氷河が指定された建物に入ると、通路はところどころ凍りついていた。
漂う冷気を辿っていくと、訓練場と思しき体育館くらいの広さの部屋に到達する。
殺風景な白い空間の奥で、セインが床に座って待ち構えていた。
「あ、やっと来たんだ。もう、待ちくたびれちゃったよ」
セインは腰の埃を払いながら立ち上る。
「最初に忠告しておく。大人しくアクエリアスの黄金聖衣を渡せ」
「ふ~ん。もう勝った気でいるんだ。私を甘く見たこと、後悔させてあげるよ」
口調こそふざけていたが、セインは真剣だった。この一戦には、ナンバーズの命運がかかっているのだ。
「「ダイヤモンドダスト!」」
セインと氷河の凍技がぶつかりあう。
氷河は連続で技を放つ。だが、セインはディープダイバーを使い、すでに地中に潜っていた。
氷河はセインが消えた床に駆け寄り、拳を振りかぶる。
「遅いよ。オーロラエクスキューション!」
氷河の背後から絶対零度の凍気が襲いかかる。
氷河が振り向きざまにダイヤモンドダストを放つが、セインは再び地中へと戻っていた。
「残念だったね」
セインが天井から頭だけを出す。
「私を捉えるのは無理だよ」
セインは頭を引っ込めると、今度は壁から姿を現す。光速の動きを会得したセインにとって、地面や壁に潜ることなど瞬きよりも速くできる。
相手のフェイントに騙されることも、回避の方法を考える必要もない。敵が攻撃モーションに入ったら、即座に地下に潜ればいい。セインに攻撃を当てられる者など、この世に存在しないのだ。
「ダイヤモンドダスト!」
氷河は怒りに燃えた眼差しで、狂ったように繰り返し技を放つ。
素早く地面に潜って逃げ回るセインに、氷河の攻撃は一発も当たらない。まるでモグラ叩きだ。
「おーおー。熱くなっちゃって。冷やしてあげるよ。オーロラエクスキューション!」
咄嗟に飛び退くが、セインの放つ凍気が氷河の左腕を掠め、キグナスの聖衣が凍っていく。床に潜った後、氷河の死角から放たれる技を避けるのは至難の業だ。
セインがここを決戦の場に選んだ理由は明白だった。この広さなら、上下左右あらゆる場所に一瞬で移動できる。
訓練施設だけあって床や壁も強固だ。氷河の拳でも、穿てるのはせいぜい数メートル。たったそれだけの距離を潜るだけで、セインは安全圏に退避できる。
氷河がよろめき膝をついた。体を動かす度に、氷河の表面に薄く張った氷の膜がパキパキと音を立てて割れていく。
もし常人がこの空間に踏み込めば、即座に氷の彫像と化すだろう。凍技の応酬により、ここは氷河の修行の地シベリアをも超える極寒の世界へと変貌していた。
「そろそろ限界みたいだね」
セインが氷河をわざわざ指名したのには、大事な理由がある。
地上本部襲撃時、聖王の器の確保をせずに何故ナンバーズは撤退をしたか。ウーノが警戒したのは、氷河だったのだ。
コスモが魔法より優れている点は、速度の他にもう一つある。凍技だ。
氷の魔法はミッドチルダにも存在するが、最大威力の魔法でもせいぜいダイヤモンドダスト程度の冷気でしかない。
効果範囲こそ狭いが、氷河はそれを連続で放ち、挙句に絶対零度まで両の腕で再現する。
セインは無意識に胸元に手を当てた。
聖衣に取りつけられた機械は、多機能かつ急ごしらえゆえに脆弱だ。耐熱、耐衝撃は問題ないが、耐冷だけはやや心もとない。
地上本部襲撃時の性能では、ダイヤモンドダスト数発で不具合が出る危険性があった。この数日でだいぶ克服したが、さすがに絶対零度には耐えられない。
回避能力に最も優れたセインが、一発も攻撃を受けずに倒す。でなければ、他の姉妹が危ないのだ。
セインは氷河を冷静に観察する。キグナスの聖衣は凍結し機能を停止している。あれだけ技を連発した上に、オーロラエクスキューションを幾度もその身に受けたのだ。体力的にも限界が近いはずだ。
セインは慎重に地上に姿を現す。氷河は動かない。ようやく諦めてくれたのだろうか。
その時、氷河が顔を上げた。セインの期待に反して、その眼差しは強い輝きを放っていた。
「セインと言ったな。モグラ叩きはもう終わりだ!」
氷河が両腕を地面に叩きつけた。床が、壁が、天井が、一瞬にして分厚い氷に覆われる。
「なっ!」
セインの両足も氷の魔手がしっかりとつかんでいた。ディープダイバーは、魔力障壁を通り抜けることができない。魔力に似た性質を持つコスモでできた氷も、通り抜けることができなかった。
相手の足を凍らせて動きを封じる技、凍結拳の応用だ。氷河が技を乱発していたのは、室内を一瞬で凍らせられる気温に下がるまで待っていたからだ。
「まさか最初からこれが狙いで……怒ってたのは演技だったって言うの!?」
「いや。最初は俺も怒りに我を忘れかけた。だが、アクエリアスの聖衣が、お前の使うその技が、俺に大事なことを思い出させてくれた」
“常にクールであれ”それが氷河の師カミュが命と引き換えに、教えてくれたことだった。
「もはや逃げ場はないぞ」
氷河のコスモが極限まで高まり、周囲を氷の結晶が乱舞する。
「我が師カミュよ。あなたが教えてくれたこの技で、今あなたの聖衣を取り戻します!」
氷河の両腕が頭上で組み合わされる。氷河の構えに、アクエリアスの黄金聖闘士カミュの幻影が重なる。
「こ、こっちだって同じ技が使えるんだ。負けるはずがない!」
氷を砕いて潜行する暇はない。セインも頭上で両腕を組み合わせる。
「「オーロラエクスキューションッ!!」」
拳から絶対零度の凍気が放たれる。
氷河の凍気が、セインの凍気を切り裂いて進む。技の完成度があまりにも違い過ぎる。劣化コピーと正当な継承者の差だった。
「これがオーロラエクスキューションだ」
氷河の言葉を最後まで聞くことなく、セインは凍りついていた。
空で次々と巨大な爆発が巻き起こる。
次の目標に向かって飛行していたセッテは、突如遠距離からの砲撃にさらされていた。
セッテは爆発を避けながら、射線を辿っていく。やがて騎士甲冑をまとったはやてが、渓谷に身を潜めているのを発見する。
セッテは絶え間ない砲撃をかいくぐりながら、距離を詰めていく。はやてが右手に持った杖、シュベルトクロイツを構えるが明かに遅い。
セッテが渓谷に踏み込むと、迎え撃つように岩壁から無数の棘が出現した。
急制動を掛けたセッテの頭上に影が落ちる。
「リイン、ソニックムーブの制御は任せた!」
『はいです!』
「ラケーテンハンマー!」
コマのように回転しながら、リインとユニゾンしたヴィータが、鉄槌を振り下ろす。
(速い!)
セッテはライブラのシールドで防御するが、勢いまでは殺しきれず谷底に叩き落とされる。
使用者に多大な負担を強いる旧式のソニックムーブ。ヴィータはリインと負担を分かち合うことで、セッテには及ばないもののかなりの速度を獲得していた。
「クラウソラス!」
セッテの位置をあらかじめ計算していたかのように、直射型の砲撃が発射される。ライブラのシールドとバリアを併用し、セッテは砲撃を防ぐ。いくらかダメージが抜けたが、戦闘行動に支障が出るほどではない。
その時、世界が変容した。
「結界ですか」
色彩の変化した空間の中で、セッテが唸る。
谷底には浅い川が流れている。両側には岩壁がそそり立ち、空は結界によって封鎖された。完全に閉じ込められたらしい。
「撃墜できんかったか。やっぱり手強いな」
黒い六枚の翼を羽ばたかせ、はやてが言った。
狼の耳と尻尾を生やした褐色の肌の男ザフィーラが、岩陰から姿を現す。渓谷に乱立する無数の棘は、ザフィーラの鋼の軛だった。
「随分と手厚い歓迎ですね」
感情表現の乏しいセッテもさすがに眉を潜めた。夜天の書に携わる者のほとんどが、この場に集中している。どうやらまんまと誘き出されたようだ。
「ライブラの武器を使わせるわけにはいかんからな」
あまりにも強力すぎるライブラの武器は、アテナの許可か、善悪を判断するライブラの黄金聖闘士の許可がなければ使用してはならないとされている。
しかし、ナンバーズに聖闘士の掟は関係ない。ライブラの武器を他のナンバーズに渡される前に確実に倒すと、はやては決意していた。
鋼の軛によってセッテの動きを制限し、ヴィータが前衛で守りを固め、はやての広域魔法でとどめを刺す作戦だった。この狭い空間なら、鋼の軛を充分に活用できるし、上下左右を広域魔法の射程範囲に収められる。
「読みが外れましたね。私はこの武器を他の誰にも使わせるつもりはありません」
セッテが憐れみを込めて言った。
十二のライブラの武器がひとりでに宙に浮き、セッテの周囲を旋回し出す。まるで太陽の周りを公転する惑星のように。
「IS発動スローターアームズ」
セッテは、ライブラの武器をISでコントロールできるのだ。
自在に動きまわる星をも砕く十二の武器と、黄金聖闘士の力を手に入れたセッテ。その力はたった一人で軍団規模に相当する。
「一体多数は、私の得意分野です。あなた方を殲滅させてもらいます」
セッテを追い詰めたはずが、むしろ追い詰められたのははやてたちの方だった。
「これはまずいな」
はやては引きつった顔で呟いた。
最初に動いたのは、ザフィーラだった。
「うおおおおおおおおっ!」
新たな鋼の軛が出現し、セッテに迫る。
「廬山百龍覇!」
百龍の牙が鋼の軛を噛み砕き、ライブラの武器が矢のように射出される。
ヴィータは左側から飛来したライブラのシールドをアイゼンで弾き飛ばすが、反対側から飛んできたトンファーが、スカートの端を千切っていく。
「ヴィータ!」
スピアーがはやての顔面めがけて飛んでくる。展開したバリアはすぐに貫かれ、はやての鼻先を黄金の刃が掠めていく。
「どこぞの英雄王みたいな真似を!」
はやてが忌々しげに叫ぶ。
こんな状況では、広域魔法の詠唱などできようはずもない。本当ならセッテを速攻で片付けて、他の隊員の援護に行く手はずだったが、それも阻まれていた。
幸いにもセッテが操るライブラの武器の速度は、光速には達していない。量産型ストラーダで加速されたはやてたちならば、数はともかく、どうにか対処できる速度だ。
「ヴィータ、ザフィーラ、シールドを斜めに。側面を狙うんや!」
はやての指示を、二人はすぐさま理解する。
セッテは十二の武器を精密にコントロールしているわけではなく、敵に向かってひたすら突撃させているだけだ。
シールドを斜めにして受け流すようにすれば、わずかに軌道をそらせるし、側面を叩けば簡単に弾き飛ばせる。
「それなら!」
ヴィータの撃ち出す鉄球シュワルベフリーゲンが四つの武器を弾き飛ばし、ザフィーラの鋼の軛が更に三つの動きを封じる。
「さすが六課の部隊長ですね。もう見抜かれましたか」
セッテは素直に称賛する。
ライブラの武器を捌いているヴィータとザフィーラの後方では、はやてが呪文の詠唱を開始していた。
ヴィータとザフィーラの一斉攻撃によって、ライブラの武器が一カ所に集められ、格子状に展開した鋼の軛が武器をからめ取る。
「来よ、白銀の風、天よりそそぐ矢羽となれ、フレースヴェルグ!」
はやての前面に五つの魔法陣から展開した。連続で発射された砲撃が炸裂し、閃光が渓谷を白く染め上げる。
ヴィータとザフィーラが二人がかりで展開したバリアが、砲撃の余波からはやてを守る。
セッテは後方に逃れたようだが、ライブラの武器には直撃した。いくらなんでもこの威力に耐えられるはずがない。
「後少し……」
「主! ヴィータ!」
血相を変えたザフィーラが、二人を乱暴に突き飛ばし障壁を展開する。次の瞬間、障壁を貫き、ザフィーラの腹にツインロッドが、左腕にトンファーが、右の腿にソードが突き刺さる。
はやての脇腹をもう一本のソードが掠め、黒い六枚羽の一枚が切断される。
「ザフィーラ!」
はやての目の前で、ザフィーラが川へと墜落していく。
「惜しかったですね。もし今の威力を一点に集中できていたら、さすがのライブラの武器も壊れていたかもしれません」
セッテが悠々とした様子で、十二の武器を手元に引き戻す。
ライブラの武器には傷一つついていない。神話の時代から一度も砕けたことがないと伝えられる黄金聖衣の強度は、はやての予想をはるかに超えていた。
ザフィーラが倒れたことで、渓谷に展開していた鋼の軛が消滅していく。
「こうなったら、しゃあないな」
はやては唇を噛みしめた。
「プランSS行くで!」
はやての号令に、ヴィータは苦渋の表情を浮かべ頷いた
ヴィータがはやてを守るように飛び出していく。
セッテの撃ち出す十二の武器を、ヴィータの鉄槌が、リインのフリジットダガーが迎え撃つ。
その間に、はやては呪文の詠唱を始める。
ヴィータは獅子奮迅の戦いぶりで武器を捌いているが、ザフィーラを欠いた穴は大きい。直撃はなくとも、武器が掠め、細かい傷が増えていく。
「これで終わりです」
ヴィータの横をすり抜け、セッテがはやてへと肉薄する。
はやてがシールドを展開する。
「廬山昇龍覇!」
セッテの渾身の右拳が、シールドを破り、シュベルトクロイツをへし折りながら迫ってくる。騎士甲冑の上着をパージしてまで威力を相殺するが、セッテの拳は止まらず、はやての胸へと吸い込まれていく。
肋骨が砕ける激痛がはやてを襲う。しかし、はやては苦痛に顔を歪めながらも勝利の笑みを浮かべていた。
プランSS。その内容は、はやて自身を囮とした相打ち覚悟の作戦。SSは最低最悪の頭文字だった。
呪文の詠唱は間に合うのか、攻撃を受けた場合、はやてが耐えられるのか、様々な問題があったがすべてクリアした。
後は発動トリガーだけだ。
「――――ッ!!」
込み上げてきた血がはやての喉を塞ぎ、魔法の発動を阻害する。廬山昇龍覇のダメージが深刻すぎたのだ。
(やば)
セッテの左腕が伸びてくるのを、加速されたはやての目がかろうじて捉える。魔法の発動は間に合わないし、ヴィータも武器に包囲されて身動きが取れない。
はやては死を覚悟した。
「うおおおおおおおおおおおっ!」
絶叫が谷底に響き渡り、はやての眼前のセッテがかき消える。
傷だらけのザフィーラが、セッテを羽交い絞めにしていた。目の焦点は定まっておらず、意識は混濁したままだが、“主を守る”という信念だけが、ザフィーラを衝き動かしていた。
「放しなさい!」
傷ついたザフィーラでは、セッテを完全に抑え込むことができない。セッテは、ザフィーラを振りほどこうと岩壁に叩きつける。
不意に飛来した細い紐が、セッテとザフィーラの体を絡め取った。
「シャマル!?」
はやての横に転移してきたシャマルが、デバイスのクラールヴィントを伸ばしていた。
「この!」
セッテが力を込めると、拘束の紐がちぎれていく。拘束がほどけ切る前に、シャマルがセッテの胴体にしがみつく。
ザフィーラのぼんやりとした眼差しに、シャマルは微笑み返す。
「ザフィーラ、私も一緒だよ」
「……すまない」
二人が鋼の軛を展開する。
腕力とクラールヴィントに鋼の軛を加えた三重の拘束が、セッテの動きを今度こそ完全に封じ込める。
シャマルとザフィーラは、優しい眼差しではやてを見守ってくれている。我が身を犠牲にしてでも主を守ろうとする二人の姿に、はやては亡き両親の面影を重ねる。
「ほんまに最低最悪の作戦やな」
はやては夜天の書を掲げた。
「遠き地にて闇に沈め」
毅然とした態度に、迷いはない。
「デアボリックエミッション」
漆黒の球体が、全てを飲み込んだ。
さらさらと水の流れる音がする。
青いボディスーツというナンバーズ本来の姿に戻ったセッテが、川に身を浸すようにして倒れていた。川岸に寄りかかるようにしてシャマルとザフィーラも意識を失っていた。
ライブラの聖衣は天秤のオブジェへと変形し、川原に鎮座している。
「どうして仲間ごと撃てたのですか?」
セッテはどうにか上体を起こすと、正面に立つはやてに問いかける。
夜天の書の主と守護騎士たちの関係は、家族同然だと聞かされていた。愛する家族をどうやったら、ためらいもなく全力で撃てるのか。
黄金聖衣をまとっていたセッテでさえ、ぎりぎりで意識を保っていられる状態だ。いかに非殺傷設定だったとはいえ、直撃を受けたザフィーラとシャマルが、どれだけのダメージを被ったか想像するに余りある。そんな二人を助けようとする素振りすら、はやては見せない。
「家族を守るためや」
はやては冷酷ともとれる声音で答えた。
その答えに、不可解そうに瞬きをし、セッテはその場で意識を失った。
「おい、しっかりしろ!」
ライブラの武器の包囲網から解放されたヴィータが、ザフィーラとシャマルを川から引き上げようとする。
「なあ、ヴィータ、リイン」
はやてはゆっくりとヴィータに顔を向けた。
もし、あの状況ではやてが撃たなければ、セッテは拘束を解除し、はやてたちは敗北していただろう。家族を守る為に、愛する家族を撃たなければならなかった。
「待ってろ、はやて。今すぐ救護班を……」
「他に方法はなかった。どうしようもなかった。けど……」
はやての顔がくしゃりと歪んだ。
「こんなに胸が痛いんは……もういややな」
これまでの態度と打って変わって、はやては子供の様な顔で泣いていた。
肉体の痛みと心の痛みがないまぜになり、はやての胸は張り裂けそうだった。二人を助けたくても、指一本動かす体力すらはやてには残されていない。
力を使い果たしたはやての変身が解除される。黒い羽を舞い散らせながらはやては仰向けに倒れていく。
まるで流れる川そのものがはやての悲しみの涙のようだった。
最終更新:2013年11月03日 23:06