごと削ぎ取れば、或いは――そんな考えが過ぎった。
痛みも出血のことも完全に頭になく、今はとにかく、この忌わしい紋章を消し去りたかった。
掌にカミソリを押し付け、震える手で引くと、痛みと共にじわりと血が滲む。
こんな身体でも血は赤い。血を見ると、封印していた記憶が蘇る。
危うく殺しかけたエリオのこと。
助けてくれたのに傷付けてしまったジョセフのこと。
自責の念と自分への恐怖で気が変になりそうだった。
その時である。
ドアの向こうから、ゴトッと物音がした。
「ヴァイス陸曹……?」
恐る恐る問い掛けるも、答えはない。
ヴァイスが起きたのだろうか。そうだ、きっとそうに違いない。
いや、だとしたら返事があって然るべきだ。
(まさかXATか局の追手がもう嗅ぎ当てた!? それとも……)
この安宿である。治安もいいとは言えない区画だ。もしかしたら強盗でも侵入したのかも。
そもそも、この部屋の扉はオートロックだっただろうか?
あり得ないと頭では理解していても、猜疑心は際限なく膨らんで、どうしようもなくなる。
普段の習慣か、手元には常にクロスミラージュがある。特に、三日前からは肌身離さず持ち歩いていた。
ティアナは考えた。
もし仮に、今この瞬間、バスルームに暴漢が乱入してきたら自分はどうするだろう。
逮捕術で取り押さえるか。
それとも、すぐさまクロスミラージュを起動させて突きつけるか。
おそらく、どれも違う。
たちまち思考は恐怖で染め上げられ、数秒後には、引き裂かれ無残な肉塊になった暴漢が転がっているのだろう。
そして狭いバスルームは血の海になっているに違いない。
そう、三日前の雨の日のように。
想像して吐き気を催すと同時に、頭に電流を流されたような激痛が走る。
「くぅっ!?」
頭が割れるように痛い。
動悸が激しくなり、喉が渇いて息が苦しい。
目まいと耳鳴りが酷くなり、しまいには視界が赤く染まってきた。
融合体に変異する兆候である。
(ああ……これはまずい……。これだけは絶対に駄目。分かってる。分かってるのに……)
もう三度目だ。少しは制御できるかと思ったが、理性を失うまでの時間が長くなったに過ぎないのか。
むしろ些細な出来事を引き金に、容易くスイッチが入ってしまうようになっている。
ティアナは頭を振って苦悶した。必死に、心を静めろと自分に言い聞かせた。
ここで融合体になったら、ヴァイスの身が危ない。誰より大切な人を殺めてしまいかねない。
(なのに……自分で自分が抑えられない!!)
誰かの嘲笑う声が聞こえる。
許せない。
自制心が薄れ、次第に怒りが込み上げる。
ブラスレイター特有の被害妄想。
最初に見たブラスレイターらしき男にも、ヴァイスの話に聞いたゲルトにも確認されている。
ティアナ自身、幾度となくこれに苛まれ、抗おうとするも最後には必ず屈していた。
スバル、名も知らない一般人、エリオ、ジョセフ――その度に誰かを傷つけずにいられなかった。
「っく……またなの……? また……」
皮膚が強張り、硬化するのを感じる。徐々に胸の痛みと、全身を駆け巡る熱が強くなる。
精神だけでなく、身体の変化まで始まろうとしていた。
自我の喪失と肉体の変異。二つの苦痛に押し潰されながら、ティアナは思わずにいられなかった。
(あたしは何も悪くないのに、どうして、どうしてこんな目に……)
この言葉は麻薬だ。
自己を肯定したが最後――自分は悪くない、何をやっても仕方ない、そんな身勝手で独善的な考えを抱いてしまう。
不可抗力だとしても、この身体で散々罪を重ねてきた。本心では自覚しているからこそ、何度でもこの言葉に縋らずにいられない。
そうでもしないと、心がバラバラになりそうだった。
(この笑い声を止めなきゃ、あたしはきっとおかしくなる。そうだ、必要なら殺してでも――)
内なる声、とでも言うのだろうか。自分であって自分でない声が脳裏に響く。
抵抗も空しく声はティアナと同化して、思考が塗り潰される。
赤く染まった目で鏡を見ると、そこに立っていたのは、ついさっきまでの裸の少女だけではなかった。
別の何かが、狂気と恐慌で歪んだ表情のティアナに、影の如く寄り添っていた。
燃えるように逆立って流れる朱色の髪。
髪の間から僅かに覗く捻れた双角。
髪よりも色濃い炎を宿した瞳のない目は、鋭く横に伸び、爛々と光を放っている。
青く縁取られた白いドレスと黒のロンググローブ。黒光りする突起で覆われた獣の下肢。
おぼろげに重なる像は、紛うことなき融合体。三日前のあの日、あの運命の日に鏡の中に見た自身の姿だった。
「あ……ああ……」
わななきながら頬に手を当てると、鏡の中の自分と融合体が同じ動作を取る。
自らの鏡像は全身が赤く発光しており、顔面には光の線が浮かび上がっていた。
知っている。何もかも知っている。
身体が意思に反してデモナイズしようとしている。赤い光が輝きを増した時、自分は隣にいる融合体に乗っ取られるのだ。
この姿を直視するのは二度目だった。今すぐに鏡を叩き割りたい衝動に駆られるが、
そんなことをしても無駄だと今では理解している。
最早、限界だった。
次はもう人間に戻れないだろう。そんな予感がした。
狂乱と絶望の叫びが喉を突き上げる。
それがティアナの、人間としての最後の存在証明――となるはずだった。
「おーい、入ってんのかー?」
声を上げる寸前で、背後のドアがゆっくり開く。
半ばデモナイズしかけていたティアナは、人間をはるかに超えた反射速度で振り向いた。
すると、そこには――。
ヴァイス・グランセニックが、ボサボサの頭を掻きながら立っていた。
上はタンクトップ、下はショートパンツ。つまりは寝巻のまま。
むにゃむにゃと欠伸を噛み殺しながら、目はほとんど開いていない。
どうやら、彼はまだ夢と現実を行き来しているらしい。平たく言えば寝惚けていた。
「……え?」
先ほどまでの極限状態はどこへやら。出ばなを挫かれた悲鳴は引っ込み、心中は別種の混乱に支配される。
状況の把握が追い付かないのが幸いしたのだろうか。嘲笑は耳に入らず、不吉な妄想をする余裕すらなかった。
そのうちに耳鳴りも止み、視界は鮮明に戻る。
それでもティアナは一歩も動けなかった。鮮明になった分、彼の目が自分を直視していると気付いてしまったから。
「ん~…………」
ティアナは呆気に取られ硬直、ヴァイスは変わらず目を細め対象を凝視している。
彼が現実に戻るまでには未だ数秒を要するようだ。
「あ……あう……」
まったく予想だにしなかったアクシデントに、ティアナの口が金魚のようにパクパク開閉を繰り返す。
赤みが差していた視界が正常に戻ると、顔を縦に走っていた光線も消え、代わりに顔中が真っ赤に染まった。
身体中を淡く覆っていた赤色の発光も、吸い込まれたかのように柔肌を染める。
入ってるのかと聞きつつドアを開けるとは、どういう了見なのだろう。
普通はノックの一つもするのがマナーではないのか。
などと思わないでもなかったが、思考がとっ散らかって、それどころじゃなかった。
何故なら――何故なら、今の自分は全裸であるからして。
「――きゃぁ!!」
先に状況を理解したのはティアナ。同時に、ヴァイスの両目が完全に開いた。
目が合った瞬間、ティアナは違う意味で悲鳴を上げ、胸を隠してしゃがみ込む。
「おっと、すまん」
言うが早いか、すぐに回れ右してドアを閉めるヴァイス。
いつの間にかデモナイズの進行は止まっていたにも関わらず、心臓は変わらず早鐘を打っている。
全身を覆う熱も同じ、特に顔は今まで以上に熱い気さえして、いつまでも引く気がしなかった。
何秒か待ってもヴァイスの側から声は掛からない。だが、気配はある。ドアの向こうにはいるようだ。
せめて、向こうから何か言ってくれれば気も楽なのに。
さて、何から話せばいいのか……混乱する頭で考え、ティアナが最初に発した台詞は、
「お、おはようございます……」
何とも間抜けなものだった。
「ああ、おはよう。悪いな、鍵が掛かってなかったもんだから」
「い、いえ……こちらこそ……」
「着替えは持って入ってるのか? 何なら外に出てても――」
「いえ、大丈夫です! すぐに出ますから!」
早口で捲くし立てて、一方的に会話を打ち切る。
「はぁ~……」
ティアナは裸でうずくまったまま、深々と溜息を吐いた。
奇妙な感覚だった。
つい今まで誰かが乱入してきたらなどと恐怖しておきながら、それがヴァイスだと認識した瞬間、
波が引くように恐怖が治まり、想像だにしなかった感情が湧き起こった。
その瞬間、ティアナの胸に湧き起こったのは恐怖ではなく羞恥。
自分自身、戸惑っていた。
しかも驚くべきことに、腹が立ったのはたぶん裸を見られたからではない。
いや、無論それもあるだろうが、一番の理由は、裸を見たヴァイスが何ら動揺した素振りを見せなかったことだった。
こっちは狼狽して声が震えて仕方なかったと言うのに。
そういえば、と今更ながらにティアナは考える。ドアに背を向け、裸でうずくまった格好で。
何故、自分はヴァイスに襲いかからなかったのか。ヴァイスだと認識した途端、精神が安定したのか。
考えに考え、
(そうか、もしかして――)
やがて一つの結論に至る。
(あたしは、こんな壊れかけた精神状態でもヴァイス陸曹のことを……)
仲間、家族、同胞、庇護者……どんな言葉を当てはめればいいのか迷って、
(唯一の味方として、本能で認識している……?)
或いは、その点に措いてのみ制御が利いているのか。
だから攻撃衝動が起こらなかったと考えれば、一応の辻褄は合う。
それだけじゃない。彼の存在がリミッターとなっているのだ。
これまでを思い起こしてみても、それは明らか。ヴァイスは自分の精神の安定に必要不可欠となっている。
だからジョセフもヴァイスとの合流を急いだ。
「は……はは……」
気の抜けた笑いが漏れる。いつしか頬を涙が伝っていた。
様々な感情が溢れて心の整理が付かないが、最も大きな感情は安堵だった。
彼だけは傷つけずにいられる。一緒なら人間として生きていける。それが嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
恐る恐る左手の紋章を見たが、今は何ともない。これが確かな証拠。
ヴァイスがいれば精神は安定するが、それは同時に、彼なしでは生きられないことを意味している。
ティアナは、これまで以上に彼に依存している自分を改めて自覚した。
でも、今はそれでいい。
今はただ、この幸福を噛み締めていたい。
外ではヴァイスがトイレを待っているとも知らず、ティアナは一人、嬉し泣きに浸っていた。
最終更新:2011年06月03日 13:03