大きな鉄製の扉を開けると、そこにはどこまでも続く青空が広がっている。
少し冷たい、だが緩やかに流れる風が、自分の体をするりと通り抜けてゆく。
瞳を閉じ、深呼吸。すっきりとした空気を胸一杯に吸い込み、城崎秋人は屋上へと足を踏み入れた。
入学初日、一条叶と共にやってきた校舎の屋上。ベンチやパラソルテーブルが並ぶ、テラスカフェと見間違うかのようなこの場所で昼食を摂るのは、秋人の日課になっていた。叶と野球部を立ち上げて二週間が経過している。部員は野球勝負の結果入部した姫島桜と、その桜が連れてきた彼のパシリ、村上武志の計四人。野球が出来る人数まではまだ足りない。
昼食を終えたら勧誘に走ってみようか。
パラソルテーブルの一つに座った秋人は一人頷き、弁当箱の蓋を開けた。
「……」
野菜炒めと、おにぎりが二つ。おまけにごま和え。シンプルだがそれが良い。
まだ勉強中ではあるものの、今日の弁当は秋人の手作りであった。
桂木家に居候の身である秋人は、せめて自分にも何か出来ないかと考え、自分だけでなく吉野や、その妹飛鳥の分の弁当を作ることにしている。
とはいえ、「私だってアキくんにお料理作ってあげるんだもん!」と言って聞かない吉野と、一日交替のローテーションであるが。
少しでも桂木家の役に立てているのなら良いのだが。そう考え、秋人は小さく頂きますと呟いた。
「……」
おにぎりの中には鮭をつめている。口いっぱいに広がる塩気が美味しかった。
静かに、だが夢中で頬張り、秋人はおにぎりを一つ消費する。そしてその手を止めた。
「結構、空しいものがあるな」
広い屋上に、男一人。流れ、空へ向かう冷たい風は、秋人を哀れんでいるように思えた。
繰り返すが、
成美高校は元女子校である。そして同時に地元のお嬢様学校でもある。
言葉が悪いが、少し勇気を出し、「一緒にランチでもどうでしょう」などと囁いてみれば、男性と触れあう機会の少ない女生徒達はまず簡単に釣れると言っても良い。
かと言って、秋人は何も女子とベタベタ触れあいたいわけでもない。
「……高校生らしく、友人と昼食という選択肢はないのか……」
地味に、高校生、そして青春というものに憧れていた秋人なのであった。
「友達とお昼が食べたいの?」
突如横合いからかかった声に、秋人は一瞬体を強ばらせた。その姿を見てか、けらけらと楽しそうに笑う人影。
少しむっとした顔の秋人は、すぐ隣の椅子にいつのまにか女子生徒が座っていることを知った。
長いストレートの黒髪を、腰辺りまで伸ばしているその生徒は、間違いなく成美の制服を着ていた。薄緑色のブレザーの胸元につけられている名札に引かれたラインは赤。秋人と同じ一年生だ。
背は低めで、薄い体型をしている。また、彼女はそれに見合うように、幼い顔立ちであった。だが長い睫毛や瑞々しい唇が、幼さとはギャップの色気を醸し出している。言うなれば、大人の階段を上り始めている。
「……あんたは?」
「僕は宇城恵。君は……うん、言わなくても知ってる。城崎秋人君、でしょ」
自己紹介を始めようとした秋人を目で止め、恵はにこっと笑った。その純粋な笑顔に、秋人はどうにもくらくらする。
思えば、あまり秋人は女性の笑顔に慣れていなかった。吉野の笑顔は小さい頃からこれでもかと言うほど見ているので目が慣れた。ちなみに妹の飛鳥は、中学に上がってから秋人に少し冷たくなっている。
「友達が欲しいんでしょ? だったら、なろうよ。友達に」
「あ、ああ……」
差し出された右手。透き通るようなその手に触れて良いのか、秋人は少し逡巡した。
だが恵は無理矢理に秋人の右手を取り、静かに握りしめる。その柔らかい感触と、手から伝わる恵の熱に、秋人の頭は熱暴走を起こしかけていた。何か言わなくちゃいけないとわかっているのに、何も言えない。
「ふふっ……可愛いんだね、秋人」
「かわっ……」
「そんなところが可愛いんだよ」
この人生で一度も言われたことのない評価に少し戸惑う。というか、可愛いという評価は自分よりもむしろ目の前で無邪気に笑うこの女生徒の方が似合うだろうと秋人は思う。
出会って五分と経っていないのに、秋人は既に恵のペースに巻き込まれていた。
「僕さ、見てたんだ。君たちが野球してるの」
「知ってる、のか」
「うん」
知らない内に、野球部の活動を恵に見られていたという。
何とも言えないが、恥ずかしさが込み上げてくるようだ。
「それでね、言いたかったんだけど……」
「なんだ?」
「……僕も野球部に入れてくれないかな」
「ああ、構わない。…………ん?」
恥ずかしそうに俯いた恵の口から飛び出した言葉に秋人は頷き、そしてその意味を理解するのに数秒を要した。
恵は、野球部に、入りたい。らしい。
「……野球部に入ってくれるのか?」
「うん。僕、野球はしたことないけど……、部員が足りないんでしょ? 秋人の役に立ちたいし」
「宇城……」
ありがとうと呟こうとしたところで、秋人は恵の背後、屋上の扉が開くのを確認した。顔を覗かせるのは秋人の幼馴染み、桂木吉野。吉野は辺りを見回し、秋人を見つけてその顔に喜色を湛えたが――。
「アキくん?」
秋人と手を繋ぐ恵の姿を発見し、すぐに冷たい笑みを浮かべた。
秋人はその視線にどうにも、不倫現場を取り押さえられた夫のような気持ちを抱いてしまう。
「吉野、これは違うぞ」
自分で言っていて、何が違うのかがわからない。自分は何を弁明しようとしているんだ。秋人は少し情けなくなった。
「その子は?」
「僕、宇城恵。君も、秋人の友達?」
「ええ……、同棲してる仲です」
恵の自己紹介に、どうも挑戦的な目線で、誤解を招くような発言をしてみせる吉野。恵と吉野、二人の視線がぶつかり合い、同時に火花が散っているように秋人には思われた。今すぐにでも逃げ出したい気分である。
「同棲……」
「ええ、そうですよ」
内心、吉野は勝ったと飛び跳ねた。何に勝ったのかは、吉野だけの秘密である。
いい加減気づいてくれても良いじゃないかと思うのだが。
「でも、僕ももっと秋人と深い仲になるもん」
「むっ」
「おい何の話を……」
なんだか話が妙な展開に進んでいると気づいた秋人が、二人に問いかける。
「アキくんは黙ってて。これは女と女の戦いだよ」
「そう――女と女……じゃないよ」
「へっ?」
真剣な眼差しで、その瞳に闘志の炎を燃え上がらせた吉野の言葉に、恵が小さく反論した。思わず吉野は間抜けな声を出す。
そんな反応に満足したのか、少し嬉しそうな声で恵は言葉を続けた。
「僕、男だし」
「ええええええっ!?」
「……なに……」
吉野が叫び、秋人が呆然とした顔で呟いた。
宇城恵は、黒髪ロングストレートが映えるこの美少女は、まさかの男子生徒であったのだ。
そのショック、いかばかりか……。
「って待て、宇城、お前が男子だとして、その制服は何だ」
「え、これ?」
ひら、と恵がスカートの裾を掴んだ。成美高校では、男子生徒のスカート着用を認めてはいない。当然の話とも言えるが。
「これね、校長が着てても良いって」
「あのロリッ校長……」
えへへー、とだらしなく笑う幼い校長の姿を脳裏に浮かべ、秋人は嘆息した。楽しそうだからおっけーおっけーとでも言っていそうだ。