留置場で、アギトは一人うずくまっていた。こうしていると、脳裏にゼストの死に様がまざまざとよみがえってくる。
かすかな羽音に耳を澄ますと、画鋲に羽が生えたような虫が空を舞っていた。ルーテシアの召喚虫インゼクトだ。
「よお、ルール―。もう知ってると思うけど、旦那が殺されたよ。あの変態医師の一味に」
アギトは力なくインゼクトに話しかける。
「私は旦那の敵を討つよ」
インゼクトが動揺するように揺れた。
「別にルールーに手伝って欲しいなんて言わないよ。私らと違って、あいつらと仲良かったしな。ただ邪魔はしないで欲しい。約束するよ。仇を討ったら、絶対にルールーのところに帰る。ルールーのお母さんについても、助けてもらえるよう交渉するから」
インゼクトは逡巡するように天井をさまよっていたが、やがて留置場の外へ出て行こうとする。
「待った」
それをアギトは呼び止めた。
「ルールーのデバイス、アスクレピオスもしばらく使わないで欲しい。変態医師の作品だからな。どんな仕掛けが施されてるかわかったもんじゃない」
インゼクトは頷くように一度上下すると、留置場から去っていった。後にはうずくまったままのアギトが一人残された。
六課隊舎の広めの部屋で、フォワード隊員と聖闘士たちが、一緒に朝食を取っていた。スバルとエリオが見た目に似合わず大食感なので、食卓には料理が山盛りに盛られている。ちなみに今回も出前だ。
賑やかに食事が進む中、氷河は一人黙々と食事を終えると、早々に席を立ってしまう。
そんな氷河の背を、キャロは視線で追った。
「どうかしたか?」
口いっぱいに料理を頬張った星矢が訊いてきた。
「いえ、氷河さんってクールって言うか、ちょっととっつきづらい人だなと思って」
明るい星矢に、誠実な紫龍、優しい瞬と比べると、氷河は不愛想だった。時折、険呑な気配を漂わせているので、話しかけることもままならない。
「それはしょうがないな。氷河の師匠は、アクエリアスの黄金聖闘士だったんだ」
十二宮の戦いで、氷河に凍技の極意を教えて、アクエリアスのカミュは散っていった。その心の傷も癒えぬうちに、師匠の聖衣が盗まれ、悪事に利用されている。氷河としては、一刻も早く取り戻しに行きたいのだろう。
「その気持ちは俺も同じだ。老師のライブラの聖衣が悪人に使われているなど、我慢ならん」
紫龍の発言に、星矢と瞬が同意するように頷く。命を賭して戦った黄金聖闘士たちを汚されているようで腹立たしい。青銅聖闘士の気持ちは多少の差こそあれ、皆同じだった。
氷河が扉を開けて出ていこうとすると、飛び込んできた小さな影とぶつかった。見下ろすと、赤と緑のオッドアイの少女が、泣きそうな顔で尻もちをついていた。
「ふえ……」
転んだからではなく、氷河に怯えているようだった。そこまで怖い顔をしていたかと、氷河は反省した。
「ヴィヴィオ!」
フェイトが血相を変えてやってきて、ヴィヴィオを抱き上げる。襲撃事件からこっち、病院で昏睡状態が続いていると聞いて心配していたのだ。
「よかった。元気になったんだね」
「フェイトママ~」
ヴィヴィオは泣きながら、フェイトの首筋にしがみつく。
「……氷河」
「すまない。少し気が立っていたようだ」
フェイトの咎めるような視線に、氷河は素直に謝る。
「心配しなくていい。別に君に怒っていたわけじゃない」
氷河はしゃがみ、目線の高さをヴィヴィオと合わせる。
「ホント?」
フェイトの後ろに隠れながら、ヴィヴィオがおずおずと氷河の顔色をうかがう。
「ああ」
氷河が優しく笑いかけると、ヴィヴィオはわずかに警戒を解く。これでもシベリアの修行時代は、近くの村の子どもに慕われていたものだ。子供の扱いには慣れている。
「ヴィヴィオ、どうかしたの?」
「なのはママ!」
ヴィヴィオは、とてとてとなのはの元へ走り寄っていく。
「マーマ? 君にはマーマが二人いるのか?」
氷河は、フェイトとなのはを交互に見た。
「ヴィヴィオは、私となのはで預かっているんです」
氷河はそれだけでおおよその事情を察した。
「ヴィヴィオは、マーマたちのことは好きか?」
「うん。なのはママもフェイトママも大好き」
「そうか。君は幸せだな」
「お兄さんのママは?」
「遠い所に行ってしまって、もう会えないんだ」
極寒の海に沈んだ船の中で、花に囲まれて眠る美しい母の姿を、氷河は思い出す。今では船は更に海底深くに沈んでしまい、もう会うことはできない。
「そんな……」
涙ぐむヴィヴィオを、氷河がなでてやる。
「優しい子だな。悲しむことはない。マーマとの思い出は、いつも俺の中にある」
ヴィヴィオが首を傾げる。難しくて、よくわからなかったらしい。
「ヴィヴィオ。もしもの時は、君が二人のマーマを守ってやるんだぞ」
「うん。がんばる」
「……あまり変なこと吹き込まないでくれますか?」
フェイトとなのはが微妙に引きつった顔で、ヴィヴィオを氷河から遠ざけた。
「そろそろどいてもらえるかな。中に入れないんだが」
「シグナム」
フェイトと氷河が扉の前から離れると、シグナムとシャーリーが室内に入ってくる。ヴィヴィオを病院から連れてきたのはシグナムだった。
入院している間も、ヴィヴィオは厳重に警護されていたが、手元に置いておいた方が守りやすい。単純に、目覚めたヴィヴィオが母親を恋しがったからでもあるが。
その頃には、皆、食事を終え、シグナムたちの周りに集まっていた。
「私の名はシグナム。ライトニング分隊の副隊長をしている」
シグナムは室内に入ると、聖闘士たちに挨拶をする。
「……そうだな。ヴィータと同じ存在と言えば、わかってもらえるかな?」
聖闘士たちの間に、妙に納得したような空気が流れる。シグナムも魔法で若返っているのだと、彼らは誤解した。
「…………今、何か失礼なことを考えなかったか?」
「気のせいじゃないか?」
誤解させた張本人であるヴィータが、しらばっくれる。
シグナムは腑に落ちない表情をしたが、気持ちを切り替えて聖闘士たちに向き直る。
「できれば、一度手合わせ願いたいな」
「それはお勧めしないな。こいつら、女相手だと本気出さねぇんだ」
ヴィータが不満げに言った。
聖闘士たちは女が相手だと、明かに攻撃が手緩くなる。最初は魔導師相手に手加減しているのかと思ったが、エリオを相手にした時はしっかり戦っていたので、間違いないだろう。真剣勝負を望むシグナムの期待には、応えられない。
こんな具合でナンバーズと戦えるのかと、ヴィータは一抹の不安を感じていた。
「ほう」
「なんだ。てっきり怒るかと思ったのに」
意外にも、シグナムは好意的な眼差しを聖闘士たちに向けている。
「もし部下や、力のない者が、そんなことを言おうものなら殴っていたがな」
シグナムは古風な人間だ。時空管理局に所属してからというもの、実力や正義感はあっても、誇りや信念を持つ魔導師が少ないことに、内心で嘆いていたのだ。
他人からは無意味なこだわりに思えても、それが力になる時があるのを、シグナムは知っている。
「そして、私がリインフォースⅡです」
「うおっ!?」
シグナムの背後から顔を出した手の平サイズの少女に、星矢たちは一様に驚きの声を上げた。
「へぇ~。こっちは竜だけじゃなく、妖精までいるのか。何でもありだな」
訓練中に見せられたフリードとヴォルテールの映像を思い出し、星矢が感心する。妖精というのも誤解なのだが、星矢の呟きが聞こえた者は誰もおらず、訂正されることはなかった。
「シャーリーは、もう怪我はいいの?」
フェイトが額に包帯を巻いたままのシャーリーを気遣う。
「皆さんのことを考えらたら、寝てなんていられません。少しでもお役に立てればと、こんな物を用意しました」
シャーリーは持っていたトランクの中身を開けて見せる。中には人数分の腕時計が入っていた。
「これって、ストラーダですよね?」
腕時計を手に取ったエリオが首を傾げた。エリオのデバイス、ストラーダの待機フォルムと同じ形をしている。
「はい。簡易量産型ストラーダです。形態変化機能と、人格をオミット。単一魔法の使用のみに特化した形態になっています」
「ソニックムーブや。ただし、安全装置のついとらん旧式やけどな」
はやてが人差指を立てて説明を引き継ぐ。
「安全装置? 旧式?」
「これは一応秘密なんやけど、ほとんどの魔法には、安全装置がついとる」
ソニックムーブは瞬間的に高速移動を可能にする魔法だが、安全装置を解除することで、使用時間と速度を大幅に向上させることができる。
「簡単に言えば、誰でも使えるリミットブレイクみたいなもんや」
「光速には遠く及びませんが、ないよりはましだと思います。ただし、なのはさんのリミットブレイク同様、負荷は比較にならないほど強烈です」
シャーリーは深刻な様子で言った。
おそらく使用は、合計で一時間が限度。それでも負荷が完全に癒えるには、一切の魔法を使用禁止にして、数カ月は療養しないとならないだろう。
魔法文明黎明期、魔導師たちは魔法の性能向上に邁進していた。肉体や魔力の源リンカーコアに、どれだけの負担がかかるかも知らずに。
己の限界も顧みず、無思慮に強力な魔法を使い続けた結果、重篤な後遺症を残す者、再起不能になる者が続出した。当時の時空管理局が規制をかけ、肉体に負担がかからないよう安全装置が設けられてからは、自然と消えて行った大昔の魔法だ。
「技術者として、本当はこんな危険な物を使わせたくないんですが……」
肉体にかかる負担が大きすぎて、試運転もできず、各人用の調整も行えない。ぶっつけ本番で行くしかないのだ。
「私たちも、できれば使って欲しくないかな」
なのはとフェイトの表情も暗い。しかし、使わねばただでさえ低い勝率が、引いては生存確率が低くなる。選択肢はないのだ。
「聖闘士の皆さんは、こちらをどうぞ。余剰部品で作った、ただの通信機兼腕時計ですけど」
星矢たちは、興味深そうにストラーダと同型の腕時計をはめた。聖衣と干渉するので、戦闘中は外すしかないが。
「な、なんか同じ腕時計してると、チームって感じがするね」
「そ、そうですね。テレビのヒーローみたいです」
重たい空気を何とかしようと、スバルとエリオが無理やり明るい声を出す。
「あれ、数が足りなくないですか?」
フェイトとなのはの分がない。
「あ、私たちは自前で加速できるから……」
元々スピードアップの魔法が使えるフェイトたちは、それぞれのデバイスを改良すればいい。エリオも同様だ。
フェイトの発言に、エリオは暗いオーラをまとい部屋の隅でうずくまってしまう。
「ち、違うよ、エリオ。別にエリオとお揃いが嫌ってわけじゃなくてね」
フェイトとなのはが励ますが、エリオはしばらくへこんだままだった。
地上本部襲撃事件から三日が経過した。
時刻は夜の十時。なのはとフェイトは部屋で二人して机に突っ伏していた。別の隊員が利用していた二人部屋なのだが、なのはたちの部屋が壊れてしまった為、仮の宿として使わせてもらっている。
もう一つの椅子の上では、ヴィヴィオがうたた寝をしていた。さっきまで起きていたのだが、限界が来てしまったようだ。
「疲れたね、フェイトちゃん」
「そうだね」
明日の早朝には、アースラが到着する予定だし、アギトの方も協力してもらう方向で話が進んでいる。着替えてとっとと寝た方がいいのだろうが、部屋に戻り、上着を脱いでネクタイを緩めたところで、二人は力尽きていた。
聖闘士たちとの合同訓練は、成果が上がっているとは言い難い状況だった。
ゾディアック・ナンバーズが集団で襲ってきた場合に備え、チーム戦の練習をしたのだが、基本一対一で戦う聖闘士たちに、チーム戦という概念は存在しなかった。
聖闘士同士で組めばできないことはないが、各自が勝手に動いているだけで、互いの長所を生かすような動きはできていない。
聖闘士が前衛で、魔導師が後衛という戦法も試してみたが、聖闘士たちが好き勝手に動くので、誤射が頻発した。
聖闘士たちの力量が、正確に推し量れないのも問題だった。
彼らは十二宮の戦いで、コスモの真髄セブンセンシズに目覚め、黄金聖闘士の域までコスモを高めたが、極限状態にならないと使えないらしく、訓練ではマッハ五が限界だった。
これでは光速で動く相手の練習台にはならない。
「さすがのなのはも、お手上げみたいだね」
「あのタイプの子たちは、相手にしたことないから」
なのははやや自信喪失気味で言った。顧みれば、なのはの友人たちは、アリサ、すずかを筆頭に、ことごとく真面目な優等生だった。
ヴィータとて口は悪いが、言われたことをきちんとやるし、規則の類は決して破らない。ティアナがかつてやった無茶だって、行きすぎたやる気が原因だった。
ふとティアナとの一件を思い出し、なのはは表情に影が落ちる。あれはなのはにとっても苦い思い出だった。
時空管理局はしっかりとした組織だ。上に行くのも、優等生タイプが多い。
優秀な者の中には、天狗になっている者や、教官を馬鹿にする者も混じっているが、そこは一回叩きのめしてあげると、驚くほど従順になる。教官を見返してやろうと、さらに奮起してくれる場合も多い。
なまじ優秀なだけに、力の差には敏感なのだ。
優秀な魔導師は、例えるなら温室栽培だった。別に否定的な意味で使っているのではない。最高の環境で最適な育て方をされて、可能性の種を大きく伸ばしていく。
対して、聖闘士は野の草花だった。どんな劣悪な環境だろうと、命の輝きでしぶとく生き延びる荒々しい植物。
正直、なのははどう接すればいいのかわからない。
「エリオも少し影響を受けてるんだよね」
フェイトも微妙に顔をしかめる。
エリオは仲間に一気に男性が増えたことで、喜んでいるようだった。聖闘士たちも弟ができたかのように可愛がってくれている。
しかし、聖闘士たちは、男は女を守るものと思っているようだ。この調子で行くと、いつかエリオが「六課のみんなは僕が守る」とか言い出しそうで、ちょっと怖い。
エリオのはしゃぎようを見るに、フェイトはこれまでの育て方が正しかったかどうか不安になる。
自分が女系で育ったために疑問を持たなかったが、やはり子供には男親と女親が必要なのではないだろうか。少しでいいから、クロノかユーノに手伝ってもらうべきだったかもしれない。
「やっぱり、星矢君たちには各自で戦ってもらうしかないね」
なのははそう結論づけた。せめて半月の猶予があれば、聖闘士たちにチーム戦を教えられたと思うが、そんな時間はない。
残る課題は、いかに一対一の状況に持ち込むかだが、そこはどうにかなるだろう。
聖闘士たちから、黄金聖闘士に関する情報ももらった。これまでのナンバーズのデータと照らし合わせれば、おおよその戦闘力は概算できる。
ただ一人、ウーノだけは別だった。彼女は一度も戦場に出たことがなく、乙女座の詳しいデータもない。バルゴのシャカと戦ったのは、ミッドチルダに来ていない瞬の兄だった。
なのはとフェイトが気力を振り絞り、のろのろと立ち上る。ヴィヴィオを抱きかかえてベッドに向かうフェイトに対して、なのははネクタイを締め直し外の扉へと歩いていく。
「なのは?」
「最後の仕事をしてくるね」
なのはは小さくため息をつくと、部屋の外へと出ていった。
世界は夜の闇に包まれていた。月と星の光では、闇をかすかに和らげるのみで、街灯の光が照らす場所だけが、まるで切り取られたように明るい。
そんな闇の中を、物音を立てないよう注意しつつ移動する影があった。人影は二つ。どちらも巨大な箱を背負っている。
「ねえ、星矢。本当にいいの?」
「仕方ないだろ。沙織さんたちが待っているんだ。これ以上、時間をかけられるか」
植え込みに隠れながら、聖衣ボックスを背負った星矢と瞬は、紫龍たちの部屋を目指していた。紫龍と氷河を誘って、スカリエッティのアジトを探しに行くつもりだった。
星矢が次の植え込みに移動しようとすると、足に何かがひっかかった。
「おい、引っ張るなよ」
「え? 僕は何もしてないけど」
「じゃあ、いったい何が……」
振り返ると、星矢の足首を光の輪が拘束していた。星矢の顔から血の気が引いていく。光の輪はよく知る桜色をしていた。
「……私もいつかやるだろうと思ってたけどさ。よく今日だってわかったな?」
「う~ん。顔を見たら、なんとなくピンと来たんだ」
「なるほど。無茶な奴は無茶する奴を知ると」
「私、ここまで無茶かな?」
街灯の光の中に、デバイスを持ったなのはとヴィータが進み出てくる。星矢の行動をあらかじめ予測して待機していたらしい。
「な、なのはさん」
「ねえ、星矢君」
なのはは星矢の瞳をまっすぐ正面から見つめる。
「こんなに時間がかかってしまって悪いと思ってる。でも、もう少しだけ私たちを信じてくれないかな?」
スカリエッティがこれだけ沈黙を保っているのは完全に想定外だった。捜査員の安全を重視している為、アジトの捜査もあまり進展はない。
「星矢君たちはあくまでも協力者。どうしても行くっていうなら、私たちに止める権利はない。だから、お願いすることしかできないんだけど」
なのはは怒るでもなく、むしろ真摯に語りかける。
なのはと星矢の視線が正面からぶつかり合う。緊迫した空気が辺りに張りつめた。
「……わかったよ、なのはさん」
ややあって、先に視線をそらしたのは星矢の方だった。
「大人しく部屋に戻る。それで、なのはさんたちがアジトを見つけてくれるまで待つ」
「ありがとう。星矢君」
なのはににっこり笑いかけられ、星矢は照れたようにそっぽを向いた。
「なんか、なのはさんって、姉さんみたいだな」
星矢の姉、星華は気が強くて、星矢が悪戯をするたびに、叩かれたり耳を引っ張られたりした。けれど、本当に星矢が悪いことをした時は、悲しそうな顔をされた。それが百万の怒声やげんこつよりも、星矢には堪えた。
「お姉さんがいるんだ」
「ああ。もう何年も会ってないけどな」
「どうして?」
「行方がわからないんだ」
孤児だった星矢にとって、姉は唯一の肉親だった。
星矢はアテナの養父、城戸光政によって姉と引き離され、聖闘士になるべく修行の地ギリシャへと送り込まれた。
星矢が聖闘士になったのは、姉にもう一度会いたいと言う強い願いがあったからだ。しかし、いざ聖闘士になって日本に帰ってみれば、姉は行方不明になっていた。
グラード財団が総力を上げて捜してくれているが、姉の消息は一向につかめない。
「そっか。いつかお姉さんに会えるといいね」
「ありがとうよ。俺たちの世界がもっと平和だったら、とっとと捜しに行くんだけどなぁ」
星矢は寂しげに笑い、瞬と連れ立って部屋へと戻っていく。
「それで、お前たちはどうする?」
ヴィータが背後に向かって声をかけた。
「お見通しでしたか」
「よく言うぜ。本気で隠れる気なんかなかったくせに」
建物の影から、聖衣ボックスを背負った紫龍と氷河が現れる。どうやら星矢たちと同じことを考えていたらしい。
「星矢たちが信じたならば、我々もあなた方を信じます」
「そうだな」
一悶着あるかと思いきや、紫龍と氷河も大人しく部屋へと戻っていく。聖闘士たちの信頼は、ヴィータの想像以上に厚いようだった。
調整を終えたチンクは、アジトの中を歩いていた。
通路の壁には、大量のガジェットが待機している、ただし、この機械たちが再び日の光を浴びることがあるかどうかは、はなはだ疑問だ。
通路の途中で、黄金の箱に寄りかかるようにしてセインが座っていた。普段は明るい彼女が、浮かない顔をしている。
「どうした?」
声をかけると、セインがチンクを振りかえる。そして、チンクが右腕に抱えている兜を見て、苦笑する。
「また、かぶってないんだ」
「ああ、これか。どうにも違和感があってな」
チンクは兜を顔の前に持ってきて、唸る。
ピスケスの聖衣は体の一部のようにフィットしているのだが、兜だけは少し違和感があり外れやすいのだ。髪の毛一筋ほどの差なのだが、他がフィットしている分、どうしても気になる。
「そっちはまだましみたいだよ。オットーとディエチ、セッテなんか、任務以外ではまずかぶらないしね」
件の三名が、無言で兜とにらめっこしていたのを思い出す。
「そういうセインこそ、また胸元を緩めているのか?」
「どうも窮屈でね」
聖衣の隙間から覗くセインの胸を、チンクが妬ましげに見ていたが、セインは気がつかない振りをした。チンクの幼児体型では、窮屈になりようがない。
「セインは、ここで何をしていたのだ?」
「ちょっとこの子たちが可哀想だなって」
セインは通路の壁で待機しているガジェットⅠ型を撫でた。うっすらと積もった埃が、セインの手を汚す。
スカリエッティの興味は、もはやゾディアック・ナンバーズにしかない。ガジェットの性能では、足手まといにしかならないからだ。
「ところでさ、最近のドクター、ちょっと変じゃない?」
「ドクターはいつも変だろう」
あっけらかんと返されて、セインは唖然となる。優等生然としているチンクが、まさか同じ印象を抱いているとは夢にも思わなかった。
「いや、それはそうなんだけど、なんか無理やりいつも通りに振舞ってる気がしない?」
「考えすぎではないか? おかしいとしても、ドクターは黄金聖衣の制御の為に、徹夜続きだからな。そのせいだろう」
チンクはドクターの態度に不信は抱いていないようだった。
「他にもさ、なんかみんなの様子が変なんだよね」
トーレは地上本部襲撃の日以来、訓練室にこもりきりになっている。必殺のタイミングで、フェイトが倒せなかったのが悔しいのだろうが、あまりトーレらしくない。彼女はもっと堂々として、姉妹たちの模範となるような存在だったはずだ。
「それ、わかるよ」
「ディエチ」
通路の影から。ジェミニの兜を抱えたディエチがやってくる。
「最近、クアットロが少し変なんだ。ちょっと怖いっていうか」
ディエチの言葉に、セインとチンクも押し黙る。元々ふざけた喋り方をする奴だったし、時には任務で破壊工作を行うのを楽しんでいるような素振りもあった。しかし、一部の姉妹たちを、まるでゴミのように見ることはなかったはずだ。
最近では、ほとんどの時間を、ドゥーエと共に過ごしている。
セインは、水瓶の文様が描かれた黄金の箱を指差す。
「これの名前、二人は知ってる?」
「聖衣ボックスだろう?」
その名の通り、聖衣を持ち運びする為の箱だ。
「うん。でも、もう一つ別の名前があるんだ。パンドラボックスって」
ギリシャ神話で、開けてはならないとされている禁断の箱。そこにはあらゆる災厄が封じ込まれている。
聖衣も、アテナの許可か、自衛の為以外では装着してはならないと掟で定められている。あまりにも強い聖闘士の力を私利私欲に使わせないためだ。その戒めを込めて、パンドラボックスと呼ばれる。
「私たちは、本当にパンドラの箱を開けたのかもしれない」
黄金聖衣を入手してから、少しずつ運命の歯車が狂いだしている気がする。
感傷的なセインの物言いに、チンクは少し呆れたようだった。
「考え過ぎだ。お前だって、アクエリアスの聖衣をもらった時は喜んでいたじゃないか。私たちはこの力で、ドクターの夢を叶えるんだ」
「……そうだね」
迷いのないチンクに、セインは心が少し軽くなるのを感じた。
最終調整はもうじき終わる。
スカリエッティの夢を叶える為の、最後の舞台の幕が、今上がろうとしていた。
最終更新:2013年04月04日 22:33