窮奇退治は昌浩の完治まで、延期が決定した。敵はあの大妖怪、なるべく万全の状態で挑みたい。
昌浩が養生している間、一度だけ彰子が見舞いに来た。
自分がさらわれたせいで、昌浩が重傷を負ったと彰子は酷く気に病んでいた。
昌浩は彰子は励まそうと、必死に明るい話題を振った。その中で、彰子が蛍を見たことがないと言った。蛍の時期はとうに過ぎていたので、ならば来年一緒に蛍を見に行こうと昌浩は約束した。
その間、ヴィータが歯ぎしりせんばかりに不機嫌だったのに、昌浩は最後まで気がつかなかった。
数日もすると、昌浩は起き上がれるようになった。激しい運動は厳禁だが、それ以外の行動は大体許されている。シャマルの治癒術は本当に素晴らしい。出来るなら教えてもらいたいくらいだった。
昌浩は書物と睨めっこをしながら、円盤状の物体をからからと回していた。
「何してんだ?」
ヴィータが昌浩の手元を覗き込む。
昌浩が目が覚めましてからというもの、ヴィータは食事を運んでくれたり、何かと世話を焼いてくれる。あまりに優しいので、昌浩の方が戸惑っていた。
「これは占いの道具なんだ。窮奇の居場所が占えればと思ったんだけど」
結果は芳しくない。それにこれくらいのことは晴明がとっくにやっているだろう。晴明すらわからないことを、昌浩がわかるわけない。
「占いねぇ」
ヴィータは占いという奴がどうも信じられない。未来が本当に予知できるなら、未来はすでに決まっていることになる。努力するもしないもすべて決まっている。ならば、心は何のためにあるのか。
「あ、疑ってるな。よし、ならヴィータの未来を占ってやる」
昌浩が道具に手を伸ばす。
「おもしれぇ。やってみろ」
円盤がからからと回り、結果を示す。昌浩はじっとその結果を読み取ろうとする。
無言のまま、時間だけが過ぎていく。
「おい」
昌浩は真剣な顔のまま答えない。そのあまりに真剣な様子にヴィータが不安になる。
「まさか、よくない結果が……」
「ごめん。わからない」
「うーがー!」
ヴィータが吠えた。
「さんざん待たせて、なんだよ、それは!」
「ご、ごめん、だって見たことない形だったから」
昌浩は本で頭部をかばう。
「もう少し時間をちょうだい。きっと占ってみせるから」
「まったく。それでも晴明の孫かよ」
「あー! ヴィータまで孫って言ったー!」
「いやー。この台詞一度言ってみたかったんだよ」
「孫言うな!」
憤慨する昌浩を、ヴィータはきししと笑う。ふとその顔が疑問に染まる。
「お前、今何て言った?」
「孫言うな」
「その前だよ」
「えーと、ヴィータまで孫って言った、だったかな?」
「お前、名前……」
「ああ、ヴィータだよね。やっと言えるようになったよ」
昌浩はにっこりと笑う。
「いやぁ、苦労したよ。毎晩ヴィータ、ヴィータ、って繰り返し練習して」
ちなみにザフィーラの名前はまだ練習中だ。
「ヴィータ。これで合ってるんだよね?」
ヴィータの拳が昌浩の頭を叩く。
「な、何すんだよ、ヴィータ」
昌浩が頭を押さえてうずくまる。
ヴィータは拳を握りしめたまま、全身を震わせていた。
「ヴィータ?」
「気安く呼ぶんじゃねぇ!」
ヴィータが再び拳を振り下ろす。その顔が真っ赤に染まっていた。
「どうしたの、ヴィータ?」
「だから、繰り返すな~!」
ドタバタと暴れる音が屋敷中に響いていた。
「いやー。春だねぇ」
「夏だがな」
「連日快晴だねぇ」
「それはその通りだ」
もっくんとザフィーラは、昌浩の部屋の屋根の上で並んで日向ぼっこをしていた。
「昌浩についていなくていいのか?」
「そんな野暮はせんよ」
もっくんが後ろ脚でわしわしと首をかく。本人に自覚があるかどうかは知らないが、ヴィータの気持ちは傍から見れば明らかだ。
「すまんな。気を使わせて」
「いや、昌浩にとってもいいことだ」
「ほう。もっくんはあの彰子とかいう娘を応援しているのかと思ったが?」
「おっ。堅物かと思いきや、話せるねぇ。ただし、もっくん言うな。俺のことは騰蛇と呼べ」
「心得た」
「それで彰子に関してだが、結論から言って、あの二人は絶対に結ばれない」
もっくんは一転、厳しい表情になる。
「どういうことだ?」
「身分が違い過ぎる。かたやこの国一番の貴族の娘。かたやどうにか貴族の端に引っかかっている昌浩。あり得ないんだよ、この二人が結ばれるなんて」
「身分とはそんなに大事なのか?」
しょせん同じ人間ではないか。気にするほどの差があるとザフィーラには思えない。
「そうだな。お前たちの主は女か?」
ザフィーラの緊張が一気に高まる。
失言だったと、もっくんは詫びた。
「お前たちの主を詮索しようとしたわけじゃない。例えば、お前たちの主が女だったとしよう。もしお前が主に恋愛感情を抱いたら、どうなる?」
「なるほどな」
ザフィーラは遠い目になった。彼のはやてを敬愛する気持ちに、一片の曇りもない。しかし、それは決して恋愛感情ではない。
ザフィーラはあくまで守護獣、人間ではない。そんな自分と主が結ばれることはない。それなのに、主に恋心を抱けば、それはまさに地獄だろう。
「つまり、この国で身分とはそれほどの差ということだ」
しかも、彰子と天皇の結婚の準備が進められているという。晴明の占いでも、それはすでに決まった運命ということだった。もし運命を変えられる力があればと、もっくんは己の無力をこれほど呪ったことはない。
失恋から立ち直る一番早い方法は新しい恋を始めることだ。昌浩を好きなヴィータがそばにいてくれれば、これほどありがたいことはない。
「しかし、我らは……」
「わかっている。窮奇を倒したら帰るんだろう。それでもいいんだ。立ち直るきっかけになれば。それに二度と来れないわけじゃあるまい?」
「それもそうだな。その時は主も連れてこよう。きっと喜ばれる」
そう、きっと大丈夫だとザフィーラは思った。いつか主を含めた全員でこの地を訪れることができる。その時は、闇の書も完成し、主の命も助かっている。時空監理局から追われることもなくなっている。
我ながら虫のいい考えだと知りながら、そんな未来が来るのを願わずにいられない。
ザフィーラともっくんは雲一つない空を見上げた。
その頃、庭ではシグナムが見知らぬ女と対峙していた。女は黒い艶やかな髪を肩のあたりで切りそろえ、この時代では珍しい丈の短い服を着ている。十二神将の一人だろう。
六合と稽古の約束をしていたのだが、六合の姿はない。
「私の名は勾陣(こうちん)。六合は晴明の供で行ってしまってな。代わりに私が来たというわけだ」
「そうか。では、今日の相手は勾陣殿が?」
「ああ。せっかくだから、少し趣向をこらさないか?」
勾陣は三つ叉に別れた短剣を両手に持ち、宙を切り裂いた。空中に裂け目が走り、シグナムの体がその中に吸い込まれる。
シグナムが目を開けると、そこは砂と岩ばかりの荒涼とした大地が広がっていた。
「次元転移?」
「ここは我ら十二神将が住む異界だ。稽古もいいが、ここなら思う存分暴れられるぞ」
勾陣が口端を釣り上げる。氷のように鋭い酷薄な笑みだった。
シグナムも勾陣と同じ笑みを浮かべる。
「なるほど。より実戦的にというわけか」
「それと最初に言っておく。私は六合より強いぞ」
「面白い。では、いざ尋常に勝負!」
シグナムのレヴァンティンが炎をまとい、勾陣の魔力が炸裂する。
普段は静かな異界に、その日はいつまでも爆音が轟いていた。
夕刻、帰宅した晴明は昌浩の部屋に向かった。天皇と彰子の結婚が正式に決まったということだった。後は日取りを決めるのみ。今すぐということはないが、もはや二人の結婚は避けられない。
薄々感づいてはいたのだろう。昌浩は「そうですか」とだけ呟いた。
それからさらに数日が過ぎた。
昌浩は表面上は明るく振舞っていたが、時折沈んだ表情や物思いにふけることが多くなった。そして、以前にもまして窮奇を倒すべく猛勉強を始めた。まるで勉強に打ち込むことで、何かを忘れようとしているかのように。
早朝、昌浩は目を覚ますと素早く着替える。怪我の為、長期休みになってしまった。同僚にも迷惑をかけたし、今日は出仕するつもりだった。晴明から頼まれた仕事もある。
「よし。完全復活」
「ほう。よかったじゃないか」
今日はよほど早起きしたのか、ヴィータが戸口に立っていた。
「うん。これもヴィータたちのおかげだよ。本当にありがとう」
シャマルの魔法とヴィータの看護がなければ、まだろくに動けなかったに違いない。
「いやー。そう言ってもらえると、こっちもありがてぇよ」
ヴィータはのしのしと部屋に入ってくる。ヴィータは指で昌浩に座るように示す。
「大事な話?」
昌浩はまだ気づいていない。ヴィータの目がまったく笑っていないことに。
ヴィータは深く息を吸い込み、
「この大馬鹿がー!!」
大音量が安倍邸を揺らした。昌浩は耳を押さえて顔を引きつらせる。
ヴィータは指を鳴らしながら、昌浩に詰め寄る。
「お前が治る日を、どれだけ待ったことか。怪我人を怒鳴りつけるのは趣味じゃないからな。これで思いっきりやれる」
晴明から託された昌浩を叱る役をヴィータは忘れていない。それどころか世話を焼くことで、怒りが鎮火しないようにしていたのだ。ヴィータの怒りは最高潮に達していた。
「あの……ヴィータさん?」
「やかましい! そこに正座」
「はい!」
「大体お前は自分が怪我をしてどうするんだ。助けるにしたって、もっと上手くやれ!」
「いや、でも」
「言い訳するな!」
「ごめんなさい!」
ヴィータが機関銃のように怒鳴り続ける。昌浩はそれを黙って聞くしかなかった。
それから一刻の後、もっくんが昌浩の部屋を訪れと、晴れ晴れとした顔でヴィータが出てきた。
「いやー。ようやくすっとしたー」
もっくんが部屋の中を覗き込むと、そこには真っ白に燃え尽きた昌浩がいた。
その夜、昌浩が仕事を終えて帰ると、シグナムたちは晴明の部屋に集められていた。
「昌浩や。彰子様には会えたのか?」
「はい」
昌浩は寂しげに笑う。晴明の取り計らいで、昼頃、昌浩は彰子と対面していた。そこで昌浩は彰子に絶対に守ると誓った。誰の妻になってもいい。生涯をかけて彼女を守る。それが昌浩の誓いだった。
「それで窮奇の居場所は?」
「はい。貴船山だと思います」
都の北に位置する貴船山。そこには雨を司る龍神が祭られている。
窮奇が北に逃げたのと、ヴィータたちが来てからというもの、一度も雨が降っていない。それが根拠だった。おそらく窮奇によって封印されているのだろう。
「ならば、一刻の猶予もないな」
シグナムにとって、ここは楽園だった。六合や勾陣、他の神将たちとも、実は紅蓮とも、幾度も手合わせした。こんなに心躍る相手がいる世界をシグナムは知らない。
「そうだな」
ヴィータとて離れがたい気持ちはある。
しかし、八神はやてを救う為、二人は未練を振り切って立ち上がる。
「はやてちゃんの為にも、お願いね、みんな」
シャマルが転送の準備を開始する。それをザフィーラが咳払いで遮る。
シグナムとヴィータがじと目でシャマルを見つめていた。
「あっ」
うっかり、はやての名前を口に出してしまっていた。だらだらと脂汗がシャマルの顔を滴る。ちなみに、ヴィータは以前自分がはやての名前を出しことを覚えていない。
「わしは何も聞いておりませんぞ。なあ、昌浩や」
「えっ? ……ああ、はい。俺も何も聞いてないよ」
「二人とも、気を使わせてごめんね」
シャマルが涙目で感謝の意を告げる。
やがて緑の魔法陣が足元に出現する。
昌浩、もっくん、シグナム、ヴィータ、ザフィーラが、最終決戦の場へと飛んで行った。
その頃、アースラ艦内では、クロノたちが出撃の準備を進めていた。
「それでヴォルケンリッターの動きは?」
「それが変なの」
クロノの質問にエイミィが首を傾げた。
「あの世界、時間の流れが全然違うみたい」
アースラでは、クロノたちが青龍たちと戦ってから、一晩しか経っていない。それなのに、向こうでは半月以上の時間が経過しているようだった。
どうもその間、ヴォルケンリッターたちは原住生物と戦い続けているらしい。
「闇の書もかなり完成に近づいたということか。みんな、準備はいいか?」
クロノが集まったメンバーを見回す。
ユーノにアルフ、青い顔をしたなのはとフェイト。
「な、なのは、どうしたの?」
ユーノがなのはの顔を心配そうに覗き込む。
「ちょっとイメージトレーニングを」
なのはは車酔いをしたかのようにふらふらしていた。
青龍に備えて、父と兄に怒られた時のことを一晩中ずっと思い出していたのだ。
「フェイト、しっかりおしよ」
「……アルフ、大丈夫よ」
フェイトの使い魔のアルフが、フェイトの体を揺さぶる。それにフェイトは消え入りそうな声で答えた。
「エイミィ」
クロノが無言で逃げようとしていたエイミィの腕をむんずとつかんだ。
「フェイトに一体何をした?」
「ええと、頼まれてあの戦いの映像をちょっと……」
フェイトはフェイトで、あの戦いの映像を一晩見続けたのだ。しかもエイミィの好意で、男連中の顔を大写しにした編集版を。
苦手意識を克服しようと無理をすれば、かえって悪化する場合がある。なのはたちの負けず嫌いが今回は完全に裏目に出た。
クロノはユーノとアルフをつれて、部屋の隅に行った。
「いいか。男連中の相手は僕らでやる。二人には絶対に近づけるな。最悪、一生のトラウマになる恐れがある」
ユーノとアルフが決意を込めた表情で頷く。
そして、五人は転移を始めた。
最終更新:2012年06月07日 23:03